第12話 始祖と神の旅路を

 アインザム海は陸封された海だ。遥か太古のまだ大陸が分たれていた頃には世界中の海と繋がっていたらしく、ここに生息する生物は他の海に生息する生物の亜種が数多い。


 そしてその内海のやや沖合に一艘の簡素な船が浮いていた。複数の丸太を束ねただけの簡素な船には赤い癖毛がトレードマークの筋骨隆々の偉丈夫、彼を模倣した韓紅の長過ぎる髪をした美女らしき生物が乗り合っていた。


「ギャラガー。依頼書には確かにルワル・カラレの駆除としか書いていなかったがここまで大きさが違うともう別物だと思うのだ。追加報酬がないと納得できんぞ。」


「愚痴は後にして戦えソトノ!剣も殆ど折られたから無理死ぬってこれ!」


 船の周囲には大海蛇の群れがいた。白と黒のツートンカラーの体色といい神経毒を用いて獲物を捕える生態といい、大きさ以外の全てが原種と酷似した亜種の群れは二人を捕食するべく猛攻を仕掛けていた。


 だが攻撃を捌きながら要所で反撃を織り交ぜるのは男だけで、女は回避のみを行って澄まし顔をしていた。


「ワタシは一応は魔力神と崇め奉られる神なるぞ?こんなところで安易に力を使っては神威が下がってしまうではないか。」


「偽物のカミサマがそんな細いの気にすんな!」


「正直に言えば最近の睡眠不足で魔力が足りん。どうも疲労のせいかエーテル炉心の調子が悪くてなぁ、治癒魔術で治すこと難しい。あーあどこの誰のせいだろうなあ?」


「」


「というわけで戦闘面は一任する。死ぬ気で護ってね♡」


「分かった分かりましたよ!」


 ギャラガー・グランロッサは大蛇たちの猛攻を間一髪のところで避け続け、九割の刃を折られた剣ですれ違いざまに命脈を絶っていく。樹齢数百年もの巨木と同じ直径の蛇を幾匹も一撃で輪切りしに、剣を振れない間合では殴る蹴るで砕き潰した。


 尤も同胞の血臭が噎せ返るほど濃密になるにつれ、蛇の戦意も煮詰まっていく。やがて群れでも一際大きい巨蛇が一匹、機は熟したとばかりに直下から海面へ急速に接近した。


 そして敵の殺意に気付かぬギャラガーではない。反射的に片腕で魔力神ソトノの胴体をがっしりと掴み、逞しい両脚で踏ん張って天高く跳び上がった。


 許容荷重を超えた丸太船は一瞬にして木端微塵のフレーク状になり、それらの残骸を飲み込みながら巨蛇が二人を追って飛び出した。大きく開かれた鮮紅色の口腔、体内に向かって緩やかな曲線を描く二本の牙はぬらぬらと湿っていて生臭い。狙いを定め、管状になっている牙の先端から黄色みがかった毒液を発射した。


 蛋白質で構成された神経毒は体表面から浸透し、生物の神経伝達を阻害することで肉体の動作を鈍らせ、最終的に呼吸困難に陥らせて死に至らしめる激毒である。人間が毒液を全身で受けたならものの数秒で全身が麻痺し、捕食される運命を受け入れる他ない。


 けれど立ち塞がる一切を絶ち伏せるのがギャラガーだ。亀裂が入るほど柄を握り締め、絶つべき対象へ意識を研ぎ澄ませる。世界全体が停滞したように思える極限の集中状態の中、横一文字を剣を振るった。


「くたばれ。」


 刹那、放たれた斬撃が一切合切を断絶させた。毒液、巨蛇、海を鮮やかに絶ち、水底にまで深々と傷を刻み付けた。


 同時に彼が発揮させた概念強度に依代である剣が耐えられず、完膚なきまでに崩壊した。


 だが敵の一団の壊滅は新たな敵の誘因へ転じた。新鮮な血肉の臭気に惹かれ、アインザム海に潜む怪物が集ってきた。


 超人ギャラガーといえども徒手空拳のみで無傷のままこの局面を乗り切るのは難しい。片腕一本を封じられている状況で傍らのソトノを護りながらでは猶更である。


 沈むよりも早く脚を動かし、水面を目まぐるしく駆けながらギャラガーは打開策について逡巡する。


 しかし海は元より敵の領分。人間を逸脱した脚力を以てしても平均速度は敵の方が勝る。真下から出現した灰色の大蛸を足蹴にし、斜め下から大量に飛び出した青物の群れを掻い潜り、生気の欠落した瞳をした傷だらけの巨大な鮫を幾ら殴り飛ばしたところで戦況の不利は覆らない。


 その間にも続々とアインザム海の化け物たちは集まり、やがて二人の前に巨大な歯鯨の一団が現れた。爬虫類に似た細長い頭部を有する肉食性の鯨たちはグレートソードの如き黄ばんだ歯を見せ、集団として統率の取れた動きでギャラガーたちを包囲するように襲いかかった。


「……!!」


 こうなっては手段を選んでいる余裕はない。ソトノを岸の方へ目掛けて投擲し、単身で化け鯨たちを屠る覚悟を決める。


「やれやれ。」


 しかしその直前でここまで沈黙していたソトノが不意に呟いた。


「流石に砲丸代わりにされてはかなわんからな。」


 ソトノの上半身が水飴か陽炎ようにぐにゃりと歪み出す。人間然とした下半身から先が伸び、ギャラガーを中心に据えた七重の同心円上の環構造を構築。空かさず稼働させた七つの炉心でそれぞれ火、水、風、土、光、闇、エーテル属性を帯びた魔力を生成し、円環が虹色の輝きを帯び始めた。やがて輝きは極光と化し、円環の最外部が更なる変形を遂げたと同時に全方位へ放たれた。彼女の攻撃に音はなく、衝撃波もなかった。ただ触れた悉くを消去する絶対的な世界の理を体現していた。


 思わず脚を止めてしまい、ざぶんと音を立てて海中へ没した。だがギャラガーは彼女が生み出した、初めて出会った日と同じ輝きから目が離せなかった。


 極光を浴びてしまった怪物は初めから何も存在していなかったように消え去り、残りの群れはソトノの戦闘能力を危険視して逃走した。


 後に残され、ぷかぷかと浮きながらギャラガーはふと思った。


「……やっぱり戦えるじゃねえか。」


「最初から戦えないなどと言った覚えはない。ただ、問題はここからだ。」


 言っている傍からソトノの肉体がぐにょぐにょと溶け出し、ギャラガーの腕の中で生温かい半固体と化していく。


「ソトノ!?」


「ワタシの肉体は魔力で操作していてな、そこに回せるだけの魔力を生成できないと崩壊してしまうのだ。どうしよ。」


「どうしようもクソもあるか!死ぬ気で頑張れ!!」


 でろんでろんのゼリー状になった妻を必死に抱え、ギャラガーは岸を目指しながら全力で泳いだ。


「あ、落とした。」


「!?」


 こうして二人が出発地と同じとある港町へ出戻った。


 その町はアインガングと呼ばれ、三千年の時を経て子孫らが移住先とした土地でもあった。


▽ ▽


 八月も終わる今日この頃、夏の終わりとは名ばかりに早朝から茹だるように暑かった。特段激しい運動をしていないにも関わらず汗をかき、大地にぽつぽつぽつと汗滴を落下させてしまうほどである。


 これではいけない。初対面の人間と新たな関わりを持つなら尚更、体臭を含む身嗜みには気を配る必要がある。


 さりとてこのような微妙な時間から入浴施設を利用するのは料金がもったいない。


 そこで貧乏性の元貴族二名は密かに営業時間外のアインザム海水浴場、正確にはそこに併設されているシャワールームを訪れた。


「開きそうか?」


「鍵の構造はスキャンできたし、後はそれを踏まえた上で形状をデザインすれば……中級メズグラーダ粘土アルギーロ造形モドリ。」


 セトラ・アカ・グランロッサが上級の認識阻害術式を用いて周辺住民から通報されるリスクを低減しつつ、その間にアディプト・アカ・グランロッサが鍵穴の解析及び鍵の複製を行う。こうして無許可で作成した四本の合鍵を穴に差し込んで捻ると硬質な音を立て、無事にシャワールームのピッキングに成功した。


「やった!」


「でかした姉ちゃん!」


 シャワールームは室内は白色の合板によって利用者同士の身体が見えないように間仕切られ、その狭いシャワースペースが三人分用意されていた。


 二人はそれぞれ部屋の両端のスペースへ入った。中心のスペースには土属性魔術で構築した即席の箱が置かれ、手早く脱いだ衣類を入れて密閉してからシャワーを浴びた。


 水は気温の影響を受けて生温かった。


下級スバルテルナ加熱ヴァルマ。」


 そこで出てくる際の水に魔術で干渉し、四十度程度にまで加熱。また予め海水浴場の公衆トイレからニプッシュほどしてきた液体石鹸を泡立て、全身を擦っていく。特に腋、陰部、足を重点的に洗浄し、三日間の列車移動で蓄積した汚れを落とさんとする。


「ねえセトラくん。」


「何だ?」


「今晩はお風呂、ちゃんとしたやつ入ってもいいよね?そのくらいのお金はあるよね?」


「……いいぞ。」


「よかったぁ。」


 ついで着ていた服を水属性魔術と火属性魔術を組み合わせて生成した湯で洗濯し、更に風属性魔術と火属性魔術による熱風で脱臭を行った。


 それを全て一人で軽々とこなすアディプトを通し、セトラは魔術師としての技量の違いを見た。


「悪いな。そこまでやらせて。」


「いいって。大したことじゃないし。」


 詠唱による術式の同時使用ができるかどうかは魔術師としての技量を測る一種の基準だ。そもそも詠唱で術式を使用するには特定のタイミングでスペルに対して魔力を熨せなければならず、発動後も一定の周期で魔力を熨せなければ術式が終了する。魔力を熨せるタイミングは術式によって全くバラバラであり、同時使用するにはそれらの異なるリズムに合わせて魔力操作をしなければならない。


(箱を作る術式と合わせて三つの術式の同時使用なんて、それが大したこと以外の何だってんだ。)


「はい。これセトラくんのね。」


 先ほどの汗を吸ってじめりとしていた物から一変、衣服は無味乾燥とした状態へと戻っていた。


「助かる。」


 セトラは下着、濃紺のデニム、真っ白のシャツに袖を通し、アディプトもほぼ同じ格好をして、清々しい気分で二人は公共シャワールームを後にした。


「で、ここからどうするの?」


「朝にギルドで会員登録、できたら今日中に案件を受け、夜にスパ銭で風呂入って寝る、以上。」


「案件がなかったら?」


「当面の間住む家を探そう。」


 視線をアインザム海からアインガングへ移す。


 その先には建築関係の諸法令を認識すらしていない違法建築物が乱立する混沌とした街並みと、奥に未来的で整然とした高層建築物を基調とした街並みが同居する奇怪な景観が広がっていた。昔ながらのアインガングは前者の姿であり、治安悪化やイメージダウンを問題視した行政がテコ入れのために打ち出した都市計画に基づいているのが後者の姿である。しかしあまりにもドヤ街兼スラムとしての歴史が長過ぎるアインガングを全域に渡って修正するのは困難を極め、街全体には未だにアンダーグラウンドな雰囲気が蔓延していた。


「本心じゃ何よりも安全な拠点確保を優先したいくらいだ。」


「そんなに嫌?私は結構ワクワクしてるんだけど。」


「四六時中気を張らないといけない俺の身にもなってくれ。」


「じゃあ最初から別のとこに住めばいいのに。」


「それができたら迷わずやってる。よく考えてみろよ姉ちゃん。俺たちは戸籍を作ったばかりだし貯金もなければ仕事もねえんだぞ。そんな不安定なヤツらにどこの不動産が家を貸してくれるってんだ。」


「確かにそうだけど、私のドレスを売り払えばある程度まとまったお金は作れるじゃん。敷金礼金くらいわけないよ。」


「あのロンドレイツから逃げる時に着てたヤツか。」


「そそ。背中ガバッて開いてる真っ赤なヤツ。全身ラスタード繊維でできてるから売れば結構な値段になる筈だよ。」


「購入証明書と品質保証書は本邸にあるだろ。書類不備で偽物扱いされるか、足元見られてどっちにしろ安く買い叩かれるのがオチだ。」


「その上で結構な額になるって言ってるの。」


「でもダメだ。いたずらに個人の戦力は下げねえ。」


 魔道における専門用語に触媒という語彙が存在する。触媒とはそれ自体に魔力や術式を搭載しないものの魔力や他の術式などに対して影響を与える物質を指す。身近な物ではセトラの剣の材質であるディメンスィオ鉱石、アディプトが左人差し指に嵌めている指輪を構成するティエレヂーノ鉱石、そして奉穣祭の夜に着用していたイブニングドレスの材質であるラスタード繊維が好例だ。


 しかしラスタード繊維は魔力段階や術式効果を変化させる前二者と異なり、魔力そのものや術式に変化を及ぼすわけではない。触媒である所以は繊維に魔力を流すことにより、周囲の魔力を強制的に吸収する性質にある。この性質は特に魔術師、精霊術師との戦闘において相当なアドバンテージを得られる。


「けど金欠なんでしょ。」


「まだ耐えられる。」


「額を教えて。」


「全部合わせて……一万五千ウェスタ。」


「は!?え、ちょっ、ギルドの登録料が大体一人五千ウェスタだからえっと、五千ウェスタしか余ってないじゃん!何でもっと早く言わなかったの!?」


「正直に話したら姉ちゃんこそえげつない節約するだろ。飛行機作って飛ぶとか。でもどうしてもゼレハフトに着くまでの安全確保で妥協したくなかったんだ。」


「だからって毎月の水道代よりも余裕がないなら普通言うでしょ!宿とかもっと安くできたよね!?ドゥラで外食とかしないでよかったよね!?」


「それは……言っても不安にさせるだけだし、好きにさせてやりたかったんだよ。」


「……!」


 アディプトは思わず片手で己の頭を押さえた。ドゥラでの滞在中はセトラに対して勘違いをしており、彼を試すように敢えてわがままに思われるムーブをしていた。あの時の過ちのツケがここにきて回ってきた。


 短期間で二度も命の危機に見舞われたことにより元からシスターコンプレックス気味だったセトラの心情に大きな変化が生じ、アディプトを恋慕するようになったと彼女は思っていた。


 だがこの解釈自体が間違いだった。


 基本的にセトラは度を越えたお人よしなのだ。どんな僅かでも余裕があるのなら彼は誰かのために動く。ましてやその相手がアディプトならば猶更である。


(私のバカ!何で気が付かなった!?)


 こうなると彼のやりくりや情報伝達の不備ばかりを責めることはできない。


 やがて溜め息をつき、彼女は言った。


「……分かったよ。でもこれからはどんな些細なことでもちゃんと話すこと!ヤバそうな問題なら二人で頭捻って一緒に考える!いい?」


「ああ。その、悪かった……姉ちゃん。」


「ううん、私こそ色々言ってごめん。けどお金に関わることは大事だからさ、今後はちゃんと話し合お。」


「分かった。」


 この後、国営ギルドが営業を開始する午前八時まで二人は公的機関が集中する駅方面へ散歩をして時間を潰した。


 途中、オレンジ色のスプレー塗料で落書きされている地図看板を発見した。


 地図には駅を中心に周辺の地形や施設の位置が記されている。駅を挟んで西側は部分的に都市計画に沿って開発された地域もあるものの旧来の文化と違法建築物が色濃く残っているため地図上ではあみだくじの失敗作じみた表記になっている一方、東側は西側の悪印象を払拭するための都市計画に基づいて開発されたため碁盤の目状に整った表記になっている。


「国営ギルドは……東口出てすぐだって。」


 ギルドに向かうための道すがら、出会う全ての光景が二人を驚かせた。


 駅の西口前には絶対に保健所から営業許可が下りないであろう屋台がうじゃうじゃと連なり、平日の昼間にも関わらず凄まじい人数が大ジョッキで酒を呷っていた。メインストリートには根本から大いに傾いている雑居ビル、無茶な増改築を繰り返して異形となった団地、上半分が吹き飛んだ廃墟一棟まるごとの酒場が無数に軒を連ねている。これが西口の日常なのだと、異物は寧ろ二人の方だと街並みが語っていた。


 対照的に東口は正反対に衝撃的であった。東口を出てすぐの正面、タクシーやバスが停車するロータリから大まかに三方向へと幅広い道路が伸びている。道路脇には白をメインカラーとする統一されたコンセプトの元でデザインされた未来的なビルが軒を連ねており、どの光景を切り取っても未来を描いた絵画の如き印象を受ける。


 ロマンフォルクス王国事業中継センター、だが九割九分の人々が国営ギルドと呼ぶ組織のアインガング支部は東口から歩いて二分の場所にあった。


 無機質な自動ドアを潜るとすぐに支部内の空気がピリついていることに気がついた。それも只事ではない。金銭が絡んだ揉め事特有の刃のような空気である。


 奥に進むとカウンターの前に人だかりができ、ギルド会員らしき人々が職員に野次を飛ばしていた。


 セトラは集団の後方にいた人々に声を掛けた。


「何かあったんですか?」


「よく分からないんだけどよ、ギルドが何か止まっちまったみたいなんだ。」


「達成報酬を受け取れるか分からないから、わたしたちも確認しにきたの。」


 彼らもまた困惑した様子で口々にそう答えた。


 疑問符を浮かべながらセトラたちも説明を求める人混みへ加わる。


 それからほどなくしてギルドの職員らしき中年女性が集団の前へ現れた。彼女は定型の挨拶を短く済ませ、端的に事態の説明を行った。


「現在、事業中継センター本部と支部を接続するシステムで障害が確認されました。システムの復旧が完了するまで、窓口での対応は達成報酬のお支払いのみとなっております。案件の持ち込み、案件の受注、現在受注されている案件の解約、新規会員登録は対応できかねます。何卒ご了承ください。」


 対して人混みの前側にいた誰かが声を上げる。


「最近こういうの多くない?こちとら生活掛かってるんですからもっとちゃんとしてくださいよ。」


「申し訳ございません。」


「復旧の目途は立ってるんですか?」


「現時点では立っておりません。会員の皆様には多大なご不便とご迷惑をお掛けしますが、復旧までもう暫くお待ち下さい。」


(え。)


(マジか。)


 堪らずセトラは職員に質問した。


「通信障害が起きてるのはアインガング支部だけなんですか?」


「現時点では近隣の他支部でも通信障害が確認されております。」


(ってなると他所で会員登録して案件受けるのも無理か……)


 ギルドで新規会員登録、案件の受注ができなければ即ち無職確定である。


 その後も利用者から職員への質問、文句、野次は続いた。


 対するギルドからの反応は先の内容の反復だった。「現時点で復旧の目途は立っていない。」という文言がやけにはっきりと聞こえた。


 このままここにいても収穫はない。そう思い立った二人はギルドを出た。


「方針変更だ。こうしちゃいられねえ。」


 国営ギルドが機能不全に陥ったということは本来であれば案件を受け、街を出発する予定の人々がアインガングに留まることを意味する。


 時間が遅くなればなるほどに今日の宿泊先を確保できるか怪しい。


「まず宿を抑えるぞ」


「ちょっと待って。二人で五千ウェスタで泊まれる宿なんて流石になくない?」


「アインガングはドヤ街でもある。このタイミングならまだなんとかなるはずだ。」


 幸いにもセトラの推測は正しかった。


 西口から少しだけ離れたところにある簡易宿泊所は一人分の料金が一泊千五百ウェスタと格安で、前々から彼が希望していたように内側から施錠可能な部屋であった。


 不安要素は一人一部屋のルールでアディプトとは別室になってしまったことだ。


「いいか、少しでも何かあればすぐ知らせろよ。どんな時間帯でもいい。いつでも駆けつけるから。」


「心配性だなぁ。思い切り隣の部屋なのにそんな心配?」


「当たり前だ。」


「内側から結界とか色々展開するから大丈夫だよ。そういうセトラくんこそ気を付けてよね。トコジラミ、こういうところの布団には多いらしいよ。」


「嫌なこと言わないでくれ。」


 各自の部屋に分かれた後、即行でセトラは部屋中に闇属性魔力を放った。闇属性魔力の性質の一つ、他の力を不活化させる効果を用いて虫などの活性を下げ、即効でとある術式を発動させた。


上級スペルラティーヴォ加熱ヴァルマ。」


 それはシャワーの湯温調整のためにアディプトが使用した術式の上位互換だ。より魔力要求量が増える代わりに細やかな温度調整を可能とする。


 こうして布団、毛布、枕、ついで床まで念入りに乾燥させ、虫たちが確実に死亡したと思われるところで術式を停止させた。それに伴って術式効果で熱を帯びていた物が急速に元の温度へと戻った。


 その頃アディプトは別の魔術で寝具を凍結させてから高温で乾燥させ、念入りに駆除を行っていた。


 こうして一夜の生活環境を整えると何故かやり切ったような錯覚があった。実際にはやるべきことを何もできておらず、ただ出鼻を挫かれただけだというのに不思議とそんな気がした。敷いたばかりの布団に寝転がり、このまま昼夜逆転の朝眠りをしたい欲求に駆られる。


(……ダメだな。こんな状況でもまだやれることはあるんだ。怠けてちゃいけねえ。)


 だがセトラは克己し、荷物を持って隣室のドアの前に行った。コンコンとノックして声を掛ける。


「おい姉ちゃん。行くぞ。」


 アディプトを連れ出し、フロントに鍵を預けて一行は再び茹だるように暑い街へと繰り出した。


 アインガングにおける物件についての情報収集。金はなくとも時間はあるのだからやれることをやるだけである。

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