普通という支配

普通。この言葉ほど、人を縛り付けるものはないだろう。周りがそうだから、当たり前だから、大多数の人間のやることは、あたかも絶対の真理であるかのようにあつかわれる。そして、それに違うものは、反逆者のように非難される。


勝てば官軍、負ければ賊軍という言葉があるが、普通という概念にも当てはまるだろう。普通よりも優れた例外は英雄とされ、結果を出さない例外は異常として扱われる。同調圧力を強め、さしずめ、全体主義、ファシズムのように、民衆を普通たらしめる力となって、人を縛り付けるのである。


普通であるということは、既存のものに従うことである。既得権益が良い例だ。皆が使う当たり前のものとして、そこに富が集中する。大卒一括採用もまた、その好例だろう。よく知ったもの。それを経験した人が多いもの。知っているものにしがみつくのが、大衆たる我々の性なのである。


競争に破れたものを、弱者として虐げることは、ファシズムと言わずしてなんであろうか。それを、普通の人は何も問題のない顔をして行うのである。異端を作り、自己の所属するブランドの正統性を作り上げる。宗教然り、他国間戦争然り、ある文化にそぐわないものは、ある文化を正しいものとして、群衆をまとめあげるために使うのである。


経済的弱者への自己責任論は、例えば、中国や韓国の日本を敵視する政策運営と何も変わらない。そういう国家間の在り方には苦言を呈するくせに、自国経済のなかで起こる同種の出来事には、まるで無関心なのである。何を勉強してきたのであろうか。国を否定したいだけなのだろうか。国を愛するあまり、経済弱者は非国民として扱うのだろうか。自国の利益のために、人を活かすことを考えないとは、しれた愛国心である。世の中の普通を語る人間は大概そんなものなのだ。


多様性を叫ぶ時代にあって、普通という言葉がまだ人間の価値観に対して使われることに、どうも違和感を覚える。多様性というものの在り方を、未だ我々は模索していることをつきつけられている気分だ。異なる主義を敵視し、自己を正当化する道具として用いることに慣れている我々の文化、文明にあっては、多様性という言葉は、生まれたばかりの未熟児のようなものなのかもしれない。適切な処置をしなければ、失われることが明らかな存在であるものの、何をすればいいか分からず、ただその成長を祈るばかりの無力さが、この社会にはあるのかもしれない。


人は文化である。人の持つ経験こそ、文化なのである。多様な文化様式の集まったるつぼが、社会の文化を作り上げるのである。競争ではなく、個人の固有の見識こそが、文明の新たな扉を開く鍵となる。


他を支配し、権力を拡大させるための正統性を捨てるべく、持続可能な社会を目指しはじめたのであろう。


秩序を保つための普通と、支配のための普通とは、その意味合いはだいぶ異なるだろう。


自由が野蛮となってはならないように、社会には、その形を保つべく、秩序が必要である。それは、大多数によって実現されるものではあるが、属人的知見による可能性を否定するためのものであってはならない。現在の普通の行動と呼ばれるもののなかには、そういった、可能性を否定してしまう一面がある。


普通でないことが、普通に属する人を正当化する理由になってはならない。社会の営みに参加する機会を奪う理由になってはならない。


何度でもやり直し、協力できる人間になるチャンスがあり、それを与えることが普通であるという、人の成長の持続可能性を守る社会となってほしいものだ。

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