暗中模索篇

第2話 まるで異世界の如く

 朦朧としたまま、ひたすらに飛び続ける。遠くへ、もっと遠くへ。決して追って来れないほど先へ行かないと。そんな危機感の裏側で、同じ情報が幾度も脳内を巡る。


「大変美味でございました。まるで住宅地の裏を細々と流れる溝の如き珍味です。」


 山で殺した、白いタキシード姿の巨漢。


「質問。アナタはソトノの係累ですか?」


 駅前で殺した、虹色の瞳を持つ女。」


「聢と目に焼き付け、そして死ね。これが純然たる神の御業だ。」


 殺せず、逃げることしかできなかった、嘴のような仮面を被った存在。


 あの脅威について分かっていることはただ二つだけだ。


「照覧、申請、承認、天恵。」


 第一に、連中は魔術ではない異能を使うということ。単語か、それらの羅列に付随して発生する現象は魔術とは異なる法則の則っている。


「滅ぼせ――」


 第二に、連中は明確な敵意を持ち、組織的にロンドレイツを襲撃をしたこと。四箇所から花火を打ち上げ、こちらの戦力を分散させた上で各個撃破を目論んでいた。それはあの襲撃が衝動的な行動ではなかったことを示唆している。


 何故?敵の正体は?先ほどから微動だにしなくなった姉ちゃんは無事なのか?考えても考えても答えはなく終わりもない。


 だが体力と魔力は別だった。精神的なものも含めた疲労が限界に達し、意識が薄れていく。魔術で発生させたものではない、星来の重力による干渉の比率が高まっていく。言葉通り、墜ちていく。


(せめて……)


 ぎゅうと左腕に力を込め、姉を固く抱き締める。もうそれくらいしかできなかった。


 そして未明、二人はウスタリーの山中に墜落した。


 ▽ ▽


 開け放った窓から入り込む草の香り。風で揺れたカーテン同士が擦れる微かな音。消毒液の匂い。覚えのない枕の感触。


「……ぁ。」


 朱殷色の髪を持つ背の高い青年――セトラ・アカ・グランロッサが目を覚ました場所は見知らぬどこかの一室だった。


「姉、ちゃん……」


 半ば譫言のように口走った直後、一気に昨日の記憶が蘇った。


 奉穣祭の一日目が終わり、ふと起きた夜中の一幕。誕生日でも何でもない日に深夜テンションで姉に指輪をあげたこと。予定外に打ち上がった花火。巨漢と激戦を繰り広げ、虹色の複眼を持つ女との死闘を制し、最後に現れたこの世ならざる者たちから遁走した記憶。姉を抱えたまま、ひたすらに飛び続けた。そして一体、どこに辿り着いたのか。


「姉ちゃん……!」


 意識がクリアになっていく。


 周囲を見渡すと、部屋には壁際にセトラが寝ているベッドが一床だけあり、他は折りたたまれた状態のパイプ椅子や簡素な棚、小さなテレビが置いてあった。だが少なくともここに姉の姿は見えない。


 セトラは彼女を探すためにベッドから降り、そして倒れた。ベッドから降りた瞬間、膝から先が自分の身体ではないように力が抜け、動かなくなったのだ。それからたったこれだけの動作で酷く息切れした事実に気付いた。


「クソ、動け……!」


 リノリウムの床を匍匐する。しかし僅かに前進するのみで、あろうことか息から血の味がした。やけに心臓が煩く、全身の筋肉や内臓から鈍い疼痛が走る。


(だったら魔力で――)


 体表面から魔力を噴出し、その勢いで無理矢理身体を動かそうとする。その瞬間、右胸部にある魔力炉心がナイフで刺されたかのように酷く傷んだ。日常でのアイドリング状態よりも少ない量の魔力しか生成できず、その程度の魔力出力で物体を動かせるわけもない。


「――!?っ、あああっっっ!!!」


 激痛のあまり、情けなく呻き声を上げてその場で動けなくなった。


 セトラの大声を聞いて部屋の向こうから何人かが走ってくる足音が聞こえた。


(マズイ……またあの白い連中だったら……!)


 最悪な想定が脳を掠める。現状ではとても戦闘はできず、逃走さえ不可能だ。


 だが部屋に入ってきたのは心配そうな顔をした看護師たちだった。


「大丈夫ですか!?」


「先生呼んできて!」


 看護師らに支えられ、セトラはベッドに戻された。


 そこで彼は初めてここが病院であり、いつの間にか自分が淡い緑色の病衣に着替えさせられていたことに気付いた。


 それからほどなくして背の低い、禿頭の医者が現れた。医者はセトラの容態を軽く診て、ベッドの脇にパイプ椅子を出して座った。


「今から何点か質問をします。深く考え込まず、分かる範囲でいいので素直に答えてください。まずお名前は言えますか?」


「……セトラです。セトラ・アカ・グランロッサと申します。」


「年齢は何歳でしょう?」


「十六歳です。」


「ご職業をお聞きしても?」


「学生、高校生です。」


「ご一緒にいた女性については何かご存知ですか?」


「姉です。名前はアディプト。ミドルネームや苗字は俺と同じです。」


「何故山中にいたのか、お話しできますか?」


「墜落したんです。重力魔術での飛行中に。」


 医者は聞き取った情報を手元の問診票に記入していく。


「重力魔術ですか?あの効率の悪い魔術ですよね?」


「はい。」


「何故飛行していたのですか?」


「……故郷から逃げてきました。」


 必要事項を書き終えたところで、セトラは堪らず質問した。


「姉は今……どうなっていますか?」


「無事ですよ。別室で入院してもらっています。」


「会わせてください。」


「……決して取り乱さないようにお願いします。」


 随分と不穏な前置きだ。


 数分後、セトラは車椅子に乗せられて移動した先で医者の前置きの意味を痛いほど理解させられた。


 真紅の長髪が殊更に目を引く美しい女性――アディプト・アカ・グランロッサはガラス張りの部屋にいた。しかし普段の快活さは一切なりを潜め、無数の魔道具と接続された状態で眠っていた。彼女の美しい顔には生気が乏しく、目を凝らせば微妙に上下している胸が辛うじて生存を示唆している。


「姉ちゃん……っ!」


 車椅子から立って駆け寄ろうとし、さっきと同じように崩れ落ちそうになる。だがどうにか肩を窓ガラスに押し付けるようにして姿勢を保ち、同じ轍は踏まなかった。


「何が!?何があったんですか……!?」


「魔力炉心と魔力回路に重篤な損傷が発生していると考えられます。恐らく炉心で本来生成できない量の魔力を無理やり生成し、その魔力を許容量を超えて回路に流したのでしょう。殆どの場合、魔力炉心と魔力回路は発達段階で互いの影響を及ぼし合っていますから、片方に無理をさせればもう片方が無事では済みません。」


 医者を説明を受け、セトラに当てはまるシーンが幾つも思い浮かんだ。


 駅前へ戻る最中、爆発と同時に炎上した駅前の上空に現れた無数の巨大な岩の柱。また虹色の複眼を持つ女との戦闘中、相手の注意を逸らすために出現させた隕石。あれらはどちらも覇級に分類される魔術による生成物だ。もっと遡れば海竜デヴォラーレ討伐作戦中、海峡を封鎖するために生成した岩山も同様のランクに属する。そして覇級魔術の発動で必要になる魔力量は絶大であり、アディプトでも一日に何度も連発できるような魔術ではない。


「また全身の至る箇所で切創、擦過傷、打撲傷が見受けられました。今は全身で発生したこれらの損傷を回復させるため、生命力を著しく消耗している状態にあります。意識が覚醒しないのも恐らくそれが原因でしょう。」


「……」


「この状態では薬品や回復魔術を用いても芳しい結果は得られません。あれらは人体の生命力を利用して回復するため、消耗した肉体を回復しやすい状態へ整えるものだからです。ですが今はそもそもの生命力が枯渇しかかっています。まずは栄養と水分を補給し、人体の生命力を回復させることが最優先です。投薬やリハビリはそれから徐々に、決して無理をしない範囲で行っていきます。そしてそれはあなたも同じことですよ。セトラさん。」


「……」


「あなたもまた魔力炉心と魔力回路にダメージを負っています。元々の魔力炉心と魔力回路がより大きな出力に適していたからこそ昏睡は免れていますが、生命力も含めてかなり消耗している事実に違いありません。暫くは安静にして、生命力の回復を待ちましょう。」


「……」


 セトラは自身の唇を噛み締めた。


「さあ、病室に戻りますよ。」


 看護師らの手を借りて車椅子に乗せられ、彼は自らの病室へと戻された。大して寝心地のよくない薄いベッドに横になり、視線は虚ろに天井を向いていた。


(俺のせいだ……)


 昨夜、アディプトを一人で市街地に置き、罠だと察しながら単身で山に向かった。白いタキシードの巨漢を倒して戻ってくるまで、彼女はあの得体の知れない連中と一人で戦う羽目になった。セトラが戻ってきてからも、彼女は敵の隙を作るためになけなしの魔力で覇級の土属性魔術を行使した。もしも最初から彼女と一緒に戦っていれば、ここまでの負担を強いらせずに済んでいた。


(俺が姉ちゃんを……)


 分担していたとしても、あの虹色に輝く目をした女に遅れを取っていなければアディプトが隙を作る必要はなかった。


(それに、ロンドレイツはどうなった……)


 記憶に残る最後の光景は、視界の端で敵が出現させた光に呑まれていく姿だ。光には接触した傍から物体を消し飛ばしていく性質があった。あんな光に呑まれて街が無事であるはずがない。仮にセトラが万全の状態であったとしても、あの光を完璧に無力化できたかは定かではない。


 故にセトラはアディプトを連れて遁走した。勝てる見込みがなかったとしても、それでもきっと戦うべきであったのに。


 たらればの話をしてもしょうがないと分かっていても、セトラの頭の中でぐるぐると後悔が輪廻する。


 その時、唐突に病室のドアがノックされた。


「失礼します。」


 セトラの返答を待たずに現れたのは二名の男女だ。赤を基調とした上下で統一感のある衣服、襟元に付けられた複数の徽章、腰に帯びた短い直剣などの特徴は二人の所属が地方騎士団であることを示している。


「コミュニカッツア領地方騎士団ウスタリー支部所属、ジョレス・アルダーノフです。」


 フレームの細い眼鏡を掛けている、覇気のない顔をした男。


「同じく地方騎士団ウスタリー支部所属、ノンナ・トマシェフスキーでぇす。」


 色の濃い金髪をボブカットにした、騎士らしくないギャル風の若い女。


 それぞれ独特な雰囲気を放つ彼らに続き、セトラに容態について説明した医者が現れた。


「セトラさん、こちらの方々があなたたちを山中から病院まで運んできたんですよ。」


「そうだったんですか。……この度は姉ともども助けていただきましてありがとうございます。セトラ・アカ・グランロッサと申します。」


 セトラはベッドを降りて挨拶しようとした。


 しかしそれより早くノンナがツカツカとブーツを鳴らして近づいてきた。そのまま彼女は紺碧に煌めく大きな瞳で、至近距離からセトラと目を合わせた。


 この時、彼女の眼球から微かに漏出する魔力を彼は感じ取った。


「センパーイ、とりあえず嘘言ってないっぽいですぅ。」


 五秒ほどじっくりと見つめた後、ノンナはぱっと離れた。


「いきなり失礼しました。」


 代わりにジョレスは軽く頭を下げた。


「魔眼……ですか?」


「そうですよぉ。詳しいですねぇ。じゃあやっぱり記憶とかに問題はない感じです?マキシム先生の話だと意識は正常って話でしたけどぉ。」


「いきなり魔眼を向けられるようなことをした覚えはないですが。」


「では、これにも見覚えはありませんか?」


 ジョレスは懐から透明なビニール袋に入れた状態で運転免許証を取り出した。


 だがそこにはグランロッサという家名が記載されているのみで、セトラの名前はおろか写真も住所も一切記載されていなかった。


(は?何だこれ?)


「これは当方が山中であなたたちを発見した際、あなたが携帯していた財布の中から発見した物です。この他に携帯していた国営ギルド会員証や初生雛鑑別師免許と思わしき物は現在調査中です。」


「!?」


「しかも運転免許って表面の刻印だけじゃなくそれ自体が魔道具の一種でぇ、個人情報とかが登録されてるんですねぇ。でもあなたが持ってた免許っぽい物には家名以外のデータが入ってなくてぇ、騎士団で照合したんですけどそんな不完全なデータはデータベースに登録されてないんですよぉ。」


「そこで当方はあなたたちの身元調査を行うために来たんです。」


 その後、ジョレスたちはセトラに対して名前、生年月日、住所、職業、両親の名前、山にいた経緯などの聴取を行った。概ね起床時に医師から質問されたものと同一の内容を、より深堀りしたような聴取だった。


 対するセトラは特に嘘や誤魔化しはしないで答えたものの、要所要所で「本当に真実を話しているのか?」という圧を感じていた。


「全て事実を話しています。奉穣祭一日目が終了した日の深夜、ロンドレイツは何らかの異能を使う集団に襲撃されました。姉と二人で迎撃を行い、数人は対処できたのですが……最終盤で敵の増援があり撤退を余儀なくされたんです。教えてください。あの街は今、どんな状態にあるんですか?」


「ロンドレイツが襲撃されたというニュースは特にないと記憶していますが、一応明日までにそちらの情報も調べておきましょう。……では、本日聴取した内容を基に今後あなたたちの身元調査を行います。大体平日は毎日夜の八時くらいまで騎士団の詰所にいるので、もしも何か思い出したことや気付いたことがあれば遠慮なくすぐ教えてください。」


「明日は朝の九時くらいにまた来ますぅ。じゃあ今日はお疲れ様でしたぁ。」


 こうして一時間ほどの聴取を終え、セトラは酷く気疲れしてしまっていた。状況があまりに飲み込めていなかったからだ。


「……」


 現状において不審な点は二つに大別できる。


 第一に、不自然なほどセトラたちがグランロッサ家の一員である事実を疑われていることだ。グランロッサ家の次期頭首には数年前にセトラが内定し、セトラに実力が付く以前はアディプトが家督の継承権を保有していた。貴族だけでなく王立騎士団などの公的な団体に関連する人々にとってもかなり有名な話である。


 第二に、壊滅的な被害を被ったであろうロンドレイツの情報が騎士団にすら入っていないことだ。国民の混乱を避けるためにマスコミに対して報道規制を要請する場合もあるが、それにしても近隣の騎士団にまで情報が回っていないという事態は考えにくい。


(妙だな……何もかも。)


 年齢の割にしっかりしているとはいえ、セトラもまだ十六歳になったばかりの少年であり、他にも悩ましい問題が山積みのところにこの仕打ちである。一人になってからずっと溜め息が止まらない。


「やってらんねえ……」


 せめてアディプトが起きていれば同じ境遇の者同士、まだ愚痴りようがあったが彼女は昏々と眠り続けている。


「姉ちゃん……」


 もういっそのこと、密かに彼女を攫って町を去ろうかという考えまで浮かんでくる。貴族としての在り方を全うできず、周囲から貴族として認められない以上、貴族らしい振る舞いを続ける理由はない。アディプトさえ無事でいるならもう構わない。


(……なんて、そんなことを姉ちゃんが許すわけねえか。)


 一瞬でも湧いた考えを自嘲する。騎士団との対立は百害あって一利なしだ。安易に今後の道筋を閉ざすような選択をするべきではない。しかし具体的に今後どのように立ち回っていくべきか。考えがまとまるわけでもない。


 宙ぶらりんの思考じみた行為を反復していると、不意にコンコンと再びドアがノックされた。


「セトラさーん、お昼ご飯ですよ。」


 朝にも会った看護師がキャリーワゴンを押して部屋に入ってきた。彼女はベッドに備え付けられている折り畳み式のテーブルを展開し、そこへ昼食の乗ったトレーを置いた。


 メニューはライ麦から作られた黒パン、トマトスープ、牛乳だ。


「食べ終わったらテーブルの上にそのまま置いててください。後で取りに来ますから。」


 もっと昼時になったところで不思議と空腹感は全くなかった。かと言って満腹なわけでもない。試しにそれぞれ一口ずつ齧ってみる。どうやら肉体が食事を受け付けていないようだ。


(先生の話だと今は食事で回復する段階らしいが……参ったな。全然食う気になれねえ。けどせっかく出してもらった物を残すのもなあ……)


 適量で、決して不味いわけではない食事を前に考える。


(まあ、食えばその分早く回復できると考えれば……)


 そしてスープや牛乳でパンを流し込み、機械的に食事を済ませてからセトラは病室を出た。思考だけではない。色々な流れが行き詰っている感覚を覚えたからだ。このような状況では何をするにもやる気なんて湧くわけないが、萎えて何もしなければ何一つとして変えられない。そこで彼はアディプトの顔を見に行った。車椅子は使わなかった。少しずつでも動かなければ体力も筋力も衰える一方だ。


 ガラス張りの部屋の前に行くと、中では相変わらずアディプトが死人めいて眠っていた。昨日までのように様々な表情を浮かべ、その都度異なる雰囲気を漂わせていた彼女ではない。普段離邸で寝ている時ともまた違う、生命感に乏しい寝顔だ。けれど集中すれば微かに、とても小さくか細いものの彼女特有の魔力の波長を感じられた。まだ彼女は生きている。生きようとしている。


 故にアディプトが目を覚ました際、これ以上彼女に負担を掛けないように備えておく必要がある。


(なら俺がしょげてる暇はねえよな。)


「行ってくるよ。姉ちゃん。」


 起床してから先ほどまでの覇気のなかった目とは違う、僅かに意志の籠った目になってセトラは彼女の病室を後にした。

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