熱情

なしごれん

第1話 彼女との出会い

熱情


息をするのも億劫になるほど、自分を責め立てたことはあるだろうか?スローモーションのように辺りを掠める人家の流れが波のように逆らって、風の音は心臓の滾るような血の熱さに震えたち、茜色の空に飛び立つムクドリの羽ばたきが嫌に鮮明に聞こえる。


僕は息を切らしながら走っている。ハアハアハアハア。乾いた向かい風が逆流した喉元を通って胃に落ちると、それが何かの起爆剤みたいになって足先に血が巡る。自分でもどうしようもないと分かっていながらも首を揺らし、腕を回し、けれど足だけはしっかりと、地に着く実感があるのが甚だ不思議だ。


自分がどこにいるのかもわからない。何を目指しているのかわからない。ただ無心に足を動かしているに過ぎないのは、走馬灯のように頭へ駆け巡る様々な記憶の断片が、ひとつの塊になって襲ってくるためで、それを単純明快に言葉で説明するためには、今の僕の脆弱な精神状態からでは到底無理な話なのだ。ただ僕は、自分の内部を占めている汚い存在というものを、〈走る〉という行為で有耶無耶にしているだけではないのかと、半ば錯乱しつつある脳に何とか問いただしてみるるものの、行き詰まった喉の奥からは残暑の粘った液体が込み上げてくるばかりで、それでも何故だか歩みを止めない自分に甚だ怒りが募ってきて、言い訳の文言が滝のように再度脳裏に過っても、それが明確な意思を持たずにただ流れ落ちて行くのを不快に思いながらも、それが秘かに快感になっていることを認めぬわけにはいかない自分が憎たらしい。


この新鮮で鈍重な感覚には何度か覚えがあった。一度目は僕が高校受験に失敗した時で、二度目はそれから半年後、僕が高校を辞めて引きこもった後であった。


その時の事を想い出すと、もしかするとあの時の絶望が今の自分を成す転機だったのではと、快然に思ってみたりもするのだが、深く掘り下げて記憶を辿ってみると、もう二度とあのような地獄を味わいたくはないと拒絶反応のように身体の震えが止まらなくなるものだから、こうして言葉を綴ることを最後にして、この忌まわしい記憶とはおさらばしたい。


公立の中学に通う当時の僕は、活発な生徒とは言い切れぬものの、人並みの付き合いというものは絶やさない至って普通の中学生だった。一年時になし崩し的に入部してしまったバレーボール部を八月で引退し、体育祭の準備で浮足立っている九月の校内に足を踏み入れると、そこは受験勉強に勤しむ生徒らの巣窟だった。


元来、僕はテスト直前にありったけの知識を詰め込んで、補習を逃れることさえできればいいと思っていた質で、内申点が直接影響する高校入試の制度など、担任の口からは再三出ていたものの、その度に左から右へと流れてしまい、まともに頭に入ったことなど一度もなかった。授業中考えていたことと言えば、専ら深夜に放送している青年アニメや巷で話題の漫画についてなどで、たまに放課後のバレーボールが脳裏を過ることがあるのだが、それも鬼のような形相の顧問が体育館へ訪れはしないだろうかという不安に繋がるもので、直ぐにまた彼方の空想へと己を飛ばしてしまうのだった。


そんな学校生活を日々送っていたせいもあり、僕の学校の成績は地の底ギリギリを、何とか留まっている蜘蛛のようなものだった。周りの友人やチームメイトは、早めに塾や家庭教師などを付けて学習する習慣を身につけていたが、引退試合が終わるまで一日一日を奔放に生きてきた僕にとっては、事の重大さを悟った時は既に遅く、自覚したものは今手に持っている自分の、限りなくゼロに近いという実力と、刻一刻と近づいてくる、あまりにも残酷な受験までの期日だけだった。


母親に塾に通うことを告げその日から受験勉強に取り組んだ。けれどいざ自室の机の前に座ってみても、何をすればよいのかわからない。今まで授業などまるで聞いてこなかったものだから、何から手を付ければよいのか全く分からないのだ。それに加え、普段教科書などを読まないものだから、開いたページの数行に目を通しただけで、眩暈に似た吐き気を覚えてきて、鼻をかんだり、足を組んでみたりなどして、全く集中することができなかった。


ここでもし、僕が友人を通じて勉強法を教わろうとするなどの、現状の打破に勤める試みがあれば、多少は結果も違ってきただろう。が、教科担任に間違えを指摘されても何食わぬ顔で空返事をし、うじうじといつまでも心の内に溜めて置く癖のある依怙地で小心な当時の僕は、とりあえず習慣を変えてみただけでも大きな進歩のように思えて、入塾するまでの一週間は教科書とノートを机に開き、安堵しきった表情でクルクルとシャープペンシルを回していただけで満足していたのであった。



そんなプライドの高さが仇となって、僕は入塾して初めて受けた全国模試で恥をかいた。向かい風の冷たくなる十月の初旬、僕が集団塾に入ってから二週目に行われた塾内模試である。


同じバレー部でクラスも一緒だった坊主頭のAの紹介で、その塾に入ることを決めた僕は、それまでとは想像もできぬほど勉強にのめり込んでいった。数英国理社、総合力で合否を下す高校受験に置いて、どの教科も落とすことのできぬ重要な教科であったが、入塾して数週間もすると得意不得意が顕著に表れてくる。


英語や数学などの、基礎的な学力を伴っていないと太刀打ちのできぬ教科は、そのまま得点に繋がることはないと感じ、中々やる気を起こすことが難しかった。反対に覚えたことがそのまま点数に直結する歴史や生物は、それはもう砂金か何かを探し出すみたいに教科書の隅から隅まで目を通し、頭の中で反芻し、唇が渇くまで呟いてみたりして、短期間でも得点源と呼べるまでに成長することができた。


そんな僕の急成長ぶりを、いつも隣で授業を聞いていたAは不気味がって、「おい、どうしてそんなに理社ばかり取り組むんだよ」と訝しそうに呟いたことがあった。

「どうしてって、そりゃあ点数が取れるからだろう。見ろよ、このページを全部覚えればそれだけで五〇点分だぜぇ」

僕が面白そうに教科書を掲げてみても、彼は口を噤んで苦笑をするばかりで、それからは僕がどんなに参考書を眺めていても、横から口をはさむことは無かった。



模試当日、開始時刻の一時間前に教室へ到着した僕は、ボードに貼ってある自分の座席に着くと、鞄から筆記用具と歴史の教科書を取り出して、もう幾度となく読み返してきた弥生時代の説明に目を通していた。すると入口からAが入ってきた。

「よお」と目を合わせず返事して、そのまま満足げにペラペラとページを捲っていると、目の前の席に腰を下ろした彼が「おい」と僕に向かって呟いた。


「勝負しようよ。自信あるんだろ?」

やけに自信に満ちた張りのある口調だった。

「いいよ。そのかわり、俺が勝ったらコンビニで好きな物奢れよ」

僕は勝利の光が目前を通り過ぎたような気がして何度も瞬きをした。彼とは小学校からの付き合いで、中学三年になって初めて同じクラスにはなったものの、部活動で毎日のように顔を合わせている、言わば親友のようなものなのだった。僕は彼が、隣のクラスの睫毛の長い木賊さんを好きなことを知っているし、反対に彼も、僕が右斜め前の美術部で保健委員の佐倉実里に好意を寄せていることを知っている筈だ。


だからこそ僕は、開始直前にAから持ち出されたこの勝負を快く承諾したのであった。彼はクラスの中であまり頭のいい方ではないという事実は、もう幾度となく繰り返された校内模試で知っていることだった。

「五教科の総合点。終わったら自己採点をするから、冊子に答え書いておけよ」

「わかった」


この時の僕はそれはもう興奮しきっていて、早く問題が解きたくてうずうずしていた。俺がAに負ける筈がない。直前の校内テストでも、俺は安逸をむさぼって六十点。アイツは塾まで通って必死になって五十五点。アイツはその程度の実力なのだ。目標持ち、勉強の楽しさを知った今の自分なら、彼を超えることなど赤子の手を捻るようなものだ。当時の僕は、そんなことまで考えて嘲笑し、安心しきっていたのだった。


分からない問題も多かったが、意外にもスラスラと筆は進み、最後の社会科の終了を告げる号令を聞くと、僕は勝利の拳を高く掲げた。勝った、勝ったぞ。安堵と達成感で堪え切れず笑みが零れる。Aは試験前と全く変わらない無表情で、淡々と解答を試験官に渡していた。


「忘れていないだろうなぁ」

「もちろんだよ。もうすぐに始めるかぁ?」


鼻息を荒くたて早くも有頂天になっていた僕は、まさか模試の結果を見て夕食が喉を通らなくなるとは、この時思ってもいなかっただろう。


それから一か月後の二度目の全国模試で、僕は初回の辱めを何とか覆うことことができたのだが、あの時の自慢げで鼻を伸ばしていた自分を思い返すと、身体の奥底に夥しい蟻の大群が押し寄せてくるようなむず痒さに襲われて、もう二度とあのような失態を侵してはならないと、そう何度も心の中で呟いてみるものの、Aを嘲笑する自分の姿が払拭のできぬ傷跡のように幾度となく脳裏に浮かび上がって、薄い胸膜を締め付けるように僕を苦しめた。


あの時、僕が手軽な暗記科目だけでなく、英語や数学などに力を入れてさえいれば、こんなことにはなっていなかったであろう。もしも僕が、底に潜む矜持を取り払って、Aに勉強法を聞くなどの、ライバルとしての繋がりを求めてさえいれば……

この先の僕の人生は変わっていたのかもしれない。



冬期講習が始まると、それぞれの生徒が志望校に向けて本格的な対策をし始める。僕たちの塾でもそうだった。最も生徒の過半数が、第一志望を私立ではなく公立にしていたから、本番に向けて取る対策と言えば、共通選抜に向けての過去問演習であり、既に志望校の決まった生徒たちは、過去の統計から算出した合格点という壁を、日々乗り越える努力を繰り替えしていたのであった。


僕の志願する高校は県立S高校であった。そこは海沿いに面した伝統ある学校で、県内の高校の序列からすると中の上か上の下くらいの、所謂進学校というものであった。毎年卒業生の殆どが東京の大学へ進学し、部活動もそれなりに力を入れているらしかった。


僕は二度目の全国模試が終わった直後、担任から県立S高校の文化祭が日曜に行われるから、行って雰囲気を味わってこいと促され、ひとり電車に乗ってそこへ訪れた。風の荒い、よく晴れた秋の空だった。



最寄り駅で降りると、既にホームは学生でいっぱいであった。様々な制服を着た中学生や高校生、家族連れの姿も多く見受けられる駅の向こうに、太陽の下で燦然と煌めく雄大な海が広がっていた。


塩の香りが僕をひどく爽快な気分にさせた。この風景を毎朝見るために、遠くからわざわざ通っている者もいると言った担任の声が頭を過る。そのせいか、ホームの人集りは列車が去ってからも途切れず、端の方では三脚を立ててフラッシュを焚く人の姿も窺えた。


たかがどこにでもある海の姿だろうと、ぼんやりとそれを見つめていたが、次第に眼の中に波が広がってくるような錯覚に襲われた。驚いて幾度か瞬き、三白を大きく開いてもう一度眺めると、先ほどと微妙に異なる波の動きに、気が付くと、砂粒を子細に眺めるように僕もその光景を呆然と眺めていたのである。乗降の喧騒などまるで耳に入らなかった。陽を遮る庇の暗さが海を目の前のように映していた。暗闇の美術館に、一か所だけスポットライトを浴びて照り輝いている作品のように、その海の絵は生きた破壊力を持って僕に迫ってきたのである。


青と白の折り重なった鬩ぎ合い、それはまさしく自然の雄大さを現わしていた。境目のわからぬ空と海の風景は、いつしか僕の脳裏に抽象画のような一枚のコラージュを映し出していた。肌を掠める強風が耳の中で波音を反芻させ、遠くから聞こえるレールの軋みが鳥肌を立たせた。


この学校を志願しようと、漠然としながらも思ったのは、今語った輝かしい海への感銘が影響してのことだった。毎朝この海を眺めることができるのなら、多少長い通学時間など風の一瞬だと、目前でうねりを上げる波浪の雄叫びを聴きながら本気でそう思ったのだった。


冬期講習になってからも、僕とAの勝負は続けられた。先週の模試でAが五点高かったかと思えば、次の模試では僕が七点高く取り、負けた方はもう一回と手を合わせるので、どちらも一歩も引きさがらない状況を楽しんでいるようでもあった。


「次の昼休みどうするよ?」

とAが聞くと。

「円と図形の演習をやろうと思うんだ。次の模試で出そうだからなぁ」

と僕が言い、

「それなら、明日までにお互い問題を作ってきて、それを互いに解くっていうのはどうだ?」

とAが提案すると、

「面白い。いつもの勝負の延長だな」

と快く引き受けて、僕たちは笑い合うのだった。


受験生として佳境に入り、家族のように毎日顔を合わすAに対する僕の心の変化も、次第に金魚鉢のように淡く透き通りはじめていた。中学時代の三年間を共にバレーボールに費やしてきたチームメイトなのだから、過去を含めてそれなりに話す頻度は多かったというものの、やはり言葉では言い表せない確執を互いに潜め合ってきたことは否めない。けれど今は、そんな過去の出来事を取っ払い、新しく〈友情〉という二文字を胸の内に築け上げていけそうな気がするのだった。


「お前、志望校どこにするんだよ」

昼休みの自習室。僕は数学の大問三のページを眺めながらAに聞く。

「あぁ、言ってなかったっけ」

「聞いてないよ。一度も」

若干の沈黙があり、口に入れていたコロッケを飲み込んでAが言った。

「お前と同じところ、県立S高校だよ。仲間だな」

「えっ」

危うく箸を落としそうになった。砂嵐のように描写の曖昧な線が幾本も目前を通り過ぎる。烏が耳を掠めながら遠くへ飛んでいくような刹那の後、僕の目に映っていたのはあの輝かしい海の景色だった。

「いつからだよ」

「さぁ、いつからだったっけ……夏前にはもう決めていたかな」

Aは曖昧にそう言って僕から目を逸らす。何か後ろめたいことがあるのだろうかと、勘繰る気持ちになるのを何とか抑えて、僕は精いっぱい彼に笑みを向けて

「俺は絶対に受かるからな!」

と、大問三に目を向けて呟いた。


その後は二人とも無言になり、僕はノートを眺めても事項が頭に入らず、口に入れたハンバーグは味がしなかった。


Aが同じ高校を志願していることは想定外だった。彼とは成績が近いから、志望校が被ることなど特別おかしなことではなかった。けれど僕の頭にはうねりを上げる雄々しい海が、一瞬のうちにどす黒く湿っていくような重々しさに、腸内を締め付けて舌先に酸を浮かべる苦しみを促していた。Aが同じ学校を志願している。その事実は、徐々に僕の脳内から黒く澱んだ液体を分泌させ、身体中を侵し始めていたのだ。


佐倉実里が県立S高校を志願していると知ったのは、僕がまだバレーボール部を引退する前の五月のことだった。


その時、僕は同じクラスに顔見知りの者が少なく、新学期が始まってから教室で孤立する状態が続いていた。部活動で顔を合わせるAも、目が合えば軽く挨拶を交わす程度で、当時はそこまで親しい間柄でもなかった。


初めて席替えが行われた日に、僕と佐倉実里は隣同士になった。彼女は肩に毛先の当たる髪を靡かせて初々しく、そしてちょっと恥ずかしそうに僕に会釈した。下に垂れた前髪が持ち上がると白っぽく、透明な肌面の笑みがこちらへ向いていて、僕はその時心がどぎまぎと高まっていることに狼狽えて、彼女の瞳をまともに見つめることができなかった。そのくらい彼女はとても素敵な女子生徒であった。


その頃はまだ僕も中学生であったから、赤裸々に女子生徒と会話をすることも難しくはなく、授業のグループワークや課外授業に際しては、何かと隣の生徒と行動することが多かったため、僕と彼女は自然と会話を進めることができたのだ。


ある時、彼女が自分の所属している美術部に僕を誘ったことがあった。なんでもコンクールに出展する作品があるから見てくれないかという具合で、僕は当時美術の成績が良かったから、見物ついでに感想を行ってほしいのだなと思い、彼女に続いて特別棟一階の美術室へと赴いた。


美術室は明かりが点いていなく、施錠がされていて人の気配がなかった。まだ部員が来ていないのだろうかと彼女に聞いてみると、「今日は休みの日だから誰もこないの」とスカートのポケットから鍵を取り出して言った。


扉を開くと、黴と油と石膏を一緒くたにしたような仄かな刺激が鼻を突く。締め切ったカーテンから零れる光は薄く、閉ざされた闇からは石膏の白い塵だけが虫のように辺りを舞っていて、両棚に飾ってある胸像は一斉にこちらを向いているようだった。


扉の前で黙って立ち竦めている僕を一瞬覗いて、電気を点けた彼女はずんずんと奥の方へ進んでいき、支柱の隣にあるもうひとつの扉の前で僕の名前を読んだ。


「部員の作品はね、こっちの準備室の方に保管してあるの」


鍵束からひときわ小さいものを取り出して、差し込んだ後に緩慢にノブを捻ると、先ほどよりも強い臭気に一瞬たじろく。何故だか汗ばみつつある身体の底から、青く透明な物体が優しく背を撫でるような背徳感が頭を過る。美術室に入ってから一言も発していない自分を意識して、飲み込んだ唾液が耳元で響いた。


ギイと音を立てて開いた扉の前に、大小様々なイーゼルに架けられたキャンバスが、境のない大きな記憶のように僕を出迎えた。赤や黄、厚薄のはっきりしたマチエールの光沢が、扉から射しこんだ明かりを拒むように笑っている。十畳ほどの室内に満載された作品と画具の暴力。僕は圧倒されて言葉が出なかった。

「随分本格的なんだなぁ」


筆洗いの積み重なった洗面台の隣に、ひと際大きいキャンバスが後ろの方に隠れていて、彼女は石膏やパレットの散らばった室内を軽やかに進んでいくと、自分の背丈ほどあるそれを指さして笑った。


彼女の上半身がすっぽり収まるくらいの、二十五号のキャンバスには、裸の少女が描かれていた。


あお一色に染められた背景の中央に十代くらいの少女が立っていて、その他は何も描かれていなかった。やや左に傾いた表情は暗く憂いているようで、着物の剥がされたような暗雲立ち込める身体には、臙脂色の血痕が胸のほとんどを占めている。煙草色の荒っぽい肌に似つかわしくない彎曲線を辿っていくと、前に出た右腿が陰部を隠すようにして突き出ているため、全体としては何とも艶めかし。


傾いだ少女の眼からはその残虐性が現れているようだった。何者かに襲われたであろう胸の傷に褪せた肌、まだ未成熟な身体の所々に肉感的な刺激を漂わせている細い線。それらを包み込むように背景の藍の濃淡が、まるで海に沈められた少女のように彼女の瞳から光をなくしているようだった。


「すごい。よく描けているよ」

僕はそんな陳腐な感想しか浮かんでこなかった。自分でも驚くほどに頭に上る言葉の数々が、隣で作品を見上げる彼女の姿態となって消えていくのを認めぬわけにはいかなかった。それは薄暗い室内一帯に蔓延る霞んだ空気の集合体が、暗視鏡のようにしっかりと彼女の周囲を包んでいるために、普段教室で面を合わせる時と異なった色を浮かばせているためで、僕はその異彩な影に動揺して目を合わせることができず、ただ目前のキャンバスに描かれた蠱惑な姿態を眺めるしかなかった。明かりを点けずに眺める油絵の作品は、キャンバスの奥から何か別の主題を訴えかけているかのように深く、そして陰鬱なテーゼを僕に押し寄せているようだった。


その時、何か温かいものが自分の右腕を触れていることに気がついた。と同時に、電気が走ったような身体の萎縮にたじろんで、僕はその場を動くことができなかった。汗ばんだ感触は、徐々に人肌の艶めかしさを神経へと伝え、静謐な室内一帯に、画材などの動かぬ軋みが耳奥で反芻した。


僕の高鳴る鼓動と、彼女の静かな息音が拮抗していた。準備室にいるのは、僕と彼女の二人だけなのに、何者かが物陰に潜んでいるような緊張と強迫観念が押し寄せて、僕はキャンバスから目が離せない。黒い瞳、青い顔、そして膿んでいるように赤く染まった乳房。


互いの息伝いをもはっきりとわかる距離にいるというのに、僕は彼女の方に顔を向けることができなかった。それは触れてはいけない禁忌に近づいているからだとか、朧げな真意を掴みかけていないからとかでは断じてなく、単純に僕という人間の心の弱さというものに他ならなかったから、僕はただ彼女の顔を見まいと、右手から伝ってくる心地よい汗の柔らかさを頭の中で黙殺するしかなかった。手に取れば、もう想像していた未来へと近づけたはずなのに……


僕が何もしてこないとわかったのか、それともただ平静を装っている僕がおかしかったからか、彼女は僕の手を離すとふふふと笑った。

「この絵、どこらへんがいいと思う?」

先ほどまでの親密さが嘘のように、彼女はくるると僕の背後に回ってそう聞いた。

「どこって。もう全部が凄いとしか言いようがないよ。女の子の身体の緻密さも、構図の大胆さもそうだけど、やっぱり背景がいいね。この藍は少女をより際立たせているよ」


僕は取り留めのないことを呟いて、先ほどの夢のような沈黙をかき消そうと苦笑して応じたが、彼女はふらふらと乱雑な画材を器用に縫って、また作品の前に戻ると、キャンバスの少女の傷ついた胸に指を置いて

「女の子の身体、見たことある」

と微笑みながら言った。


青白い彼女の顔に薄靄が現れたような気がした。息苦しさを悟られぬように、僕はそれを恥じた微笑で返した。意気地のない奴だなと誰かの声が聞こえた。曖昧な返答をすることで、自分の気持ちを汲み取られないようにと注意すればするほどに、皮膚の内側からぼろぼろと、音を立てて崩れ落ちていく存在に気が付かぬわけにはいかなかった。


彼女は「そう」とだけ小さく呟いて、またくるりと後方へ駆けて行った。その後ろ姿は、えらく寂し気に僕の目に映って消えなかった。


「僕は藍が好きだよ」


明滅する電灯のような一瞬の出来事に追随する記憶が目前を通り過ぎる。脳が神経を通らずに、そのまま口元へ出て行ってしまったような解放感に自失する自分がいた。空いた口元からは冷たい空気と湿った石膏が合わさった苦い風が押し寄せて、目の前に佇む彼女の後姿をより小さくさせた。


しまった、と震える身体からわなわなと、怒りに似た自信が湧き起ってくることに気が付いていた。それは窮地に立った兵士が自棄になり、全てを手放して玉砕してしまうのと同じで、僕の心でもそれが起こったのだ。過去を戻すことはできないから、現状は振り返る彼女の返答を待つ他なく、こちらから追って言葉を加えることは、何とも言い訳がましくなってしまうなと、交錯する意思を何とか留めて立ち竦んでいた。


「ありがとう」


僕の手から筆が落ちるのと、彼女の返答はほぼ同時刻だった。呆然と白む視界の果てに、薄っすらと彼女の笑みが見えたような気がした。途端に黒ずんだ汚れが取れたような爽快と開放に胸を打つ新しい血潮。彼女の言葉が中耳に広がって反響すると、首筋を流れる幸福の塊が鳥肌を立たせ、奥底からじわじわと熱いものが込み上げてくる。突然の出来事に狼狽する僕の眼には、彼女の白んだ笑みしか見えなかった。けれどそれは、朧げな記憶の中で雲のような不明瞭さを伴って浮かんでくるもので、重要な事柄についてはなにひとつ明かされていなかったのだ。


僕の思いがけぬ心の開きが影響したこの一連の出来事は、僕が彼女から県立S高校を志願していると聞かされた際に、己の志望校が決まった瞬間でもあった。そして、僕と彼女だけのこの密やかなひと時は、Aが県立S高校を志願していると聞いた途端に、締め切った窓から来襲する大海原のように呆気なく流されてしまったのだ。


僕は何としてでも彼女との学園生活を手に入れたかった。あの光のない静謐な美術室の空間をそのまま保持していたかった。けれどそこにAという侵入者が現れて、僕と彼女の空間だけでなく、彼女をも奪ってしまいそうな気配が脳裏を掠めて消えなかった。もちろん、Aは偶然にも僕と志望校が被ってしまっただけであり、佐倉実里がS高校を志願してることも、彼女を奪い取ってやろうなどとも毛ほどにも考えていなかったであろうが、彼が県立S高校を志願していると言った際の、あの精の宿ったような妖しい眼つきは、彼女との聖なる時間までをも僕に想い出たせ、崩れ落ちてしまうような悲哀を齎したことに違いなかった。彼女をこの手で守らなくてはならない。一瞬の出来事に疲弊と狼狽を同時に味わった僕の混沌とした頭の中で、ひとしきり燃え上がる炎がこの時生まれた。この瞬間から僕はAにより一層闘争心を持って勉強に励むことは、ひっそりと芽生え始めた恋心の到来を何としてでも形造ってやろうとする己の、恥ずかしくも爽やかな青春のひと時と言っても過言ではないだろう。後に起こる惨憺たる結末の前に。

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