第9話 弟が甘やかしてきます
コミュニカッツア領の中心地、精霊都市ドゥラ。主要都市ではモダニズム建築が主流になっているロマンフォルクス王国において、例外的に現在でも重厚な石造りの建築物が建造、運用されている大都市だ。それらの建築物は全て左右対称且つ巨大であるという特徴があり、繊細な装飾が全体に渡って精緻に施されている。道路や広場といった施設も広大で開放感があり、個々のスケールの大きさに伴って自ずと街全体も大きくなったような印象を受ける街だ。
そんなドゥラの地を久しぶりに踏んだにも関わらず、アディプト・アカ・グランロッサは街並みへ目もくれず悶々としていた。実弟であるセトラ・アカ・グランロッサがいつの間にかシスコンを拗らせ、若干過度な情念を持っている疑惑がかなり高いからである。
(姉弟はダメでしょ流石に。従姉弟同士ならまだしも。)
そこでアディプトはダル絡みとしょうもない発言を連発。彼からの好意を萎えさせる策に打って出た。
しかし、
「別に急いだからってすぐに解決するような問題じゃないし、今日の夕方発の列車じゃなくて明日の午前中に出る列車でゆっくり行こうよ。」
「しゃあねえな。」
「お昼ご飯迷っちゃうなあ。牛丼もパスタもどっちも食べたい。」
「なら俺がパスタ頼むから姉ちゃんが牛丼頼め。半分こだ。」
「ヤバ。唇ガッサガサ。」
「百ウェスタもしないんだし、安いリップくらい買えばいいじゃん。」
「ねえねえセトラくん。これあげる。」
「へえ。コイツって何ゼミだろうな?」
一切効果はなかった。それどころか彼は真面目そうな表情のまま密やかに口元のみ緩め、アディプトを眺める始末だ。
(カーッ!幾ら何でも私のこと好き過ぎでしょ。離邸にいた時と比べ物にならないくらいゴリゴリに甘やかしてくるし何?本格的に落とそうとしてる?)
そんな弟の包容力を前に彼女は堪らず頭を抱えてしまう。
(とりあえず思考停止甘えんぼムーブは一旦止めよう。脚引っ張るのは元々本意じゃないしね。)
そして昼食後の腹ごなしを兼ねた散歩も済ませ、二人は今晩泊まる宿を探して駅前にいた。
「宿に検討とか付いてるの?」
「個室で内側から施錠可能な施設だな。値段もあんまり高くないところがいい。」
「うーん……その条件だと厳しいんじゃない。ほら。」
アディプトは周囲を見渡すように促した。
平日の十四時を回った頃にも関わらず通行人の数が多い。二人が最初にドゥラの地を踏んだ時より、時間経過に応じて人数は明らかに増えていた。
「駅とかにポスター貼ってあったけど、今日はドゥラで大きめのお祭りがあるみたいだよ。有名だよね、コミュニカッツア領の精霊祭って言ったら。」
「参ったな。こうなるとどこも満室かもしれねえ。」
彼の予感は当たっていた。駅前の主要なビジネスホテルは全て回ってみたが大体満室で、空室があっても宿泊料金が吊り上げられていた。
「上手く行かねえな。」
「しょうがないよ。書き入れ時なんでしょ。」
そして二人は六軒目の宿でも断られ、歩道の手摺りで小休止を取っていた。
アディプトはそこに座り、紅茶の入ったペットボトルを傾けた。
「漫画喫茶とか健康ランドの長時間いれるコースでも使えば?鍵付きの個室だって一応あるよね。」
「うーん……気乗りしねえ。」
「嫌なの?」
「正直、人の出入りが多い施設は避けたい。それしか空きがないってなら話は別だが。」
「ナーバスだなあ。そんなに心配なら一晩中結界でも張っておこうか?」
「いや、それは俺がやっておくからいい。魔力はできるだけ温存しとけ。」
一方、セトラは凭れ掛かりながらアルミボトル入りのブラックコーヒーを口に含んだ。
「護ってくれるのはありがたいけど、セトラくんもちゃんと休まないとダメだからね。」
「言われなくても。」
「嘘ばっかり。ウスタリーにいた時からずっと目つき悪いし、最近あんまり眠れてないでしょ。すぐバレる嘘付かないの。」
アディプトは隣の頬へ軽く指先を立てた。
「姉ちゃんには敵わねえな。」
「多分誰でも分かるよ。」
「……でも、最近寝れてないのは本当なんだよな。」
「それのせいじゃない?」
アルミボトルを指差す。
「カフェインがないと眠気が酷いんだ。けど寝ようとすると眠れなくなる。」
セトラはあっけらかんと答えた。
(わーお、病んでるなー。)
「だったら宿の条件の一つに、セトラくんがぐっすり眠れる場所っていうのも加えよ。無理をしないのも旅のコツだよ。」
「姉ちゃんがそう言うなら……実は駅前にある宿泊施設でまだ確認してところがあるんだ。」
セトラは手摺りを離れ、またどこかへ向かって歩き出した。そしておよそ十分の後、彼が連れて行った先は歓楽街に隣接するラブホテル街だった。
「流石に姉ちゃんが嫌がるかと思って避けてたんだが、多分ラブホなら泊まれると思う。」
「……」
「嫌なら別の宿を探すがダメか?」
アディプトは即答できなかった。
(し、しまった!さっき言った条件も付けちゃってビジホも泊まれないならこういう施設しかない!私のバカ!)
内心で己のミスを顧みつつ、断る口実を探すために看板兼料金表に目を通す。
(土日祝の宿泊プランは一番安い部屋で一万ウェスタ弱……安いビジネスホテルでも一人頭七千ウェスタくらいが相場だし、二人で割れば一泊五千ウェスタちょっと。この値段なら断る理由がないね。)
ついでにそれとなく横目にセトラを捉えた。
ポケットに手を突っ込んだまま、彼も料金を試算しているようだ。
(うーん……どうしよう。これで断れば少しは頭が冷えてシスコンも収まるかもだけど、存在自体拒否られたと勘違いしてもっと病んじゃうかも。違うんだよセトラくん。お姉ちゃんルートなんて修羅の道をキミには歩かせたくないだけなの。)
「どうだ姉ちゃん?」
(でも現状、あらゆる点でここでの宿泊が最適解。なら……止むを得ないね。)
「いいよ。ここにしよ。」
アディプトたちは自動ドアを潜り、ホテルへと入った。
利用者が通行人に目撃されないための配慮だろうか。エントランスの照明は沈むように薄暗い。入口正面は安っぽい黒を基調とした壁となっており、すぐ左へ直角に曲がった突き当たりがフロントカウンターとなっている。
二人がカウンターの前までやってくると、バッグルームから老婆が現れた。彼女は嗄れていて聞き取りづらい声で部屋や利用時間を尋ねてきた。
「部屋はスイートのCで、宿泊パックでお願いします。」
(今スイートって言った?)
事態を飲み込めないアディプトを他所に、セトラは手早く受付を済ませた。それから二人は指示に従い、エレベーターに乗って最上階へと向かった。
「ちょ、ちょっと!スイートって普通に高いじゃん!」
「二人で割れば普通のビジホ代と大して変わらねえよ。」
(せっかくあった価格のアドバンテージを捨ててまでセトラくんは何がしたいんですかね!?)
目をぐるぐると丸くしながら取り止めもなく考える。そして混乱は部屋に到着してからより一層酷くなった。
客室は二人の想像より広く、高級感とそこはかとない異質さが同居していた。そして壁際にドンと鎮座するダブルベッドが言外に、この部屋で繰り返されてきた行為を強烈に連想させた。
(つ、遂に来ちゃったー!)
理性と感情の狭間に横たわるギャップがアディプトの動悸を加速させていく。予め理解していてもドキドキすることは彼女とてあるのだ。
しかし一方でセトラは真っ先に室内の調度品、トイレや浴室などの入念な確認を行った。家具の下や裏を覗き込み、引き出しなどの中まで隈なくチェックした。
「多分ないだろうけど、一応姉ちゃんも調べてくれ。」
「へ?あ、うん。」
この間もずっと煩悩に塗れていたアディプトは言われるがまま、慌てて周囲の魔力の流れへ意識を集中させた。魔力回路の数と魔力への感度の高さは比例する。本来の魔力回路に後付けする形で、
(照明、水道設備、空調……特に変な魔力の流れは感じない。魔術でも精霊術でも干渉を受けてる感じじゃないね。)
「大丈夫かな。術式の気配も異常なマナの流れもないみたい。」
「そうか。」
だがセトラは尚も注意深く壁や扉などの見つめつつ、部屋中を一筆書きするみたいに歩き回った。
一方でアディプトはベッドの縁に座り、手遊びをしたり視線を泳がせたりと所在なさげにした。煩悩やら緊張で思考が特にとっ散らかっており、列車内のようなコミュニケーションをする余裕すらなかった。
(チェックアウトは明日の十時。それまでたっぷり二人きり。わざわざこんな広い部屋まで取ってやることって、やっぱり一つしかないよね……)
「彼方に沈み暮れ逝く遠天。星の黒き終焉。閉じて離さず、我が地を封鎖せよ。
他方、姉からチラチラと向けられる熱い視線に全く気付かず、セトラは結界の展開に注力していた。エネルギーを遮断する不可視のバリアを、部屋内の間取りと重ね合わせるようにして張った。全ての攻撃や干渉を防げるような絶対的な防護にはなり得ないが、やらないよりは遥かに安全だ。
「……」
その次に化粧台に備え付けの椅子に腰を下ろし、館内の案内図を熟読した。さながらパズルを組むように脳内でホテルの3D モデルを作り、各階層での部屋やエレベーター、階段などの位置関係を有機的に把握した。また案内図に示されている避難経路とは別に、より安全で確実なルートについて検討を行った。それらが終わって漸く彼は背凭れに深く寄り掛かった。
「はあ……」
顔には若干の疲労が見て取れる。尤も術式の負荷で消耗したのではない。移動中からホテルの安全を確認できるまで張り詰めていた緊張の糸をやっと少し緩められ、抑えていた疲労が表情に出た。だが休息も五分程度で早々に切り上げて、セトラは立ち上がって脱衣した。
「!?」
背面にマウントしていた剣を置き、簡素な白いシャツ、インナー替わりの薄いTシャツを脱いで上裸になる。はっきりと陰影が入っている胸筋と腹筋、無駄を削がれて丸みを帯びた肩回りにがっしりとした太い腕部が露わになった。
「セ、セトラくん!?早まらないで!」
「え?何?」
その状態で日課のトレーニングルーティンを開始した。スクワットから始まり、クランチ、腕立て伏せ、レッグレイズと経て懸垂に終わるメニューだ。場所も選ばなければ器具も大して必要としないトレーニングメニューだが、いつ何時でもやれるとは限らない。体力に余裕がある内にこなしておく必要がある。表情こそ大して崩れていないが、額に汗を浮かばせ、息も乱しながら筋肉にしっかりと刺激を入れた。
「あっ。」
そして最終的に過負荷が祟り、集中力と握力が枯渇。アディプトに魔術で作ってもらったチニングバーからふわっと力が抜け、思い切りフロアへと落下した。
「大丈夫?」
「受け身取ったから……」
セトラはよろよろと起き上がり、背中と腰を擦りながらも洗面所へ行った。そこで水道水をガブ飲みし、長めの休息を経て彼は再度立ち上がった。
「姉ちゃん。まだ余力あるか?」
「セトラくんと比べたらね。」
「だったら改めて魔力操作を教えてくれ。」
「……?」
一瞬迂遠な隠語か何かだと邪推してしまったが、詳しく話を聞けば聞くほど言葉通りの意味であった。
アディプトは薄着になり、長髪を後頭部で束ねてポニーテールにすると、三分ほど魔力を生成しつつストレッチをしてからセトラの前に立った。
(うーん……ぶっちゃけセトラくんクラスになると知識として教えることって殆どないんだよねえ。コツみたいなのを教えて爆発的に上手くなるような段階はだいぶ昔に通り過ぎたし。)
腕を組み、瞑目しつつ指導方針について頭を悩ませる。
魔力操作技能は一朝一夕で身に付くものではない。基本事項をひたすら反復し、やがて無意識下で行えるようになるまで身体に染み込ませる方法が最も効率的だ。
だがセトラは既に平均的な魔術師以上の魔力操作技能を会得している。そうでなければ常時生成されている地脈級の量の魔力を制御できる道理はない。
(課題はセトラくんが自分の技術を信用し切れてないことかな。でも自信なんてそれこそ時間を掛けないと手に入らないんだけど……)
「とりあえず基本になる魔力操作から始めてみよっか。」
しかしいつまでも考えていてもしょうがない。思考を切り替え、アディプトは掌から微弱な魔力を出した。
彼女に倣い、セトラも魔力を放出する。
「通常の魔力回路は魔力炉心から頭部と四肢の末端に向かって伸びてる。手の次は足から魔力を出して、その後は頭から。一通りこなしたら今度は全ての回路から魔力を流してみて。」
彼女は流れるように実践する。魔力の動きには全くの乱れがなく、それは即ち彼女の操作技能が微かなブレすらも止められるほどの高みにある事実を示唆していた。
「最近の術式は使いやすさに重きが置かれていて昔ほどシビアな魔力操作技能は要求されなくなった。そのせいで魔力操作を疎かにして術式の運用ばかりに拘る魔術師が結構いるんだけど、それじゃあ手札を増やしたつもりになってるだけなんだよね。所詮は使いやすい術式以外使えない、スケールの狭い魔術師で終わっちゃう。」
彼女は自らの全身を極薄の魔力層でコーティングする。
「防御用の術式を使わなくてもこうやって全身を覆えばある程度の干渉を防げる。更にコーティングへ瞬間的に濃淡と勢いを持たせれば――」
アディプト本体は微動だにしないまま、体表面の一点から噴出した魔力が周囲へ衝撃波を齎す。さながらノーモーションで不可視の槍で刺突されたかのように場の空気が震撼した。
「――逆にカウンターとして相手を攻撃することもできる。」
「ウスタリーで使ってたヤツか。」
「よく見てたね。」
自身を覆う魔力を霧散させ、服越しに弟の右胸に触れた。
「セトラくんの総魔力量は私の比じゃなく多いんだし、常時全身から魔力放出を続けるだけでもかなりの脅威になる。下手な術師じゃ手の打ちようもないくらいのね。」
「闇属性魔力には周囲のあらゆるエネルギーを不活化させる力がある。下手にそんなことすれば二次被害で大変な事態になっちまうって。」
「近くに人がいたり魔術インフラが密集してたりする都市部なら確かにそう。それでもどうしようもない状況だってあるでしょ?そういう時は周囲より自分の命を大事にしてほしいな。」
彼女の言を受け、セトラは困ったような顔をした。
(なんて言って、すぐに頷けるような人じゃないよね。)
「はい。後は実践あるのみ。」
パンッと胸を叩き、アディプトはセトラから距離を取った。左手でくいくいと挑発するジェスチャーをする。
「久しぶりに模擬戦といこう。術式の使用はなし。武器はお好きにどうぞって感じで、魔力操作を主体にしたスパーリングだよ。」
「……いいのか?」
「私から誘ってるんだし、遠慮はいらないよ。」
「姉ちゃんがそう言うなら。」
セトラは闇属性魔力を全身に纏い、独特の構えを取った。左側の半身を相手に向け、頬をガードするように右拳を上げる。左肩は顎への直撃を防ぐためにやや上げつつ、左腕は相手目線からはL字を描くように曲げている体勢だ。
(構えはヒットマンスタイルか。長身でリーチもあるし、合理的ではあるね。)
対してアディプトは特に何の構えもせず、魔力を身体の正面に集中させた。
「行くぞ。」
セトラが距離を詰め、左腕から鋭いジャブを繰り出した。魔力で強化された、ボクシングにおける最速の打撃技が迫る。
連続するジャブを避けつつ、アディプトは冷静に弟の攻撃が変化する時を待った。しかし幾ら待っても彼のスタイルはボクシングの範疇を出ない。
(躊躇しないで。)
彼は自身の戦闘行為で周囲に齎す二次被害について過剰に恐れている。故に人ならざる量の上回る魔力を生成できる体質でありながら、生成量に対してかなり少ない魔力しか使っていない。
(えげつなくなって。)
アディプトは焦ったくなり、回避の直後に後ろ回し蹴りをぶちかました。
(それでもっと強くなって。)
同時にセトラの鳩尾から背中へと貫くように土属性の魔力を流す。
内臓が背面から飛び出したかのような激痛のあまり、セトラの額から脂汗が噴き出た。
「ッ!」
だが動きを止めるような愚行も、距離を取るような悪手も脳内選択肢にはない。一際強く魔力を纏わせた両手でアディプトの足首を鷲掴みにし、乱暴に投げ飛ばした。
だが彼女は投げられた先から地を這うような挙動で急激に再接近。立ち上がりつつ拳や蹴りのコンビネーションを見舞った。
対してセトラは自身の肉体を起点とし、小規模だが魔力の爆発を起こした。
「!」
アディプトは魔力操作によるカウンターで爆破を相殺。そればかりか体表面から魔力を一本の筋にし、ビームの如く照射した。
対する弟は更に増加させた魔力出力で防護を固め、ビームの影響を無視しながら一足で距離を詰めた。そのまま彼女の脚を蹴り払い、地面へ押し倒す。そして白く細い首に軽く手を掛けた。
「やられた。本当の殺し合いなら頭が弾け飛んでたね。」
最終盤、急激にえげつなさを発露した彼へ満足そうに声を掛ける。
セトラは床へ寝そべる彼女に手を差し伸べた。
「……これでよかったのか?」
「こういうのがいいんだよ。」
彼の手に引き上げられ、アディプトは立ち上がった。背中や臀部の埃を手で払い除け、弟の戦いぶりににんまりとする。
「じゃあ残り四戦くらいやろっか。今度もその調子で、もちろん術式有りでね。」
それからの模擬戦は全てギリギリの勝負だった。防御に重点を置いた魔力運用を行うセトラの固さは並々ならず、アディプトの技量を以てしても突破は容易ではない。
「つ、疲れた……」
「まだまだだねえ。」
(危なかったー!よく勝てたな私!)
そこで時には降参からの不意打ちすらも厭わず、「そこまでやるか……」とドン引きされながら彼女は辛勝を捥ぎ取った。間一髪で三勝二敗の勝ち越しである。
「はあー……」
溜め息をつくと共に近くのソファにどっかりと座り込み、解放感から天井を見上げた。やや古臭さのある内装が少し気になる。
(これでちょっとは姉の威厳を保てたかな。)
「
腹と背の辺りに上昇気流を生成。裾から襟を風が力強く吹き抜け、強烈に汗を気化させていく。
「あー涼しい……」
服の裾がバタバタと煽られ、色白な腹部と臍がちらりと覗く。
セトラはそんな彼女の隣に腰掛け、水を汲んだグラスを差し出した。
「飲むか?」
「もらうー。」
グラスを受け取り、アディプトはそれ自体に冷却用の術式を適用させながら中身を飲み下した。
「……っ、はあ、生き返る。ありがとね。」
口の端に零れた水滴を袖口で拭い、彼女は笑顔でボトルを返してきた。
そんな一連の様子を眺め、セトラはしみじみと感嘆する。
「姉ちゃんって本当、しれっととんでもないことやるよな。」
「いきなり何の話?」
「術式を幾つも同時に使うだろ。
「大したことじゃないよ。魔族ならこの程度は全員会得してるし、魔法使い連中は軒並み十個以上の術式を使ってくる。私なんてまだまだだって。」
「比較対象が大体人外の時点でなあ……」
「お互い、隣の芝生が青く見えてるみたいだね。」
「?」
魔術を扱うに際し、絶対に必要となるものが術式と魔力だ。どちらを欠いても魔術は決して発動しない。最初に自身で生成した魔力、またの名をオドとも呼称される魔力を用いて術式を起動させる。続いてオドを呼び水にして周囲に遍在する魔力、マナと呼ばれる魔力を術式に流入させて魔術の維持を行うという流れが一般的だ。
マナが活性を失って使用不能になるような緊急事態に陥らない限り、アディプトでさえも普段は上記のセオリーに沿って魔術を行使している。
「複数の術式の同時使用より、魔道具もなく単独で魔術を扱える方が何倍も凄いことなんだよ。」
「姉ちゃんにもできるだろ。」
「私のはあくまでも非常時の保険。常日頃オドだけで魔術が使えるくらいの魔力量はないよ。」
「それに覇級だって使えるし。」
「そんじょそこらの覇級魔術なんてセトラくんが剣振ったら木端微塵にできるでしょ。あんまり自分の短所ばかり見ないで、もっと長所を伸ばしてみなさい。……で、これからどうするの?また続きする?もう残り三戦くらいしか付き合えないけど。」
「いいや、元々模擬戦までしてもらう気はなかったんだ。姉ちゃんにあんまり負担掛けたくねえし、今日はここまでだな。」
鍛錬の終了は即ち煩悩の再開を意味していた。今までは意識が魔力操作やら模擬戦に向いていたからよかったものの、それらがなくなりホテルで二人きりとあってはアディプトの思考は再び煩悩に塗れてしまう。シスターコンプレックスが行き過ぎたセトラに迫られたらどのようにして断ろうか。どんな言葉を掛ければ彼を傷付けず関係にも罅を入れないで済むか。思考の始まりはいつもシリアスだが、途中から割と欲望のままにフルスロットルである。しかし現実でそのようになってならないと考えられるくらいの自制心は持ち合わせている。
「そっか。じゃあ今後はフリーな感じ?」
「ああ。」
どう想っていようが、どう思われようが関係ない。姉として弟に過ちは犯させない。
「だったらさ、今度は私の用事に付き合ってよ。」
そのための布石なら既に打ってある。現環境で過ちが起きる可能性が高いなら間違えようがない環境に身を置けばいい。
「今晩精霊祭があるでしょ。あれ、一緒に行こ。」
「嫌だ。」
しかしセトラはそんな彼女の思惑を、一言で切って捨てたのだった。
「へあっ!?」
あまりに躊躇なく袖にされたせいで思わず変な声が出る。
「な、何で!?」
「いや……人混み苦手だし。」
「奉穣祭では楽しそうにしてたじゃん!」
「あの時は皆いたからだよ。」
そう答えつつセトラは剣をもう一台あるソファの傍に立て掛けて、そこへごろんと横になった。
(このパターンは想定してなかった……!)
セトラはリモコンを手に取り、何の気なしにテレビを起動させた。
そこに映っていたのは夕方のニュース番組だ。スーツ姿のアナウンサーが仮面のような笑顔を貼り付け、大物俳優同士の結婚に関する原稿を読んでいた。
「くだらねえな。もっと取り上げるべきことあるだろ。」
グランロッサ家に関することも、ロンドレイツについての報道も一切ない。
虚白色の集団によるロンドレイツ襲撃事件。本件がロマンフォルクス王国有数の大貴族を標的としたテロ事件だと正しく認識されていれば、報道も捜査体制もがらりと違かっただろう。しかし本件はそもそも事件として扱われなかった。
「殆どの人にとっては所詮、地方で起きた変な災害でしかないんだよ。」
領主不在のせいで対応が遅れ、甚大な被害を齎した都市災害。だが責任を追及しようにも責任の所在についての記録や記憶が全て抹消されており、それ以外にも不可解な点が数多くあり過ぎた。よって本件は「このようなことがありました。」程度に軽く報道されるだけで、少なくともセトラたちがチェックした限り続報は何もなかった。
「今だってどこかでロンドレイツと似たようなことが起きてるかもしれねえのに。」
「どこかの組織から報道規制の圧力受けてるのかもよ。」
「公安が動いてるってことか。」
「可能性は高い。あの組織以外にも動いてそうな組織は多いし、事態が事態なだけに誰が何してても不思議じゃないよ。」
セトラは顔を渋らせた。
「それに十中八九、パパやママも存在を抹消されてる。普通だったらジェイド卿は何してたんだって世間から袋叩きに遭う筈なのに全然誰も言ってないし、新聞や本にも全然記載がない。そしたらグランロッサ領なのに肝心のグランロッサ家領主が最初から存在していなかったっていう政治的空白が生じてることになるよね。私がこの事件の報道に干渉できる立場ならこんな歪な状況で更に混乱させたくないし、同じように報道を制限するよ。」
「……じゃあ親父たちって今頃どうしてると思う?」
「どうだろ。大人しく殺されるような人じゃないから、どこかでこっそり生きてるんじゃないかな。私たちだって生きてるわけだし。」
「……そうか。ああ、考えないといけないことが多過ぎて気が滅入ってきた。」
「そのためにやれるだけの手は打ったでしょ。あんまり悩み過ぎるのはよくないよ。」
その一環がウスタリーからドゥラを経由して王都帯ゼレハフトへ至る二人の大移動だ。一度北方の中心都市に立ち寄ってから南下し、大陸中央部の大都市へ行くという大移動には複数の意味があった。
「今ロンドレイツへ蜻蛉返りしても、存在を抹消された私たちにできることは大して多くない。それに襲撃者がまだ潜伏してる可能性もあるし、この件で動いてる勢力に目を付けられるかもしれない。」
「だからゼレハフトに移動して安全を確保しつつ情報を集める。近衛に番外に専戦、後は公安か。主要な王立騎士団が揃い踏みのゼレハフトなら連中も下手にドンパチを仕掛けてこないはずだ。」
ロンドレイツ襲撃はセトラたちをターゲットとした計画的、組織的な犯行だったというのが二人の共通見解だ。また存在を抹消されたであろう直後のタイミングでも敵集団の一人はセトラたちを知っているような口ぶりであったことから、存在抹消が個々の認識に与える影響については敵集団に関してのみ、特例が適用されているのかもしれない。そうなると二人の行動についても既に読まれている可能性が高い。普段の二人であれば確実にロンドレイツへ帰るところだが、そこを待ち伏せされる危険が十二分にある。大移動にはそうした読みの裏をかく意図もあった。
話題が堅苦しいものに移り、セトラの表情がどんどんと暗くなっていく。
(それはそれで気まずいんだよねえ……)
どうにかしてこの雰囲気と流れを変える必要がある。
そこでアディプトは彼のすぐ傍まで近付いた。
「セトラくん。」
「何だよ?精霊祭なら――」
何を言い出されるか分かっていて、彼は断ろうとする。
「--キミは休み方がクソだね。」
だが彼女はそう言われることを予期した上で、先んじて言葉の出足を潰した。
「は?」
「心のどこかで常に警戒心がある。それじゃ幾ら休んだって疲れは取れないよ。」
「そりゃ警戒するだろ。こんな不安定な状況なんだぞ。」
「分かってないなあ。警戒するべきところでは警戒して、そうしなくていいとこではきっちり休むの。メリハリが肝心って話、朝にもしたでしょ。」
「……」
「潜在的な脅威を警戒して人混みを嫌ってるなら、そこから逃げてるようじゃこの先はやっていけない。ゼレハフトなんてドゥラとも比べられないくらい人が多いんだよ。あそこに到着したからって終わりじゃないの。上手く力を抜いていかなきゃ、遅かれ早かれ精神が参っちゃうって。」
「……」
彼女の話に思うところがあったのか、セトラは暫し黙って考えた。
そこにダメ押しとばかりに、アディプトはきっと彼にとっても魅力的であろう提案を行った。
「それにドゥラの精霊祭なら多分コミュニカッツア家が、場合によっちゃマーキアちゃんが来る。確かめてみたくない?前に一緒に戦った仲間なら私たちのことを覚えててくれてるかもしれないよ。」
「!」
それが決め手だった。
セトラは重い腰を上げると、壁に立て掛けておいた剣を手に取った。直剣の鞘は革製のベルトで任意の位置に固定できるようになっており、彼は鍛え抜かれた胸筋の前でベルトを締めると、いつものように鞘を背面で固定した。
「じゃ、行くか。」
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