第3話 やれることをやるだけ
セトラ・アカ・グランロッサは三階の病室から移動し、一階の売店にいた。尤も衣類以外で身に着けていた物は全て騎士団に調査資料として預かられてしまったため、完全に無一文な彼はミント味のタブレットでさえ購入できない。よって来店の目的は物品の購入ではなく情報収集だった。
売店はコンビニエンスストアを更に小規模にし、商品のラインナップを日用品に多く割いているようなイメージの店だ。だが最低限ではあるが酒や煙草を除く嗜好品や書籍の類も取り揃えている。
セトラはそこで適当な新聞を立ち読みした。
(街一つが大規模な襲撃に遭ったら全国区のニュースになるはずだが……ねえな。あの騎士二人が適当抜かしてたわけじゃねえってことか。)
紙面には有名女優と男性アイドルのスキャンダル、大企業の不正会計問題の他、主要局のテレビ番組表や誰が買うのかよく分からない商品の広告などが載っているだけだった。
売り場に並んでいる他の出版社の新聞、週刊誌の類もざっくりと流し読んだが収穫はなかった。
続いてセトラは担当医であるマキシムに一言二言告げ、病院からほど近い公園へ移動した。現段階での運動能力を確認するためだ。
今朝、無理矢理に身体を動かそうとして魔力放出をした際には魔力炉心に凄まじい激痛が走り、呻き声を上げるだけでちっとも思い通りの動きができなかった。
だが今なら理解できる。アレは己の肉体に負ったダメージを理解しないまま、普段通りに魔力操作を行ったからの失敗したのだと。
(炉心で生成できる魔力量も、回路で調整できる魔力量も普段の比にならないくらい少ない。いつもみたいに瞬間的に魔力を作って操れるわけじゃねえ。負傷した炉心と回路に負担を掛けないように、ゆっくり丁寧な操作を心掛けろ。)
集中し、最初はごく少量の魔力を生成して外部に放出していく。尤も魔力は右から左へ漫然と流すわけではない。一度にどの程度の量を、どの程度制御しながら流せるのか確認するため、単純な行動だがかなり丁寧に行なっていく。
(生成量も放出量も平時の一割以下ってとこか。)
次にセトラは走り出した。大地を蹴り込む動作に合わせて脚部から魔力を放出し、放出の勢いを利用して走る速度を加速、続けて跳躍する。だが魔力放出による空中での急激な方向転換はできず、受け身を取って地面へ落下した。
(壁、柱、何か足場にできる物があれば跳躍の要領で方向転換もできるだろうな。)
服や身体に付いた土埃を払い、セトラは近くにあるベンチへ座った。
(いつも通りの戦いは全くできねえけど、完全に戦えないこともない。姉ちゃんから貰ったあの剣を取り返せれば、素手よりはマシな近接戦ができるかもな。)
だが前述の通り、彼には剣も金もなければ信用もない。
(ゴネて無理にでも取り戻す……は得策じゃねえ。剣が返ってきたところで俺の戦闘力が凄まじく上がるわけでもないし、騎士団と対立しても力技で強引に突破するのは現状無理だ。今は大人しく騎士団に協力し、信頼を得て穏当に済ませるのが後々にとっての最適解。その間にできることと言えば、体力付けて身体を鍛えておくくらいか。)
「よし、休憩終わり。」
立ち上がり、身体を伸ばす。
幸いにもこの公園には鉄棒や平行棒などトレーニングに適した遊具が数多くある。ジム代を節約するため、離邸での自重トレーニングしか行っていなかったセトラにとっては公園の方が器具的には充実さえしているほどだ。
まずは様子を見ながらリハビリがてら懸垂でもしよう。そう考えて鉄棒に近付いたところで、彼は公園をそそくさと横切っていく男児を見つけた。
黒髪の彼はパンパンに膨らんだリュックサックを背負い、胸に分厚い魔導書を抱えていた。
(あれは……死霊魔術関連の魔導書か。)
一目見てセトラは本の内容に合点がいった。同じ本なら幼少期に彼も読んで学んだ記憶がある。
(とっつきやすい入門書だけど若干具体的な手順の解説に偏ってるからなぁ……下手に省略とかアレンジするととんでもないことになるんだよな。それにあの子、どう見ても今からこっそり魔術を使いますって感じだし……どうする。声掛けてみるか。でも下手すると不審者になるし……)
逡巡。
「こういう時、姉ちゃんなら何をする……」
イメージする。
この場にいるのがアディプトであった場合、きっと彼女はすぐに少年に近付いていくだろう。そして「ちょいちょい、真昼間から死霊魔術なんてやるもんじゃないって。効率悪いよ?」とでも話しかけ、どうせ一緒に魔術を手伝うに決まっているのだ。
(それに、もう何もしないではいられねえよな。)
方針は決まった。セトラは公園の奥、小規模な林のある方向へ向かう子どもを追い掛けた。やがて辿り着いた場所は林の中でも少し開けている地点だった。
そこには三重の円に複数のシンボルを付け加えた魔術陣が石灰の粉で描かれていた。上記の魔導書に記述のある死霊魔術の一種、降霊魔術で用いる基本的な術式の一つだ。だがそこには一点欠落があった。
(マズいな。あの魔術陣には降ろした霊体を退去させるための術式が記述されてねえ。)
しかし止める時間はなかった。少年はリュックサックの中から取り出した長い毛を陣の中央に置き、魔力を陣へ流した。術式が発光し、降霊が実行される。
一秒も経たずして、陣の中央に黒い靄のようなものが現れた。四足を持ち、長い尾をだらりと下げて、それは少年の元へ近づいた。
「ビエリー……!」
少年の喉から縋るような響きが漏れる。
同時に靄は唸り声を上げ、彼へと飛びかかった。
喚び出した存在が喚び出したい存在だと必ずしもは限らない。そのため降霊術式、召喚術式の類は退去術式とセットで運用することがセオリーだ。その意味を理解せず退去術式を省いてしまえば必然、このような事態も起こり得る。
靄が牙を剥き、少年の首を噛みちぎらんと開口する。
それと同一のタイミングで、セトラは靄へ真横から魔力を纏わせた拳を叩き込んだ。
不意打ちをもろに受け、靄が吹き飛ぶ。
だが見た目ほどダメージは与えられていない。
(浅い。)
霊体のように物質の肉体を持たない相手に対し、原則として物理的な攻撃は大して有効ではない。聖剣、魔槍、妖刀などの伝説の武具、剣術や拳法を始めとする戦闘技能のように高い強度を持つ概念なら話は別だが、少なくともセトラ程度の生身の拳では霊体へ有効打を与えられない。
故に拳に魔力を纏わせていたものの、著しく出力が低下している現在では尚も力不足だった。
(しくじったな。とりあえず子どもから靄を遠ざけるために殴っちまったが、初手から停止術式を使っておくべきだった。)
ちらりと少年へ目を向ける。
彼は酷く怯えていて、且つ困惑していた。降霊してまで会いたかったであろう何かに襲われたのだ。暗い感情に呑まれかけていても無理はない。
だが相手にそんな事情を斟酌する理性はない。飛ばされた先から再び駆けてくる。今度は少年ではなく、明確にセトラを狙っていた。
(魔術陣の描き方からして、コイツを降霊させた魔術の階級は下級のはず。)
無駄遣いできるほど魔力に余裕はない。降霊魔術の基本原則に従い、同一階級の停止術式を実行する。
「
刹那、炉心と回路に痛みを齎しつつ、セトラの術式は発動した。その効果は他の術式を効果を停止させるというものであり、発動中の降霊魔術を停止させることで降霊をストップさせる狙いがあった。
けれども魔術陣は起動したままであり、靄は退去しなかった。
咄嗟にセトラは身を屈めて相手の飛びかかりを躱した。
(同じ低級の停止魔術を使ったのに降霊魔術の術式が止まらない?まさか降ろされた霊体が自力で降霊魔術を維持してるってのか..…?ありえねえ……)
直感的な閃きを魔術師としての常識が否定してしまいそうになる。
(いいや、ヤツに俺の下級の停止魔術は効かなかった。コレが現実だ。)
しかしすぐに現実をありのままに認め、セトラは次の手について考えを巡らせた。残る魔力を使ってこの子どもと一緒に逃げるか。一か八かに賭けて靄を退去させるか。両取りはできない。
(なら、逃げるのはなしだな。)
二度も同じ轍は踏まない。
セトラの気配の変化を感じ、靄がまたも迫る。
「彼方に沈み暮れ逝く遠天。星の黒き終焉。魔を飲み下し、現象を止めよ。
中級で様子見はせず、いきなり上級の完全詠唱を行った。セトラの魔術は今度こそ降霊魔術を停止させ、降ろされた霊体はそれに伴って元いた場所へ送り返された。
「ビエリー!?ビエリーが…...!」
一連の様子を見ていた少年は我に帰り、悲痛な声を上げた。
「...…ペットか?」
「そ、そうだよ!どうしてくれるんだ!せっかく降霊できたのに!!」
「あんな殺意高いペットがいて堪るか。それとも降霊魔術を使ってまで、お前を殺そうとするペットに会いたかったのかよ?」
「それは...…」
少年は俯く。彼とて靄がかつての愛犬ではないとすぐに理解していた。でも「もしかしたら......」と溢れ出した感情が靄への対処をさせなかった。
そして彼の感情が分からないセトラではない。
「どんな魔術でも一番大事なことは、失敗した場合の対処法を予めしっかり用意しておくことだ。俺の一番身近な師匠がよく言ってた。次に降霊魔術をするなら、ちゃんと、退去術式を...…組み込んどけ...…」
言っている傍から立ち眩みが起き、耐え切れずへたり込んだ。戦闘時特有の高揚感が薄れ、入れ替わるように倦怠感と眠気が襲ってきた。昨日のアディプトと同じ、魔力切れである。
それでも意識を途切れさせるな。気絶し、その間に全てがおかしくなったのだから。
(強烈...…っ。)
こうして気力だけで気絶を免れたが、彼は動けなくなってしまった。
「お、おい?大丈夫か?」
少年の声もどこか遠く聞こえる。
「はっ...…少し魔力が切れただけだ...…この程度、少し飯食って寝れば治る。」
「...…ぼくの家が公園から少し移動したところにある。そこまで歩けるなら、何かご飯を食べてさせられるし寝ててもいい。その代わり条件がある。」
「条件......?」
「多分、あんた魔術師だろ。ならぼくに降霊魔術を教えてほしい。」
「歩けだの...…魔術を教えろだの...…注文の多い子どもだな。」
微かに笑いつつ、セトラは少年を見上げる。
「ぼくはキリル、キリル・ポドブラチ。あんたは?」
「……俺はセトラ・アカ・グランロッサだ。」
その後、少し休んでから歩けるまで回復したセトラはキリルの案内で彼の家へ向かった。道中、夜明け前に朦朧と飛行している最中には気にも留まらなかった町の景観を眺めていた。
端的に表すなら中途半端な田舎だ。規模としてはロンドレイツより小さい。騎士団の詰所や病院以外に二階建て以上の建物はほぼなく、平屋の木造建築が目立つ。昼間だというのにかつて個人商店であっただろう家屋は殆どシャッターが下りている。住民の物資インフラは外から進出してきた大手チェーン店のスーパーマーケットに牛耳られているのだろうという所感を覚える、そんな町だ。だが特筆すべきは外観ではない。
「変わった場所だな。」
「どこが。ウスタリーなんてちょっと物騒なだけのただの田舎だよ。」
「物騒なっていうのも聞き捨てならねえけど、そういうことじゃねえ。マナも含めて全体的に他の場所と違う気がするな。」
「本に書いてあったけど、マナってのは空間に満ちてる魔力で、環境によって属性とかが変わるんだろ?ウスタリーに初めて来たなら、そりゃセトラの知ってる場所とは色々違うと思うよ。」
キリルの発言内容は妥当だ。
魔力には個々の生物が生み出すオドと、空間に漏出したオドや地脈の魔力などが混ざり合ったマナに分けられる。環境が変わればそこに住む生物も違うことから、マナと一口に読んでも全体的な属性や性質は環境によってまちまちだ。
当然、そんなことはセトラにも分かっている。彼はこれまで多くの場所に赴き、マナ組成の違いが与える影響を実際に肌で感じてきた。それらの経験を踏まえて、ウスタリーで発生している幾つかの事象は単にマナの組成だけに由来している出来事ではないと思えた。
(低級の降霊魔術とはいえ魔術陣が初学者に一瞬で起動できたことといい、低級停止術式で同階級の降霊魔術を停止させられなかったことといい、常に萎えらされてる感覚といい……何なんだこの町は?まるで全体が呪われてるみたいだな。)
疑問は尽きない。
それについて考えているといつの間にかキリルの脚は止まっていた。
「着いたよ。ここがぼくの家だ。」
そう言って指差した先は、平屋の多いウスタリーにおいて珍しい二階建ての住居だった。家の規模も隣家などと比べて少し大きい。また家の外からでも微かに魔力の反応がある。
キリルは鉄製の重いドアから帰宅し、セトラもそこに続いた。
「お邪魔します。」
一階の一番奥に行き、勾配のキツい階段を上がる。
「二階が研究室になってるんだ。」
「研究室?俺の離邸より設備がいいな。」
「魔術師をやってた父さんが残していったんだ。処分するにもお金が掛かるからそのままにしてて、それをぼくが使ってる。」
「親父さんはもう魔術師辞めたのか?」
「知らない。ある日、別の町で仕事があるって出て行ってから帰ってない。……父さんの話はいいよ。」
二階はワンルームであり、本と魔道具が所狭しと並べられているなど物置に似た様相を呈していた。だがこういった場所にありがちな埃臭さはない。
「適当な椅子に座ってくれ。」
促され、セトラは古い木の椅子に座った。
「ぼくはここにある本で魔術を学んだ。でも詳しい人がいなくて。」
「魔力操作とかは自分なりにやってたわけか。その割には術式を起動できてたし、いい線いってると思うぞ。」
「……基本は前、父さんから教わった。魔力の作り方とか。」
「なら、今から目の前で実際に魔力を作ってみてくれ。」
「何の術式に熨せればいい?」
「まずは魔力単体の属性や操作技能を確認したい。術式はその後からだ。」
「分かったよ。」
キリルは右手を虚空に伸ばす。直後に彼の掌から魔力が放たれた。
(光属性か。珍しいな。純度はそこそこ。基底状態ってところか。特定部位からの魔力放出はできてるし、基礎は大体習得済みだな。)
「魔力量に余裕は?」
「多分、もうちょっと。」
「じゃあ生成は一旦やめていい。」
キリルは腕を下ろした。
セトラは座ったまま彼に質問した。
「お前は今後も魔術を使いたいのか?それとも降霊魔術を成功させたいだけなのか?」
「変な質問。」
「大事なことだ。」
「分からない。……使えた方が便利なんだろうけど、今は降霊魔術を成功させるのを優先したい。」
「そういうことなら今晩……は少し厳しいか。明日の晩にでもできるだろうぜ。」
「いい加減なこと言うなよ。ぼくはさっき失敗した。そんなすぐにできるもんか。」
「いいや、あの魔術で霊を降ろすという現象自体は起こせていた。後は成功率を上げるための工夫をすればいい。もっと正確に陣を描いて、補助用の術式も用意して、降ろしたい霊が生前身に付けていた物とかが残ってればそれらをもっと陣の中央に置いて、そうすればきっと成功する。」
「成功しなかったら?」
「悪かった点を改善して、成功するまで繰り返す。」
「意外と地道だね。」
「どの魔術師もこんなもんだ。」
「じゃあ公園で使ったあの魔術も、いつも練習してるの?」
「してないからああなったんだよ。」
椅子から立ち上がると、セトラは棚にある蔵書の数々を見渡した。
「親父さんは……死霊魔術の研究をしてたんだな。」
「いつも死体を弄くり回しながらな。」
「そう貶すもんじゃねえ。死霊魔術は立派な魔術の一系統だ。」
「それは知ってるけど……」
「特に地下墳墓の探索をするなら、絶対にパーティには死霊魔術に長けた魔術師を入れた方がいい。」
「そんなに?」
「ああ。物質的な肉体を持たない相手は想像以上に厄介だぜ。集団で囲まれた時なんて目も当てられねえ。」
「でもさっき倒してた。」
「たった一体相手にそこそこ時間を掛けてな。俺もまだまだ未熟だ。……だから、ここに来てしまった。」
彼の横顔が少し影を帯びる。
冗談や嘘を言っているようには思えず、キリルはつい訊いてみた。
「グランロッサって東方の大きな貴族の家なんだろ。どう見てもこの辺の人じゃないし、もしかしてセトラは本当にグランロッサ家の人間 なの?」
「もしかしなくてもそうだな。」
「偽名かと思った。」
「ウスタリーの人って皆信じてくれないよな。そんなに説得力ないか俺?」
「説得力ないって言うか……何でここにいるのか分からない。ウスタリーに観光地なんてないし、別の貴族が住んでるわけでもないんだ。正真正銘ただの田舎なのに、何でわざわざ?」
「夜通し飛んでて気付いたらここの里山に墜落したっぽい。」
簡潔だが現実味のない説明をされ、キリルは不審がった。
「飛行機が墜落したならもっと騒ぎになるはずだ。」
「違う。俺は重力魔術が使えるから個人でも飛べる。で、知らない間に墜落してたんだ。」
「重力魔術って、嘘にしてももっとまともなのにしなよ。あんな極悪燃費の魔術が一個人に使えるもんか。」
「術式の起動にめちゃくちゃ魔力を食うだけで、維持自体は起動に比べたら楽だぞ。」
「冗談だろ。……やっぱり、あんた変な人だ。仮に大貴族で重力魔術の使い手だったらこんな田舎でだって名前くらいは聞く。でもぼくは一度だってセトラって名前を聞いた覚えがないよ。」
(またか。)
他方、セトラもキリルの言葉に引っ掛かりを感じた。
ウスタリーの地で目覚めて以来、セトラは一度も素性を明かして相応の扱いをされていない。キリルのようの口にされないまでも、グランロッサの家名を出した際に偽名を名乗っていると相手から思われている気配は薄々感じていた。聴取を行うため現れた地方騎士二名のみならず、病院で担当になった医師、看護師たちからも同じ気配がしていた。
尤も地方騎士であるジョレス・アルダーノフ、ノンナから疑惑の視線を向けられることはある意味で健全だとも思っていた。相手に応じて態度を変える権威主義的な動きは組織の腐敗を招く。国家秩序を護るため、逮捕権や捜査権を始めとする公権力の一部を持たせ、貴族から独立し、本質的には国家に属する警察機関の一つが地方騎士団だ。相手が貴族であろうと、疑わしい理由がある内は捜査の手を緩めず職務を全うすることは寧ろ地方騎士として望ましい。
(だけどキリルがこうも俺を疑い続ける理由がねえ。)
過去にセトラがグランロッサ領から離れた場所でやむを得ず戦闘を行った時、現地住民や地方騎士団と一触即発の事態に陥ったことがあった。しかし重力魔術を実演して名を名乗ると、驚くほどすんなり信用が得られたものだった。
ところがウスタリーの地で彼は一切信用されていない。例えばその理由が貴族相手であろうとまっすぐに職務に取り組もうという騎士たちの意識の現れでも、住民の猜疑心が強いわけでもないとしたら、どのような可能性が考えられるだろうか。
(そもそも最初から全員、俺や姉ちゃんについても知らない……?いいや、それだけじゃ身分証に異常が起きた説明が付かない。誰も俺たちを知らないことと身分証が虫食い状態になったことは繋がっているはずだ。)
やがてセトラが導いた結論は荒唐無稽でさえあるものだった。
「……もしかして、存在を抹消されたのか。」
ロンドレイツの駅前にてアディプトやセトラが交戦した、眼球以外の全てが虚白だった女。相手は口にした単語に応じた現象を起こす異能の力を操っていた。
変幻自在にさえ思える力を前にして尚、アディプトとセトラは殆ど回避や迎撃で対処できていた。だがそれぞれ唯一、相手の能力の影響を受けたであろう局面があった。アディプトはセトラが割り込みを掛ける寸前に「抹消。」と呟いた相手から接触されており、セトラは反応速度を超えた速さで接近してきた相手から同様の攻撃を受けてしまっていた。当時は特に異常を感じず即座に反撃を行ったのだが、実際はあの瞬間から二人の存在は言葉通り抹消されたのかもしれない。
相手は魔術ではない力を使っていたのだ。魔術の常識では考えられない現象が起こったとしても何ら不思議ではない。
「キリル。」
「何?」
「何個か質問させてくれ。分からないなら分からないと、素直に答えてほしい。グランロッサ家についてどこまで知ってる?」
「どこまでって、王国の東側の領土を収めてる大貴族の家ってことと、魔力神ソトノがご先祖様ってことくらい。この国の人なら常識だよ。」
「じゃあ次の質問だが、一年くらい前のラクオン竜害を知ってるか?」
「新聞とかテレビでかなり報道してたヤツなら。雑種の飛竜がたくさん出て、南側の地方がめちゃくちゃに食い尽くされた事件だっけ。大騒ぎなってたからよく覚えてる。」
飛竜は種族名が表す通り、飛行能力を有する竜だ。そしてラクオン竜害の原因は飛竜の中でも高い飛行能力を持つ亜種と、食欲旺盛な亜種との間に生まれた交雑種の飛竜だった。交雑種は一匹でも恐るべき戦闘力と機動力を有しており、更には集団で狩りをするという知恵まで身に付けていた。
そんな交雑種の拡散を防ぐため、王国では番外騎士や各ギルドで金級以上に認定された会員を始めとする討伐隊を編成。セトラとアディプトも討伐隊の中に加わっていた。
「当時の討伐隊について、各メディアで挙って取り上げてたはずだ。メンバーは覚えてないか?」
「えーと……一人が、番外騎士の……羽生えてる変な髪型の女……」
「パラさんだな。他には?」
「刀持ってるお爺さんと……ゴツくてデカくて黒い人……白衣着てる男……後は、ここの領主様のお嬢様だった気がする……」
「ジェイさん、ヴァルガン、グアリーレ博士、マーキア様……残りは思い出せないか?」
「いないような気がするけど……何で今この話題?」
「俺も色々と事情があってな、ちょっと確かめたかったんだ。」
(……やっぱりか。当時の討伐隊はその五人に俺と姉ちゃんを加えた七人が筆頭だった。それがこうも綺麗に記憶から抜けてるなんてな。)
「ちゃんと調べたいなら町の図書館にでも行けばいいよ。ウスタリーにはないけど。」
「そうだな。回復したらそうするつもりだ。」
二人が話していると、唐突に階下からドアの開閉音と足音がした。
「ただいま。キリル?いないの?」
呼び掛ける声は女性のものだ。
「あれ。母さん帰ってきたんだ。今日は遅いって話だったのに。」
「なるほど。お母さんか……」
セトラは顎に手を当て、数秒間黙考した。それからキリルを連れ、ともに階下に降りた。
「初めまして。お留守のところをお邪魔していました。キリルくんの友人の、セトラ・アカ・グランロッサと申します。」
(友達!?いつなった!?)
(キリルの友だちにしてはやけに大きいし……何で病衣?グランロッサ……?ええ……?偽名……?)
困惑するキリルと彼の母親を他所に、セトラはさも当然だと言わんばかりの態度を決しおて崩さない。めちゃくちゃな内容の言動でも態度さえ一貫すれば説得力は宿ると彼は知っていた。
「どうもね。二階にいたの?汚い家でごめんなさいね。」
「いえ、汚いなんてとんでもないです。こちらこそお留守中に上がってしまってすみません。」
意図して前後で情報量が全く増えていない会話を交わしつつ、キリルの母親がどういった人柄なのかを探っていく。
「キリル。どこでお知り合いになったの?」
「ええと……」
彼女からの質問を受け、キリルはどう返答しようかと悩み、ちらりとセトラの方を見た。
セトラはそのまま話せばいいという意味を籠め、こくんと頷く。
「実は――」
それからキリルは素直に公園から自宅へ至るまでの一幕を話した。
全てを聞き終えたところで、彼の母親は申し訳なさそうな顔になった。
「まあ……うちの息子がなんとご迷惑をお掛けしてしまって……」
「迷惑なんかじゃありませんよ。人を護るのは当然のことです。」
「そればかりか、降霊魔術のお手伝いまで……」
「俺も昔飼っていた猫が死んだ時、姉と一緒に降霊魔術を使った覚えがあります。いなくなったものに会いたい気持ちは理解できますから。」
「何かお返ししないと。」
「いえ、そんなお構いなく。」
「息子がこんなにお世話になった方に何もしないなんてできません。待っててね。今何か作るから……あ、でも今は入院してるんでしたっけ?ご飯とか食べない方がいい?」
「そうなんですが……」
瞬時にインナーマッスルで腹圧を掛け、腹をぐうと鳴らす。
「すいません。病院の食事じゃちょっと足りなくて。」
だが自演した素振りを一切見せず、はにかんだ笑みでセトラは応じた。病院で出された昼食を無理に食べた男とは思えない転身である。
「ふふ、じゃあすぐに用意しますね。」
「助かります。」
「その間、お茶でも飲んでくつろいでてね。」
彼女はダイニングテーブルに二人分の緑茶とチョコレートで覆われたチーズの菓子を並べた。
「ありがとうございます。」
セトラは一言告げ、テーブルに着くとすぐにそれらに手を付けた。菓子はチョコレートの苦味にチーズの甘味が組み合わさった濃厚な味わいがした。
「美味しいです。」
「よかった。シロークってお菓子なの。」
「……セトラ、そんなに腹減ってたの?」
「魔術使ったしな。魔力量がかなり落ちてて余裕ないし、すぐに空腹になる。逆にキリルは減ってねえのか?」
「ぼくは別に。」
(変だな。さっき魔力の状態を調べた時は残存魔力が少ないみたいなこと言ってたが、本人が気付いてないだけで案外魔力量が多いのか。)
それからニ十分程度で夕食が出された。
メニューは薄く切った黒パンのトースト、具だくさんの真っ赤なボルシチ、鶏挽肉のカツレツだ。
「いただきます。」
「お口に合うといいんだけど。」
彼は真っ先にスープを飲んだ。たっぷりのマカロニやキャベツと一緒に酸味のある赤く熱い汁を食す。
「……」
人の家で、自分じゃない誰かが作った飯を食べる幸せ。一口食べた瞬間、今まで人の家で食事を馳走された経験の数々がフラッシュバックした。ハク、メア、カウフ、フィーネ、ヴァネサ、ヨハナ、これ以外にもたくさんの人の家で出された食事でアディプトとセトラは大きくなった。誰かを助ける度、見返りをくれる人の善意が二人を成長させたのだ。
「うっ...…」
それなのに、そんな人たちを護らなくてならなかったのに、よりにもよって一番負けてはならない場面で負けてしまった。剰え最期に一矢報いることもできず逃げてしまった。
「ぐっ……」
目覚めてからずっと、核心的な事項については考えないようにしていた。でも心のどこかでは最初から理解していたのだ。あの状況で街から遁走したということはロンドレイツにいた人々を、護りたくて護るべきだった者たちを見殺しにする行為に他ならないのだ、と。
「ちくしょう……ううっ……」
ウスタリーに来て初めて人の優しさに触れた気がして、遂にセトラが抱えていた罪悪感のダムが決壊した。
彼女がどう思って夕飯を馳走してくれたかは分からない。キリルを助けたのはセトラのお節介でしかなく、彼女がセトラへ施しを与える義務はない。あくまでも仕事の一環としてセトラたちを助けたジョレスやマキシムたちとは違う。
その心遣いが思い切り刺さって、セトラは突如泣き始めた。
「え、ちょっとどうしたの!?」
「セトラ!?」
キリルたちは狼狽える。脈絡なく十六歳男性が号泣したのだから無理もない。
このような人たちを助けられなかった。散々助けてもらったのに。
(何で、俺は……)
アディプトを助けたことに後悔はない。
でもロンドレイツとあそこに住む人々を護れなかったことには後悔しかない。
「ごめんなさい。何か嫌なことでも思い出させちゃったかしら……」
「……いえ、違うんです。ただ、その、今までも色んな人に助けてもらったのに……俺は何も……返せないままで……」
嗚咽混じりに返答する。
何がセトラの涙腺に触れたのか、ウスタリーに来るまで何があったのかなど疑問は尽きない。だが彼が困難の果てにここにいることは察しが付いた。
「セトラさん。わたしにはあなたが何をしてきた人なのか分からない。でもあなたはわたしの息子を助けてくれたの。何も返せないんじゃない。あなたが先に助けてくれたから、わたしたちがそれに報いるんですよ。」
「……」
「ぼくはセトラに助けられたんだ。それで降霊魔術も手伝ってもらって……力になれるか分かんないけど、何があったか話してくれない?」
「……最初に言うけど、めちゃくちゃな話だって感じると思う。十中八九、そんなわけないだろって思うことも多い話だ。」
そう前置きし、セトラはロンドレイツが襲撃されウスタリーに逃げてくるまでの話をした。
キリルの母親もまたセトラやアディプトの名を知らなかった。だが彼女は相槌を打ちながら親身にセトラの話に耳を傾けた。
「つまりセトラさんもお姉さんも有名な貴族だったけど、変な連中に襲われて皆から忘れられちゃったってこと?」
「……忘れられたというより、そもそも最初からいなかったことにされたのかもしれません。なんとなくですけど、そう感じています。」
「そんなヤバい状況なのに何で公園にいたの?」
「いや……存在が消されてる可能性に気付いたのはキリルと話してる最中だったんだ。それまではその……身分証が明らかに異常だから疑われてて、ロンドレイツから結構離れてる場所だから皆知らないんだろうって思って……」
「騎士団に相談してみたら?」
「相談しようにも、身分証が虫食い状態でデータベースにも登録情報はないみたいで……何を言っても頭のおかしい男の戯言でしかないんです。」
「万事窮すね……」
「何かないの?絶対にグランロッサ家の人だって証明するような、グランロッサ家の人しか持ってない物とかは?」
「物じゃないけど、一応……」
「あの……ぼく、てっきりセトラはリハビリ中の暇な患者さんくらいに思ってて……そこまで大変なら降霊魔術の手伝いとかいいよ。」
「それはやるよ。やらせてくれ。美味い夕食もご馳走になったし、それまですっぽかしたら俺は……」
「だけど……」
想像を遥かに上回る悲惨な局面にいるセトラを前にして、キリルは自分が頼んだことではあったが降霊魔術の手伝いを固辞した。
「いいじゃない、キリル。」
だが母親はそれをやめさせた。
「セトラさんもこう言ってるし、人は何かやってないとダメな時ってあるから。ね?」
また彼女はセトラを見た。
頷きの後、彼は改めて言った。
「正直、何か人のためにしてないとどんどん腐っていきそうなんだ。キリルさえよかったら手伝わせてくれ。」
「……本当にいいの?」
「ああ。俺も誰かの役に立てる人間だって自信を付けさせてほしい。」
「じゃあ……お願いしようかな。」
「承った。」
こうしてぶれかけた明日からの予定を辛うじて定め直して、セトラはキリルの家を去った。
「セトラの過去は知らなくても、セトラが凄そうな魔術師だってことは今日一日で分かったよ。ぼくはセトラのこと、信じてみるから。」
「セトラさん。色々大変なことばかりで不安でしょうけど、気を落とさないでね。何かあったらすぐ相談してみて。」
帰り道、ポドブラチ一家の暖かさを思い出してまた少し泣いた。
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