第3話 死んだも同然

 この降って湧いたような音色の煌めきに再度見舞われたのは、僕が滑り止めで合格した私立高校を一か月足らずで退学し、何をするでもなくひとり自室に閉じこもっていた時のことであった。まだ春の気配が感じられる薄い陽光に、ラベンダーのすっきりとした香りが窓から舞い込んできた六月初旬のことである。


 僕は自室のベットに仰向けで寝転がり、見るともなしに動画サイトを眺めていた。それは誰でも無料で見ることのできる高名な投稿サイトであり、それを仕事に金を稼ぐ人もいるくらいの大きなサイトであった。

 僕は昼夜問わずただそれを眺めていた。〈見る〉ではなく〈眺め〉ていたのだ。WatchではなくSeeである。〈眺める〉ではなく〈ただ目に映っているだけ〉という表現が一番適切なのかもしれない。


 なぜそんなことをしているのかというと、いやこれは決して僕が怠惰な人間であるとかそういうわけではないのだけれど、この時の僕は極度に、病的なまでに身体が動かせなかったのであった。尿意や便意を伴う場合を除いて、僕は全くベッドの木柵から身を起こそうとしなかったのである。そしてその原因はやはりあの、三か月前に志望校を落ちてしまったという悲惨な陰鬱から生じたということは言うまでもないのだ。


 三月の下旬、合格発表から三日経たずして卒業式が行われた。空一面に光を通さぬ厚い雲がむんむんと滞る中、体育館には在校生と卒業生が犇めきあい、別れを惜しむ最後の校歌を歌っていた。


 僕にはそれがまったく耳に入らなかった。耳というよりも全体に、身体に力が入っていなかった。僕の身体はあの時の、封筒を開いて「不合格」と書かれた通知書を貰ってからというもの、全ての物事に対して力という精神が働いていこうとしなかった。不合格と判明した直後の突発的に生じたあの一時的な衝動も、下り列車の座席に座ってからはぴたりと止んでしまい、それからは憤怒も悲哀も興奮も、何も降ってこなかった。不感症のように感情が働くことを止めてしまったのだ。

 その不調を自覚することなく僕は卒業式を迎えていた。校歌を終え着席し、舞台の中央に構えられた教卓の前に立つ校長が祝いの言葉を述べ拍手が鳴ると、後方の来賓席から微かに女のすすり泣く声が聞こえる。隣に目をやると、普段クラスで粗忽者を演じていた野球部の角刈りが声を出さずに泣いている。顔に似合わぬつぶらな瞳から雫が溢れ、その情景が掠めるように僕の中に落ちていく。あの時の悔恨、不甲斐ない自分、戻れない過去の記憶が目前に現れても、それを発端に情が湧いてくることはなく、僕は無の感慨で卒業式に臨んでいたのであった。


 けれどもやはり卒業式とあって、感情の奮起に勤める回想の姿が、僕の頭に幾度となく浮かんできたのは、ちょうど在校生の言葉が終わり、卒業証書授与に移り変わったタイミングであった。


 それまで、木目調の床材に向けられていた僕の目線が、「佐倉実里」という担任の言葉で起き上がる。彼女の式典のために彩られた装い。華やかなブレザーの胸ポケットに付けられた桃色の造花、鬢から首筋にかけて持ち上げられた編み込みの髪、後頭部の高い位置でそれを束ねているクリーム色の髪飾り。普段より赤味がかった頬の上に、長い睫毛を携えた輝かしい瞳が、より一層何かを迫りたてるみたいに僕の目前に浮かんでくる。すると僕の動かなかった感情が、ことりと音を立てて擦れるような気配が現れた。


 僕と彼女の終焉―恋い慕ってきた佐倉実里というひとりの女子生徒に対して。僕はこれほどまで熱情を費やしたことがあっただろうかと独り言ちていた。ただ一心に、彼女のことだけを追い求めてきたこの半年、同性間の付き合いも忘れるほど熱中したこの陶酔……煌めく笑顔を振りまいて証書を受け取る彼女の横顔がぼやけると、石化した塑像が音をたてずに崩れていく。僕は精巧な彼女を抱きかかえると、足元に散らばった破片を逆手でかき集める。割れたのが足だけなら、まだ修復は間に合うと、肩を抱きよせながら欠片を探し出す。仮に彼女と離れても、何も同じ学校ではなくとも遠距離でいいではないか。そう脳裏を掠める言葉と一緒に、彼女の欠けた薄片を必死になって寄せ集める。


 あ、っと何かの瞬間に右手が離れると、コマ送りの映像が目前に広がる。手を出す術もなくそれは音を立てて砕破し、見るも無残な彼女の姿に僕は慄いている。修復不可能なまでに散らばった彼女の塑像……スポットライトを浴びた破片の散らばりの奥に、Aと腕を組んで歩く彼女の姿が闇の中にふと現れ、自分の存在など気にせずに奥へ奥へと消えていく。蒼白した顔の内からひしひしと、熱い劣等感に似た不快感が募り上げてくるが、弱気な内省がそれを抑制して声を上げることができない。苦いものが腹から込み上げてる。薬草と挫折を練り合わせたような酸に思わずせき込んで、口から喉音が出てこないことに気が付いた僕は、束の間の幻影にすっかり陥ってしまったことを自覚する。


 けれど今度は、彼女ではなくAの姿が映る。感覚という概念がないから、目測で五メートルくらい先に刈り上げられた頭髪が窺える。紛れもなくAだ、と浮かんだ言葉が直ぐに玉砕して消えていく。闇の中に再び彼女が現れて、親密そうにAと手を取り合っている。二人の顔はぼやけてよく見ることができないが、それは限りなく明るい二人の未来を暗示しているかのように、暗黒を突き破り進んでいく悦びの光を放っているように僕には思われた。


 その場に立っていることも辛かった。僕は担任の点呼で壇上へ上がり、校長のいる中央へと歩を進めたが、力のこもらない足先はぶるぶると震え、顔は蒼くなるばかりである。左右に取り付けられた大照明の光が全体を包むと、僕は向かい合って証書を受け取った。


 紙を持つ気力を、僅かながらも持っていたことに驚く。両腕ははち切れんばかりに蠕動し、笑顔で迎える校長の頭髪の白さだけが、ぼんやりとした視界に映る全てであった。下げた頭を起こすことも儘ならない状態で、右端の階段へよろけながら歩いていくと、下りる前の一瞬、姿勢を正して親の顔を眺めろと言った担任の声が蘇る。


 それは練習の際に、何度も担任の口から出たものであったから、殆ど身に入っていない僕の身体にも、無意識のうちにそれが現れていた。僕は舞台の右端で顔を上げると、最後の力を振り絞って背筋を伸ばし、両腕を腿のあたりにぴたりとくっ付けて、体育館の最後尾に位置する保護者席の黒い群衆から母親の顔を探した。


 が、煙幕のように膨大に撒かれたフラッシュライトの閃光が、僕の薄弱寸前の身体を、脳を刺激して傷つけた。すると今まで白けて見えた視界にバアッと夥しい光の粒。光線が槍のように僕の身体に突き刺さり、闇の中に落とされたような崩落。目の前が暗くなり僕はその場に倒れた。意識がなくなる瞬間、前席中央に位置する彼女の三白の眼が、大きく開いたような気がした。


 やはり僕の身体は合格発表を聞かされた時分で限界だったのであろう。不合格を受けてからというもの、僕の筋書きは白紙に戻されただけでなく、その紙ごと消えてなくなってしまった。無になってしまったのだ。それは十五という短い生における青春期の恋情、劣等、苦悩、混乱、自信の全てが、僕を鼓舞し続けた情熱のすべてが、あの時からめっきり姿を見せなくなり、今まで何気なく過ごしてきた生活をも脅かしたのであった。即ち僕の極限状態だった精神は、彼女との別れを持って永遠に姿を見せることはないと、再び起き上がることは無いと思って沈んで行ってしまったのである。壇上に倒れ込んだ僕は全身の力が抜け、平衡感覚の無い闇の中に引きずり込まれたような心持で意識を失っていた。僕は闇に差し込む濃淡の目まぐるしい動きを感じ、そのまま光を求め彷徨い続ける亡者となって、一生を終えなければならないと本気で思った。闇に紛れる前の微かな陶酔……その心地よさに、生死の縁を少し味わったような気分で渦の中に吸い込まれていったのであった。



 その後、保健室で目を覚ました頃には卒業式はすっかり終わっていて、僕は重い瞼に薄暗く浮かび上がるカーテンの波に揉まれて、そのままどこか遠くへと飛んで行ってしまいたいという衝動にかられたが、連れていかれた大学病院では貧血とだけ診断され、ホッとする母親の顔を尚も沈んだ顔で見つめる他なかった。今頃友人らは華々しく打ち上げを行っているだろうと、盛大な宴会を脳裏に描いてみるものの、やはりそこには夥しい量の光の渦が蔓延っていて、闇と化した僕の存在を消し去ってしまうように感じられ、思うように足が進まない。トイレに行くからと言って母親と別れ、右折した突き当りに位置する個室に閉じこもり、誰かから連絡が来てはいないかと携帯を開くと、二時間前に一件だけAから着信がきていることに気が付く。


 その意外性から少し吃驚し、他にも連絡がきてはいないか、着信ではなくともメッセージを残しているのではないかと、必死になって探ってみるものの、やはり連絡をくれたのはAだけであり、僕の最後の綱もぷっつりと途切れたかとしばらく放心する。壇上から見た彼女の晴れ晴れしい姿が脳裏を掠める。すると、再びあの時の慄きに似た悪寒が襲ってくるのではないかと心配が募ってきて、それをひとりで耐えなければならないと考えるだけで更に辛くなってくる。保健室を出たばっかりに、僕の中学生活は壇上で倒れた記憶を最後に終わってしまったのかと、今更ながら別れというものが実感を伴って襲ってくる。孤独で惨めな現状がこの上なく嫌になってきて、僕はどうしてこんな病院のトイレなんかに一人でいるのだろうかと明瞭に自覚したのも束の間、熱い涙が静かに頬を伝ってくる。


 外からの冷気が空っぽな僕の身体に染み入って、もの悲しさが哀れに思えてくる。なぜこんなことになってしまったのかと自分を責めたてる気力も乏しくなってきて、大声で喚き叫び出したい衝動も頭に浮かんでくるだけであり、行動を起こす前にそれは萎えて消えてしまう。研磨された大理石風のタイルの、白が黒を覆うようになだれ込む幻想的な彩色が、僕の内部のように混沌としている。誰か側にいてくれたら……僕は僕を知る全ての人物の誰かしらが、今僕の隣にいてくれたらと強く願っていた。それは普段の装った気の強さがあっけなく剥がれ落ち、露になった自尊心を包み込んでくれるような抱擁、温かさを求めていた故に出てきた弱音であり本心であった。けれど今、叫び声をあげたところで何を変えることができよう。結果として僕は卒業式で気絶した腫れものであることに変わりはない。晴れ晴れしい門出の場で醜態を犯した僕の側にいてくれる人など、誰一人として存在しないのだ。ただ僕は、叶えられない願望を胸の内に抑え、苦しみから湧き出る甲斐性のない涙をぼろぼろと零すことしかできないなのだ。



 こうなってしまった以上、僕に残された手立ては全て無くなってしまったも同然で、僅かにある希望というものは、新たな舞台で自己を再構築していく。つまりは高校入学を期に心機一転、自分を改まろうと考えたわけであった。


 冬の寒さがまだ身体の至る所に残っているかのように感じられる篠突く雨の中、自宅から一時間半かけて出席した入学式は風のように過ぎ、趣の消えた校門までの桜並木は、週明けの登校日になっても黒ずんだ花弁を煉瓦調のタイルに張り付いてきまりが悪い。そんな高校生活第一週で、僕は運命的な再会を果たす。


 担任による学校説明や自己紹介が淡々と行われている中、僕は自分の右斜め前に座る女子生徒の顔が気になって仕方がなかった。丸みを帯びた頭の全てを覆いつくす黒い髪、特徴的な耳の形、やや猫背でほっそりとした肩幅。以前どこかで出会ったことのあるその顔立ちに、僕は彼女がこちらへ振り向いてはくれないだろうかと、延々と続く担任の単調な物言いなど聞き耳を持たず、ただ一心に、斜め前の女子生徒の横顔を眺めていた。


 事実、その女子生徒と顔を合わせるのは初めてではなかった。それは僕が併願校である第二志望の私立校(入学したこの学校のことである)を受験する時まで遡る、通された教室に入り受験番号の書かれた座席に着いた僕は周りに従って、とりあえず第一科目である英語の頁を繰っていた時分であった。

 試験前とあって、教室一帯は真夜中の水槽のように静かであった。等間隔に配置された座席に受験生がそれぞれ座っており、各々がテキストやノートに視線を落としている。崩した達筆で書かれた時間割の教壇にはまだ試験官は現れておらず、開け放たれた廊下からの風の音と生徒らの頁を繰る摩擦音だけが僕の耳に流れていた。


 着席時刻の五分前に彼女はやってきた。後方ドアから静かにスカート揺らし、鞄に付けられたウサギのキーホルダーが小気味よく跳ねていた。俯いた視線のまま手元の受験票と机の上端に付けられた番号札を見比べて、足の止まった席というのが僕の隣であったのだ。


 その時、僕は早く試験が始まらないかと待ちくたびれていた。なぜなら僕は、受験開始四十分前に学校へ着いてしまったからであり、その理由というものも、僕は秋から第一志望である県立S高校のことばかりに意識が集中して、ほとんどの生徒が受験する併願校のことなど眼中になかった。そのため、他校の説明会や文化祭などに訪れることなく、なんとなくS校と偏差値の近い私立校を滑り止めにするようにと、担任の言われるままに従って願書を提出してしまったからであった。


 駅からかなり歩くと伝えられていたので、余裕をもって早めに家を出てしまったのが根本の原因である。確かに担任の言う通り急勾配の坂の上にあったから、余裕をもって学校へ着くのが正解であるのだが、それは御年の六十の貧弱な担任の足だった場合であり、勢力旺盛な男子中学生の足では余るほどのものであった。そのため僕は待ち時間の殆どを昼寝に費やすことになった。けれど組んだ腕を力なく机に付け、頭を下げてみるが、こういう時に限ってなかなか睡魔は訪れようとしない。何度目を開けても秒針は一回りしか進んでおらず、仕方なく教科書を開いてみるものの、開けた頁はもう幾度となく繰り返し読んた見知ったものであり退屈まぎれにもならない。僕はただ二月の薄白色の空に伸びる灌木の枝分かれや、そこから一斉に飛び立つツグミの夥しい群れを眺めるしかなかったのだ。


 そんな僕の白け切った瞳に映ったのが彼女であった。後ろから臆面もなく堂々と入ってきた彼女は足早に僕のいる列へと進み、番号を確認しながらコツコツと近づいてくる。振り乱れる黒髪が、近づくにつれ芳醇な香りを散らしているような気がしてなぜだか落ち着かない。彼女は僕の左隣の席に腰を下ろすと、手際よく鞄から筆記用具、消しゴムと数本の鉛筆をハンカチに包み机上に置いた。その時だった。


 トイレにでも行こうと思ったのか、席を立ち上がろうとした弾み幕板に足を引っ掛けてしまい、ボオンというを跳ねた音と共に全ての鉛筆が床に落ちてしまったのだ。桃色のハンカチに包まれていた鉛筆たちは四方八方に散らばり、受験前の張り詰めた教室一帯に木片が床を踊る弾音が反響すると、一瞬それまでとは違った緊張に受験生全員が包まれた。


 雪が溶けるような静寂。一秒にも満たないその出来事に彼女は我を忘れたのか、目の前が真っ白になり全てが終わってしまったかのように転がった鉛筆をただ目で追っていた。緊張がその動作からも伝わるように、輪郭を縁どる伸びた前髪が僅かに揺れ、彼女の赤みがかった頬の色が、みるみるうちに上気していくのが分かった。


 その呆然自失した姿に何とも居たたまれぬ気持ちになった僕は、後ろに転がった鉛筆を拾い上げ彼女の机に戻してあげたのだ。本来同じ教室に居合わせたからには、本校を希望する敵同士、ライバルではあるのだが、奇しくも席が隣になってしまったからには、やはり見過ごす気にはなれなかったのである。


 僕が鉛筆を机に戻した頃には彼女も平静を取り戻したようで、静かに転がった消しゴムを拾い上げると、僕の顔を見つめ申し訳なさそうに会釈した。

 整った顔立ちであった。入室した際には髪が顔全体を覆っていたために見ることのできなかった容貌が、面を向かい合わせた時に初めて、その白く横長な顔立ちに、薄く伸びた眉。冬の冷気の立ち込める張り詰めた教室に首をもたげて咲き誇る鈴蘭のように、その楚々とした謙虚さを美しく思った。目が合った一瞬微笑んだようにも窺えた彼女の澄んだ双眸は、その後試験が終わるまで僕の頭に焼き付いて消えなかった。


 立ち込める雲の隙間から茜色の日差しが舞い込んできた時分に、試験官の「止め」の令が鳴ると、小言もほどほどに試験は造作なく終了した。僕は確かな手ごたえを噛みしめて教室を辞し、そのまま玄関で靴を履こうとしたしたところで背後から右肩を突かれる。


 彼女が立っていた。驚いて頓狂な声を出した気がする。彼女は眼を細くして微笑むと、「さっきはありがとうございます」と慇懃に礼をする。「いやいや、大したことじゃないよ」とはにかみを抑えきれぬすまし顔で昇降口を出ようとすると、彼女は僕の肩に手を置いたまま「あの……」と小さく呟いた。


「家から近いですか?」


 上目な双眸は夕日に光っていた。


「ううん。遠いけど」


「だったら一緒に帰りましょうよ。わたし、ひとりで来たので帰り道が心細いんです」


 淀みない時間だけが過ぎていた。僕は彼女を後ろに連れ立って、普段よりも歩幅を小さくし、できるだけ遅く足を動かした。佐倉実里と下校をするときの陶酔とは違う、肌に着く空気の質が重いように思えた。けれどそれは、自然の恵みを吸い込んだ時の爽快感のように、会話が弾むにつれ徐々に薄れていったのだった。


 それから月日が流れた今。無念にも入学してしまった滑り止めの高校の、しかも同じ教室で、彼女と運命的な再会を果たしたというわけである。ただ一度きり、本入試で隣り合わせた女子学生が、共に就いた帰路でそれぞれの境遇を初々しく話し合った相手が、奇しくも今目の前で退屈そうに担任の話を聞いている彼女なのであった。


 僕はこの彼女との奇跡的な再会をまさしく運命だと感じずにはいられなかった。それは慕い続けてきた佐倉実里という女性の、実らずに散ってしまった恋慕を何時までもうじうじと引きずっていた僕にとって、まさに天から降ってきたような邂逅であった。あの日教室で僕に見せたはにかみの微笑。それはただ、試験前の緊迫を裂いた後ろめたさや恥ずかしさから生じたものでは決してなかったはずだ。その証拠に、帰り際に自ら声を掛け、礼を済ませた後、二人で帰ろうなどと言い出すのは、少なからず好印象を抱いた相手ではないと難しい筈である。それを彼女は、さも昔からの知人みたいに自ら話を振って、優しいほほえみを終始絶やさなかったではないか。僕が拙く過去の事柄について語っても真剣に相槌を打ち、柔らかな眼差しは絶えず僕の瞳の一点に集中して離れなかったではないか。初対面の異性に対してこれほどまでに心を打ち解けているということは、やはり教室でのあの瞬間から僕に好意を抱いたに違いない。いや間違いないのだ!


 一連の僕の激しい誇大妄想は、佐倉実里に想いを告げることなく沈んでしまった鬱憤を晴らす目的としてはこのうえないものであった。事実、卒業してからというもの、彼女から連絡が来ることは一度もなかった。中学時代は何度も語り合い、昼夜問わず談笑した記憶がまだ残るなか、卒業と共にそれはパッタリと途切れてしまったのである。


 そうなると、もう僕の中に未練など残っていなかった。やけくそだ。僕は春休み中、彼女から連絡がこないかと待ちわびていたのだがら、それは尚更であった。僕はひとり自室に閉じ籠り、何をするわけでもなくただ天井を眺めている。すると思いがけず彼女の姿が目に映り、もう忘れた過去なのだからと、そのまま別の空想に想いを馳せてみるのだが、それは消えようとせずに尚も鮮明に浮かんでくる。僕はしがらみがら抜け出そうと大声を出し自分を鼓舞する。けっ、なにが恋愛だ、青春だ、高校生活だ!そんないち人生の僅かな期間で何が楽しめるというのだ!所詮大人に憧れている子供の戯れではないか!ああ恥ずかしい!


 声を出す清々しさとは裏腹に目に映る彼女はAに変わる。途端に憤怒が伸し上がり、語気も強まる。へっ、僕が落ちて嬉しいかよ。せいぜい少ない高校生活を楽しんでいればいいじゃないか!僕なね、もう大学受験の勉強を始めているんだよ!君たちのピークはここで終わりだけど、僕の未来は明るいんだ!何てったって一流の企業に就職するんだからね!


 僕は半狂乱になっていた。勝手に慕い、勝手にフラれたというだけなのに。まるで彼女の見る目がなかったかのような物言いで捲し立てた。すると僻み嫉みが後からあとから湧き出てきて、口腔をすっぱい酸のような液体で満たされる。苦しみから逃れる術を知らないものだから、他人を蹴落とすことを考えずにはいられなかったのである。


 けれど表ではそうして強がっていた虚栄心も、やはり勢いだけの一過性のものに過ぎず、時が経てばまた彼女との、あの蠱惑的なひと時を想い出してしまうのだった。美術室準備室の暗闇で触れ合った肌の感触、帰路の途中で抱き寄せた柔らかな温もり。どの情景をとっても、それが生きてきた中で最大の幸福だったように不覚にも思えてくるのだった。そして過去に対する回想が深まるにつれ、現状の何もない自分が余計に虚しくなり、どこからともなくツーンと刺激臭が鼻奥を流れると、それが何かの合図のように止めどなく涙が溢れてくるのだった。


 僕はただ己を慰めてくれる存在、優言を述べてくれる存在が傍にいてくれるだけでよかったのだ。佐倉実里という想い人の代わりを求めようとしたのではなく、彼女に対して抱いていた情熱、それを受け止めてくれる存在というものを強く欲していたのだった。僕がどれほどキミを想っていたことか、その想いはついぞ叶うことはなかったけれど、それに対する何か賛美の言葉があってもいいではないか、褒めてくれてもいいではないか。恋愛は損得の問題ではないとわかっていながらも、日夜問わず現れてくる彼女の幻影に悩んでいた僕にとって、心を安らげてくれる存在、聖母のような温かな抱擁を求めずにはいられなかったのだ。それはやはり佐倉実里という一人の女性に対して抱いた強烈な思慕、燃え盛る炎のように一途に想い続けてきた証拠であろう。だからこそ、僕はこの行き場のないエネルギーの終着点を探し苦悶していたのであった。値が張って手が出せずにいた本を購入しても、生理的な情欲に身を任せてみても、それは場しのぎにしかならず、むしろ不満は溜まっていくばかりである。そのため一番効果のあった腹の内を全て曝け出す、つまりは思ったことを躊躇せず声に出してしまおうという方法が、幸いにも錯乱しつつある己を休める最善ではあったのだが、幾度となく続けてきたこれももはや崩壊寸前で、僕の不安定な情緒は春休み中ついぞ治まることがなかったのである。


 そんな鬱憤を募らせ憂悶としてきた僕にとって、この奇跡的な邂逅はまさしく天からの恵みと思わずにはいられなかった。苦しみから逃れる方法というのは即ち、新たな対象を見つける他になかったのだ。そのため本受験の際に出会い、思いがけず学校で再会を果たした彼女という存在は僕にとって最適な人材であり、佐倉実里を忘れるにはちょうどいい相手だったのである。


 休み時間になり、各々が席から立ち上がって次の科目の準備を進める時分に、彼女はようやく椅子から腰を上げ、足早に廊下へ出ていった。トイレにでも行くのだろうかと、帰り際を計って踊り場の角の隅に立っていると、三階から上がってきた彼女と目が合う。


「あ、あの……」


 咄嗟に目線を合わせることができなかったのは、階段から上がった彼女がまるで僕がそこにいることを知っていたみたいに平然とした微笑みを向けてきたからであり、心臓の高鳴りが、想定していた緊張の上を超えていった。


「ちょっと今、いいかな?」


 何とか滑り出た言葉を直ぐに飲み込んで、尚も微笑み続けている彼女は「久しぶり」と落ち着いた様子で僕を見つめている。


「覚えてるの?」


「当たり前でしょ。クラス名簿が渡されたときに真っ先に探したんだから」


「じゃあ、入学式の前から僕が同じクラスだってわかってたってこと」


「うん」


「なんだよ。それなら先に言ってくれればよかったじゃないか」


 ようやく安堵に似た陽気がむくむくと湧いてくる。僕は彼女と微笑み合ったまましばらく互いの近況を言い合い、授業開始二分前の予鈴が鳴ったところで教室へ戻ろうとした。


「連絡先、交換しない?」


「いいの?」


「うん。だって不便でしょ」


「それもそうか」


 僕はその時初めて彼女の名前を知った。乾紀美子。ほっそりとした白い腕に赤い掻き跡が窺えた。


 その日以来、僕は彼女と幾度となく連絡を交わし、昼夜構わずメッセージを送り合った。佐倉実里に対して行ったことと同じように、目が合えば必ずこちらから話しかけ、授業前の中休みでも会話に参加するよう心がけた。帰り際を計って一緒に駅まで歩こうと誘ったり、夜更けまで電話を繋げていつまでも語り合ったりした。過去の彼女との記憶を消すことはできないが、それを忘れるくらい乾紀美子に対して夢中になればいいではないか。僕は終始それが最善だと信じてやまなかった。そのため再三脳裏に浮かび上がる佐倉実里を想う苦しみから逃れようと必死だったのである。すると初めは、興味半分に抱いていた乾紀美子への想いも、やがて形にするには充分な質感と現実感を伴って襲ってきた。僕は彼女に対して好意を抱いていたのである。


 入学してから二週も過ぎた木曜の昼休み。僕はいつものように彼女と昼食を取ろうと席を立ちかけて辞めた。彼女が席にいなかったからである。


 本来ならトイレにでも行ったのだろうと、その場で幾分か待ってみることが通常なのだが、その時の僕は何かに焦っていたのか、気を押されてその場に居座っていることができず、直ぐに教室を飛び出して女子トイレのある三階へと向かった。何か行動を起こさなければ気が済まないとでもいうように、足を動かしながら携帯のメッセージ履歴を確認し、彼女から何も連絡がないと分かると、そのまま廊下をずんずん進んでいったのである。


 三階踊り場左に女子トイレはあった。階段を下りた僕は昼休みでごった返すフロアを縫い、人のいない窓際の支柱に凭れると彼女がトイレから出てくるのを待った。周囲は男女構わず話し合いの場のようになっていて騒がしい。人目を憚らず大音量で音楽を流す者、五限目の小テストに備えて問題を出し合っている者、地べたに蹲り昼食を摂る者など様々で、皆自分以外の他人に興味がないようであった。


 天井のシミをしばらく眺めていると女子トイレの声が壁越しに反響して聞こえてきた。周囲の者は自分を中心に音が漂っているが、対象を待たぬ僕は音のひとつひとつが鮮明に、明確な意図をもって聞こえてくる。トイレ奥から発せられるその声に意識を集中させ、澄ました先に響く聞き覚えのある声に思わず吃驚した。女子生徒特有の鼻に掛かる高い声。その声は乾紀美子のもので間違いなかったのである。

 僕はその、普段とは違う雰囲気を持った彼女の声色に不穏な何かを察し、支柱から身を起こし踊り場を離れた。胃の奥がきゅうんと声を上げて不快感を齎すと、内部の情景が鮮明に映ってくるのが怖かった。途端に目の前が女子トイレの内部に変わると、彼女と数名の女子が楽しそうに雑談をしている。確かに彼女は僕の名を言った。それもただの呼び方ではなく人為的な、不自然な嘲笑を含んだ語気で僕の名を呼ばなかったか……


 僕は不穏な勘から彼女と顔を合わせるのはまずいと感じ、咄嗟に角際の支柱に凭れて体制を整えた。生徒の嬌声で溢れている踊り場では、僕の存在など目につくことなどありえないのだけれど、その時何故だか人に見られてはいけないような、奇妙な後ろめたさが身体全身を回っていた。先ほどの声……あれは確かに乾紀美子の声だったはずだ。けれどなぜ、彼女が僕の名を呼ぶのだ。それもトイレという閉鎖された空間で……嬌声に似た高い声色を伴って呼ばれた僕の名と、その後に続いた女子生徒であろう笑い声の響きに良からぬことを察した僕は、この場を離れるべきか、それとも確信が持てるまでその場に留まるべきかと悩み立ち竦んでいた。いや彼女に限ってそんなことあるはずがない。彼女は僕にとって救世主なのだから……


 三人の女子生徒を連れて乾紀美子がトイレから出てきた。中央で笑う彼女の両隣には、知人であろう他クラスの女生徒が丁寧に手を拭いて何かを言っている。角から耳をそばだてると、どうやら新任である体育科の教員に言い寄られているらしく、煩わしくも粗雑に語っていた。乾は知人の話に終始笑みを向けて頷いていた。すると次の瞬間、確かに僕の名が呼ばれたのだった。


「それって、まるでアイツみたいじゃん」


 目の前が真っ白になった。と思えばすぐさま光は失われ、墜落機の如く焦燥が胸を打っていた。幾月か前の、Aに志望校を聞かされた際の絶望が再び身を包む。それまで溜めていた苦しみ、腹の疼き、胸中の想いが、彼女の言葉を期に濁流の如く放出される。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 フロアに蔓延っていた嬌声の矛先が一遍に僕へ向くと、白けた視界に乾紀美子の点になった眼だけが浮かんでいた。


 そういう経緯があって僕は学校を辞めたのである。

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