第2話 高校受験

白い靄のかかった青空の、薄明の光が僕を照らしていた。冬枯れのうら寂しい坂道には、午前十時に合格発表を迎える学生の揺さぶった心情が、校舎の真横に茫洋と浮かび上がる波浪の音と重なって、僕の実感を伴わぬ心情を刻々と映し出していた。


別々に発表を見に行こうと言い出したのは僕からだった。二月十四日の本試験が終わった後、受験生は学校に集まり自己採点をすることが毎年の通例で、県立S高校から帰ってきた僕とAはその足で学校へ向かい、閑散とした教室につくと問題用紙を開いた。

「これが最後の勝負だなぁ……」

何気なくそう呟いたAの口元から白い息が零れていた。僕はその言葉で何故だか身体の力が抜けるような倦怠を覚え席を立つと、

「悪いけど、今日はもう帰るよ。気分が良くないんだ」

と素っ気なく言い放って帰り支度を始めた。

「いいのかぁ?もう最後なんだぞぉ」

「ああ、それだったらお前の勝ちでいいよ。俺は何だか燃え尽きたみたいだ。家に帰って、じっくり採点してみるよ」


Aの返事を聞く前に廊下を出るとそのまま階段を下った。昇降口から吹き荒れる下冬の粒子が耳を撃つ。先ほど家に帰ると言ったばかりに、今、目まぐるしく蠢動している目的への道筋が、煌々と輝いて見えるのはなぜだろうかと、鼻腔に入り混じる汗と風がゆっくりと喉を伝うのを感じている。何者かに導かれるように昇降口を出、空と同化した校庭に浮かぶ下級生の球拾いに会釈して足早に校門へ向かうと、深紅色のマフラーから垂れる黒髪の眩い光沢が目に留まる。門扉に凭れかかったひとりの少女がこちらに気づくと、霞んだ太陽を打ち負かすように、無邪気な笑みを向け敏捷に駆け寄ってくる。

「できた?」

彼女の第一声は晴れ晴れとしていた。僕は「まあまあかな」と言った風な微笑を浮かべ彼女の隣に立つと、鞄から朱色の御守りを取り出して顔の前に掲げた。

「鶴岡で買ったんだ。渡しそびれてごめん」

子袋の上端を握る手が震えた。年の暮れに約束した出来事を今更掘り返すのは野暮なのではないかと、誰かの囁きが聞こえる。けれど僕の不安は杞憂に終わった。彼女は笑顔のまま僕の手から子袋を受け取ると、自分も鞄からセロハンの薄い小包を出して僕の手に乗せた。

「ありがとう。でも、ちょっと遅いよ」

「ごめん」

彼女の笑みに中々焦点が合わなかった。目の前に掲げられた藍色の御守りが透けたセロハンに光っていた。僕はぎこちなく笑って彼女の手から御守りを取ろうとして躊躇った。


セロハンから透け出た藍色の御守りにAの顔が映っていた。いつもの顔貌からは想像できぬ彼への畏怖は、僕の温まり始めてきた内奥を枯らす勢いで浸透し、大海原となって経脈を突き破って進んでいった。初めてAから志望校を聞かされた際の、あのいつまでも輝きを失わない先天な瞳の輝きが目の前にあったのだ。



この逡巡する僕の気持には、彼女と秘なる関係には達していないものの、順調な足取りで着々と関係を構築する段階に入っている現在を脅かす、大変危険な現象であった。なぜなら僕は、彼女との現在の終焉―恋人ではない曖昧な関係―を卒業式の後の花形アーチを潜った門の前で行おうと考えていたわけであり、その華々しいい終焉を迎えるにあたって、互いの志望校合格という前段階は確実なものでなければならなかった。けれど今、僕の脳内に浮かんだAという一抹の不安は、昨年から受験勉強で黙殺されてきた僕の危ぶい精神状態を、彼の志望校を聞いたあの時のものにまで捲し上げてしまったのだ。AがS高校に合格してしまったらどうしよう。いや、それだけならまだいい。問題は彼女とAだけが合格を掴み取り、僕一人だけが落とされてしまったら……そうなれば、僕の完成しつつある彼女との関係も、輝かしい高校生活も全てが台無しになってしまう。望んでいた未来。それは僕と彼女だけの秘なる空間が永遠に続くことであり、邪魔者は許されないのだ。僕は卒業式の晴れ晴れしい舞台までスプリングしてくれるロイター板のような扱いをAに任せることができなかった。なぜなら彼は知っているのだ。僕が彼女に好意があることを……


ここで読者は重要な事に気づくだろう。何もAが彼女を狙っているとは限らないだろうと。そして仮に三人とも同じ学校に進学したとしても、僕と彼女の関係というのは崩れ落ちることはないだろうし、当たり前のようにAが彼女を奪う前提で話が創られているのは甚だ不自然だ。主人公は被害妄想の激しい精神異常者ではないだろうか、と。


そう、まさにこの時の僕は精神異常者であった。頭の中といえば、我武者羅に詰め込んだだけの使い物にならない受験知識が三分の一程で、残りの全ては佐倉実里という一人の女性に占められていたのだ。色気狂いならぬ恋気狂い、極度の恋愛依存症のような状態に僕は陥っていたのだった。


やはりあの美術室での出来事があった以降、僕の中で彼女という存在は自我の範疇を超え、ヴィーナスのようにその肉質的な塑像が常に目前を漂っていたのであった。それは思春期の男子においては当然の結果であり、三年間の全てをバレーボールに捧げてきた己の爆発寸前の欲求が、麗らかで柔らかな一人の女性に対する抗いがたい恋心となるのは必然であろう。日中、教室で他愛もなく話すことのできた精神が、家へ帰るなりにどうしようもなく力が抜け寂しさが喉元を上がり、発狂しそうになるのを何とか抑え目を瞑ると、闇の中から青白い腕が伸びてきて、掴み取ろうと必死に藻搔いてもその手を握ることができず、幻想の中でも己は小心なのかと打ちひしがれて煌めいた俗世に戻ってみるものの、待ち受けているものは果てなく続く夜空と絶望に似た倦怠だけであり、身体は動かぬが何やらめらめらと仄明るく燃え上がるものだけが頼りで、それを夜じゅう見失わずに抱え込みながら、自失した胸が止むまで声を出さずに嗚咽するという経験を、もう幾度となく繰り返してきた僕にとって、彼女との寸前の未来は待ち焦がれた業火のように激しく、緩やかに弛んでいなければならなかったのだ。


二人きりの帰路は一か月ぶりであるにも関わらず僕は終始俯いて歩いた。隣で彼女の語る世間話は風のように耳を突き抜け、こめかみを擽る寒風は鼻水に反響した。気分が良くないと白々しく言い放った先ほどの言動が徐々に実感を増して胸に迫ってくる。彼女の赤くなった鼻先が妙に生々しくAの顔に投影して消えない。あと一か月近くこの苦しみに耐えなければならないのかと考えるだけで涙が出てくるのは、僕の中で彼女という存在が本物であるという証拠だった。一歩前を歩く彼女は不審そうに僕の顔を窺っているようで、それを「大丈夫だよ」と無理に笑みを浮かべて答えても訝しむだけだ。僕は尚もポケットに両手を突っ込んで黙って進む。もうすぐ春が来るというのに、街並みはどこか荒涼と煙った気がするのはなぜだろうか。前を行く巡回バスの白い排気ガスを眺めながらそんなことを考えていると、突然彼女の柔らかな右手が眉上に被さる。


「平気?熱はないみたいだけど」


笑顔で言い放つ彼女を思わず抱きしめたくなり唇を噛む。一瞬、電撃の走ったような震えが筋肉を縮ませると、内から仄温かくなるような肌の感触にハッとする。これほどまで柔和な安息があっただろうかと、驚愕と感動が入り混じった放心がじわじわと身体に染みるのが分かった。それは蟠りが解けたような開放感で、充足した安らぎを齎すように全体をしばらく膠着させると、何かの均衡が崩れたのか、いよいよ止めどなく涙が溢れてくる。


情けない、本当に情けない。心の中でそう何度も呟きながら僕は静かに泣いた。僕は本当にどうしようもない奴だと。女性の肩を借りなければならぬほど号泣しているというのに、それを彼女に見せまいと意地になっている心がまだ残っていることに、己を殴りつけたくなるほど憤怒がのし上がってくる。興奮して力の入る芯を解すように甘い香りが彼女から漂っている。この複雑な、言語化することのできぬ気持ち。どう現わしたらよいのかわからないこの気持ちの終着をどこに求めればよいのだろうか。濡れた目尻に凍てつく風が通り過ぎ、淡い西日は僕には眩しすぎた。すぐ横を通る自動車の風の軋みがガードレール越しから伝わって、肌寒い爽快感が背を擦った。通行人の沈んだ視線をものともせず、僕はずっとこうしていたいと心から願った。僕の鬱屈とした荒んだ気持ちを和らげることができるのは彼女しかいない。彼女の午後の陽だまりのような抱擁は、僕の根底に持続して潜み、幻影のように輪郭だけ幽かに浮かんでくるAを堪えてくれるのだ。安らぎと憤りとが拮抗して徐々に重くなった頭を彼女の肩に預け、僕はしばらくそうして泣き続けていた。



緩勾配の坂の中腹辺りに警備員が立っていて、受験生はこちらですと棒を振っているのが目に入った。午前十時五分前の校舎の周辺には、学ランやブレザーを纏った黒い塊が列を作り、俯いた表情で皆無言で歩いている。緊張の息を吐きだした僕は最後尾に並び、前に続いてよたよたと歩を進めていると、突然急な突風が学生一体を包み込んだ。鼻腔を擽る海風の塩の香りが顔中に膨らみ、僕は萎えていたものがわなわなと屹立するような抗えぬ闘志をその時感じた。何気なく風の吹いた先へ顔を向け、瞠いた先に浮かんだのはAでも彼女でもなかった。大きく堂々と。そして全てを無にしてしまう……


初めてS高を訪れた際に目にしたあの壮大な海の情景が僕の前にあった。民家の集まりや若葉の芽生える木々の頭上にどっしりと、陽を湛えてその海は僕を見守っていた。水面の息づくような煌めきが、一キロほど離れたこの坂からしっかり確認できた。駅舎の上に何羽か野鳥が止まり、澄んだ青空に羽毛の一片がひらひらと舞い落ちると、緑色の車体が黒い塊を乗せてホームへ吸い込んでいった。すると途端に、それまで目につくことのなかったものが、実感を伴って僕に押し寄せてきたのだ。それは木造の平屋に洗濯物を干す主婦の無造作に束ねられた髪留めだったり、庭先の岩に身を寄せながらタバコを吸う老人の丸眼鏡だったり、塀の上から出てきた白と茶の野良猫の首元に付けられた鈴だったりと、それまで気にすることのなかった昼間の喧騒が、一斉に僕の身体の中へ流れ込んできたのであった。


街路樹の茂みにぽつねんと咲く躑躅の激しい紅、水道工事へやってきた浅黒い作業服の一群、自転車に混じって立てかけられている錆びた手押し車。半目を開けて昼寝するセントバーナード、郵便受けの前に立つタバコ屋の半開きのシャッター、横断歩道を渡る黄色帽の少年たち、何気ない生活の一場面なのだが、何故だか僕の心に染み入ってそれは離れなかった。潜んでいた町の情緒が、生き物が、僕の目によって一斉に動き出したかのように思えた。それはこの一か月間待ち望んでいた、彼女との未来を暗示するかのように、静かに僕の心に広がっていった。


合格発表までの期間を僕は存分に楽しんでいた。それまで受験という魔物に縛り付かれていた精神が一挙に解かれ、体内に潜んでいたエネルギーが爆発した。この日を以って受験生は呪縛から解放され、自由にそこかしこを飛びまわることができるのだ。僅かな登校日の殆どは、卒業式練習に費やされる半日授業で、それが終われば休日も同然、生徒らは駅前に繰り出して騒ぎ燥いで精を発散させた。大声を出し、指笛を吹き、朗らかに笑いながらそこらじゅうを駆けまわった。彼らは「自由」という語句の意味をその時始めて知ったのだった。


僕も友人らとささやかな打ち上げを行い、その足で映画を二本立て続けに見、買いそびれた漫画を大量に購入して余暇を過ごした。友人と熱海まで小旅行へ行ったりもした。刻一刻と近づいてくる終焉など気にせず、存分に羽を休めてまどろんでいた。これほどまでに充実した時があっただろうかと、焼けて痛む肌の心地よさに陶酔していた。彼女のことも忘れてはいなかった。受験直後のあの醜態を見せてからも、僕と彼女は何度か言葉を交わし、知人同士で遊ぶ機会も持ったが、彼女は特別変わったような素振りは見せず普段通りに振る舞っていた。その行為が、僕の中で合格発表という終焉をより膨らませる結果となったのは、柔和な笑みに潜んだ彼女の翳が、ふとした瞬間に焦らすような光を向けているためであり、僕は何度も口を滑らしそうになりながら、それを冷めた微笑で返すしかなかった。


Aと関わることも僕は辞めなかった。部活の送別会が早くに行われ、三年生の八人全員が祝福の拍手で迎えられると、先頭に立つキャプテンと、副キャプテンであるAが後輩から花束を受け取り、華々しく感謝の言葉が述べられた。


Aは初め、出席した三年の保護者ひとりひとりに感謝の言葉を述べると、次に監督とコーチ、その次に下級生と、徐々に語調を柔らかくして親しみやすく話していた。彼の両親は笑顔でそれを湛え、涙を滲ませる者も中にはいた。話が終わると、監督は真っ先に手を叩き、下級生らは満面の笑みで祝福していた。あまりにも滑らかに催しが始まったものだから、三年である僕らは慣れぬ拍手に何となくむずむずするような恥ずかしさを覚え、各々がそれを悟られぬように微笑で囃し立てていた。


監督やコーチ、下級生からの祝福の言葉が終わると、保護者の制作したチームビデオがスクリーンに映し出された。それは入部したての一年次から、キャプテンの母親が大会毎に撮影したもので、スタメンの六人が中心に映っているものの、ベンチである僕の他数人の姿もあった。流行りのポップに乗せ、一枚一枚スライドショーのように流れていく写真の中に、思いがけず作為的な変顔が映しだされると、出席者全員の笑いが狭い教室に響いた。


こんなこともあったなあと懐古していると、プツりと中途半端なところで映像が終わり電気が付けられる。不思議そうに皆が母親の方へ顔を向けると「これで終わりなのよ。下手糞でごめんねぇ」と半笑いで返され、尚も教室は笑いの渦に包まれる。


和やかなムードで終始行われた送迎会の最後に、卒業生全員が保護者と記念写真を撮ることになっていて、スタメンである六人が前方で中腰になり、ベンチである僕ともう一人が顧問とコーチに挟まれるかたちで後方に立っていた。するとキャプテンの隣にいたAがいきなり「お前もこっちにこいよ」と言って無理やり手を引っ張る。驚いてされるがまま僕はAの隣に陣取り、そのままシャッターが押された。


口を開けたまま硬直していた僕をAは優しく抱き寄せた。これまでの感謝と苦労をねぎらうそのハグは、腹の底からざわざわと熱いものを込み上げさせ、それは不信と感慨の両方を携えて僕に襲ってきた。


「今までありがとう」


僕は唇を強く噛んでいた。微笑も忘れて力を失った騎士のように硬直していた。Aの囁きがいつまでも耳奥で反芻して消えなかった。ただ彼の熱くなった身体と肉質的な上膊に支えられながら床に視線を投じる他なかった。彼への今までの行動が幾重も交差して脳内を過ぎていく。一年次から共に励んできたバレーボールの写象が風のように流れては、その上に彼の喜怒哀楽な顔貌がくっきりと浮かび上がった。けれどその、場面場面をつなぎ合わせたようなAの虚像は、いつしか彼女の翳となって暗闇に紛れて消えていった。


つまるところ僕は、Aと最後まで親友にはなれなかったのである。彼の温厚で誰にでも親切な人柄や態度に僕は何度も支えられてきたのだが、結局それは激しい劣等感となって僕を苦しめた。彼の副キャプテンという肩書や、後輩の女子生徒からちやほやされる彼を僕は妬んでいたのである。


そんな悩み苦しんでいた僕の前に現れたのが佐倉実里だった。彼女はその美しさを人前で曝け出すことなく深々と、内に秘めた可憐さを赤みかがった微笑で表していた。素っ気なく交わらされた会話の端々に気品のある、けれど無邪気さを忘れない初々しさを持って僕を迎え入れてくれたのである。


そんな彼女に僕が好意を持つこともやはり必然だったであろう。三年次という最終学年で巡り合えた天使は一瞬で僕の心に浸透し、その後の輝かしい未来をも抱かせたのであった。彼女を誰にも渡したくない。そんな猟奇的じみた想いは課題に黙殺されつつある受験期に、どれほど己の郷愁を襲い苦しめたであろうか。女性に対する恋情を確信したのもこの時が初めてであった。


だからこそ僕はこの想いを、誰にも邪魔されずにゆっくりと育んでいきたいと思ったのだ。受験に合格したその後の未来というものは彼女以外ありえないのだ。彼女と共にして歩く通学路、海、何気ない街並みの一端を思い描くだけで、それが煌びやかに見えてくるのだ。その点Aという存在は、僕と彼女に生まれつつある抱擁を亀裂させる恐れがある。彼のような美男子なら尚更だ……



校舎が開かれると列は徐々に前へと進んでいった。校門を抜け細い石畳の通りを抜けると、海風でほとんど朽ちている用具入れの前に「受験生はこちら」と矢印が描かれている。体育館と校舎を繋ぐ屋根のついた通路を跨ぎ、校庭の広がる南側へ右折すると、紺色のスーツを着た教頭らしき人物が昇降口へと誘導している。中へ入り、靴を脱いで二階へと上がった。


文化祭と受験日の二度しか来たことがないのに、何故だか校舎を漂う古風な香りが僕には懐かしく思えた。踊り場のガラスから透け出た光が埃を映し、静かに散っていく様が何とも残酷に映った。廊下に上がると生徒らの列ができていて、最後尾である端の教室へ長い廊下を歩かねばならなかった。

僕の前にかなりの生徒たちが整列していて、口を開ける者は誰一人としていなかった。皆神妙な顔つきで目線を宙に浮かせ、前の人の背中についていくだけなのだ。そこには細長い机が教室の前に置かれており、持ってきた受験票で番号と顔写真とを照らし合わせ、本人だと確認が取れると教室へ案内されるという仕組みであった。


教室には封筒を持った教員が待機している。確認を終え、番号が呼ばれると封筒が渡される。これはその場で中を開いてはいけない。すぐに教室から出て廊下で中身を確認しなければならないのだ。


二十分ほどすると受付の机が見えてきた。中年らしき女の教員が忙しく受験票と本人とを照らし合わせている。流れ作業のような冷たい手つきが廊下を漂う張り詰めた息をより一層際立たせている。僕は何気なくそれを見やりながら、高まる心臓の鼓動を抑えようと目線に集中していると、ちょうど封筒を持った男が教室から出てきた。


それはまぎれもなくA本人だった。夏前には坊主だった髪はすっかり耳元を隠し、三白な瞳は普段より大きく見えた。僕が直ぐに声をかけても笑顔で返してくれそうな、いつも通りの彼であった。


彼は持ち手とは逆の手でドアを閉め、列の途切れた廊下の端まで付くと、静かに息を吐いて天井を見上げた。それが何かの儀式であるかのようにそっと目を瞑ると、そのまま茶封筒の中身をサッと引き出した。


彼はしばらく用紙から目を動かさなかった。普段の表情のまま固まって息をするのも忘れているようだった。僕の中で五分ほど時が流れ、次の生徒が教室を出てきた頃、彼は顔を上げて突き当り横の階段へと歩を進めていった。


階段から先は運命の分かれ道であった。封筒の中に合格と書かれていたものは上の階へ、不合格と書かれた者は下へと決まっていた。Aの封筒にどちらが書かれていたのか僕は判別できなかった。ただ階段に足を突く細やかな音だけが廊下に反響して聞こえた。彼が入学手続きをするために三階へ上がったのか、はたまた不合格で帰途を余儀なくされたのかは、その足音からはまったくわからなかったのである。


三十分ほど経てようやく僕の番が訪れた。前述通りの手順で番号と顔を合わせられ、女教員の冷たい声で教室へ案内されると、そこには五人の教員が簡易戸棚から茶封筒を手探っていた。


僕は教室へ入った瞬間から、それまで味わったことのない悪寒に見舞われていた。それは眩暈とも吐き気ともつかない込み入った寂寥で、血管の伸縮と身体の震えが止まらなかった。早春の気配など一切感じられない肌を突く冷気は、それまで当たり前のように動かしていた手足の感覚を鈍らせると、目の前を霧のように白けさせ、締め切ったカーテンの裾から零れる僅かな太陽が、まるで絶望の淵に立たされている人物が、一縷の希望を求めて足掻き祈っている情景を僕に映し出していた。その幻惑を振り払おうと何度別の観念に想いを馳せてみても。例えば彼女との淡い美術室での時分や、絶えず励んだ部活動について何度思いを膨らませてみても、何ものをも覆いつくす闇の塊は脳へと広がり、僕の意気消沈とした気持ちは晴れなかったのである。


前の生徒に封筒が渡され僕の番になっても、しばらくその場所から動くことができなかった。教員らが不思議そうに僕を見やり、ようやく名前が呼ばれたところで意識を取り戻し、受験票を渡すことができたのだけれど、その間にも体内から滑る汗が止めどなく溢れ出てきて僕を締め付けた。番号と封筒を確認し、白髪の生えた中年の教員が僕に封筒を手渡したところで、今度は悪寒ではなく緊張の波が押し寄せてきた。


半年という重みが僕の背中に深く圧し掛かってきた。積み重ねてきた努力の翳が何度も背を打って神経の至る所に傷を作っている。自信という名の矜持の脆さを痛感する。僕はあとどれほど立っていられるだろうかと、持った封筒を震える手で抱え込み廊下へ出た。


つい先ほどよりも静けさの増したように感じられる廊下の、列の途切れた突き当りまで白い道が続いている。青白い電灯の放射がスポットライトのように僕の頭上を照らし、手を添えた茶封筒の翳までもがくっきりと目視できるその位置に立って、僕はこの世のすべての音が自分の鼓動だけであるという錯覚に、胃酸がじりじりと口腔を満たしていくのを感じていた。


パッと何か白いものが大きく浮かんだような刹那、呪縛から解き放たれたのか、それとも一瞬の緊張の弛みから這い出たのか、僕は封筒から通知書を取っていた。薄い一枚の、どこにでもあるコピー用紙。上部に「合否通知書」と太字の文字と今日の日付が書かれている。その下に細々と数行の説明が書かれてあるのを読み飛ばし、幾行かの空白の下に自分の名前と受験番号が確認できた。その右に書かれている言葉が、僕のこの半年の成果、彼女との待望の未来なのだ。


「 不合格 」


ああ。ああそうか。ああ。意外にも冷静にその文字を確認することができた。途端に目の前の時が緩やかに流れ行くのがわかる。僕の眼に正常な光が戻り、耳に入ることのなかった喧噪。並んで待つ生徒らの小声、雑務に励む教員の咳払い、窓を打つ海風の切るような響きが一斉に僕の身体に流れた。


冷たい風が誘導するように僕を一階へと導いていた。ぼうっと蜃気楼でも眺めている心持がする。浮遊する感覚が徐々に世間離れした人物のように行動の一端を荒くさせる。校庭へ続く石段を踏み外す勢いで駆け下りた僕は唐突に走り出していた。

風が鳴っていた。彼方まで続く海と空の霞がかかった淡さを吸い込んで、身体中の疼きが一度にやってきたように咆哮を上げて走っていた。鳥肌へ覆いかぶさるように電流が流れると、体内に起こったエネルギーが動け動けと命令を下していくのがわかる。右足左足と意識しなくとも、現役な感覚神経は肢体に筋肉を宿らせ、血潮の吹き出しそうな激流が体温を上昇させるのが心地よかった。


―どうして、どうしてだよ―


校門へ列を作る受験生の黒い塊が絵の具のように溶け出て、僕の背中を撫でるように通り過ぎていった。ビュンビュンと、梢を通り過ぎる流れの掠りが一直線に続いているようだ。薄明の目前に漂っているものは速すぎる〈時の流れ〉のみで、光を追う僕の方が止まっているのではないかと錯覚に陥っている。いやいやそんな筈はないと、道路を隔てる門扉に半身をぶつけ、金属の痛い痛しい響きが町中を轟かすと、僕は自分の身体が最高潮にまでHIGHになっていることに気が付いた。


―おかしいじゃないか。こんなこと―


道路から最寄りまでは坂を下るだけになっている。行きよりも明るくなり、人の往来が増しつつある街並みの向こうに、青々と海が漂っている。


―やめろよ。そんな目で僕を見つめるなよ―


横を過ぎ去る全ての人が僕を責めているような気がする。主婦に学生にサラリーマン。黒いカローラにハスラーの中古。レール横のタンポポや名前のない雑草まで。僕の行い、生き方、人生、その全てを否定し責め立てている。皆一様に懐疑な目を向けて汚く罵っている。開いた口から零れ出るその言葉を、僕の荒い息遣いが消し飛ばしていった。


―僕が何をしたっていうんだ―


拭っても拭っても涙が止まらなかった。ぶつけた左足の痺れが今になってじんじんと響いてくる。僕は生れたままの、生き物に帰ったような気持ちで坂を下っている。鼻や目から溢れ出た漿液が顔中で踊っている。向かい風の道、突き抜ける冷気、静かな太陽、そしてどこまでも続く蒼い空と海。


―全て僕のせいなのか―


その時、僕の心に凛と輝かしい音色が響いた。雫が落ちるように唐突に。そして他の感覚を寄せ付けずに奥へ奥へと。空いた隙間を満たしていくように浸透していった。

それをきっかけに、僕の中でそれまで続けてきたリズム、生きる上で何気なく続けてきた感度が、その神秘な音色をきっかけに崩れ去って行ったのであった。


―だって、だって……



だっておかしいじゃないかオレは彼女を想って一心に勉強に励んできたんだそれなのにどうしてこんな不甲斐ない結果になっちまうんだよえぇ?オレが勉強を怠ったからかぁ?それは違うだろぉオレはなぁ少なくともオマエなんかよりもよっぽど勉強してきたんだよ寝る間も惜しんで課題に取り組んだんだよそれなのにどうしてどうしてこのオレの純な気持ちを踏みにじるんだよ邪魔なオマエがどうして受かってオレが落ちなくちゃいけないんだよバカみたいじゃないかこんなに人を想って好いて落ちるなんてまるでオレがバカみたいじゃないかぁ!


音色を中心とした大きな衝動が僕の中で駆けまわっていた。

その音色は、吐き出された僕の言葉の数々を煌めかせ、汗や風と共に徐々に体内のエネルギーとなって足を動かせた。まるでそれが、僕の普段から備わっている機能のように。忽然と現れた音色の響きが、崩壊寸前の精神を奮い立たせる気概となり、僕の中で嵐のように芽吹いたこの感覚が、今後忘れることのない快感に繋がっていくのであった。


けれどその快感は、当時の悲痛な心の叫びを超すことは無く、僕はただ前へ前へと進み続けることこそが、己を慰める最善だと思って、眼前の輝かしい海を眺めながら一心に走り続けていたのであった。

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