第19話


 毎日のように浴びせられる罵声。暴力。もはやそれがイオルにとっての日課であり日常だった。


 あの人はいつも決まってイオルに言う。


 あんたなんか産むんじゃなかった。さっさと死ね。気持ちが悪い。化け物……。数々の暴言はイオルを殴りつける。イオルはただただ、それを受けているだけ。サンドバッグや、クッションのようにストレスのはけ口として扱われるだけの存在だった。


 あの人の言葉の一つ一つは幼いイオルや私の心を傷つけるのには十分だった。どれもこれも実の親に自分の存在を否定される絶望感と恐怖が満ち満ちていた。


 私たちは私たちの父親を見たことがない。私たちはこの……母親とも呼びたくない人だけしか、親を知らない。


 父親はあの人が私を産んでからいなくなってしまった。残されてしまった。見捨てられてしまったのだ。


 あの人は最初からイオルに厳しく当たる人だった。恐らく日々の生活で溜まるストレスを鬱憤させるためにはイオルが最適だったのだろうね。


 物心をつくときから酷い目にあっていた。しつけは常識からかけ離れていた。イオルが何か出来ないと、それだけで殴った。口答えしても、わがままを言っても。他にも、何かと因縁をつけてひっぱたく。


 あの人は私たちの事が嫌いだったらしい。普通の子供とは異なった容姿。そして何よりもあの人が嫌っていたのは、私が持つ能力ちからだ。それを知ってからあの人は化け物と呼ぶようになった。気味が悪かったのだ。


 それからより一層暴力が激しくなる。


 そして、さらに月日が流れていき、最悪な出来事が起きた。


 それは、怪我の治りが異常に早い事である。それを知られてしまったのだ。知ったあの人は以前の暴力が優しく思えるようなほどの仕打ちをするようになった。


 痣なんかは残らない。治ってしまうのだ。だから、どんなことをしても大丈夫という安心感があったのだろう。骨なんか、何本折られたか分からない。あいつは、指を折ることが好きだった。金づちで叩いたり、逆の方向に折り曲げたり。


 歯は、さすがにすぐには戻らない。顔面を殴られた時に前歯にそれが直撃し、ポキッと折れた。口から滝のように血が流れ出した。大体の怪我は時間が経てばすぐに治るのだが、今回はそういうのはなかった。だから、あの人はそういうのを気をつけていた。


 別に、暴力は肉体的だけではない。精神的にもあった。例えば縛り付けて身動きがとれない状態にして何日も放置されたりなんてことがあったし、食事をした後にお腹を蹴られ、お腹の物を吐かされ、それを顔に押し付けて食べさせられたこともあった。


 そんな生活は地獄だった。私たちの世界は家だった。だから、その世界から逃げ出したかった。安らぎも何もない最悪な場所。恐怖の対象。逃げ場のない牢獄。


 唯一の安らぎといえば……それを強いてあげるとすれば……一人でいる時だった……。




「何なんだよ。これは」


 オレの怒りは頂点に達していた。


「まあ、過去だからね。透はどうしようもないよ。それは私でさえもね」


「何でお前はそんなに他人ごとでいられるんだよ」


「近いからこそ遠い。まさにそれだよ。肉体的な痛みは私には届かない。私の痛みはイオルの心の痛みと孤独だけだ。私の痛みを和らげるためにはそうであると割り切ることであるんだよ」


「それでお前はいいのか?」


「雪華。お前じゃない。……まあ、よくはないよね。でも、これでも私は近づこうとした。遠ざけたのは紛れもなくイオル自身だよ」


「イオルがおま……雪華を避けていたのか?」


「そうだね。最初、私もイオルの為にどうにかしようとした。でも、ダメだった。私だって、不幸な目にあっているイオルを見過ごせないよ。ただ、私では何もできなかった。それがもどかしかった。イオルは、私を拒否したんだよ。拒絶したんだよ……」


 雪華はその場に座り込んだ。体育座りで、顎を膝に乗せる。


「透は一人の辛さは分かるでしょ? 両親を亡くし、世界に取り残された寂しさを」


「……それはまあ、な」


「私はそうだった。イオルも……そうだね。でも、イオルは羨ましい。私なんかより恵まれているよ……」




 イオルには友達と呼べる子など存在しなかった。保育園にもいない。同い年の子供は全て敵だった。異性であろうが同性だろうが、教師だろうが。それでもイオルは近づこうとした。一人ではいたくなかったから。助けてくれる友達というのが欲しかった。


 だけど、そんなのが出来るわけがない。


 それもそうだ。他人とは異なる存在は排除される仕組みなんだから。


 イオルは同い年の子供からいじめを受けていた。大体の理由は容姿からだ。みんなが黒髪なのにイオルだけが白髪であることからや、普通ではありえないような力を持っていたから迫害をうけていたわけだ。それから、根暗だった。暗い子だった。誰かと話そうにも話せない。その勇気がない。ようやくその勇気が出せて話したことがあったが、無視を決められた。心は折れる。


 親からも気味悪がられ虐められ、他の周りからも同じようにして虐げられる。


 味方がいない。一人ぼっち。


 どうして人は異なるものを除け者にしようとするのだろうか。その人の事を深く知ろうとはせずに、ただの噂などに踊らされる。そのせいでイオルはそいつら以上に翻弄されなければならない。勝手に。


 イオルは誰かに対して手を上げたことはなかった。ただジッと耐える。それが最良の選択であると理解していたからだ。だけど、現状は悲しいことに変わりはしないのだ。どうしてだろうね。何も悪い事はしていないのに。ただそうやって生まれてきたというだけなのに。他の人とは少し違うというだけだというのに。どうしてなんだろう……。


 イオルは孤立していた。イオルにとって誰かと絡むことが出来るのを強いてあげるならば、それは「いじめ」しかなかった。


 髪を引っ張られたり、池に突き落されたり、自分の物をボロボロに傷つけられたり、輪の中に入れられなかったり、傷だらけにされる事だけが、他人との唯一の関わりだった。


 それが幸せか? 当然、嫌だ。それを好きになれない。なれるわけがない。だから常に孤独でいた。


 他人に否定されていたから、他人を否定していた。


 本当にイオルは孤独だったのだろうか?


 違う。私という存在がいた。


 私はイオルと同じ時に生まれ同じ思いを抱いて共に生きてきた。


 しかし、イオルは私には気づいていない。私はイオルに気づいて見ているのに、イオルは私に見向きもしない。


 私は、イオルと違って誰かに私をアピールすることが出来ない。私の居場所はイオルの中だけだ。そこだけでしか活動が出来なかった。だから、イオルが傷つくのを見ているだけでしかなかった。私がやめてと声を張り上げてもそれは誰にも聴こえない。


 私にはイオルだけしかいなかった。


 だから私はイオルに声をかけたんだ。言葉をかけつづけたんだ。大丈夫だよ。君は一人じゃない。私がいるんだよ。と。


 でも、その声はかき消された。拒絶というものに。




「透は、自分というものがわかる?」


 雪華が唐突に答えづらい質問をしてきた。


「えっと……」オレは言いどもる。そう問われると難しい質問だからだ。「あんま分からないな……」


「まあ、私からしたらお人よしだね」


「そ、そうか……? まあ、そうだな」


「自分という存在は近いようで遠い。主観がどうしても強くなることで、客観的に見ることがないから。だから、元から遠い他人から言われてようやく気づくんだよ。でもまあそれが正しいとは限らないけどね。あくまでも参考までに」


「あ、ああ……」


「一つ聞くけど、自分を客観的に見てくれる他人がいない人はどうやって自分を見つけられると思う? 改めて問われてから、考え込まないといけないものを、どうやって見つけられると思う?」


「それはやはり……他人を作るか、自分で自分を客観視するしか……」


「イオルは、それさえも怠った」


「……」


「ただでさえ他人から否定されて生きてきたのに、自分を見つけられるわけがないんだよ。自分が分からなくなるんだよ。だから、私を拒絶した」


「恐怖からか?」


「そう。イオルからしたら私も他人だ。しかも実体がない。見えないのだ。人の恐怖の本質だ。正体もよくわからないやつが自分の内側から語りかけてくるのだ。まるで自分をのっとってしまうような、自分が無くなってしまうような、そんな恐怖。イオルからしたらそんな感じで恐ろしかったのだろうね。だから私を封じた。閉じ込めた」


「それはどういう意味だ?」


「そのままの意味だよ。私は出てくることを禁じられた。イオルと関わる事をイオルに禁止されたんだ。箱に鍵をかけて閉じ込められた」


「……」


「イオルは恐怖から他人を否定した。私たちは同じようで同じじゃない。孤独でも、孤独ではない。少なくともイオルは。私と違ってきちんとした他人がいた。見つける事が出来た」


「それってつまり、オレ達の事をいっているのか?」


「そうだよ。私は箱に閉じ込められたけど、外は覗けた。そこでイオルの様子を見守っていた。助けられないもどかしさはあったけど、あの日を境に私はそれも悪くないような気がした。イオルが幸せであるならそれでいい。的な感じで」


「本当に雪華はそれでよかったのか?」


「……イオルが五歳の時だね。あの日からイオルは希望を抱くようになった……」




 イオルは自分の居場所を探していた。誰にも虐められずにいられる場所を。一人でいられる空間を。


 家には帰りたくない。あそこは決してそんな空間じゃなかったからだ。そこでイオルはなんとなく公園を選んだ。あまり人が来ない場所であったからだ。そこで一人で遊んでいた。砂場で山を作ったり団子を作ったり、まあ一人でできそうなことを日が暮れるまでやっていた。


 いわゆる救いの場所であったね。解放された気分になれる。そんな感じ。


 しかし、寂しさは隠せなかった。一人でいるためにここを選んだのに、孤独が襲う。自分以外でここへ遊びに来ている子供は、親に連れられて帰っていく。


 イオルには迎えに来てくれるような人は誰一人いないのだ。


 夕暮れの公園で影を伸ばして遊ぶ。一人で帰り、あの人の帰りを怯えながら待つ。そんな毎日。


 でも、そんな日々は終焉を迎える。


 そう。ノボル。彼がイオルの孤独を救ってあげたのだ。


 彼はイオルの人生の中で初めて優しく接してくれた人だ。心を開けてもいいと思えるような人だ。優しい人だ。


 彼は私の代わりに、イオルにいろんな楽しい事を教えてあげていた。普通というのを教えた。そのおかげでイオルは明るさを手に入れた。


 イオルは誰からも相手にされず一人ぼっちで生きてきた。だから誰かに構ってもらえるというのはそれだけで嬉しい事なんだ。


 ――そう。


 イオルはノボルの家に遊びに行った事がある。あいつなんかよりよっぽど優しい親がいた。羨ましくあった。そしてこれが普通である。普通の家の温かさなのだ。つくづく痛感させられる。


 生まれて初めて食べるものや、遊びやゲーム。新体験なものばかりであった。


 イオルは本当に幸せそうだった。心境の変化だ。他人というのは自分を傷つけるものばかりであると思っていた。しかしそうではない人もいる。その事を学ばせてもらった。


 イオルはノボルの事が好きだった。恋愛的な感情よりかは、親しみを込めての好きだ。


 たとえどんな目に合おうとも、ノボルといられる時間があるのなら、それだけでどんなことでも耐えられる。嫌な事を紛らわせる事が出来る。


 やがて、二人だけの空間に一人が加わった。そう。透だ。君が入って来た。最初は警戒した。ノボルの友人であろうとも、自分にとって所詮は赤の他人である。だから、こいつも傷つけるのではないか、という恐れから警戒した。


 しかし、案外すぐに溶け込めた。


 ノボルといる安心感からだろう。そしてその一例があったからこそ、また仲良くなることが出来たのだ。


 この調子で保育園のやつらとも仲良くなれたらいいなとは思ってはいたが、やっぱり駄目だった。せっかく築けていた自信がそこで瓦解してしまった。


 まあ、それはあくまでも元から親しくない人と仲良くなれるという自信が損なわれただけであり、ノボルと透への信頼は揺るぎないものだった。


 でも、寂しくはあった。結局は自分を認めてくれないのだと。


 その中でも二人だけでも自分を認めてくれる存在がいるのは心強いことだった。それだけで希望を持てていた。


 それだけで救われていた。




「希望……か。そう思ってくれて嬉しいよ」


「イオルにとってはそれしかなかったからね」


「……それは雪華の希望でもあったのか?」


「まあ、そうかもね。私自身が干渉できはしなかったけど、それで満足していた」


「……」


「私は変わっているかもね」苦笑する。「まあ、イオルも変わっているけどね。もし本当にその希望を捨てたくないのなら、あの事について話さないものね」


「あの事って?」


「この能力ちからの事だよ。自分が虐げられている原因の一つであるこの能力ちから。普通だったら胸の奥底にしまっておくべきことだと思うよ」


「まあ、確かにな。だけど、オレは話してくれて嬉しかったぞ」


「それは結果論だね。でもまあお礼は言っておくよ。貴方達の言葉や気持ちには偽るなんてものはなかったのだから」


「しかし、どうして言おうと思ったんだ?」


「イオルなりの君たちへの試練だったんだよね」


「試練?」


「そう。もしくはお礼のようなものでもある。イオルはひょっとしたらノボルは一人でいる自分に同情しただけではないかと思ってね。当然その気持ちはあるだろう。しかし、そのノボルの本質を知りたかったのだ。まず自分の外側を受け入れてくれた。だけど、まだ重要な自分の内側を一つも見せていなかった。だから、見せかけの物をノボルたちに提示しているだけしかない。ちゃんと自分を出せていない。そう思ったんだ」


「だから、能力の事を話したんだな」


「うん。恐怖はあったよ。だって、自分の幸せを壊しかねないからね。よくもまあそんな勇気が出たものだ」


「成長じゃないのか?」


「ふむ。イオルは道のどまんなかで足踏みしていただけだった。でも、前に進んで歩く決意をした。成長なのかもね」


「オレ達……特にノボルと出会って、人と関わる事で進む勇気を持ち出すようになったんだな」


「私はそれがとても喜ばしかった。しかし、それと同時に恨めしくもあった……」


「雪華も、そうしたかったのか?」


「……」


「いわゆる、嫉妬か」


「私は一人ぼっちだった。唯一分かり合える子はイオル。ただ一人。もう一人の私であるその子だけ。その子にふられてしまった私は誰を頼ればいいと思う? 他の人には誰にも話を聞いてもらえない。ただ箱の中で叩くだけ。音はイオルによってかき消される。それなのに、当の本人は信頼できる他人を作り、一人から脱却しようとしていた。それは、許されるべきではない。自分だけ、美味しい思いをしている。私は妬ましくて仕方なかった」


「……」


「勘違いしないでもらいたい。私は嫉妬からあの事故を起こしたんじゃない。私は、こんな気持ちを抱いていたけど、イオルの幸せは誰よりも望んでいた。なぜなら、私が出来ない事をもう一人の自分に叶えてもらいたかったから。私は、それでよかったんだよ」


「だが、それは自分を押し殺しているだけに過ぎないだろ? いくらもう一人の自分だからって自分がそこまで背負う事じゃないだろ」


「私にどうしろと? 少なくとも私のちっぽけな頭の中で導き出された答えはそれしか出なかった。そうやって納得するしかなかった」


「そういうってことは、満足はしていないんだろ?」


「それはそうだよ。だって、私だって表に出たい。ずっと裏なんか嫌だよ。影の中でしか生きられない存在なんて無意味かつ無価値でしかない。イオルはいいよね。私より痛い目にあうかもしれないけど、それでも支えてくれる誰かがいて、希望がある。私なんか支えてくれる人さえもいない。希望なんてイオルが私に手を差し伸べてくれるぐらいしかなかったんだよ?」


「イオルはそんな自分をないがしろにしていたと」


「私は、少しでもいいからイオルに私の声を聞いてほしかった。私を見てほしかった。だけどイオルは私から背けた。あいつらと同じで恐怖の対象でしかなかったのだ。それが悔しかった。恨めしかった」


「……」


「そんな気持ちが蓄積していった。私には。その間にイオルは小さな幸せと、苦しみを蓄積していった。様々な思い出を、経験を累積していく。やがて、あの日がやって来る……」


 場面が変わった。最初に見たあの場面に戻った。


 イオルは体を折り曲げて震えていた。痙攣していた。床に胃液を撒き散らし、それに顔を浸している。満足に動くことはできていないようだった。


『まだ生きていたんだ』


 イオルの母親が冷静に言った。横たわるイオルに冷たい目をむける。見下す。その目は人を見るようなものではなかった。


『さすが化け物って言った所ね。生命力まで人外だわ。まるでゴキブリみたい』


 母親は弱っているイオルに殺虫剤を噴射した。顔色一つ変えずに。イオルはむせる。顔をうずめる。それを吸い込まないように息を止める。暴れる力は残っていない。ただ胃液を吐き出すだけだった。


「おい!」


 オレは母親を突き飛ばそうとする。しかし、体はすり抜ける。手は空を切る。オレは盛大に転がった。


「だから、駄目だって」雪華は嘆息する。「まあ、止めようとする気持ちは分かる。でもこれは過去だ。そして生きている。まあ当然だ。死なないのを分かっているでしょうに。どうして止めるの?」


「黙ってみているやつの方がどうかしている」


「そうね。確かに。どうかしているかもね。私は欠けているのだから。そういうのを冷静に判断できてしまう。悲しくて哀れな虚しい生物」


 母親はリビングへ場所を移動する。そして買ってきていたコンビニの弁当を袋から取り出し食べ始めた。


ちまちまと食べている。食があまり進まないのか。もしこれで進んでいたら精神を疑う。


 母親は半分ぐらい食べた。その時だった。ダンッ! と割り箸を机に叩きつけた。そして立ち上がる。弁当を持ってイオルの傍による。それから弁当をさかさまにする。重力によって具材が床に落ちる。さらにはイオルの顔面にぽとぽとと落ちる。それと、ペットボトルの水もさかさまにする。頭にそれを垂らすのだ。イオルは顔と髪がずぶ濡れになる。


 イオルは最後の力を振り絞り、それを食べる。飲む。床に転がる食べもの。こぼれた飲み物。それをわずかな首と舌の運動で補給する。ちまちまと。それは自分が吐いたものと混ざっていたにもかかわらずだ。


 イオルは涙をこぼした。嗚咽を漏らす。


「イオルは、歓喜していたのよ。一週間ぶりの御飯だから」


「こんなのでか? こんなんで喜んでいるっていえるのかよ。泣いてるんだぞ?」


「悲しみだけが泣くではないよ。この場合は、久々のまともな食事だから」


「これが? どこがまともなんだよ。床にこぼれ、汚い。健全じゃねぇよ」


「飢えの辛い所だね。腹に入れられたのが、これでもまともだったんだよ」


「でもな……」


 オレが反論しようとしていたところだった。母親の叫び声でそれはかき消された。


 母親はリビングへ行きテーブルにあったものを薙ぎ払った。絶叫しながら。


 ガシャン! とものすごい音がした。食器までもが割れた。


 机をひっくり返す。椅子をぶんなげる。息を切らす。手あたり次第何かを壁に投げ続けた。


 ぐちゃぐちゃになったリビングで母親は泣き崩れた。


『どうして……私は……』


 口元を抑えた。床をなぐりつけた。


「いったいどうしたんだよ」


 オレは困惑した。一方イオルは食事をしていた。


「イオルを飢えで殺すために一週間放置していたのに、生きていたことにショックを受けた。でも、理由は分からないが食事をあげてしまった自分に苛立ちを覚えていた」


「それって……」


 オレは浮かんだ考えを捨てた。こいつのやっていることは非道であることには変わりはない。


「イオルの父親は赤ん坊のイオルを見て捨てた。どうしてだか分かる?」


「……やはり、容姿か?」


「そう。イオルは生まれるはずもない姿だったからだ。白色の肌に紅い瞳。互いに日本人同士の血ではまず考えられなかった。でも、アルビノ個体に近いのだから、納得出来たのかもしれない。でも、捨てたんだ。あいつはおぞましい、とね」


「そんな理由でか?」


「うん。私たちの種族は突然変異で生まれるもの。それは誰に関係なく。だから異なっていても不思議ではない。でも、この夫婦はそれを知らなかった。それ故にもしかすると、不倫でもしたのかという懸念もあった」


「……」


「もちろん、それはないと抗議はしてた。だけど、聞きいれられない。こいつは浮気者の最低女と烙印を押され、最愛の人を失った。こいつがイオルを嫌う原因の一つだ」


「……」


「イオルがこのようにして生まれなければ、あいつ自身の幸せがずっと続いていくはずだった。新しい幸せを紡いでいけるはずだった。でも、それは出来なかった。失われた。そして、驚くべきことにその子供は人で非あらざるものだった。失望する。さらに絶望する。望みはもう絶たれていたんだ」


「そういう理由からイオルを……」


「同情した?」


「……いじわるだな。お前は」


「そうかな? まあ、透がどう思うかなんて透の自由だよ。私は何も言わない」


「……」


 オレは母親を見た。母親は落ち着いたようでゆっくりと立ち上がった。


 涙でぐちゃぐちゃになった顔はまさしく化け物のようだった。ものすごい形相だった。


 母親は鬼のような形相で、イオルに鋭い目を向けた。殺気だった恐ろしい目だった。


 母親はイオルの髪の毛を強く引っ張った。イオルは顔をゆがませた。イオルは無意識のうちに抵抗していた。弱弱しいものであった。だからそんな抵抗は無意味だった。


 髪の毛を掴まれたままイオルは顔をグーで何度も殴られた。唇が切れて血が出る。顔がはれあがる。イオルはただ殴られるままだった。痛む箇所が無情に増えていく。


 殴られる。蹴られる。そして踏まれる。


 無抵抗のイオルは格好の餌食だ。


 鼻を殴られて血が出る。痣が増えていく。そしてそれは徐々に消えていく。


「ふざけるな!」


 オレは叫んだ。でも、オレにはそれを止められなかった。どうしようも出来なかった。無力なオレがとてもちっぽけで惨めだった。


「お願いだ! こんな映像を見せるな! 止めろ!」


 オレは雪華に懇願する。しかし、その願いは聞きいれられなかった。


 続く暴力。イオルは虫の息だった。


 イオルを散々痛みつけた母親は息を大きく乱していた。肩で呼吸をしていた。上下に動かしていた。


 イオルはただの呼吸をするだけの生き物のようだった。顔は大きく腫れ上がり、あの可愛らしい顔はどこにもなかった。鼻の中で血が固まってしまっているのか口呼吸しか出来ていなかった。


 オレはひざから崩れた。


「どうしてこんなのを見せるんだ」


「事実だから。真実だから。それを透は見るべきだんだ」


「これはどう考えたって……」


「あいつは、自分の人生を滅茶苦茶にしたイオルが許せなかった。イオルはそんな責任も分からずに、こんなことを強いるこいつを憎んでいた。私は、私を一人ぼっちにするやつが恨めしかった」


 雪華は語りだす。


「ホラ。しっかり見て」


 雪華は指をさす。母親はイオルに馬乗りになっていた。そして両手で細い首を包み込むようにする。


「イオルは、この時死を感じていた。このままこいつに殺されてしまう。そう思っていた」


 グググ……と力が入っていった。


「イオルのこの時の心境は、私にとって理解しがたいものだった」


 イオルは無抵抗でそれを受け入れていた。


「イオルは、この時は『殺して』と、そう切に願っていた」


 笑っていた。微かに笑みを浮かべていた。母親はそれに気付いているのかどうかわからないが、首を絞める力を緩めない。むしろさらに強めていく。


「いや。当然か。ここまでされて死にたいと思わない奴がいないいね。しかし、私は嫌だった。死にたくなかった。殺されたくなんかなかった。イオルが死ねば私も死ぬ。誰にも存在を認められずに一人ぼっちのまま静かに消えてなくなる。消失する。私はそんなのは嫌だった。誰かに私を見つけてもらいたかった。優しくしてほしかった。その願いを叶える前に死ぬのは嫌だった。私は生きたかった」


 イオルが発光する。まばゆい光が照射される。反射する。その光にイオルは包まれていく。そして、みるみるうちに傷が治っていく。


「死。それは避けられない惨状。私はそれから逃れたかった」


 母親は恐れおののく。手をとめた。目の前の光景に、実の娘に恐怖をおぼえていた。


「イオルは死にたかった。でも、きっとこの気持ちはこの一時のものでしかない。なぜなら、イオルにはノボルや透がいる。友達がいる。その友達に会えばそんな気持ちはすぐに消える。だって希望を貰えるんだから。生きたいと思える希望を簡単に手に入れられるんだから」


 あとずさる。


「私は死にたくない。孤独を恐れたことにより。でも、それはただ孤独を長引かせる助長にしかすぎない。私は理解していたのかもしれない。だけど、私は……」


 イオルの体が宙に浮く。


「私は生きたかった」


 真っ白。赤く紅い狂気の瞳をしていた。


 母親は腰を抜かしていた。気が動転していた。


「イオルは無意識のうちに私を解放していた。死ぬ寸前で、私を閉ざしている鍵がとれてしまったのだろう。私はそれを利用して、箱から飛び出した。そして、強大な力を利用し、逆にイオルをその箱に押し込めた。そして私は初めて体を手に入れた。しかし、それの代償はあまりにも大きかった」


 そして、つぎに起こったことは、爆発だった。


 イオル……いや、雪華だ。雪華の周りに暴風が吹き荒れる。そして、そこに火気がはらみ、爆発へと姿を変えていくのだった。


 部屋は燃え盛る。


 爆発の衝撃で母親は吹き飛んだ。玄関に突き飛ばされた。


 意識はあった。そして必死に逃げる。ドアを開けて、はだしのまま外へ逃げ出した。


 雪華は燃え盛る炎の中でそれを追いかけた。悠々と。


 雪華が外に出ると母親は階段を駆け下り終えていて、『助けて!』と叫びながら誰かに助けを求めていた。そして道路に出た。


 雪華は飛ぶ。ひらりと。軽く。普通に。そして母親の目の前で着地した。衝撃は特になかった。スッ。と。音もなくゆっくりと自然に道路に立った。


 その時だった。雪華に向けて車が突っ込んできた。


 雪華は片手をそれに向けた。能力を使って止めようとしたのだろう。しかし、車は何もせずに自然と曲がっていった。そして、前方を走っていた車と衝突した。


 雪華は腰を抜かして泣きわめき、助けをこう哀れな母親を見ていた。あの時と立場が真逆だった。雪華は母親を見下していた。


 雪華は突然苦しみだした。暴れまわる。のたうち回る。頭を抑えて、もがき苦しむ。


 どこか別の場所が爆発した。人々が宙に浮く。雨のように破片が辺りに降り注ぐ。


 そして、ここからは、雪華の殺戮が始まった。


 それは暴走のようなものだった。もはや、自我などはなかった。ただの破壊神だ。破壊をする為だけに存在するようなものだった。


 阿鼻叫喚の地獄絵図だった。火の海。絶叫。悲鳴。流れる血。散乱する肉片。この世の物とは思えなかった。


「これが……私の犯した罪。ここは地獄。私はそこへ人をつき落としたんだ」


 雪華が話し始めた。


「……私は、言い訳はしない。現に、このように現実としてあるのだから。過去は消せない。だから私はここにとどまる」


 オレは衝撃が強すぎたせいか言葉を失っていた。


「私には何もない。唯一ある過去がこれだよ。世に出てきた過去がこれ。私という存在はいては駄目。だから、イオルの中で静かに眠っていた」


 オレは息を深く吸ってはいた。気持ちを落ち着かせる。


 目の前ではまだ暴れていた。そのシーンがずっと続いていた。


「私は止める事が出来なかった。もう自我を失っていた。ただ、溢れだしたそこの力を存分に利用していた。今までの鬱憤を晴らすかのように。イオルもこれは出来なかった。イオルでさえも怒りや憎しみは溜まっていた。私とイオルの二人の積もった負の感情を晴らすかのように。私は暴虐のかぎりをつくす。だけど、それは終焉を迎えた。思わぬ形で」


 一人の少年が近づいていった。頭から血を流し、腕を抑えて、おぼつかない足取りで危険を省みずに暴れている雪華の元へやって来るのだった。


「こいつは……まさか……」


 オレは前に出た。そしてその少年を凝視する。


「そう。彼はノボル。たまたま、ここに来ていた。そして……」


 ノボルは何かを言っている。聞き取れなかった。騒音のせいで。ゆっくりと近づいていてく。危険地帯に自ら飛び込んでいく。


 ノボルは雪華の前に来た。雪華は後ろを向いていた。ノボルは手を伸ばす。差し伸べようとする。だが……。


 ノボルは吹き飛んだ。振り向きざまに体の上半身を吹き飛ばされた。下半身だけが地に立っていた。


「私は、無意識のうちに近づくものを攻撃した。背後に誰かの気配がした。私は敵を排除するために攻撃した。その攻撃を繰り出したちょっと後に私は気がついた。誰が近づいてきたのかを。知っている人だった」


「……」


「私は、ここでハッとした。意識を取り戻した。それと同時に力が弱まっていった。失速していった。私の意識が遠のいていく。私という存在が薄くなっていく。せっかく体を手に入れたのに、私の意を持って操れたのはわずかでしかなかった。私はぼんやりする意識の中吹き飛んだノボルの上半身の元へ向かった。そして、そこで意識が途絶えた。プツンと。私は箱の中に戻っていた。入れ替わるようにしてイオルが箱から抜け出す」


 雪華はバタン、と倒れこんだ。数秒間動かないままだった。そして、その後「うっ……」と気づいた。それは雪華ではなく、イオルに戻っていた。


 イオルは周りを見る。惨状を。変わり果てた場を。そして目を大きく見開き絶叫する。


 イオルの目の前には好きだったノボルの見るも無残な死に姿があったのだ。イオルは絶望する。悲鳴を上げる。叫びまくる。延々と。


 イオルは吐き出した。道路にぶちまける。


 這う。這ってノボル体に頬をすりよせた。冷たかったのだろう。温かみがなかったのだろう。イオルは抱きしめる。そして泣く。


「イオルはどうしてこうなってしまったのか理解できていなかった。ただ、気がついたらこうなってたんだ。そして、友人の死体が転がっていた」


 イオルは茫然自失だった。ふらふらと立ち上がる。その目には生気はなかった。狂気のようだった紅い瞳は失われ、色も何もなかった。そこにあったのは絶望に打ちひしがれて黒ずむ、汚れた哀しき瞳だった。


「イオルは真っ白になった頭であたりを歩き始めた。わけがわからなかった。現実を受け止められなかった。そして、そうしていると、車の中に見知った顔の人がいるのがわかった。イオルはもしかして、という不安を抱きながらそこへ歩き出す。イオルは、発見してしまう。また見つけてしまったのだ」


 オレはこれをおぼえている。自分の記憶の中でもはっきりしていることだ。オレはそこで意識を取り戻すんだ。そして、親の亡骸を見て、絶望していたんだ。その時、外でオレを見降ろす誰かを見た。


「その少年は、イオルを「化け物」と呼んだ。白濁とした意識の中で。イオルは後すさる。その言葉を聞いて。頭を何かでかち割られるような。それぐらいの衝撃を受ける。イオルは、ここで、この現状は自分が引き起こしたのだと悟るのだった。イオル自身は、そうでないのに。そうであると、信じてしまった」


「……」


「イオルは震える手で透に触れた。そして、自分に関する記憶を消し去ったんだ。自分の事を化け物と呼んだからじゃない。自責からだった。そしてある意味逃げだったかもしれない。自分のイメージを壊したくなかったからかもしれない。イオルは透のこれからを考え。記憶を封印した……」


「じゃあ、記憶がなかったのは事故の所為じゃないのか」


「五分五分ぐらい。だって、封じた記憶以上のことを忘れているもの。だから事故の事は関係はある」


「そうか」


「うん。そして、イオルはその場から逃げ出した。何もかもを失い、去っていった。もう、二度と元には戻らないあの日々に、人に、想いをはせながら。そして、自責の念を抱きながら。走り去っていったんだ……」

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