第2話 ぐりとぐらのカステラ

 翌日の放課後、玲花は『ぐりとぐら』の絵本を手に図書室の扉を開けた。


 今日はカウンターに図書委員がいた。貸し出し当番と思われる。


 坂崎は今日も窓際の席で春風に吹かれながら読書をしていた。


 玲花が来たことに気づくと彼は顔をあげた。


「いらっしゃい」


 玲花はずかずかと歩き、彼の前の席に座った。


「わかった?」


「わかりません!」


 今日も普通に会話ができるのが自分でも驚きだ。


 そして玲花はテーブルの上に『ぐりとぐら』を出した。


「どこにも書いていないじゃないですか」


 センパイは懐かしそうに『ぐりとぐら』の表紙を眺めたあと、ニヤリと笑った。


「果たしてそうかな」


「はあ? 隅から隅まで読みましたよ」


「読んだのは『文字』だよね。これは『絵本』なんだよ。これ、ヒントね」


 玲花はそう言われてもう一度、絵本の表紙を眺める。


 ぐりとぐら。


 ぐりが青く塗られた手描き文字で、ぐらが赤く塗られた手描き文字。


 ぐりが青いオーバーオールでぐらが赤いオーバーオール。


「やられた! こんな簡単なことに気がつかなかった!」


「絵本の情報量を嘗めちゃいけないよね」


「ぐりが青い方でぐらが赤い方なんだ!」


「僕は10回目くらいで気がついたなあ」


「私はだんぜん読み足りなかった-!」


 思わず声を上げてしまい、はっとする。


「面白かった?」


 くっ、と玲花はこらえる。


「悔しいですが、認めます」


「えらいえらい。自分の気持ちを素直に認めるのはなかなか難しいことだと思うよ。そんな上泉さんに僕から努力賞があります」


 坂崎は得意げな顔をして、立ち上がった。


「努力賞ですか?」


「まあ、ついてきてよ」


 そして坂崎は図書準備室に入っていった。普通は図書委員しか入れないところだ。


 図書準備室の中は未整理の本や、寄付されてこれから整備する本などが山積みになっていた。雑然としたイメージだ。


 しかし窓際のテーブルはきれいに整理されていて、カセットガスコンロが1台、そしてその上に蓋がされたフライパンが載っていた。


 甘いいい匂いが漂っていた。


 そして坂崎は食器棚から大皿と小皿、ナイフとフォークを出してテーブルクロスの上に並べ、玲花に座るよう促した。坂崎と向き合う形でテーブルに玲花は座り、彼がフライパンの蓋を開けるのを待つ。


「それではご開帳です。これがぐりとぐらのカステラです!」


 坂崎が蓋をあけると小麦粉とバターと砂糖の甘い匂いがぱあっと広がった。


「センパイが作ったんですか?」


「昼休みに準備は終わらせて、焼くだけにしておいたから君が来るのに間に合った」


「私のために?」


「努力賞ね。正解しても賞品はこれだけど」


 坂崎はふんふんと鼻歌を歌いながらフライパンをひっくり返して大きなお皿にカステラをあける。


 カステラは茶色の焦げ目がいい感じでついて、美味しそうに湯煙をあげていた。


「すごい」


「はは。味は普通だよ」


 大皿にのせたカステラを8つに切り分け、そのうちの1つを小皿にのせて、玲花の前にサーブし、坂崎も自分の分を皿に載せる。


 そして洗面台から水をとり、小さなヤカンをガスコンロに乗せてお湯を作り始める。


「まずは温かいうちにいただきましょう」


「いいんですか、こんなことして」


「優等生やっているとこんなことくらいは許される。ここは僕のお城だよ」


 玲花は自然と笑っていた。


「ずいぶんフリーダムですね。でも、遠慮なくいただきます」


「どうぞどうぞ」


 坂崎お手製のカステラをフォークで小さく切り分け、玲花は意識して上品に口に入れる。坂崎は大きく切り分けて、大きく口をあけて食べる。


 カステラはふっくらもちもちで、なんとなく甘くて、小麦の香りがして、美味しい。


「美味しく焼けてます」


「久しぶりに作ったからちょっと不安だったけど、それは重畳」


「重畳なんて言われても普通の人は分かりませんよ」


「重畳とは大変喜ばしいこと」


 玲花はまた笑った。


「大口で食べた方が美味しいよ」


「じゃあ次はそうします」


 玲花は2切れ目を大きく切り分けて顎を大きく開けて口にした。


 口内いっぱいにカステラが広がり、幸せも広がっていく気がした。


 お湯が沸くと、坂崎はティーパックで紅茶をいれてくれた。


 紅茶は安っぽい香りだったが、ぐりとぐらのカステラと一緒だと特別な気がした。


「たいへんごちそうさまでした。このお返しはまた今度」


「今度があるんだ」


「それは、まあ、私なりに目的があって来たので、それが果たされないと。実はそんなに期待してきたわけでもなく、姉に言われて軽い気持ちで来ただけなんですけどね」


 坂崎は、ふむ、という顔をした。


「ちょっとは楽しんでもらえたかな」


 心を読まれた気がした。しかしそうではない。おそらく姉から、自分が来る話と自分の悩みを聞いていたのだと思う。それならこのもてなし様も分かる。


「――姉から何か頼まれました?」


「ああ、『双子のかわいい方』ね」


「それじゃ私がかわいくないみたいじゃないですか」


「性格のことだろう。髪型が違っていなかったら見分けがつかないって聞いている」


「じゃあなんで私が『何も楽しくない』って思っているってこと、知っているんですか」


「いやまあ、顔に書いてあるし。世の中に不満しかなさそうな顔」


「ひど!」


 そこまで言われる顔をしているというのだからショックはひとしおだ。


「――まあ、間違ってはいません」


「ぐりとぐら、どうだった?」


「面白かったです。クイズも」


「それも良かった」


「久しぶりに、気持ちが動いた気がします」


「難儀だなあ。そんなにかわいくて頭が良くて、スポーツもできて、身長もあってスタイルもいいのに」


「胸はありませんがそれでもスタイルいいっていうんですか」


「逆セクハラだ!」


 坂崎は露骨に赤くなったが、自分の胸に視線を向ける。幾ら見られても残念だがないものはない。


「悩みは、人それぞれでしょう」


「それはそうだ。言いたいことはあるけど、今は君の問題の方が気に掛かる。つまり君は楽しいことがないことに不満を持っているわけで、その理由が知りたい、ということで大丈夫?」


「だいたい合ってます」


 玲花が答えると坂崎は腕組みをしてうなった。


「そんなん、楽しいことがなにかなんて、それも人それぞれだからねえ」


「別に楽しいことを教えてくれなんて言っているんじゃないんです」


「おお、建設的だね」


「ただ、その何も楽しめない原因を知りたいだけなんです――」


「――それはカウンセラーの領域だよ。力にはなれない」


「そうですか」


 その答えが返ってくることは分かってはいた。


 自分でもよく分析できないことを他人に委ねるのは、その時点で、無理があると玲花自身分かっていた。ただ、昨日のやりとりには何か感じるものがあったから、少し期待してしまっていたのだ。


 しかし坂崎は人差し指を立て、小さく振って言った。


「楽しいことは教えてあげられない。原因も探ってあげられない。でも、面白いことは一緒に探してあげられるよ」


 そして坂崎は笑った。


 その微笑みを見て、玲花はぶわっと心臓から顔に血液が流れ込むのを感じた。


 それがなんなのか、さっぱりわからない。


 初めての体験だった。


「――面白いこと、ですか」


 少ししてようやく玲花は言葉にした。


「ぐりとぐらが面白かったんだから、他にも面白いことはいっぱい見つけられるはずだ。楽しくないなら面白いものを探そうよ」


「楽しくないなら、面白いものを探そう」


 玲花が繰り返すと花が繰り返し言い、坂崎は頷いた。


「覚えておいてね。大切なことだから」


 玲花は特に何を思うでもなく、頷いた。


 大皿のカステラがなくなった頃、玲花は退室することにした。


「センパイ、今日はありがとうございました」


 玲花は小さく頭を下げる。


「明日もくる?」


「わかりません」


「そうか。それはそれで。でも、僕は君が面白いとを用意して待っていることにするよ。君みたいな美少女と一緒に面白いもの探しができるなら、特別な経験になりそうだ」


「はあ。まあ自分の外見でセンパイがなにか価値を感じていただけるならそれはそれでいいです。自分が美少女で良かったです」


「だから自分でいうなって」


「先に振ったのセンパイでしょ?」


「うーん。なんていえばいいのかな」


「誰かを傷つけなければ感情をストレートに言葉にしていいんでしょう? だから、私が美少女で、センパイがそのことに価値を感じてくれるなら、それで良かったって思ったんです。それを口にして何が悪いんですか?」


 坂崎は声を上げて笑った。


「完敗だ! 確かにその通りだ。他の人がそれを聞いてどう思おうと、君が変わるわけじゃないもんな」


「やったー!」


 初めて1本とった気がする。


「じゃあ、次に私がきたときは『面白いもの探し』の巻ですね」


「来たならね」


「気が変わりました。明日も来ます」


「はや。準備しておかないと」


「期待しています」


 そして玲花は図書準備室を後にした。 


 図書準備室の扉を閉め、玲花は扉にもたれかかり、願う。


 明日も面白くなるといいな。


 その願いをセンパイが叶えてくれることを玲花は何故かもう、確信していた。

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