最終話


 ふと目を覚ます。オレはゆっくりと起き上った。


 ここは、オレの家だった。そういえば、あの後に家に帰った後すぐに眠ってしまったんだ。たしか、布団を敷いてイオルを寝かせて、それを見ていたらオレまで眠くなってきて、つい眠ってしまったんだ。


 だけど、オレは布団の中に入っていた。隣を見ると畳まれた布団があった。オレは誰がオレの分を敷いてくれたのかわかった。


 部屋の電気はついておらず暗かった。外もそうだった。隣の部屋の隙間から漏れる光だけがあった。それがはっきりとわかった。


 オレは立ち上がり、その部屋に向かった。するとそこには正座してウトウトとしているイオルがいた。オレに気がつくとハッとなって「おはよう」と声をかけるのだった。


「夜だし、どちらかといえば「こんばんは」だな」


 時計を見ると七時を回っていた。嫌な時間に起きたものだ。イオルはいつから起きてここにいたのだろうか。


「あ、あのさ……トオル……」


「ん?」


 イオルは肩身を狭そうにする。


「あ、あの……わたしが……やったことを……」


「とりあえず、それは後にして、何か飲みたいのあるか?」


「え? ……な、なんでも……いい……」


「そうか。まあ、お茶でいいか?」


「う、うん……」


 イオルはなんともまあバツが悪そうだった。ずっと落ち着かない感じだった。


 オレは冷蔵庫から茶葉を取り出し、急須に適当に入れた。やかんに水を入れ、火にかけて沸騰させる。カタカタと鳴っている。オレたちはその間会話はなかった。


 オレは、あの時の事をその間に思い浮かべていた。




「なあ、黒木。言いたいことがあるんだ」


 オレは沈静化したイオルを抱きかかえ、黒木に話しかけながら歩いていた。


 オレは黒木に自分の考えを述べていくのだ。


「イオルはな、こうやって抑える事が出来るんだ。イオルは、確かに先のように抑制が出来ずに暴れてしまったら危険かもしれないけど、こうやって、傍にいる誰かがついていれば、それを止める事が出来るんだ。危険にしているのは他人でもあるんだ。他の誰かの影響で、爆発してしまうんだ。だけど、それを管理する人によってはそれが不発で済むんだ」


「何を馬鹿なことを。こんなの、結果論にしかすぎませんよ。たまたま上手く言ったからそう言いはれるのですよ」


「結果論だろうがなかろうと、止められるという事実は分かったんだ。だから、それだけでも大きな一歩じゃないのか?」


「わかりませんね。なぜ、そいつをかばうのですか? そいつは、人殺しなのですよ」


「……。だから、罰は受けるべきだ。黒木はそう言いたいんだよな。そうかもな。いや、そうなんだ。……オレは、今回の一件で少し分かった気がする。人が人を裁くことはできない。それこそ傲慢な思いやがりで、また罪であると」


 オレはイオルを見た。


「じゃあ、どうしろと? そのまま野放しにしろと?」


「他人が他人に罰を決めるんじゃない。そいつ自身がきちんと罪と向き合って、罰を自分に与え、他人が、それときちんと向き合っているかを見守り判断し、認めていくんだよ。そうやって許してもらうんだ」


「綺麗ごと。いや、それにすら値しない暴言ですね。何故、被害者である我々がそうまでしていかなければならないのですか?」


「過去を清算するために。過去にとらわれているばかりではなく、その人が前を向いてきちんと進めるように。その人の分まで歩いて行けるように。その為に、必要なんだ」


「気色が悪いですよ。そんな阿呆のような理想を語るんじゃありません。前を向くという事は後ろを向かない。つまり過去を忘れろという事なのですか?」


「過去は忘れられない。それをなかったことには出来ない。だけど、いつまでも後ろを向いていては何も変わることはできない。だからこそだ。オレ達こそが変わっていかなければならない。そうして、移り変わりを見ていかなければならないんだ。永遠に止まってしまった人の為にも、オレ達は動いていかなければ、進んでいかなければダメなんだ」


 オレは言い放つ。これが、オレが出した、見出した結論だ。


「だからといって、こいつを私は許せません。私は、ただこいつを殺せれば……」


「殺したところで何になる? 罪を自分でわざわざ背負う必要がどこにあるんだ? 確かに許せないかもだけど、憎悪しかないかもだけど、それでも、お前が罪人になる必要なんかないんだよ。死んだ人は残された人に仇を望むか? 違うと思う。その人は、自分の大切な人の幸福を願うんだと思う。真っ直ぐに生きてもらいたいんだと思う。自分の分まで。純真に。よく考えてほしい。黒木の大切な人は、黒木に人を殺せと頼むようなそんな人なのか?」


「……! よくもまあそんな綺麗ごとがいくつも出ますね」


「それに、仮に殺せたとしても、満足するのは黒木だけじゃないのか? ただの自己満足にしか過ぎないんだよ。ただ謝罪が欲しかったりしたり、誠意を見せてもらいたかったりした人がそれを目の当たりにすることも無く、死んでしまっていたら? 永遠に過去を清算できないままなんだ。モヤモヤした気持ちを永遠に持ち続ける事になるんだ。だから、ここは耐える。そして、ずっと見ていて、まったく反省がなければ……。イオルには、その時間がまだ足りていないんだ。始まってすらいないんだ。反省は、その理由を自分でしっかりととらえなければ反省したことにならない。イオルはまだ、その反省が何なのかを理解できていない。だから、時間が欲しい。だから頼む! こいつらに時間を与えてやってくれ!」


「……っ!」


「もし、黒木が許せないのなら、オレが代わりに罪を受ける。その資格が十分にある。もしも、黒木が待ちきれずにイオルに復讐をしようとするなら、それはオレにしてくれ。なぜなら、オレが受けるべきものなのだから!」


「何を言っているんですか! イオルに時間は十分にあった! 七年もの歳月があったにもかかわらずになにが分からないのですか! それに、私のこの七年はどうだというのですか! 無意味で無価値な七年になってしまう! ふざけるな!」


「イオルは自分を理解できていなかった。だからただ日々を消化していっただけにすぎない。それは無意味で無価値な七年間だ。だが、一番、無意味で無価値ではなかったのは黒木の方だ。どんな理由であろうとも、どんなな心であろうとも、それだけで、生きていけたじゃないか。絶望して死ななかったじゃないか。躍起になって生きてきたじゃないか。黒木の大切な人の想いじゃないか。それが不本意な理由であったとしても、自分の代わりに生きてくれたんだ。それだけで意味はあるんだ。きっと、ここまで想ってくれてありがとう、て。もう大丈夫、そう言ってくれてると、信じて見ないか?」


「うっ……くっ……うう……」


 黒木がうめき声をあげてその場で崩れた。地面を何度も叩きつけていた。


「すみませんでした。オレには、今はこれぐらいの事しか言えない。だから、オレもオレが黒木さんに、許してもらうように、償います。その為に……時間を、ください。お願いします」


 オレは膝を地面につける。イオルを横に寝かす。そして、両の掌と額と地面につけ、頭を下げる。そうしてもう一度、「お願いします」という。


 黒木はただ、悲しい雄たけびをあげるだけだった。吠えるだけだった。オレはその声だけを耳に残す。


 そして、決着がついたのだった。




「ホラ。お茶だ」


 オレはイオルに手渡した。イオルは「ありがとう」と言ってそれを受け取った。


「ちょっと熱いね」


「猫舌か? まあもう少し冷ましてから飲むといいよ」


 イオルはフーフーと息を吹きかける。そしてちょびっと飲むのだった。


「おいしいね」


「ああ。どうも」


 沈黙が訪れる。どちらが先に話をするべきか迷っている。なんか勝手に譲り合っている。


 先に、その沈黙を破ったのは、イオルだった。


「ソーから、聞いた。透が寝ている間に来てね。それで、わたしが意識を失っていたところの事を話してくれた」


 オレは部屋を見渡した。ソーはいない。ということは、随分前に帰っていったのだろうか。お礼もまだ済んでいないのに。


「トオル。ありがとう。こんなわたしのために、体を張ってくれて……。ごめんね」


「謝ることじゃないだろう。まあ、よかったよ。こうしてこの家で話せるんだからよ」


「トオルは、黒木の件について、どう……? それで……よかったの? 結局は、わたしの……責任だよ……」


 オレは雪華との会話を振り返った。イオルは分からないのに、こうして、罪を背負っているんだな。


「なあ、イオル。一つだけ、聞きたいんだ」


「うん。いいよ」


「イオルは……その……イオルが思っている罪と、どうやって向き合っていきたい?」


「わたしが……?」イオルは考える。「やっぱり、わからない。どうやったらいいのかが分からない。だけど……謝りたい。わたしが、トオルと再会した時、ずっと謝りたかった。その気持ちが強かったんだ。だから……」


 オレは少しだけ笑ってしまった。やはり、同じなんだな、と。そう思うと笑いがこみあげてきた。イオルはそんなオレを見て何かおかしなことを言ってしまったのか不安がっていたが、そうではない。


「まずは、その気持ちで十分だ」オレは雪華に言った言葉と、同じことを言った。オレは少し分かったかもしれない。今、イオルに求められることと、雪華に求められることを。それがほぼ似たようなものであると。


「でも……そんなので?」


「そんなのって言うが、謝るって事はとても勇気のいる事なんだよ。簡単にできる事じゃない」


「……」


「だけどさ、イオルは他の人にも、まったく面識もなかった人に、きちんとそういう事を思ったり言えたりできるか?」


「……わからないよ」


 イオルは正直に言った。そして首を振った。


「ならオレから、イオルに課したいことがある」


「それは何?」


「まず、イオルは、これからは普通に過ごして、たくさんの人と出会い、関係を結んでいく。それだ」


「え?」イオルは驚いていた。「どうして? わたしがそんな事をしていいわけがないよ」そう言う。


「これは例え話だが、罪はそれがなにかをなにも分かっていなければ、償う事は出来ないんだと思う。自分が何をしたか。どうしてそれがダメなのか。その本質をきちんと理解できなければ、一生かかっても償う事はできないんだ」


「う、うん……」


「オレ的に、イオルは、そういったものが足りないんだと思う。沢山の経験が不足しているんだ。だから、ずっと手をこまねいているだけになるんだ。ずっと止まったままなんだ」


「……そう……なのかも」


「だから、まずはそういう事を始めよう。なに。オレたちとすぐに仲良くなれたんだ。きっといけるさ」


 イオルは小さく頷いた。


「そうしてからだ。こうやって色々な事に触れて、他人と触れてから、自分と向き合うんだ」


「自分と……?」


「ああ。自分が分からない奴は、ハッキリしていない奴は、ちゃんとした答えを見いだせないんだと思う。イオルにはそれが足らないんだ。だから、自分自身と向き合って、それから自分がどうしたいか、考えるんだ」


「……」


 イオルは考える。きっと、雪華の事を考えているのか。イオルは薄々ながらももう一人の自分の存在に気がついている。ただ、それを意識の外に飛ばして、封じているだけなんだ。


「それから、昔と向き合う。罪と向き合う。その罪をどうするかは、自分と向き合った後、自分自身で決めるんだ。答えを出すんだ。たとえそれがどんな答えであろうともな、オレはイオルの選択にどうこう言わない」


「……トオルはそれでいいの?」


「ああ。だからさ、オレはさ、イオルがその答えを出せるその日までずっと見守ってやるよ」


 イオルは嗚咽を漏らす。涙がテーブルに落ちる。


「うん……。わかったよ……。トオルは、やっぱり、優しいね。ありがとう。……わたしは、弱虫……だから。誰かに引っ張って、もらわなくちゃ……ダメ。でも……いつか……ちゃんと、その日を……見つけるよ……」


「ああ」


 オレは力強く頷いた。


「じゃあさ、『約束』しねぇか?」


「約束?」


「ああ。簡単なものだ。指きりだ」


 オレは右手の小指を差し出した。イオルはぽかんとした顔をしていたが、すぐに顔を戻して、「うん」と頷いた。


「ここに、山はないけど、十分だろう」


「えっ……? それって……」


「まあ、あいつに教えて貰ったおまじないみたいなものさ」


「あいつ……? そっか。ノボルか……」


 オレは何も言わなかった。そして、小指をむすんだ。そして、互いに何をするべきか答えた。イオルは「自分と向きあう事」。オレは「それが出来るまで見守り続ける事」それを言ってから、指切りを歌い、指を切った。


 オレ達は互いに笑う。こうして、互いの未来を約束し合った。




「お取込みの所すまないね。話は終わったか?」


 コンコンと壁をノックした。


 オレ達は思わずビクッとした。声の主はソーだった。いつの間にかそこにいた。


「どこから見ていたんですか?」


「そうだな、透がイオルに一つ聞くところからかね」


「結構最初の方じゃないですか」


「気づかなかった」


「まあまあ。それはいいんだ。それよりも、ちゃんと話がついたようだな」


「はい」


 オレは力強く頷いた。


「そうか。そりゃあ、よかった。まあ、これからが、いやこれからも大事だという事を忘れるなよ」


「わかってます」


「それならいい。ところで、用事が二件ほどあってだな……。いいかい?」


「あ、はい」


「まず一つ目は、これだ」


 ソーは分厚い茶封筒を投げた。それはテーブルに置かれた。


「なんですか?」とオレは中を見る。すると、中にはお金がぎっしりと詰まっていた。それも全て諭吉だ。「なんすか? これ?」オレがそう尋ねるとソーは「違約金あたりだと思えばいいさ」


「違約金ですか?」


「命はあったものも、ちゃんと身を守れていなかったからな。それだ」


「いや。そんなのいいっすよ」


「まあ、いいんだよ。それで。それが嫌なら選別だと思え。俺なりのお前らへのささやかな応援だ」


「いや、なおさら受け取れないですよ」


「いいんだ。もう、その金はお前らにやった。あとは募金するなり焼くなりなんなりしろ。お前らの自由だ」


「……」オレはそのお金を見た。ソーはこれから何を言ってもこのお金を受け取らないだろう。だから、しぶしぶそれを受け取った。「ありがとうございます」


「いいよ。そんなの。で、こっからが重要な用……」


「幸せそうで、腹が立ちますね」


 ソーの言葉を遮って黒木が廊下からこの部屋に入って来た。無表情で眼鏡をクイッとあげる。そして、イオルをにらんでいた。


「く、黒木……」


 イオルは黒木の顔を見て、胸を押さえた。険しい表情だった。


「ふん。私はまだ、諦めてはいませんよ。この気持ちが変わることなど決してありません」


「……」オレはただただ黒木を見ていた。


 イオルは立ち上がった。そして、黒木の前に来て、土下座した。


「黒木……さん。ご、ごめんなさい。許してくれるとは思ってないけど……でも、ごめんなさい」イオルは顔をあげる。「わたしは、まだ、答えがわからない。だから、それがわかるまで、時間を……くだ……さい。お願いします」イオルは切願するのだった。


 黒木は何を考えているのか分からなかった。その顔に変化は何もなかった。


「……一年。それだけ待ちます」


「えっ……?」


 黒木の言葉にイオルだけではなくオレまでもが驚いた。


「私の次のあなたへの復讐の準備が、それぐらいかかってしまいますのでね。だから、それだけ待ってあげましょう。寛大に。だけど、一年です。私が待てるのは。それまでに、死ぬことは許しませんよ。私があなたを殺すのだから……」


 黒木は踵を返す。ただ、これを言いに来たのだろう。すぐに帰る。


「送ってくぞ」とソーが言う。しかし、「結構です」そうきっぱり断り、玄関を出ていくのだった。オレ達はその後姿をただ眺めていただけだった。


「……まあ、なに。猶予を与えられただけでもいいんじゃねぇか?」


「……うん」


 ソーの言葉にイオルは小さく頷いた。


 そして、イオルはハッと何かを思い出し方のように黒木へ走っていった。オレはなんだ? と気になった。


 イオルは外へ飛び出す。イオルの声はここからでも十分に聞こえた。


「あの! ありがとうございます!」イオルは頭を下げる。黒木は鬱陶しそうにしていた。「わたし、必ず自分なりの答えをみつけます!」


「……」黒木は止めていた足を動かし始めた。


 イオルはそれをただ見つめている。その背中を見送るだけだった。


 だが、黒木はふと思い出したかのように立ち止まった。そして、あの事について話す。「そうそう。これは私の独り言です。リリィさんは恐らく生きていますよ」


「えっ……?」


 イオルはきょとんとした。


「恐らくといったのは、私たちでも把握できていないという事です。リリィさんは、研究所から脱走を企てました。警備を怠っていたという、何とも無様な失態ですね。だから、我々は彼女の捜索を行っています。はたして彼女は今どこにいるのでしょうね」黒木はフッと笑った。そしてまた歩き始めた。


 イオルは胸に手を当てた。そして、泣きだした。リリィが生きているかもしれないということで涙していた。


 イオルは涙をぬぐいながら家に戻った。そして、ちょこんと座る。


「よかったな」


 オレはそう言った。


「うん」と大きく頷く。


「そんじゃ、まあ、俺の用件は済んだから帰るわ」


 ソーが嘆息しそう言う。


「あ、はい……」


 ソーは背中を掻きながら踵を返した。


「ソーさん。色々ありがとうございました」


「ありがとう……ござい、ました」


 オレ達はソーに礼を言う。ソーは「ただの仕事だ。どうだっていいんだよ」と笑いながら言っていた。「あ、そうだ」と思いだしたように言葉を続けていく。「何か依頼があればいつでも言ってくれよ。それと、暇だったら家に遊びにきな」


「あ、はい」


「んじゃあな。楽しかったぜ」


 ソーは手を上げて、去っていった。






「行っちゃったね」


 また、二人に戻った。


「そうだな」


 オレはお茶をすすった。また、何を話せばいいのか分からない気まずい空気になってしまった。


 そうすると、イオルのお腹がぐーと鳴った。イオルは赤面して腹を押さえた。


「そういえば、夕食の時間だったな。何か作らないと。何か食べたいのあるか?」


「えっと……」


 イオルは考える。だが、何が食べたいのか思い浮かばないようだった。


 そうすると、玄関が勢いよくあいた。


「透! いるか!」


 松田の声だった。その声量はすさまじく、耳がキーンとなった。イオルも耳を押さえていた。


 松田はずかずかとあがりこむ。そして、テーブルになにやらスーパーの袋を置くのだった。


「何だよこれ」


 オレが尋ねると、もう一人の人物が現れた。


「夕食です」


 美麻だ。美麻は手ぶらで、堂々と入って来た。


「え?」


「イオルちゃんがこうやって無事に戻って来たんだから、パーティーでもしようってね」


 美麻はウインクする。イオルはもじもじと恥ずかしそうにしていた。


「豚肉、牛肉、ホルモン、タン」


「その他に野菜に焼きそばも」


 品名をいいながらそれをとりだしていく。


「結構買ったな」


「もちろん! あ、あとで透も払ってもらうわね」


「勝手に買い出ししてそれはないだろう。でもまあ、いいよ。臨時収入が入ったからな。おごってやるよ」


「えー! 太っ腹! だが、ノーサンキュー。ここは割り勘だ」


「そうよね」


「あ、そうだ。ご飯がないじゃないか」


「じゃあ、私が炊くわ」


 美麻は、台所へ向かって、勝手に米を取り出しとぎ始めた。


「じゃあ、ジュースとかあるかな……」


「勝手に冷蔵庫を開けるんじゃない!」


 オレは松田を小突いた。


「いいじゃん。減るもんじゃないし」


「減るわ。色々と」


 あーだこーだともめる。騒がしく。


 すると、笑い声が聞こえた。三人とも、その声の方を見た。


 イオルだった。イオルは重荷が抜けたように朗らかに笑っていた。


「あ、俺、イオルちゃんの笑った所初めて見たかも」


「あらそう? 私は結構見てたけど?」


「なんか、俺にだけやけに冷たかったからな」


 松田はふくれっ面になる。


「ごめんなさい」


 イオルは笑顔のまま謝った。そして、立ち上がる。


「私も……手伝って……いいかな?」


 イオルは上目づかいでそう尋ねた。


「当たり前だっての」


 松田がイオルの頭をポンポンと叩いた。


「働かざるもの食うべからずってね」


「まあ、大して働かないけどな」


「そういう事は言わないの」


 オレ達はそうやって笑い合って、小突き合って、じゃれあって、準備をする。


 イオルは、本当に笑っていた気がする。


「ねえ、トオル」


 イオルはオレに小声で話しかけた。


「わたしは、しばらくはこうやって過ごしてていいの?」


 そう問いかける。


 オレは「ああ。いいんだよ」と頭を撫でた。


 イオルは今まで見せたことのないようなとびっきりの笑顔を見せるのだった。




 オレ達がこれから行く道は誰にも分からない。それは自分でさえも分からない。前は真っ暗闇で何も見えない。だけど、誰かが傍にいるだけで、その暗闇に一歩を踏み出せる勇気がわいてくる。背中をポンと押してくれる。


 たとえ道に迷ってどこにいるかがわからなくなったとしても、そういう人たちが手を貸してくれる。


 そうやって助け合って前に進んでいくんだ。


 過去は消せない。歩いてきた道は消せない。だからその道を無理に消したりや隠そうとはしてはいけない。それだけはしてはいけないと思う。自分が歩んできた道を忘れてはいけない。


 だって、そうやって自分を作っていくのだから。そうやって進んでいくのだから。


 たまには立ち止まってもいい。後ろを振り返ったっていい。だけど、前に進むこと。それを忘れてはいけない。


 前に進んで歩きだし始める、その先は未知であやふやなものだ。進む方向は決してわからない。


 だけど、それでも、オレ達は前であると信じて進んでいかなければならない。


 その先に何があるかは分からないけど。


 だけれども……。


 オレ達は歩いていくんだ。その未来の先にある何かを目指して。

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