経済への鬱憤

必要なデータがない。それは先に謝っておく。

本当に、申し訳ない。あくまで偏見だ。コメントなどあれば嬉しい。


ニーズになんて、答えられるか。


努力が大事。やり方次第でなんとでもなる。


ふざけんな。GDPが増えているから、パイは増大しているだと?業界、業種で区切ったらどうなるんだ。全体で等しく増加しているわけないじゃないか。


インバウンドがなんだ。観光産業が儲かっても、コアCPIの増加が生活困窮を表しているじゃないか。


半導体も、他国に取られ、主軸とする産業に外人をかかわらせることの失敗をまだ理解してないのかよ。

ニートと引きこもりを放置してんじゃねえよ。

労働力として使えるように訓練しないと、国益を、そこなうじゃねえか。


労働生産性ってのも、いやな考え方だよな。なるべく少ない人数で付加価値をつけるって考え方だよな。そんなに一人でできるわけないだろうが。なんのために分業したんだよ。効率よく似たような品質のものを継続して作るために、属人的な技能を分割して再現しようとした結果じゃねえか。労働生産性というなら、職人をしこたまうまれるように訓練の質をあげたほうがいいんだよ。


その生産の喪失については、マルクスも言ってたじゃねえか。なのに、生産設備を発展させて、人の能力を発展させないようにしてきただろうが。そうでない業界もあるものの、人の成長の機会を奪っているのは、効率化した生産設備そのものだろ。金銭に変えられるものではないが、社会的損失になっていることになぜ気づかないんだ。


分業して、必要な技能を限定していく方向になっていたのに、今さら生産性を、あげろなんて、頭おかしいのか?逆の方向に進んでいたのに、今さらなにを言っているんだ。一人の技能が限定されたものでも、職人に頼むような品質のものが出来上がるように、分業して、設備を整えてきたんじゃねえのか。なに考えてんだ。


共産主義をばかにする前に、その考えに至った資本主義による不均衡、不平等などの悪影響に目を向けろよ。その欠点をないものとして、競争社会に適応できなかった人間を、排除しようとするから、分断とかいう問題が、発生しているんじゃねえのか??


囲い込みから始まり、競争に勝つためのメソッド、つまり、効率の良いやり方や最善の方法を共有しない理由を作ってきたから、障害と呼ばれる病気がうまれたのは、火を見るより明らかだろうが。


希少性をつくって、商品として売ることばかり考えてきたから、社会的資本である人民の生産性が損なわれてきたのは、当然だろう。


勝者と弱者に分けるための競争になんの意味があるんだ。


共通の貨幣を使って、交換性行を万人に使える手段とすることはいい。だが、それは、必要なところに必要な貨幣がいきわたり、コストに対して資本がある状況をつくることで、社会的活動を促進することが肝なんじゃないのか???


なんなんだ?個人の私有財産を否定するつもりはない。個人の生活にとって、必要なコストは違うからだ。一様な生活を強制することは、自由的選択を奪うことであり、人の持つ感性を否定することだからだ。しかし、それを含めての分配の制度をつくることが、自由を認め、社会の発展を目指した財政政策というものなんじゃないのか?


生活保護によって、最低限の生活は保障されるが、それを頼りにして、働かなくてもいいと考えることを問題視しなくてはならない。


労働力の再生産のコストは、本当に最低賃金で守られるものなのか?そこに、労働力の向上や発展を組み込まないと、社会の発展につながらないのではないのか?


なぜ、そこに、変わり行く社会へ適応する機会を考えないのか。発展には、人が必要なんだ。会社組織の貢献には、専門知識とのマッチングが含まれてしかるべきだろう。人を育成し、さらなる次元へと道を切り開いていくには、適性を知り、生産を通して、さらなる可能性を、追求できる人材が必要なんだ。それを阻害しているのが、希少性によって商品価値を高めようとする自由競争原理であることに、なぜ気づかないんだ。


希少性による商品価値によって、寡占的な市場ができあがり、停滞を招いていることになぜ気づかないんだ。


真の社会資本とは、文化、知識、技術であって、経済的不平等が、その資本に触れる機会を奪っている。


目的達成のノウハウと、資金を調達する機会を限定することによって、育つべき人的資本が、失われているのが、現在の状況なのだ。


カールポランニーのいう、商品擬制によって、本来、社会全体の利益とするものが、実質的な囲い込みによって、限られた人間のための、いわば既得権益のような様相をとっている。現在の競争原理の産み出した悪影響だ。


共通貨幣と交換価値の概念が、形ある商品にのみあてはめられ、全ての生産者たる人間の価値を損なう形になっている。労働力というのは、生産設備を動かすためにあるものではない。社会の利益のために、皆が協力して、必要な環境を整えるためにあるものだ。再生産のための最低限のコストによって充分なものではないし、労働力の進化こそ、人類発展の礎となっていくものだ。


職業訓練において、基礎の基礎しか教えない状況などもってのほかだ。実践的な経験を積むためには、企業と連携して、その技術を実践的なものに磨き上げていく環境こそが、真の訓練だ。実務的な能力を身につけるために、アウトソーシングの仕組みを取り入れ、そこからスカウトの仕組みを取り入れ、即戦力を育て、マッチングする仕組みを作るべきだ。企業のニーズ、現場のニーズと切り離した訓練になんの意味があるのか。常に現実的な経済発展と向き合った訓練をしてこそ、そして、その機会を与えてこそ、公平性の実現ではないのか。


はっきり言って、選挙に合わせて、株を買って、株価をつりあげているだけの、茶番劇をやっている政府なんか、怠慢の塊でしかなく、今の経済指数も、でっちあげにもほどがあるというものだ。日銀が大半を保有して価値を保っている株価指数になんの意味があるのか。マネーゲームを増長させているのは、政府だ。


外国人留学生を、国内の労働力として使う方針で動いているようだが、それで給付金をばらまいて、消費をあげて、国内総生産の数値だけ上げようなどというのは、数字しか見ていない愚策としか思えない。


真の国益とは、国民の労働の価値、意義を今一度問い直し、一個人の生活の満足にとどまらず、国の活動に貢献している実感を持たせることからはじまるものと考える。エッセンシャルワーカーが足りないと言われる現状は、必要な社会的支援を経済的価値に合わせることによって、社会全体でマネーゲームを行っているような現状を作り出していることにある。


経済的な指標の数値の増大と、社会的な豊かさを完全に一致するものと考えている不調和に気づかないのか。それに気づいていながら放置しているのであれば、それこそ、国家の干渉による失敗と言わざるをえない。


何もかもを、商品とし、社会においてどういう人材となるかの選択肢すら商品としている。誰も彼もがその商品を買えるわけでなく、独学によって達成した人物がいれば、それは自己責任でなんとかなるという風潮が、うまれ、今やそれが溢れかえっている。個人の努力は必要ではあるが、努力の公平性を保つのが社会に必要なことではないか。潰れるものは潰れてしまえばいい、などというのは、個々の環境を度外視した競争に毒された価値観としか言えない。持たざるものは得ることはできず、可能性を諦めることでしか生活できないのであれば、そんなものはすでにディストピアだ。富裕層だけで、勝手にやっていればいい。持たざるものを、切り捨て、市場規模を縮小し、総生産を保つために個人の消費をあげる努力でもしていればいい。


選択の自由と言いながら、達成する手段を商品とすることによって、その自由を奪っている。


競争、希少性、商品、それによって、自らの人生を商品としながら、生きていくしかない社会になっているのだ。


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