かつての二人はすごかった

んほお

プロローグ

第1話 二人が最後にすごい時

 人を護ること。それは己の血に課せられた義務だ。殊更に意識するようなことでもない。


「セトラ。我々が何故貴族なのか。その理由を考えたことはあるか?」


 折に触れて父親は貴族であることの理由を説いた。英才教育のつもりだったのか。好きな話題だったのか。きっとどちらもであったのだろう。


「ただこのグランロッサ家に生まれたからという答えでは不正解だ。出自を理由に流されるがままの生き方を是とした覚えはない。」


「自らを律して多くのものを背負い、生命を、国を、世を護るため、未来のために戦う貴い在り方を自らに課すが故に貴族になる……だろ。もう覚えちまったよ。」


 対して年不相応に怜悧な顔付きをした少年は、その暗誦できるほどに刷り込まれてきた観念を述べた。


「覚えるくらいでちょうどいい。常に貴族らしく在り続けようとすることが肝要なのだ。」


 父親は満足そうに目を細め、角張った手で息子の赤黒い髪をわしゃわしゃと撫でた。


 一方、家族団欒中に突然入った積極臭い時間に辟易する者たちは少年以外にもいた。


「アンタ、いっつも同じ話してるわねぇ。いい加減セトラの耳にタコが出来ちゃうじゃないの。」


「やめてあげなよママ。パパはこれ以外しょうもない話しかしないんだから。格好付けてる時ぐらい好きなようにやらせてあげようよ。」


 母親と、少年の姉である。髪色こそ漆黒と真紅で異なっているものの、二人は長い髪と美しい容姿以外に価値観も似通っていた。


「コラそこ!父から子へ教えを授けているところに茶々を入れるな!父の威厳が崩れる!」


「だったら貴族がウンタラカンタラ以外で実りある話をしてみなさいな。あんまり抽象的なことばっか言ってると一周回ってバカに見えるわよ?」


「同じ深い話をずっと擦り続ける人は浅いよね。」


「ぐぬぬ……」


 女性陣から容赦ない物言いを食らい、彼は歯噛みする。


「……しかしだなアディプト、お前にとっても常に心に留めておくべき大切な話だ。」


「あー、そういう堅苦しいのはパス。もう継承権はセトラくんに移ったし、そしたら私はどっかの貴族とくっ付いてグランロッサ家じゃなくなるでしょ。」


「名前が変わろうと、立場が変わろうと、変えるべきではない在り方はある。大体の貴族は特権を傘にして好き勝手にやり始めると没落するのだ。他の貴族に付け入れられたり、普通にやらかしたりして責任を取らされたり、それと領土経営が破綻するのを何回も見てきた。領民との良好な関係が貴族の生命線と言っても過言ではない。」


「って言うか、貴族でいるつもりもないから安心しなよ。」


 突如として娘から出た爆弾発言に父親は狼狽える。


「何を言う!?」


「そういう義務とか責任って重いんだよね。私がどうにかできるのは私の魔術が届く範囲だけだし。」


「それでも持てるリソースの全てを費やして未来を護るために動く。それが貴族だ。」


「だからその範囲じゃ好き勝手は赦さない。」


 その時の彼女には有無を言わせない凄みがあった。


「ははっ。」


 その様子を見て少年は思わず笑ってしまった。


「どうしたの?セトラくん。」


「らしくないこと言って、結局誰よりもらしいんだ。天邪鬼にもほどがあるだろ。」


 これがグランロッサ家の日常風景だ。父親が格好つけようして息子を巻き込み、そこに母親と娘が冷静につっこみを入れる。将来を憂いて父親は娘にも在り方を説くが、そうされるまでもなく娘は自身の在り方を定めており、突慳貪な言葉で言い返す。言葉の節から棘が伸びているが、誰も相手を傷つける意図のない穏やかな時間が流れていた。


 そんな家族から惜しみない愛情を注がれ、二人の子どもたちはまっすぐに育っていった。


▽ ▽


 ある初夏の昼下がり。グランロッサ領内のとある高校で四時間目の授業が終わり、昼休みも半ばに差し掛かった頃。


 東向きに開いているコの字型をした校舎は渡り廊下を介して西側に体育館、南側に多目的棟と接続されている。


 その多目的棟一階の学生食堂にて、四人のグループが長机の端で固まっていた。尤も既に全員食事を終えている。しかし教室に戻ることは億劫であるため、そのままの席に留まって益体のない話をしていた。話題は仲間内で流行っている漫画についてだ。


「ヒロインの正体はあの毒殺怪人ヴェノムで、これまで作る料理がヤバかったのは割と本気で主人公を毒殺しようとしてたからだったんだ。」


 乾いた血に似た赤黒い色、朱殷色の髪をジェルでオールバッグにしている青年――セトラ・アカ・グランロッサは極めて真面目な顔をしながら最新話のネタバレを行った。彼の表情たるや、今この瞬間を写真にでも撮れば全国学生サミットの議長として議論を回している真っ最中だと説明されても疑う余地がないほどである。


「ヒロインが飯マズか……そう言えば、前にセトラたちの掘立小屋に泊まった時、出されたスープが腐ってたよなァ。」


 一方で彼の隣にいた茶髪でツーブロックの青年は懐かしむように言った。


「何度も言うがあれは俺のせいじゃねえぞ。姉ちゃんが鍋を常温で放置したから、いつの間にか腐ってたんだ。それに途中までハクも旨い旨いって食ってただろ。」


「食い物は腐りかけが一番旨いモンだ。そしたらセトラが青い顔して酸っぱい感じには味付けしてないって言ってよォ、あの時は結構笑ったぜ。」


 セトラの正面にいる華奢な青年、対角線上にいる坊主頭の青年は口々にセトラとアディプトのエピソードを口にする。


「逆にセトラとアディプトがウチに泊まりに来た時、二人とも鬼気迫る顔で魚を貪っていたな。あの後、ウチの母親が割と本気でしっかり飯を食べられているのか心配していたぞ。」


「おれが遊びに行ったら急に掘立小屋の屋根が吹き飛んでいったな。」


 しかし当事者のセトラにとっては特におかしなことではない、ありふれた過去の話だ。


「掘立小屋言うな。離邸だ離邸。姉ちゃんと頑張って直したんだぞ。皆から廃材とか貰って。」


「そう言えば、オマエらはいつまであそこに住み続ける気だ?グランロッサ家じゃ確か成人までは離邸で子どもだけで生活させるらしいけど、オレらはもうすぐ十六歳だからとっくに成人済みだろ。」


「確かにロマンフォルクス王国では十五歳から成人として認められてる。けどグランロッサ領だと基本的に十八歳までの男女は高校に通うようになってるから、それに合わせて十八歳までは家の認識上子ども扱いだな。だから俺は後二年強、姉ちゃんは来年の三月には離邸を出るよ。」


「しかし離邸を出るだけで引き続きロンドレイツには残るのだろう?」


「俺はどうなるか分からねえけど、少なくとも姉ちゃんはグランロッサ領を出ていく。」


「マジかよ。まさかあのアディプトが結婚とか?」


「違う。王都帯にある学校へ進学するんだ。ロンドレイツからゼレハフトへは大体二千キロの距離だし、実家から通うのは無理だからな。」


「王都帯の学校だと……まさかゼレハフト魔術学院か?」


「ああ。」


「そこならおれでも知ってるぞ。すごい難しい魔術の学校だったよな。」


「過去問を見てみたが、少なくとも今の俺じゃ殆ど分からなかった。よく受かったもんだ。」


 コップに水を注ぎ、静かに飲んだ。


「すげえなァ。でもシスコンのオマエ的にはどうなんだよ?やっぱり出て行かれるのは嫌な感じ?」


「別に。後、シスコンでもねえ。……最近の姉ちゃんは離邸にいると食っちゃ寝ばかりだから、家事分担は殆ど俺がやってるんだ。逆に一人の方が楽でいい。」


 友人たちの手前、セトラはつい強がって話してしまう。


 それを話題の中心に上がっていた乙女――アディプト・アカ・グランロッサは聞き逃さなかった。両腕と手の動作のみで術式を組み冷却魔術を発動させると、艶々とした真紅の長髪を揺らしながら後ろからセトラへ近付いた。


「おうおう。随分と言ってくれるじゃないの。誰が食っちゃ寝だってー?」


 そして両手で無防備なうなじを後ろから掴んだ。


 突然首元に氷の塊で挟まれたような感触を受け、彼は振り向きざまに激しく狼狽えた。


「うわっ、ちょっ、突然やめろよ!」


「だったらセトラくんもカッコつけて強がり言うのはやめなさい。女の子のプライベートはあんまりベラベラ言い触らすもんじゃないよ?」


「地獄耳め。」


「アハハ、最近は疑似的に神経系も強化してるからね。短縮レド加速アクツェルで瞬間的に神経信号自体を加速させてるの。光属性の術式じゃないからセトラくんにも真似できるよ。」


 ほっそりとした白い指を己の耳に向け、アディプトは悪戯っぽく笑って見せた。ドッキリ大成功とでも言いたげな表情だ。真顔でいると母親によく似た美人な彼女だが、浮かべる表情には子どものように無邪気なものが多い。


「聞いたぜアディプト。ゼレハフトの学校に進学するらしいじゃねえか。」


「水臭いな。分かっていたなら教えてくれてもいいだろう。」


「ごめんごめん。合格通知が昨日届いたばかりでさー、まだ全然バタバタしてるんだよ。それで皆に言い忘れちゃって。」


 冷却魔術を解いて両手を合わせ、謝意を伝えるポーズを取る。


「けど、来年にはアディプトがいないと思うと、なんだかなァ。」


「何?もしかして寂しいの?」


「そりゃあ子どもの時から一緒に遊んでたヤツが王都帯に行くんだ。ちったァは思うところがあるぜ。領内に住むヤツならオレみたいなのは大勢いるさ。」


「遊んでいなくとも、二人に感謝している人の数も多いだろう。グランロッサ領でトラブルが起きればまずアディプトを抱えてセトラが飛んでくる。前に沖合で漁船が難破した際、二人に駆け付けてもらえなければウチの親父諸共きっと死んでいたはずだ。」


「親にエロ本が見つかった時、二人も一緒に謝ってくれた。あの恩は忘れない。」


「ちょいちょい、そんないきなり昔話してヨイショしないでよ。むず痒いって。」


「少し思い出しただけでもこんなエピソードがゴロゴロ出てくるくらい、オマエらはオレたちと一緒にいるってことだ。……ヨシ。ならアディプトの合格祝いに、来週の休みにでも祝勝会やろうぜ。」


「いいね。でも午前中は漁に出ているし、午後からなら問題ないよ。」


「おれはいつでも暇だ。」


 唐突に降って湧いた祝勝会について、友人たちはあれやこれやと話を進めていく。


 しかし参加したくても参加できない理由がセトラたちにはあった。


「悪いが、俺たちは祝勝会はパスする。」


「え?オマエら飲み会好きだろ?」


「そうだけど今の時期はダメなんだ。奉穣祭の準備で忙しい。」


 すると三人は一瞬納得したような表情になり、次に疑問符を浮かべた。


「去年よりも準備早くね?」


「ああ。開催日程は据え置きのまま、グランロッサ家の準備が前倒しになったんだ。」


「どうしてだい?昨年だって十二分に派手で規模も大きかったし、何より楽しめた。例年通りのスケジュールに問題があるとは思えないよ。」


「あー……それ、私のせいなんだよね。ほら、来年にはもうロンドレイツにいないからさ。それでパパがやる気出しちゃって、私とセトラくんが揃ってガッツリ参加できる最後の奉穣祭だから過去最高のパフォーマンスをしろってことになったの。」


「そういう理由で、ここ最近は連日連夜練習してるんだ。せっかくの申し出を断って悪いが、今回は見送らせてくれ。」


「皆ごめんね。」


「まあ主役が来ないならやる意味ねえしなァ……だったら、奉穣祭でパフォーマンスが終わってからの自由時間があるだろ。そこでいつもの面子で固まって飲まね?」


「それなら俺は大丈夫だな。姉ちゃんは?」


「私の友だちも呼んでいいなら。」


「人数多い方が楽しいよな。」


「もちろん構わない。」


 その時、昼休みが終了する五分前を告げる予鈴が鳴った。


「じゃ、私はそろそろ教室帰るね。」


 小さく手を振り、アディプトは小走りで食堂を出た。


「そう言えばアディプト何しに来たんだ?」


「さあな。」


 五時間目の科目は世界史で、六時間目の科目は数学だ。腹も満ち、眠気が襲ってくるタイミングで学習するには不適な科目たちを前に、セトラたちは気怠げに教室へ向かった。


 そして放課後になってすぐセトラは教室を後にした。校舎の昇降口は学年問わず共用しており、ちょうど下足へ履き替えたところでアディプトと会った。


「今帰りか。」


「セトラくんはハクたちとは遊んでいかないの?」


「アイツらは今日クラブ活動があるからな。一人で帰ろうとしてたなら一緒に飛ぶか?すぐに着くぞ。」


「うん。早く戻って練習したいし。」


 上履きを個々人に割り当てられている下駄箱に入れ、二人は昇降口の正面からやや逸れたところに移動した。


 そこでセトラは背負っていた鞘から特徴的な直剣を引き抜いた。


 それは鋭い切先を持つ片刃の剣だ。刃体は平均的な直剣と比較してやや細長く、黒と近似した藍色、勝色という名の色彩を帯びており、向こう側が朧げに透けている。


「ちゃんと捕まっとけよ。」


 彼は左腕でアディプトを固く抱いた。


「分かってるって。」


 一方の彼女はセトラの背中へ腕を回して抱き締め返す。


 それから彼は己の剣に魔力を流し、重力魔術のスペルを詠唱した。


「彼岸へ墜ち逝く遠天に告げる。星の昏き終焉へ挑む。地の軛を取り除き、我らの身を攫え。超級ソィロ・ミスティカ自由落下リベーラファーロ。」


 直後に二人の身体は地球由来の重力から解き放たれ、頭上に生じた重力核へ引き寄せられる形で宙に浮き上がった。すぐに校舎以上の高度へ達すると、今度は自宅のある方向へ向かって重力核の座標と重力の強さを調整。目的地へ向かって二人は平行に落下していく。


「姉ちゃんが直帰なんて珍しいよな。何かあったのか?」


「別に何にもないよ。皆、家の手伝いだとか受験勉強だとかで忙しそうにしてたから。一人だけ進路確定した途端に余裕ぶって絡んでくるヤツってウザいでしょ。」


「だからってそこまで熱心に練習する必要もねえだろ。」


「まあ、それはそれだよ。」


 グランロッサ領の中心地、アディプトらも暮らすロンドレイツは相反する要素同士が幾つも混在している街だ。緻密な都市計画に沿って整備された主要な街道と周辺道路はアスファルトで黒く舗装され、駅前には背の高いガラス張りのビルが数棟も立ち並んでいるなど、局所的には王都帯ゼレハフトじみた都市部の様相を呈する。だが駅前から数十分も歩けば、石畳に覆われた細く狭い道がうじゃうじゃと張り巡らされ、赤色レンガの三角屋根と白い石壁を持つ家屋が軒を連ねる昔ながらの町並みが現れるのだ。そしてそこから更に数十分も歩けば鬱蒼とした山、長閑な平原、広大な海を始めとする大自然が広がっている。とどのつまり駅を中心とした同心円状に都市部と田舎、現在と過去、テクノロジーと自然が展開している街がロンドレイツと言えよう。


 セトラたちの学校はちょうど現代的な街から近世的な町へ変わる狭間にあり、二人はそこから町の中心地にあるグランロッサ邸へと飛んでいた。


「そんなこと言うセトラくんも今年はちょっと違うよね。去年より色々頑張ってる気がする。どんな風の吹き回し?」


「俺もゼレ学に進学したいんだ。だらけてる余裕なんてねえよ。」


「マジ?私が一年生の頃なんて何にも考えてなかったけどなあ。」


「姉ちゃんはそれでも大丈夫だけど、俺はそうじゃねえんだよ。複数の術式の同時使用なんてできねえし、別々のスペル同士をくっ付けて新しい魔術を即興で作るなんて真似もできねえ。毎日地道に努力しなきゃ、付け焼刃じゃあそこの試験は突破できない。」


「でも重力魔術があるじゃん。あんな魔術を当たり前に使いこなせる人なんて、グランロッサ家じゃセトラくんしかいないんだよ。」


「所詮は使い手のいない、移動や運搬が多少楽になる程度のマイナー魔術だ。根本的な効率の悪さを改善したとかならまだしも、現状は穴の開いたバケツへ水が漏れていく以上の速度で水を入れて満杯にしてるようなもんだ。魔力効率が極悪な術式にアホみたいな量の魔力を熨せて無理やり動かしてるだけだし、魔力量さえあれば誰でもできる。」


「その魔力量を捻出するのが一番難しいんだけどねー。」


 空中という最短経路を用いたことで三分と掛からず目的地に着いた。本邸の庭に降り立ち、同じ敷地内にある離邸の立て付けが悪いドアを開ける。


「荷物だけ置いたら一度本邸に行こ。」


「ジャージならこっちにもあるぞ。」


「せっかく時間があるんだし、今日は衣装にしっかり着替えてから練習しない?」


「そういうことなら。」


 離邸はハクらに掘立小屋と揶揄されたようにとても貴族の子弟の住居とは思えない。しかし異なる廃材同士を継ぎ接ぎしたボロボロの外観とは裏腹に、内部は一般的な平屋式住居と遜色ないクオリティだ。


 二人はそれぞれの部屋で制服から普段着へと着替え、歩いて本邸へ行った。


 奉穣祭で彼らが着る衣装は本邸三階の執務室で保管しており、執務室にはアディプトとセトラの母親が一人で事務作業に当たっていた。


「おかえり。早かったわね。」


「ただいまー。パパは?」


「外回り中。祭で奉納する物の注文ってところかしら。今年は一段とやる気あるのよね、アイツ。おかげアタシは書類の山と格闘中よ。あぁ、疲れた。」


 母親は眼鏡を外して椅子の背もたれに体重を預けた。


「熱心だねー。やる気出してもそこまで珍しい物は領内にないでしょ。」


「さあね。それは奉穣祭当日になってからのお楽しみよ。それよりアンタたち、今日はやけに帰ってくるのが早いじゃないの。何かあった?」


「今から姉ちゃんと練習をするんだ。」


「だから衣装を借りにきたの。」


 すると母親は驚いた顔をした。


「わざわざ着替えてやるの?すごい気合の入りようね。」


「本番環境でやるのはいいことだろ。」


「まぁ、アンタたちがやる気なら好きにしなさい。はい、これ。修練場の鍵。」


 修練場は本邸の裏にある。


 そこでセトラは当時の人々が広く着ていたという古めかしい衣装に着替え、アディプトは魔力神ソトノも着用していたとされる銀に輝く荘厳でゆったりとした衣装に身を包んだ。


「ほら見て。ギラギラ。」


 そのワンピースにも似た衣装に魔力を流すと、オーバーサイズ気味な衣装が自動で彼女にマッチした大きさへ変化した。また布地から発せられる銀色の光が強まり、風がないにも関わらずゆらゆらとはためいた。持ち前の美貌や均整の取れた抜群のプロポーションとのシナジーで、上手く演出をすれば女神にも見えそうである。


「流石は家で一番高い魔道具だな。」


 奉穣祭で二人が披露するもの。それは魔力神ソトノがロンドレイツに降臨し、グランロッサ家の始祖となった男と接触した神話に基づいた演劇だ。


「台本どうする?いるなら取ってくるけど。」


「台本がどの程度入ってるかの確認も兼ねてまずは通しでやろ。」


 劇はフルで演じて約一時間だ。毎年演出や脚本を変更しているものの大枠のストーリーは前述の通りで、また毎年配役を入れ替えて演じていることもあり、流れが分からず間違えることはない。


「悪い。一昨年の台詞と間違えた。」


「ごめん。始祖側の魔術使っちゃった。」


 しかしその弊害で最新版ではない台詞を言ってしまったり、演技の中で使うセトラが使うはずの魔術を間違えてアディプトが使ってしまったりといったミスはちらほらとあった。それらを適宜修正しながら最後まで演じ終えた時にはもう時刻は夜の七時になろうとしていた。


「励んでいるな二人とも。」


 時を同じくして修練場に彼らの父親が顔を出した。


「親父。」


「ふむ、練習熱心で大変結構。父さんがお前たちくらいの時は大体一夜漬けしかしていなかったが、その子どもたちがこうして自発的に練習に励むとはな。やはりサエリナとの教育は間違っていなかったということか。だがもう夕食の時間だ。一度本邸へ戻ってこい。」


「もう離邸に私たちの分のご飯あるんだけど。」


「奉穣祭に関する話もしておきたい。今日は家族揃って食卓を囲もう。」」


「分かった。じゃあ親父は先に戻っててくれ。」


 セトラたちは手早く衣装から部屋着へとチェンジした。それらの衣装を執務室に置いた後、姉弟は両親の待つ一階の食堂で席に着いた。


「お疲れ様。今晩は二人の好きな物を用意しといたわ。」


 本日のメニューは薄く切った固い黒パン、半ばポタージュと化したカブとジャガイモのスープ、粉吹きイモ、牛挽き肉のハンバーグだ。


「おお、牛肉だ。」


「豪勢だね。」


 普段、二人は両親から食事の供与をされていない。月初に二人分の生活費としては明らかに足りない額を渡され、不足分をギルドでこなした案件の報酬や領民の手伝いで得た見返りで補っている彼らが鶏肉以外の肉を口にするのは実に二週間ぶりだった。


「ササミと違うな。」


「うん。」


 尤もグランロッサ領内では特に珍しくもない平均的な夕食に姉弟が舌鼓打っていると、徐に父親が口を開いた。


「奉穣祭の準備は順調か?見るからに順調そうだが。」


「今のところはな。」


「今後練習できる期間を考えたらかなりいいんじゃない。」


「そうか。それほどモチベーションが高まっているのなら今更言うまでもないだろうが、一応改めて諸々の事項を確認しておこう。」


 咳払いをしてから父親は続けた。


「今は六月下旬。奉穣祭は八月の半ばで、開催まで既に二ヶ月を切っている。開催期間は例年通り三日間だ。一日目に魔力神ソトノと始祖ギャラガーの演劇と有志団体のフリーパフォーマンス、二日目には王都帯から呼んだ格闘技団体のエキシビジョンマッチと有志団体のフリーパフォーマンスがあり、三日目には大手事務所所属のアイドルのトークショーと有志団体のフリーパフォーマンス、締めに一万八千発の花火が打ち上げられる予定だ。それまでグランロッサ家がしなければならないことは分かっているな?」


「劇を仕上げて、ソトノに奉納する物品を用意することでしょ。そのためにパパが今日も買い付けに行ってたわけだし。」


「それから奉穣祭の広報活動だろ。ロンドレイツの内外からここまで大勢の人が集中するイベントはない。屋台や出店を出す人も多いし、グランロッサ領の知名度を上げて地域経済を活発にする重要な機会になる。」


「後は関係各所との調整ね。開催まで秒読みになると絶っ対ありえないくらいトラブルが多発するし、そうでなくてもトラブルなんて幾らでも起こるわ。その時のハブ役はやっぱり領主であるアタシらがやらないといけないのよ。」


「皆の認識に不足がなくてなによりだ。付け加えるなら、今年の奉穣祭はアディプトにとって準備から終了までフルで参加できる最後の奉穣祭になる。例年以上に注力し、過去最高の奉穣祭にしたいというのが率直な思いだ。まだ二ヶ月先だと思わず、皆最後まで集中して乗り切ろう。」


「……」


「因みに高校生時代、父さんはよりにもよって最後の奉穣祭の日に勘当を受けた。当日こそ何かが必ず起こるから、決して気を抜いてはならんぞ。」


 最後にそう締めたのだか締めていないのだか分からないことを言い、この日の夕食は終わった。


 夕食後、アディプトとセトラは離邸へと戻った。


「お風呂、どっちが先入る?」


「姉ちゃんが先でいい。俺は日課がまだだ。」


 アディプトは浴槽へ湯を溜めつつ、平行して熱いシャワーを浴びた。湯の温度は四十度で、疲れた肉体にはこの程度の熱さが心地よい。燃えるような真紅の長髪から一日の汚れを浮かせ、入念に泡立てたシャンプーとともにシャワーで洗い流した。更にリンスをコームで髪の根本から毛先へ塗り込む。次に石鹸の香りがするボディソープで全身を綺麗にすると、リンスを落とさないようにシャワーを浴びてから浴槽へ浸かった。


「ああぁぁー……」


 一方のセトラは自室で自重トレーニングを行っていた。種目はスクワット、クランチ、レッグレイズ、腕立て伏せ、懸垂の五種だ。回数はどの種目も一セット当たり二十回で、三十秒のインターバルを設けつつ十セットを行っている。動作はあくまでもゆっくり丁寧に行い、反動を使うという逃げに走らないよう努める。そこへ重力魔術を発動させ、地球の重力にプラスアルファの重力を加えることで更に負荷を高めているのだ。


「おー、頑張るね。」


 いつの間にそんな時間が経っていたのか。声のした方を向くと、そこにはランジェリー姿のアディプトが腰に手を当てて立っていた。


「重力魔術での高速移動には常に脳への血流不足によるブラックアウトの危険がある。対策には下半身中心の筋トレが有効なんだ。」


 ちょうど十セット目を終え、セトラはチニングバーから手を離すと軽やかに着地した。


「だからってそこまで仕上げる必要ある?」


 部屋の中に入り、彼女は弟の固い腹筋に軽く触れた。八つに割れた腹直筋のみならず腹斜筋まではっきりと陰影が浮かび上がっており、彼のトレーニングの成果がありありと見て取れる。


「全身バッキバキじゃん。また筋肉増えたでしょ。」


「別に鍛えてて損するもんじゃねえし。そう言う姉ちゃんは……」


 ちらりとアディプトを見る。


 姉は姉で印象的な体つきだ。元来着痩せするタイプだからか、服越しには決して分からない豊満なスタイルが下着姿だとはっきり分かる。


「お姉ちゃんはー?」


「また増えたな。」


「意味合い次第でぶっ飛ばすよ。」


「なんでもない。風呂入ってくる。」


 彼女の隣をすり抜け、セトラも浴室へ向かった。そこで延べ十五分程度で入浴を済ませ、部屋に戻ってきた時にはもアディプトの姿はなかった。しかし自室には微かに彼女のリンスの香りが留まっていた。


(今日も疲れたな……)


 本当ならすぐにでもベッドで横になりたい気持ちを堪え、彼は机で教材を広げた。トレーニングでの身体づくりと同様、魔術にも日々の研鑽が欠かせない。


「……しゃあねえ。やるか。」


 独り言ち、ノートにシャープペンシルを走らせ始める。


「ふふっ、頑張れー……」


 強化した聴覚で壁越しにセトラの物音を聞きつつ、アディプトは眠りに就いた。


 それからは激動の日々だった。奉穣祭の準備に加え、次々とトラブルが生じたからだ。


「アディプト、わざわざ悪いなァ。豊穣祭で出そうと思ってた野菜の具合がよくなくてよ。」


「任せなさい。栄養状態の改善だろうと水路の調整だろうと即日対応可能なんだから。」


「すまないセトラ。ウォーノンと繋がる峠で急に土砂崩れがあったようで、ウチの魚の物流がストップしてしまった。運搬をお願いできないか?」


「分かった。空輸するから届け先を教えてくれ。」


「ウォーノンの方に行くなら、おれの家の商会で注文してた荷物も一緒に持ってきてくれると嬉しい。現地の運送業者の事業所にはもう届いているはずだ。」


「了解した。ならゾーフン商会として荷物の受け取りについて一筆書いて渡してくれ。後、着払いならその分の代金もだ。帰るついでに持ってくるよ。それと、例の品はまだ届いてないか?」


「ごめん。そっちはまだ先になる。」


「分かった。とりあえず回収してくるぜ。」


「アディプトちゃん——」


「セトラさん——」


 問題が起こるペースは祭りの開催が迫ると共に上がり続けた。そしていよいよ開催当日となったタイミングで最大の問題が起きてしまった。


 早朝。漁師たちは予め仕掛けていた定置網を回収するため、ロンドレイツの港町から船を出した。その日は普段船に追従して飛んでいるはずの海鳥が一羽もおらず、また海は不気味なほどに静まり返っており、乗組員の誰もが妙な胸騒ぎを覚えた。定置網にはオレンジ色の大きなブイを何個も括り付けて目印としている。しかし波の関係か、岸からでも目視できるはずのそれらは操舵室はおろか船のどこからも見えなかった。かと思えば不意に船底から何かが当たった音がした。


「何だぁ?」


 漁師たちは縁に近付き、触れた物の正体を見極めようと海を覗き込んだ。すると海中からはオレンジ色の大きなブイが一個、二個と次々に浮かび上がってきた。定置網の目印である。何故そんな物がよりにもよって海中から現れたのか。全員が最悪の事態を頭を過った時、船が大きく揺れ、船よりも大きいサメが海面を飛び出した。十五メートルはあろうかという巨体の、感情とは無縁な真っ黒の目をしたサメだ。直後、サメは海中から急浮上した海竜に尾を噛まれ、高い水柱を立てて再び海へ引き摺り込まれた。この衝撃的な光景に立ち会ってしまった漁師たちはすぐに港町へ戻り、報告を受けた漁協組合はグランロッサ家へ協力を要請した。


 そのため諸々の事情により前日も夜分遅くまで動いており、離邸で爆睡していた姉弟も連打される呼び鈴の音で目を覚まさざるを得なかった。


「はーい……」


「どちら様ですか……?」


 ボサボサの髪のまま腫れぼったい目を擦り、上はTシャツで下はパンツという状態で二人は玄関から顔を覗かせた。


「大変だ二人とも!」


 そこには日頃冷静沈着な友人、家業として漁業を営む家の息子、メアが血相を変えて立っていた。


「海竜デヴォラーレが現れた!!」


「デヴォラーレ……海竜……は!?」


「……うそ、嘘でしょ!?アレは北方の魔物だよ!ロンドレイツにいるわけないって!」


「本当だ!ウチの定置網を壊され目の前でメガロドンが捕食された!この目で見たんだ!巨大な顎!青みがかってぬらぬらとした鱗!二対の巨大な足鰭と一対の翼鰭!アレは間違いなく図鑑で見た海竜デヴォラーレだ!今本邸の方で父親と組合長がジェイド卿とこの件について話をしている!」


「分かったすぐ行く!急いで準備しろ姉ちゃん!」


 即座に身支度を行い、セトラは例の片刃の直剣を、アディプトは先端に結晶が据え付けられている捻じれた木製の杖を携え、本邸の執務室へ駆け付けた。


「呼びに行ってもらってすまない、メア君。……その様子だと二人とも、彼から話は聞いているようだな。」


 父親はいつになく厳しい面持ちだ。


「由々しき事態だ。グランロッサ領の重要な産業である漁業が脅かされている。速やかに海竜デヴォラーレを討つぞ。」


「作戦規模は?」


「討伐隊は組むの?」


「それについて話すためにお前たちを呼んでもらった。グランロッサ領の最高戦力はセトラとアディプト、お前たち二人だからな。今回の討伐作戦でも二人が中心になって動いてもらう。」


 彼は立ち上がり、ホワイトボードに貼った地図を指示棒で示した。


 地図には陸地側に円形に広がっている内湾、外海、そしてそれらを繋ぐ狭い海峡という特徴的な地形と、二つのバツ印が書いてあった。


「これはデヴォラーレが出現した聖海ベッケンとその周辺の地図だ。知っての通り聖海ベッケンは魔力神ソトノを乗せた船が現在海峡になっている地点に不時着した際、誤って陥没させてしまい、そこにあった盆地へ海水が流れ込んでできた浅い海だ。外海とは海峡によってのみ接続されており、海峡を出てすぐから海底が急激に落ちていて深い谷になっている。」


「海峡側のバツ印は今回壊された定置網を仕掛けていたポイント、中央のバツ印はわたしたちがデヴォラーレを目撃したポイントです。」


「不幸中の幸いとでも言うべきか、報告によれば海竜デヴォラーレはまだ聖海ベッケンの中に留まっている。それを踏まえて今回の作戦なのだが——」


 そこで彼が作戦概要について説明するとセトラたちは苦々しい表情をした。


「——ということだが、できるか?」


「有効打は与えられると思う。ただ……」


「……私の覇級魔術は発動から五分間しか維持できない。タイムリミットはそれまでってことだよね。」


「ああ。しかしサエリナが地方騎士団の詰め所に行って此度の討伐作戦の協力を取り付けている。作戦決行時には彼らの支援魔術を受けた上でアディプトには覇級魔術を維持してもらう。」


「……頑張るよ。」


「ではこれより我々は聖海ベッケンへ向かう。準備完了した者から車に乗り込め。」


 父親の短い号令の後、一向は本邸の前に用意してあった自動車に乗って港町まで急いだ。


「セトラ。アディプト。……すまない。よりにもよってこのような、奉穣祭の当日に……」


「謝んなよ。デヴォラーレが出たのはお前のせいじゃねえ。」


「そうだよ。変な潮の流れとかに乗っちゃっただけだって。誰もメアが悪いなんて思ってないよ。」


「だが二人が奉穣祭のため、かなりの準備を重ねていたことを知っていたのに……」


「勘違いすんな。」


 申し訳なさそうに俯くメア。


 対して腕を組んで座っていたセトラはぴしゃりと言った。


「勝手に奉穣祭が中止になるとか俺たちが参加できないムードが出てるけど、そのつもりは全くねえから。」


「しかし……」


「パパたちがさっき一度でもそんなこと言ってた?言ってないでしょ。」


「寧ろメアたちが早めに報告にきてくれたから俺たちも早めに動き出せた。俺と姉ちゃんの出番は夕方からだから、まだ十時間くらいは余裕がある。」


「海竜なんて大層な名前だけど要は海に住んでるだけのデカいトカゲなんだし、さっさと倒して奉穣祭で食べちゃおうよ。」


 まるで当たり前のように言ってのける二人に呆気に囚われた後、少年は静かに礼を口にした。


「……ありがとう。」


 港町には既に多くの人が集まっていた。過半数は海竜デヴォラーレの討伐騒ぎを聞きつけた野次馬だが、中には赤い鎧を装着している集団がいた。地方騎士団だ。


 彼らと車から降りた面々は互いに挨拶を返すと、今回の討伐に携わる人々は自然とグランロッサ家を囲むような立ち位置になっていた。


「まずは急な事態にも関わらず迅速に対応してくれた地方騎士団ロンドレイツ支部と、すぐに異常を報せてくれた聖海ベッケン漁業組合に感謝する。作戦内容に関しては既にそれぞれ話を聞いているとのことだったので割愛するが、改めてこの場で海竜デヴォラーレ討伐作戦の意義を確認しておきたい。」


 彼は周囲を見渡しながら話す。


「海竜デヴォラーレは極めて貪欲な海竜種で、北方ではヤツが現れた海には何も残らないと恐れられているほどの怪物だ。これを聖海ベッケン内に留めておけばロンドレイツの沿海漁業は大きな痛手を負う。よって我々はロンドレイツの今後の発展のため、確実にあの海竜を討伐しなければならない。個々の力が事態を打開する鍵だ。全員力を振り絞り、一人も欠けることなく竜を討とう。では作戦開始!!」


 手短な演説の直後から全員は一斉に動き出した。アディプトは支援部隊から幾重にも支援魔術を掛けられ、セトラは抜剣して重力魔術を完全詠唱で発動し、地方騎士団の戦闘部隊は続々と船に乗り込んだ。そしてセトラはコンディションが整ったアディプトを連れて一足先に海峡に最も近い岬へと飛んだ。


「最終確認だ。今回の作戦は海竜デヴォラーレが聖海ベッケン内に留まっていることを実際に確認したら、聖海ベッケンと外海を結ぶ海峡を封鎖してヤツを閉じ込め、その間にぶっ殺すって流れになる。役割分担は海峡封鎖が姉ちゃん、メイン戦力が俺、サブ戦力兼デヴォラーレが接岸しすぎないよう適度に追い払うのが騎士団だ。」


「分かってるよ。最初にセトラくんが上空からデヴォラーレを探して、見つけたら信号弾を発射する。そしたら私が覇級の魔術で海峡を封鎖するんだよね。」


「ああ。タイムリミットは姉ちゃんがその魔術を維持していられる五分間だ。五分以内にデヴォラーレと戦い、ケリを付けてやる。じゃあ頼んだぜ。」


「うん。気を付けてね!」


 アディプトを降ろし、セトラは全速力で聖海ベッケン沖を飛ぶ。すると幸いにも目標はすぐに確認できた。


 三十メートルはあろうかという巨大な生物が海中をゆったりと泳いでいる。


(デカい……!)


 すかさず彼は白の信号弾を打ち上げた。


 その合図を受け、アディプトは触媒である杖に極めて上質な土属性魔力を流した。


「雄大に広がり恵みを育む地天に冀う。星の大いなる安らぎに祈りを捧ぐ。そして蠢く大地に告げる。広大なる地を分かち、茫洋たる海を埋める山となり、我が眼前に新たなる地形を刻め。」


 詠唱は口上を含めて一切の省略がない完全詠唱だ。それは術式の魔術効率を高め、術式効果を底上げする。


覇級グランダ・ミスティカフィルマージョ隆起エルスターリ!!」


 直後に発した言葉に杖を通じてありったけの魔力を熨せると、まるで切り絵のように、はたまたコラージュの如く、巨大な山が現実の海峡だった空間を埋めるように出現した。


 これでデヴォラーレはもう外海へ逃れられない。


「流石だな。」


 セトラは頭上へ掲げた剣へ闇属性魔力を籠める。


「なら後は俺の仕事だ。」


 影を帯びた刃身が巨大化したかのような状態の剣を振り下ろし、三日月状の魔力の塊がデヴォラーレへ迫った。


 しかし相手も伊達ではない。デヴォラーレはセトラの魔力を感じ取り、直撃する間際に翼鰭の術式を使い、水をジェット噴射して回避した。


(織り込み済みだ。)


 尤もセトラもまた海竜の行動を読んでおり、一撃目は不発に終わると察していた。故に敵が回避行動を開始した時には既に相手の進路上に先回りしていた。再び剣から暗い魔力を迸らせ、しかし此度は塊として撃ち出さず、海への突貫と同時の斬撃に乗せた。


 それを海竜は逆向きのジェット噴射で留まり、急速に後退して躱した。またこの際の推進力とした水流がそのままセトラへ襲い掛かった。


(!!)


 重力による移動は揚力や斥力を用いた飛行、跳躍と異なり、方向転換のための姿勢変化や離陸のための助走を必要としない。その移動の本質は重力核の座標と核から生じる重力の強度次第で方向と速度が変化する落下だからだ。


 彼は上向きの重力に己を肉体を引かせ、ジェット噴射の餌食となる寸前で空中へと脱した。


 岸から観戦していた群衆から安堵の声が上がる。


 決して喜べる状況ではないと理解しているのはセトラとアディプトの両親、姉だけだった。


「あの子、やりづらそうね。」


「殺すだけでいいのならセトラに負ける要素は一つもないが……」


「闇属性の魔力は他のエネルギーの不活化させる性質がある。魔力は言うに及ばず、生命力すらも例外じゃなく、それはあらゆる生物にとって激毒に等しい。」


「……そんな力を今や陸封された内海へ過剰に放ったのなら最後、聖海ベッケンに住む生命体は全滅する。デヴォラーレの食害よりセトラが齎らす被害の方が大きくなってしまう。故にアイツは攻めあぐね、決定打を撃てないでいる。」


(もうちょっと距離が近ければ私の魔術がギリ届くのに……!)


 戦況は膠着している。セトラの攻撃をひたすらデヴォラーレが躱し続ける構図のままだ。水中での移動速度はデヴォラーレに軍配が上がり、五分以内に勝たなくてはならないセトラと五分間逃げ続ければいいデヴォラーレとでは後者の条件がより達成しやすい。加えて幾重にも制約を受けているなど状況ではセトラが大きく不利だ。そんなことは改めて考えるまでもなく彼が最も痛感している。


「やっぱり加減はできねえな。」


 そこで唐突に重力魔術の術式を解除し、セトラは自由落下に身を任せた。けれど戦意を喪失したわけでは決してない。剣からは依然として魔力の黒々と放たれ続けている。


短縮レド爆発エクスプロド


 唱えたのは短縮詠唱用のスペルだ。そのスペルは詠唱時間の短縮を筆頭に術式効果の発動速度に重きを置いている。かの海竜デヴォラーレの全力とて逃れ得ぬほどに、発動までのタイムラグは限りなくゼロに近い。


 同瞬間、海中で大爆発が生じた。海中には爆発の衝撃を殺せるような空間がなく、別方向への回避も不可能だ。


 刹那、デヴォラーレは二対の鰭により九十度方向転換し、更に最大出力のジェット噴射を行い、大爆発の勢いに乗って空中へ飛び出した。


 上昇と落下。互いの主戦場を入れ替えた両者の視線が確かに今、敵意を孕んで衝突する。


 そして上空には彼に攻撃を躊躇わせるような障害は何もない。


 両手で剣を握り締め、刃身から途轍もない勢いで溢れ出た。午前八時半過ぎの空に岸からでも目視できるほど暗闇が染みる。


「終いだ。」


 直後、セトラは剣を下から上で振り上げた。合わせて剣から魔力を放出し、帯状の暗黒が一瞬にしてデヴォラーレを呑み込んだ。


 頼みの綱である翼鰭からのジェット噴射はもう使えない。その術式を発動できるだけのオドもマナもたった今活性を失った。こうしてデヴォラーレは冷たい暗がりの内で生命の火をかき消され、即死した状態で海上へ墜落した。


 尤もセトラもまた墜落を逃れられなかった。


(ヤバイ……重力魔術の再詠唱……間に合わなかったな……)


 水を吸って重量を増した服に引かれ、水底へ向かって沈んでいく。


 地方騎士団に所属する騎士たちは躊躇なく船から飛び降り、そんな彼の手を掴んで水面へ引き上げた。


「大丈夫ですか!?」


「しっかりしてください!」


「あぁ……」


 やり切った達成感と元々の睡眠不足に由来する疲労がぶり返し、浮き輪に捕まらせられると急激な眠気が襲ってきた。


「疲れた……」


 斯くして早朝からロンドレイツを混乱させた海竜騒動は終結した。


 セトラが港へ戻ると、そこは既に祭りのような大騒ぎになっていた。


「セトラ……!ありがとう!本当にありがとう!」


 メアはびしょ濡れで海臭い彼に熱い握手を交わした。


「聖海ベッケンの全ての漁師を代表しお礼を申し上げます。セトラ・アカ・グランロッサ様。此度は海竜デヴォラーレを討伐していただき、誠にありがとうございました。」


「本当に何とお礼を申し上げたらいいのか……セトラ様、深く、深く感謝いたします。」


 誰もが口々にセトラを讃え、勝利を歓喜した。


 一方、彼本人にはそれを喜べるほど元気が残っていなかった。


「はは……どうも……お役に立ててなによりです……それとすいません……何か飲み物貰えませんか……?」


「はいよ。熱いお茶でいい?」


「ああ……」


 母親から手渡されたマグカップの茶を一口に呷り、彼はつい独り言ちた。


「はあ、生き返る……」


「よく頑張ったな。セトラ。」


 父親は息子の背中を叩き、白い歯を見せて笑った。


「割とキツいぜ……朝から着衣水泳は。」


「あら、じゃあ戦い自体はそんなにキツくなかったってこと?」


「倒すだけならな……」


「言うじゃないこの子!皆聞いたかしら!?」


「はい!ばっちり聞こえましたよ!」


「よっ!流石は次代の領主様!」


「あはは……アレ……?」


 調子にいい物言いの野次馬に釣られて、両親も騎士たちも笑い出す。


 そこでふと大事な人物が一人欠けていることを思い出した。周囲を見渡せば群衆と、少し離れたところでデヴォラーレの死体を水揚げしているだけで、やはりその人の姿はない。


「親父。姉ちゃんは……?」


「あ。」 


「おい。」


「まだ岬だ。多分……」


「それ一番忘れちゃダメなヤツだろ!」


 首に掛かっていたタオルをその場に置き、セトラは抜剣して再び重力魔術で飛んだ。


 父親の言った通り、アディプトは戦闘前に降ろした岬で横たわっていた。髪を地面に広げ乱して、杖を握る手にも力はなかった。


「姉ちゃん!!おい無事だよな!?」


 彼はすぐに抱き起こし、彼女の白い頬を軽くペチペチと叩いた。


「そう見える……?」


「まさか俺の魔力の余波で損傷したのか!?」 


「そんな大袈裟じゃなーい……ただの魔力切れ。大したことないって……」


「でも俺よりボロボロじゃねえか。」


「そりゃ魔力を殆ど持っていかれたしね。最初は五分は持つと思ってたんだけど……やっぱりそこら辺に闇属性の魔力をばら撒かれるのはヤバいね……術式の維持にしか手が回らなかった。」


「最後まで海峡封鎖は維持できてたんだ。だからヤツを殺し切れた。…….とりあえずここから移動しよう。」


 見かけより重量級なアディプトを横にして背負い、自身の左腕を彼女の左手膝裏から伸ばして相手の左手首を掴みロックして、セトラは飛び上がった。


「手慣れてんね。」


「酔い潰れた姉ちゃんを俺が何回運んだと思ってる。」


「ふふっ……分かんない。」


「そんなことだろうと思ったよ。」


 二人はすぐに港町の上まで戻ってきた。だが今度はそこへ降りなかった。


「親父!母さん!俺、姉ちゃんと先に帰ってるから!色々済んだら起こしにきてくれ!」


 それだけ大声で告げ、姉弟は大急ぎで離邸へ戻った。海へ落下し、土で寝ていたからには流石にこのまま寝るわけにはいかない。すぐにでもベッドに直行したい思いを堪えてそそくさとシャワーを浴び、それから二人は僅か一分と掛からずに寝落ちした。昼過ぎに両親が離邸を訪ねた折、何度も呼び鈴を押したにも関わらず起きる気配すらなかった。


「アディプト!セトラ!」


 仕方なく合鍵を使って離邸に入ると、リビングのソファと床で死んだように眠る二人がいた。それぞれの部屋にあるベッドへ行くには必ずリビングを経由する必要があるため、眠気を抑えられなかった二人は自然と同じ部屋で寝落ちしていたのだ。


「起きろ二人とも!」


 彼らは子どもたちを揺する。


「今踊ってるだろ……」


「それは夢だ目を覚ませ!」


「二次会行きます……」


「まだ始まってすらもいないわよ!」


 セトラとアディプトは寝ぼけたまま、今朝方急にルキウスが訪問してきた時よりも一層ぼんやりとした表情をしていた。


「まだ寝足りねえよ……」


「後五分だけ……」


「ダメよ。そろそろ奉穣祭の演目の準備をしないと。」


 睡眠不足からか、普段はあまり付かない悪態で彼らは抗議した。しかしほどなくして目が冴えてくると、仕方ない様子で一行は本邸へ向かった。


「魔力神ソトノは服装こそ大体同じ物しか着ていなかったようだが、日毎に髪型をガラリと変えていたことで有名だ。よって奉穣祭でソトノを演じる者は毎回異なる髪型をする慣例がある。」


「じゃあ始祖役の俺までガッツリ髪型を弄られてるのは何でだよ。」


「どれほどアレンジしても話の大枠はいつまでも変えられん。セトラとアディプトで一年毎に配役を交互に回し、更に細かなビジュアルのマイナーチェンジを行わなくては皆飽きてしまうだろう。常に前進し続ける創意工夫こそが観客を楽しませる秘訣だ。」


「伝統芸能って飽きるとかそういうもんかね。」


 本邸にはトイレとは意味合いの異なる、正真正銘の化粧室が二部屋存在する。普段は誰も使っていないこれらの部屋だが、今回はアディプトとセトラが二手に分かれて入室し、市街地から呼ばれた美容師らが二人の身嗜みを整えていた。


「このような感じでいかがでしょうか。」


「おお、普段とは印象が変わっていいですね。」


 髪型はジェルでカッチリと固めたオールバッグから一転。アイロンとワックスでゆるさとパーマ感を演出しつつ、前髪を下ろしてサイドのボリュームを抑えた重めのマッシュにセットされた。それ自体はこうして仕上がりを見るにセトラも嫌いではない。セットが面倒だから結局やらないだろうが、寧ろ全然アリの部類だ。問題はそこではない。


「けど五百年前にパーマもマッシュもないだろ。いいのか?」


 後方に立ってずっと見ていた父親に彼は訊ねた。


「細かな時代考証は歴史学者か創作者の仕事だ。舞台にはお前とアディプトの二人しか上がらない。観客はとりあえず銀色でビカビカしてる方をソトノだと認識するから、一目で配役が分かるようなビジュアルの範疇なら後は細かい箇所が似合ってさえいればいいのだ。」


「その辺りは結構適当だよな。奉穣祭って。」


「そもそも魔力神ソトノは奔放自在にして豪放磊落、ノリと勢いだけで身勝手に振る舞い、それでいていつも人々の笑顔に囲まれていた存在だったと伝えられている。ご存命であったのならきっと今年の奉穣祭にもさぞ笑って参加されていたであろう。」


「まるで姉ちゃんとか親父みたいだ。」


「さらりと自分を除外するな。始祖の世代以降のグランロッサ家に生まれた者は皆、濃淡こそあるがソトノの血が流れている。似ていて当然だ。」


「そうかね。その割には神っぽさとかどこにもないけど。」


「何を言う。お前は重力魔術で飛び回りながらあの海竜デヴォラーレを追い詰め、一人で決着を付けたではないか。ロマンフォルクス王国広しと言えどもアレほどの芸当ができる魔術師は今代なら一握りであろう。」


「色んな人たちの協力があってこそだよ。」


 そう話すセトラの脳裏には今朝方の一戦がリフレインしていた。


「俺一人で倒し切ろうとしたらどうしても周囲に被害が出てた。デヴォラーレを外海に逃すのが関の山だっただろうぜ。魔力神ソトノならきっと、もっとスマートに解決できたのかもな。」


「さて、どうだか。事故を起こして海が入り込むようになっただけの盆地を聖海呼ばわりして誤魔化すような神だぞ。案外取り乱していたやもしれん。」


 軽口を叩き、父親は息子の肩をポンと叩いた。


「だがこれだけは言っておくぞ。後から何を思い、どう考えようとあの場で海竜を討ったのはお前の実力だ。それは誇っていい。」


「……なんか俺、傍から見たら最高の結果だったのに自分の思い通りにはいかなかったから自信なくしてるヤツだと思われてる?」


「違うのか?」


「違えよ。ただの疑問だ疑問。別に俺はソトノじゃないし、俺にできることを精一杯やるだけだ。そもそも自分と神様を比べてあれこれ思うとか、そんな傲慢じゃねえ。え、もしかして結構傲慢?」


「一般的にもかなり謙虚な方だとは思っている。そうなるように育てたのもあるが。」


「ま、一応褒め言葉として受け取っておくぜ。……それよりも姉ちゃん、やけに遅いな。」


 例年通りなら魔力神ソトノに扮することもグランロッサ家の始祖に扮することも大して時間の掛かることではない。


 二人が何事かと話していると、化粧室のドアが唐突に開いた。


「待たせたわね。できたわよ二人とも!」


 振り向けば、入ってきたのは母親だった。やけにハイテンションな様子だ。


「って、あら、セトラもいい感じじゃない。今風のお洒落な若い農家の人っぽいわ。」


「一応五百年前の農夫って設定だから今風だとダメじゃね?」


「細かいところは気にしないでいいのよ。それにアンタが今風ならあの子はかなり原典寄りだし、上手い感じで対比になっていいじゃないの。」


「原典寄り……?」


「見れば分かるわ。アディプト!ハレの日のアンタを見せつけてやりなさい!」


 母親の言葉に応じ、本日の主役がゆっくりと姿を現す。


 彼女を一目見て、セトラは言葉を失った。


「へへへ……ちょい恥ずかしいな……」


 アディプトは女性にしては高い背丈の、抜群のプロポーションを持つ美女だ。きめ細やかな肌や整った目鼻立ちの顔面には大人っぽさと子どもらしさ、色気と可憐さが共存しており、浮かべる表情や髪型に応じて印象が大きく変わる。しなやかに伸びた長い肢体は人体の美しさとは何たるかを端的に示し、それらで総合的に形作られた全身のシルエットは女性特有の曲線が生む美の一種の極致でさえある。


 現在、すっぴん時さえ美しい彼女の顔にはプロの手による繊細な薄化粧が施され、秘めていた美のポテンシャルは水を得た魚のように存分に発揮されていた。またボディラインが出る意匠とオーバーサイズでゆとりある意匠が同居した魔力神ソトノの銀套を纏うと、精緻で豊満な肉体の彼女との驚異的なシナジーが発揮され、婀娜として清楚でもあり、人ならざる存在感もあるという異なるベクトルの魅力が十二分に引き出されるに至った。


「おお!今朝まで目の下にクマがあったアディプトが……!!」


 付け加えて、深みを帯びた艶やかな真紅の長髪が後頭部を回る環の如く丁寧に編み込まれ、更には下ろしている部分の髪に対しても縦方向の編み込みが幾重にも編み込みがなされている。面倒くさがってヘアアレンジを殆どしない日常の姿をずっと傍で見続けてきたセトラには猶更、手の込んだヘアスタイルをしたアディプトから与えられる非日常感は凄まじく鮮烈だ。


「仕事の合間とか夜に大書庫に入り浸った甲斐があったわ。どうやら魔力神ソトノが降臨した時もこんな髪型だったらしいのよ。」


「アディプトにとって最後の奉穣祭で、奉穣祭のきっかけを作った魔力神の意匠をふんだんに取り入れたわけか。ククク、粋なことをするな。」


 両親は楽しげに言葉を交わし合い、アディプトを何度も褒めていた。


「ねえ……どう?」


 他方、当の本人は後ろ手を組み、視線を逸らしながら、されどチラチラと弟からの感想を待った。


 果たして目の前に佇む美女は本当にあの姉なのだろうか。脳内にいる日常の姿とあまりに乖離していて、セトラは素っ気ない一言しか返せなかった。


「ああ、ええと……姉ちゃんじゃない、みたいです。」


「何で敬語?」


「いや、何でだろうな……緊張してて。」


「ふふっ、私は私だよ。」


「…...口を開けば確かにそうだな。」


「んー?」


 姉弟は照れ隠しに軽口を交換する。


 そんな微笑ましい二人と夫に対して母親は告げた。


「さ、アディプトたちの準備も済んだし今度はちゃんとした写真でも撮りましょう。」


 一家は正門から本邸へ続く一本道へ移動した。そこには街で撮影スタジオを営む初老の写真家が既にスタンバイしており、彼の指示で幾つかのパターンに分けて撮影は行われた。


「すみません。最後にこのカメラでも撮っていただけませんか?」


「ええ。構いませんよ。」


 父親から渡された私物のチェキを構え、写真家は四度シャッターを切る。


「それではいきまーす。皆さん笑顔でー。……はいっ、お疲れ様でした!」


 こうして即座にチェキから排出されたフィルムには、喜びに満ちたように静かな笑みを浮かべる両親と、二人に挟まれる形でどこか照れ臭そうな笑顔のアディプトとセトラが映っていた。


 ここまでは朝に発生したアクシデントに対応したことを加味しても辛うじて順調だった。


「旦那様。道路が混雑していてこれ以上は……」


 順調ではなくなったのはそれからだ。


 グランロッサ邸から奉穣祭を行う会場までの道で大渋滞を起きていた。どうやら水揚げ後に解体された海竜デヴォラーレの一部を運搬する車両や、アディプトにとって最後となる奉穣祭を取材する報道車両などが集中し、道路の処理能力を超えてしまったようだった。


「しゃあねえな。車で行けるのはここまでか。」


「どうする気だ?」


「決まってんだろ。ここから会場までは大した距離じゃねえ。」


「もうステージの開幕まで時間がないし、遅れるわけにはいかないでしょ。パパとママは歩けばいいじゃん。」


 停止中の車から降り、二人は路側帯へ避ける。そこでセトラは剣を抜き、アディプトは例の通り彼に背に腕を回した。


「今日三回目だけど平気?」


「平気じゃなくてもやらなきゃだろ。」


「えー、ちょっと不安なんだけど。」


「なら安心しろよ。さっきからずっと絶好調だ。」


 そして二人は空へと浮かび上がった。


 奉穣祭の会場は概ね田舎なロンドレイツにおいてピンポイントで都市部になっている駅前だ。演劇やフリーパフォーマンスで用いる野外特設ステージが駅前の公園に組まれており、公園から町の方へ伸びる大通りが一本丸ごと歩行者天国と化して路傍には多くの出店が軒を連ねている。


 夜に染まりつつある街の上から、通行人でごった返す道々を俯瞰する。ビルとビルの狭間を駆けていく。


「リハの時間は取れねえだろうが、やれるか?」


「やれなくてもやらなきゃいけないんでしょ。」


「ああ。初手から遅刻してぐだるのは避けたい。」


「じゃあ任せてよ。なんだか私もすっごいやる気あるから。」


 彼の心配に対し、アディプトは自信満々に言い放つ。


「だったらもういっそ、このまま始めるぞ。」


 そう言って最初にセトラだけがステージに降り立った。


 予定された開演時間寸前になっても現れず、かと思えば突如として上空から現れた彼を見て、会場にいた全員がどよめいた。


(混乱、困惑……そうだよな。前座も挨拶もなしに始まっちゃ、普通は誰もわけが分からねえ。)


 セトラは観客たち横目で確認し、口パクで舞台袖にいるスタッフで指示を出した。


(でも余裕を持って会場入りできない事態も想定して、俺たちは準備を進めてきたんだ。)


 事前の打ち合わせ通り、スタッフたちは指示に従って照明や音響を操作した。


 先ほどまでのただ明るく喧噪だけが入り込んでいた舞台とは明白に空気感が変わった。


「時は魔力歴零年。後にロンドレイツと呼ばれる東方の荒地に、極僅かな人々しか住んでいなかった時代。この地にギャラガーという一人の青年がいた。」


 同時に滔滔とナレーションが始まり、誰もが開幕を理解した。


「一匹……二匹……三匹、締めに四匹ぃ!」


 セトラが演じるギャラガーは剣を振り、迫る獣の群れを次々と切り伏せていく。実際の舞台にはセトラ一人しか上がっていないが、映写魔術で獣の群れを映しており、それは彼のモーションに合わせて切断されたモーションと血しぶきのエフェクトを出して消滅した。


「ははっ!狼が四匹とは幸先がいいなあ!皆、これで飢えずに済むぞ!」


 切り落とされた死体の数々へ目を向け、ギャラガーが満足気な顔をする。彼は剣に付着した血や肉の一部を振り払い、また現実ではセトラがこの際に重力を操作すると、上空からアディプト扮する魔力神ソトノが墜ちてきた。この時、アディプトは演出用に複数の術式を併用しており、魔力神ソトノとしてステージへ落下すると派手に土煙を上げた。


「※※……※※※※※※……※※※※※※※※※※※……」


 ソトノは人語で意訳すれば「痛た……しくじったな……完全に着地に失敗したか……」となる内容を、人には聞き取れない言語で独り呟く。


「な、何だ!?何が降ってきた!?」


 ギャラガーは土煙の内にいる何かに向かい、震える手で剣を構えた。


「なるほどな。オマエたちはそのような物で異種交流を試みるのか?」


 ソトノは誤った理解を示し、土煙の中から剣を生成して男へ突き付けた。


 これがグランロッサ家の始祖、ギャラガーと魔力神ソトノとの邂逅だった。以後、ギャラガーはソトノから魔術を、ソトノはギャラガーからこの地について学び、彼らは互いに得たものを生かしてロンドレイツでの生活を激変させて絆を深めていった。だが魔術の有用性が広がり魔力神ソトノの力が知れ渡るにつれ、人々はソトノへ様々な厄介事を持ち込むようになり、やがてソトノは西方の勢力との大規模な戦争に巻き込まれることになった。しかしギャラガーはソトノを単独で戦わせようとせず、自らもソトノと肩を並べて戦おうとした。そこでソトノは彼を足手まといだとして、戦いには不要であると思い知らせるために彼と対峙した。最初はあまりに一方的な戦況だった。だが次第に戦局はちっぽけな青年に傾き、やがて神は己に弱さを教えた青年と手を取って、ともに西方の戦地へ赴くという結末だ。


 この演劇の脚本は魔力神ソトノがロンドレイツ、正確には現在の聖海ベッケンに降臨し、後にグランロッサ家を作ることになる人々から手厚い歓待を受けた見返りとして彼らに魔術を授け、地域全体を発展させたという神話に基づいている。毎年少しずつマイナーチェンジを行っているものの話の大まかな展開は変わらない。


(大体皆飽きてると思ったけど、この反応からして上々ってとこか。)


 そのため今年は特に演出面に注力した。魔術による演出の大部分を専門業者に外注したのだ。


(いつもよりお金掛けた甲斐あったね。)


 光属性の魔術を利用して狼を筆頭に様々なホログラムを立体投影し、それらをリアルタイムで動かす。演劇というには些かオーバーな技術を投入し、ただのステージがまるで映画の中から飛び出たかのように目まぐるしく動いていく。


「お前に戦いなんて似合わない。おれたちと一緒に野菜作って、狩りをして、くだらんバカ話をして、あんなにも楽しそうだったじゃないか!」


「ヒト風情が驕るな。矮小な尺度で神を測るな。」


 この劇の山場。決して独りで戦争には行かせまいと、人間ギャラガーが魔力神ソトノと対峙するシーンは正に圧巻だ。


 魔力神ソトノが繰り出す殺意の豪雨をギャラガーは凌ぎ、掻い潜り、躱し、やがて剣の間合いに捉える。横薙ぎの一閃がソトノの胸部を一文字に薄く斬り、血しぶきが舞う。


 当然ながらセトラがアディプトの柔肌に刃を走らせたわけではない。切創も噴出した血も全て幻影だ。だがソトノとして放った攻撃は範囲こそ狭いものの、紛れもなくアディプトが発動した魔術による現象だった。それをギャラガーとしてセトラが闇属性魔力を纏わせた剣で逐一対処していた。どちらも当たれば洒落では済まない攻撃の応報であった。


「ならヒト風情に一太刀入れられたテメエは何だ?」


 空かさず相手の脚を払い、地面に倒れさせ、ギャラガーはソトノの顔の真横へ剣を突き立てた。


「魔力神ソトノ。テメエの負けだ。」


 人と神の剣戟を終え、ギャラガーが剣を鞘に納める。倒れた神へ手を伸ばす。


「……うつけ者め。この度の戦には敵方にも神がいる。オマエ一人がいたところで何の役にも立ちはしない。」


「それでも、おれも一緒に戦う。」


「まだ分からないか。死地へ赴くのだ。決して戻れぬ、あの大陸へ。」


「だったら尚更、お前だけ一人で戦場には行かせない。」


「……」


「いつも通りだよ。ソトノ。」


「……」


「俺がお前を護るから、お前は俺を護ってくれ。」


「……本当に、バカな人だ。」


 ソトノは彼の手を掴み、ゆっくりと立ち上がる。


 奉穣祭に参加経験のある者なら誰もが知っている結末を、しかし過去のどの奉穣祭よりも派手な演出で迎え、大盛況のまま幕を閉じた。


 舞台袖に引っ込み、臨時の更衣室に入る間際、アディプトは言った。


「お疲れ様。セトラくん、私の着替えちょっと手間取るから先行ってくれる?」


「いや、それくらいなら待ってるぞ。」


「いいからいいから。ね、お願い。」


 練習時から衣装の着脱に時間は掛からないはずだが、どうやら彼女は先行していてほしいらしい。


 セトラは衣装を脱ぎ、ワイシャツにデニムというキレイめな私服に着替えてから、指示通りに更衣室で出てステージ裏から外に行った。


 するとそこには幾人ものよく見知った顔が並んでいた。


「よォ、セトラ。すげえステージだったな!」


「剣技のキレも、演技も真に迫っていた。」


「おれ、色んな人から聞いたぞ。朝に竜退治したのによく動けるな。」


 いつも昼休みに固まってくだらない話をしている面子たちだ。


「そう言ってもらえて何よりだ。……実は、結構身体がキツイ。そろそろ過労が祟ってきたな。」


「でももうオマエらのステージは終わりだろ。後は皆でゆっくりしてようぜ。」


「前日も遅くまでリハーサルをしていたのだろう。それに加えて今朝はウチと海竜デヴォラーレのトラブルに対応してくれて……どうか労わせてほしい。」


「マジで?助かるわ。」


 メアからの思いがけない申し出にセトラは目を輝かせた。


「それからセトラ、ちょっと。」


「何だ?」


「前に商会に注文してくれた品がついさっき届いた。料金は前に払ってくれたから、ここで渡そうと思って。」


 そう言ってゾーフン商会の息子、カウフは小さな紙袋を手渡してきた。


「おお、サンキュ。ちょうどいいタイミングだ。」


「ごめんな。加工業者でトラブルがあって到着するのが遅くなった。」


「構わねえよ。発注した時から説明されたことだし。でも今日受け取れて助かったぜ。」


「何買ったんだ?」


「魔術の触媒だ。あんまり流通してない物だから商会経由で探してもらってたんだ。」


「触媒?オマエの魔力量ならそんなモンなくても….….あ、そういうことか。」


 少し考えてから農家の倅、ハクはニヤニヤとした下卑た笑みを浮かべた。


「察したならそれ以上言うな。それと、くれぐれも本人には黙ってろよ。バレたらサプライズの意味がねえ。」


「サプライズって、まさか何にも知らせずに勝手に買ったのか!?あんな高いのを!?」


「……まあ。」


「オイオイ、万年金欠のセトラがそんなんやって大丈夫かよ。」


「大丈夫なわけあるか。けど、どうにかなるだろ。」


「ハァ……オマエってヤツは何でそう……いや、オマエの決めたことだしとやかく言わねえ。今年も土壌改良とかでグランロッサ家には世話になったんだ。腹減ったならオレん家に来いよ。野菜とかなら分けてやっから。」


「割と本気で当てにしてもいいか。」


「しゃあねえからな。」


「そう言えば、アディプトはいつ戻ってくるんだい?」


 セトラとハクの友情が垣間見えた一方、メアはセトラが現れた更衣室の方を見て彼に訊ねた。


「おれたちはてっきりセトラと同じタイミングで戻ってくると思ってたぞ。」


「姉ちゃんならちょっと遅れるらしい。先に行ってろって言われたよ。」


「いつもならオマエみたいにすぐ戻ってくるのに?」


「ソトノの衣装の着脱にあんまり時間は要らないんだけどな。今日は珍しく化粧してるし、直すのに手間取ってるんだろ。」


「なら戻ってくるまで近くの屋台に行かないか?先ほども言ったが、海竜を討ってくれた礼がしたいんだ。好きな物を奢ろう。」


「なんか悪いな。でも礼なんて気にしなくていいんだぞ。領内のトラブルを解決するのがグランロッサ家の仕事なんだし。」


「仕事であろうとなかろうと、何かをしてもらったら感謝するのは人として当然だ。さあ、ほしい物を言ってくれ。」


「そうか。じゃあお言葉に甘えて……ブラードブルストとポメス、それとミュンヒナーを頼む。」


 それから何分か経った頃、セトラは串に刺してこんがり焼いた粗挽きソーセージと塩の効いたフライドポテト、麦味の強烈なビールを味わっていた。


「ああぁぁー……旨え……!!」


 ロマンフォルクス王国では十五歳から成人と看做され、飲酒も喫煙も許可される。


 その恩恵のありったけを少年たちは享受していた。一行は公園からほど近くの歩行者天国となった大通りの縁石に座り、酒とつまみを楽しみながら雑談に花を咲かせた。


「つーかアディプト遅くね?」


「そうだな。何してるんだか。」


「もしかしてナンパでもされてる系?」


「いやいや、相手はあの姉ちゃんだぞ。」


「客観的に考えてみるといい。頭もよければ顔も最高。スタイルは言わずもがなで、あの親しみやすい性格だ。本来彼氏がいない方が不自然な女性だと考えられる。祭りでテンションが上がった野郎からちょっかいを掛けられていてもおかしくはない。」


「ちょっと探しに行くか。」


「まァ、落ち着けよ。あのアディプトなら何かあっても自力で突破できるはずだ。普通に準備に手間取ってるだけだろ。少し余裕持とうぜ。」


「だけど……」


「いい機会だし、セトラはアディプト以外の女性にも目を向けてみなよ。例えば前から歩いてくるあの女性なんてどうだい。背も高いし真っ赤なロングヘアー、おまけにスタイル抜群の超美人ときた。」


「ロンドレイツにあんな美人いたんだ。」


「乳もケツもヤバイな。しかも露出度高めの赤いワンピースとか、かなり自己主張強いぜ。」


「……いいや、アレはワンピースじゃねえな。」


「違うのかい?」


「多分アレは装飾を控えめにして露出を増やしたイブニングドレスだ。前に舞踏会で見た覚えがある。」


「けど何で祭りにドレス?」


「恐らく親父辺りが呼んだ賓客じゃねえかな。今回も公園に関係者席は押さえてあるし。」


「なら挨拶してきた方がいいんじゃね。」


「おれら、ここで待ってるから。」


「そうだな。悪いけどちょっと行ってくる。」


 セトラは立ち上がってデニムの尻の辺りをはたき、赤いドレスの美女へ近付いた。


「すみません。少々よろしいですか。」


「?」


 彼女は怪訝な面持ちでセトラを見つめた。


「ボクはセトラ・アカ・グランロッサと申します。来賓の方だとお見受けしますが、もし関係者席をお探しのようでしたらご案内しましょうか?」


「いいえ、結構ですわ。関係者席ならいつも通り公園内で仕切られているあのスペースでしょう。わたくしが用があるのは貴男です。」


「……?」


「え、もしかして本気で気付いていない?私だよ?」


「……姉ちゃん!?」


「もー、そのリアクション今日二回目だよね。それに私がドレス着てるところなんて何回も見てるでしょ。そんなに雰囲気違う?」


 アディプトはふにゃりと笑う。途端にソトノを演じていた際とはまた別種の、全身から漂う妖艶な雰囲気が消え失せ、いつも通りの彼女に戻った。


「いつも奉穣祭の時はドレスなんて着ねえだろ。ステージが終わったら即オフの恰好になってじゃねえか。」


「これで一応最後だしねー。それで、どう?どう?似合ってる?」


「……ああ。姉ちゃんらしい色だよな。そうだ。今ハクたちをあっちで待たせてるんだ。一緒に行こうぜ。」


 そんな会話内容など露知らずな男子高校生たちは、友人の一人が出会ったばかりの女性を即座に引っ掛けてきたかと勘違いし心底戦慄した。


「賓客じゃなくて姉ちゃんだった。」


「皆お疲れー。」


 手をひらひらと振りながら現れたアディプトに対し、三人は最初疑いを隠せなかった。けれど口を開けばいつも通りのアディプトであり、数分後には全員でくだらない話をしながら屋台で買った物を飲み食いしつつ歩いていた。


「そう言えば、フィーネさんたちとはどこで合流予定なんだ?」


「多分この辺りかなー。大通りの端の方で安酒が飲めるところにいるって言ってたから。あ、いたいた。」


 アディプトは十メートルほど前方に立っている、いずれも酒入りのプラスチック製コップを手にしている独特な風貌の女たちに手を振った。


「おーい!フィーネ!ヴァネサ!ヨハナ!」


「コラ遅いよアディプト!ってあんた何そのドレス!?一人だけ気合い入れてんじゃねえぞコラァッ!!」


 フィーネはアディプトより更に高身長でほぼセトラと同等の背丈をした、ノースリーブにホットパンツという格好の気の強そうな女性だ。


「あーっ!エロい格好して抜け駆けしてるー!」


 縁の太い真面目そうな印象の眼鏡を掛けていながら、よく分からないキャラクターが印刷されたダサいTシャツを着ているヴァネサはアディプトへ人差し指を向ける。


「公正取引法違反です。」


 三人の中では最も小柄、実年齢より遥かに幼い外観をしていながら両耳とヘソにまでエグいピアスを装着しているヨハナはボソリと呟いた。


 一見すれば年齢にバラつきのあるグループに思えるが正真正銘アディプトと同じ十八歳の同級生グループだ。


「まあまあ、そんなに怒んないでよ。男日照りで悩める皆さんのため、このアディプト・アカ・グランロッサが生きのいい男子高校生三人を連れて参りました。全員彼女いないってさ。」


「あんた、自分の弟だけしれっとカウント外してるのをこのあたしが気付かないとでも?」


「セっちゃん含んでなくなーい?」


「ブラザーコンプレックスですね。」


「えー?気のせいだよ。」


「はっ、猿芝居ね。ほらアディプト!あんたの化けの皮剥いでやる!駆けつけ一杯行きなさい!」


 フィーネは飲みかけの五百ミリリットルの缶ビールを突き付けた。


 アディプトはそれを掴んで一気に飲み干した。


「……ッハー!!旨ぁ!」


「いい飲みっぷりじゃない!」


「おーアディプトちゃん、こっちも飲むー?」


「飲む!」


「これも美味しいですよ。飲みなさい。」


「いただきまーす!美味しい!」


 彼女の尋常ではない飲みっぷりにセトラ以外の三人はすっかりドン引きしていた。


「おいセトラ、この人たちちょっとヤバくね……?」


「姉ちゃんの友だちでまともなヤツがいるわけねえだろ。」


「完全にアル中だね……」


「面倒だな……」


「あれー?何か失礼なこと言われたかもー。」


「へえ。舐めてんね。付き合いなさいよ。」


「教育しますよ。」


 そのまま女性陣に流され、一行は公園に戻って関係者席に座っていた。だが八人で一度に囲めるテーブルは用意されていなかったため、四人掛けのテーブルへ二つのグループに分かれて座った。


「セっちゃんの友だちなんだ。ご両親はどんなお仕事をしてるの?へぇー……漁業をなさってるんだ。腕も細いのにしっかりと筋肉が付いてて、ギャップ萌えかも。」


「ははっ……ありがとうございます……」


「おい姉ちゃん。フィーネさん、完全にスイッチ入ってるぞ。どうするんだ?」


「えへへぇ、どうしようねえ!!」


「ダメだなコイツ。」


 グループ分けとしてセトラ、アディプト、メア、フィーネの四人と、ハク、カウフ、ヴァネサ、ヨハナの四人だ。


 この場に居合わせた四人の男たちはそれぞれの要因から暴走しつつあった女性陣に辟易していた。


「何ー!?お姉さんたちが酌してあげるからいいから飲んどけー!」


「ノリ悪いですね。美女二人がいるのに不満ですか。」


「悪ノリしすぎなんすよ二人が!」


「セトラ、ヘルプ。」


「すまん無理だ。」


 騒がしく賑やかで、穏やかと表すには少々スパイスの効いた時間が流れる。誰も何も言わずに勝手につまみや酒を補充しに行ったり、会場にいる他の知り合いや友人のところへ顔を出したり、両親から呼ばれたセトラが泥酔したアディプトを連れて関係者への挨拶に回ったりもした。全員が無軌道に動く混沌の時間だ。


 そして一通りやらなくてはならないことを済ませると比較的正気だったセトラは一人、混沌を少しだけ離れた位置から観察していた。


(……来年、ここはどんな風になってんだろう。)


 順当に進めば来年にはセトラたちは高校二年生になっているはずで、その頃にはもうアディプトはロンドレイツを離れているだろう。そうなればセトラにとって初となる一人での奉穣祭を迎えるのだ。


(相変わらずアイツらとバカやってるんだろうけど。)


 ロンドレイツで最大のイベントが年に一回、夏にあるこの奉穣祭だ。田舎では数少ない娯楽ということもあり、毎年非常に多くの人で賑わう。来年も、再来年もそれはきっと変わらない。


(でも、今みたいに楽しめてんのかな。)


 しかしその時、彼は独りだ。


 グランロッサ家では爵位や神の血に驕ることなく、隣人と手を取り合って生きていくことの大切さを身を以て学ばせるため、物心が付いた段階の子どもを親から離して生活させる習慣がある。セトラたちが離邸に暮らしている理由もそこにあった。


 期間にして約十二年間。実の両親よりも長い時間を、十六年という時の三分の四を弟は姉と生きてきた。


 当たり前が当たり前ではなくなる想像が付かなかった。


「……」


「暗い顔してどうしたのぉ!?セトラくんもいっしょに飲もうよぉー!!」


 そんなアンニュイなセトラといきなり肩を組み、アディプトはビールの入った大ジョッキの縁をいきなり彼の口へ突っ込んだ。


「!?!?」


「あはははは!!!!間接キスー!!」


 抗議しようにも大量の酒に押し流される。どうにかセトラはアディプトを引き剝がすと、慌てて卓上に置かれたピッチャーから水を汲んで飲み干した。


「ひ、酷い目に遭った……」


「おいしいでしょ!?おいしいよねえ!」


「何て酔い方してんだコイツは……おい姉ちゃん!一旦酒飲むの止めろ!」


「えー?」


「いいから、ここから座れ。」


 彼は今まで自分が座っていた席をアディプトに譲り、彼女の手からジョッキを取り上げた。


「ああ!お酒がぁ!!」


「ほら、キンキンに冷えた水でも飲んどけ。」


「水ぅー!?ノンアルは飲み物じゃありませーん!!」


 代わりに水の入ったコップを手渡すと、何も考えてない様子でアディプトは水を一気飲みした。


「セっちゃん。今日のアディプト、何かあった?」


 彼女の暴挙を見かねてフィーネたちが近付いてきた。


「いつも通り暴れてるだけだよ。迷惑掛けて悪いな。」


「この子が酒癖悪いのはもう散々知ってるから今更だけど。……それより何?アディプトって気になってる男でもいんの?」


「急に何だ?特にいないはずだが。」


「珍しくドレス着て化粧までしてるし、ものぐさなアディプトがここまでしてるなら誰か見せたい男でもいるのか気になるじゃない。」


 少し考えてからセトラは答えた。


「特定の個人とかじゃなくて、強いて言うならフィーネさんたち皆じゃねえのかな。」


「あたしらに?」


「つまりドスケベドレスのアディプトをオレたちがガン見してもいいと?」


「ハクはちょっと黙っててくれ。」


 一度咳払いをし、彼は続ける。


「姉ちゃんの進学先、ゼレハフト魔術学院は原則として六年間のカリキュラムで魔術師を養成する機関なんだ。ロンドレイツとゼレハフトの中心部じゃ毎日通うには無理な距離だし、必然的にグランロッサ領を出ていくことになる。そうしたら皆と顔を合わせる機会も減っちまうだろ。」


「でもーアディプトちゃんはそういう殊勝な子じゃないよねー。確かにゼレハフトへは片道二千キロもあるけどー。」


「飛行機に乗れば日帰りできる距離ですね。進学しても長期休みには都度帰ってくると言ってましたし。」


「それでも、今の皆とこうやって一堂に会せるのは今だけだろ。姉ちゃんなりに皆との時間を大事にしてるからこうして粧し込んでるんだって、俺はそう思う。けど、こうやって飲み過ぎてダル絡みしてるとなあ……」


 何も考えてなさそうな間抜けな表情で座らせられているアディプトを見て、つい周囲にいるセトラたちは噴き出した。


「えぇぇぇー……?何笑ってんのー?」


「別に。姉ちゃんらしいって思っただけだ。」


「あんた、ゼレハフトに行ってもそんな感じでいたらすぐ悪い男に捕まっちゃうわよ?」


「アディプトならそんな輩はすぐに返り討ちにしそうですけどね。」


「こんなにふにゃふにゃな顔してるのに、覇級にまで至っちゃってますから。人は見かけによりません。」


「さて、じゃあまたアディプトが悪さしないように全員で見張って飲みましょ。ちょっと男子!テーブルとイス動かすの手伝って!」


 喧しく、友人たちがアディプトを中心にして集まってくる。


「にへへー、ねー、セトラくん。楽しいねー。」


「ああ。そうだな。」


「なのでお酒をもう一杯……」


「それはまだ早い。もうちょい休肝してからだ。」


 アディプトは不満そうに口を尖らせる。


「じゃ、俺も運ぶの手伝ってくるから。大人しくしてろよ。」


「はーい……」


 セトラはハクたちに加わり、アディプトのいるテーブルと今運んでいるテーブルを隣接するように動かした。それから全員は同じテーブルを囲み、酒と飯を食らいながら、同じ話題で盛り上がった。


 後半には野外ステージで有志によるフリーパフォーマンスが行われた。今年の参加者は総勢百組に渡り、初日は二十組、残る二日間は一日四十組のペースで漫才からライブまで様々なパフォーマンスが行われる。会場を爆笑の渦で包んだものや反応ゼロで滑り散らかしていたものもあったが、基本的に友人らと酒が入った状態で見れば何でも楽しめた。


 こうして一日目は瞬く間に過ぎていった。


「じゃーまたね!明日は一時くらいにまたここの公園集合で!」


「そんなこと言って、あんたが遅れんじゃないわよ。」


「今日はお疲れサン。んじゃ。」


「おう。また明日な。」


 奉穣祭は延べ三日間開催される。残りはまだ二日間あり、この間にセトラやアディプトがステージに立つ予定は今のところない。


 絶対にやらないといけないことを済ませた解放感と、元々オーバーワーク気味だった身体を動かしていた気力が途切れかけ、帰路で姉弟は激しい虚脱感に襲われた。離邸に到着するや否や、彼らは乱雑に靴を脱ぎ捨て、着の身着のままリビングのソファとカーペットに倒れ込んだ。


「ぁぁ……」


「はぁ……」


 呻き声と溜め息。もう何もやる気がしない。腕を枕にして横向きになる。即座に視界が上下から黒く溶けていき、やがてすぐに何も見えなくなった。


 次に目を覚ました時、部屋の外はまだ暗かった。


 アルコールには利尿作用があり、強い尿意を感じて彼は目を覚ました。離邸のトイレで用を足した際、庭から聞こえる物音に気付いた。


 グランロッサ家の敷地内には多重に結界が展開されており、侵入は容易ではない。こんな夜遅くともなれば猶更、敷地内で物音がする状況は異常である。


 セトラは静かに扉を開けて外の様子を窺った。


 そこにいたのは不審者ではなかった。


「セトラくん。」


 柔らかく冷たい色をした光の帯が雲の切れ間から垂れている。それはまるで天の触腕。天が意志を持って攫いにきたかのようで、そうしたくなるのも無理はないと、そう思った。


 吹き抜けた涼風が芝生とドレスの裾、そして深く紅い髪を揺らす夜。


 アディプトは佇んで、ぼおっと月を見上げていた。


 セトラは彼女の方へ歩いていく。


「こんな夜中に何してたんだ?」


「何だろう。お月見みたいな。」


「団子もないのにか。」


「食べるのは目的じゃないし。」


「ならもっと珍しいな。月にも星にも興味ないだろ。」


「普段はね。ただ今夜は少し名残惜しくて。」


 そう語る横顔は彼女にしては珍しく、愁いと影を帯びていた。


「今寝たら、すぐに明日が来ちゃうでしょ。」


「……明日、何か嫌なことでもあるのか?」


「ううん。今日が終わるのが嫌なだけ。」


 手を後ろで組み、薄く笑む。


「楽しかった。」


「……」


「やりたいことは全部やり切れたから。」


「……」


「なのに、これが最後って考えたら……もっと色々やってみたかったな。」


「最後じゃねえ。」


 セトラは真正面に立った。


「事前の練習に参加できないから、ゼレハフトに移住するから、ここを出ていくから……バカ言うな。前もって練習できないから何だよ。要領いいしどうにでもなるだろ。たかが二千キロくらい俺が一緒ならあっという間だ。いつでも迎えに行く。ロンドレイツからいなくなったって皆が姉ちゃんを待ってるんだ。だから最後なわけあるかよ。」


 そしてポケットから開閉する小さな箱を取り出し、彼女へ差し出した。


「それに、まだ奉穣祭は続いてる。やりたいことをやる機会はまだまだ残ってる。やれるだけの力が足りないなら、それを補う手段だって用意した。」


「これは……?」


「開ければ分かるよ。」


 促されるがままに箱を開ける。


 中身は儚い夜桜色を抱く、透徹した鉱石があしらわれた指輪だ。


「まさか……ティエレヂーノ鉱石!?」


 一目見て鉱石の正体を悟り、アディプトが驚愕に染まる。


「女性で、且つ土属性のオドの持ち主だけが利用できる魔術の触媒だ。指輪を通じて術式に魔力を熨せることで術式の効率を上げ、条件さえ整えば術式効果を最大で六倍にできる。」


「わ、渡す相手間違ってるよ!こんな高価な物受け取れないって!」


「いいや合ってる。姉ちゃんのために買ったんだ。受け取ってくれ。」


 値段を想像して尻込みしてしまうアディプトだが、セトラから強い圧を受け、恐る恐る指輪へ手を伸ばした。


「……付ける位置とかに決まってる?」


「好きなところに付ければいい。」


 彼女は左手の人差し指に指輪を嵌めた。ほっそりとした白い指を薄色の鉱石が彩る。


「魔力の許容量は?」


「姉ちゃんなら限界値を突っ込んでもまだ結構余裕があるはずだ。」


「そっか。試してみてもいい?」


「当然。」


「なら……短縮レドムーロ。」


 触媒の効果を確かめるように、左手を横に突き出して短縮詠唱を行う。すると魔術の発動速度こそ平時と変わらないが、同じ魔力量のまま普段の倍近い大きさの土壁が構築された。


「雄大に広がり恵みを育む地天。星の大いなる安らぎ。遠大なる身動の一端を微かな結晶となし、我が目前に放たれよ。下級スバルテルナ弾丸クグロ発射エルパーフィ。」


 続けて土壁に対し、完全詠唱により生成した弾丸を発射した。凄まじい速度と威力で放たれた弾丸が着弾とともに土壁の表面に穴を開ける。


中級メズグラーダナドロ発射エルパーフィ。」


 更に口上を省いた略式詠唱でワンランク上の魔術を発動させた。虚空に生じた岩石が一直線に土壁へ突き進んでいく。インパクトの瞬間、アディプトは土壁を構成する術式と岩を放つ術式の双方に指輪を通じて魔力を込めた。互いに強度と威力を上昇させた両者は激突と同時に砕け散り、轟音が響き渡った。


上級スペルラティーヴォ……これ以上はご近所迷惑か。」


 体内の魔力炉心をアイドリング状態に切り替え、アディプトは指輪を見つめた。抑えようとしてもつい高揚で口角が歪む。


「……うん。いい、いい感じ、すごくいい!」


「気に入ってくれたか?」


「一度に触媒へ通す魔力量と速度、勢いかな、この二つがカッチリ噛み合うと術式効果が飛躍的に上がるの!サイズもぴったりだし、触媒の性質にも癖がなくて使いやすい!今まで使った触媒の中で一番いいよ!」


 彼女があまりに嬉しそうにしているものだから、不意にセトラも笑ってしまった。


「喜んでもらえて何よりだ。」


「うん!最高!……けど、本当に貰っていいの?こんなに素晴らしい触媒ならかなり奮発したんでしょ?」


「一度あげた物をやっぱ返せなんてみっともねえ真似するかよ。それにティエレヂーノ鉱石にしては破格の値段だったんだ。」


「けどこの石、原則値崩れしないよね。」


「触媒としては優秀なんだが効果を引き出せる条件があまりに限定されてて、それで逆に安くなってた。前に姉ちゃんがくれたコイツと一緒だな。」


 鞘から独特な剣を抜く。


 長い片刃の直剣。限りなく黒に近い藍色をした半透明の刃身は、金属ではなく鉱石から作られたことを示唆している。魔術の触媒として最上位の一つに数えられるディメンスィオ鉱石、その純粋な塊を削り出して作られた太古の遺物だ。


「それ、最初は売ろうと思ってたんだよね。」


 剣は一切の金具を持たない。柄は滑り止め用の溝を幾重にも刻み付けられた剥き出しの長い茎が兼ねており、幅の異なる刃体と柄の差が誤って刃側に手が滑ったとしても使用者を保護する鍔の役割を担っている。


「だけどロスする魔力量が多すぎて誰も使えないし、強度が高すぎて加工材料への転用もできないから誰も買ってくれなかったの。それでどうやって誕生日プレゼントのお金を工面しようか考えてたら当日になっちゃって、そのままあげたんだよ。」


「この剣のおかげで超級の魔術に手が届いた。重力魔術が扱えるようになったのも、ある程度の敵とやり合えるようになったのもこの剣があったからだ。」


 超級以上の魔術を扱う場合、魔力に要求される項目は量と属性の他、次元が追加される。各階級の術式から要求される次元に達しない魔力をどれほど熨せたところで何も意味がない。


「姉ちゃんが人のままで至れる魔術師としての限界にいるのは知ってる。それでもまだ力が足りない状況になったとして、俺や他の人の助けがあってもどうにもならねえ時が来た時、姉ちゃんがくれた剣と同じようにその指輪が少しでも助けになると嬉しい。」


「もう、そんなカッコいいこと言って……」


 いつも心のどこかで、セトラを子どもとして見ている節があった。たった二歳差しかなく、今では身長を二十センチメートル近く追い越され、個々の戦闘力では遥かに差が付いてしまい、頼りにしている部分もかなりあるけれど、それでも彼女にとってのセトラは子どもだった。


 四歳の頃、本邸から離邸に移り住むことになり不安で泣いていた子。どこに行くにも付いてきて手を握ってきた弟。自身が覇級魔術を修めた時点で少しギクシャクしたこともある年頃の少年。


 今のセトラはもう違う。


「大きくなって、本当に……」


 感無量だ。


「指輪……ありがとう。すごく嬉しい。大切にするって約束はできないけど、ガンガン使い込んで必ず今よりもっとずっと優れた魔術師になるから。約束する。」


「そうじゃないと張り合いがねえ。」


「でも一つだけ聞かせてほしいの。」


「ああ。」


「何で今くれたの?別に誕生日でもなんでもないよね?」


「あ。」


 指摘の通り、今日という日付自体に特別な意味合いはない。奉穣祭の一日目が終わることをアディプトが名残惜しく思っているのは先刻まで知らなかった。そもそもカウフから指輪を受け取れる日程は決まっていなかったのだから、この日にアディプトに渡そうというプランがあるわけがない。


 真相はロマンチックな場の雰囲気と、普段元気で明るく前向きな彼女が少しアンニュイになっていたギャップでセトラが一人、突っ走ってしまっただけである。


 答えに窮する彼を見て、アディプトはすぐに合点が行った。


「ふっ、ふふふふ、あはっ、あっはははは!!!!どうせ前からプレゼント準備してくれてたけど渡すタイミングが分からなくて、それっぽい会話の流れになった途端いきなり渡しちゃったとかでしょ!?」


「……まあ。」


 悉く心情を言い当てられてしまい、バツの悪そうに目線を逸らした。


「ふふっ、昔からいつもそう。クールな顔で真面目なこと言って、実際はかなりノリと勢いで生きてる。」


「姉ちゃんも大体一緒だけどな。」


「似た者同士ってことだね。」


「昼間、親父にも言われたよ。俺たちはソトノの直系だから多かれ少なかれソトノっぽいところがあるらしいぜ。」


「じゃあソトノもこんな素敵な指輪を貰ってたら喜んでたのかな?」


「どうだろう。俺は姉ちゃんが喜んでくれたんならそれでいい。」


「おっ、随分と素直になっちゃって。深夜テンションでよく分からんこと言うと後で悶えるよー?」


「どうせ悶えるなら早い内に限る。」


「言えてるね。」


 静謐な夜半、虫の声すら聞こえぬ空間に二人の会話が染み入る。


 だから突如響いたひゅうという音はやけに大きく聞こえた。空に一条の光が打ち上がり、轟音を立てて赤い菊模様の花火が炸裂した。それが立て続けに二発、三発と止め処なく連続して咲き誇っていく。


「え、何でこんな時間に?」


「妙だな。花火は三日目の夜に打ち上げる予定だ。一日目の、しかも誰も見ていない深夜に打ち上げるわけがねえ。」


 事故か。或いは誰かがわざとやったのか。


「彼岸へ墜ち逝く遠天に告げる。星の昏き終焉へ挑む。地の軛を取り除き、我らの身を攫え。超級ソィロ・ミスティカ自由落下リベーラファーロ。」


 セトラは即座にスペルを詠唱し、頭上に重力核を生成した。


「待って!私も行く!」


「そんなヒールで?」


「履き替えてる時間ないでしょ。ほら早く!」


 アディプトがいつも通り抱きつき、彼を急かす。


(確かにすぐ行かないと火事の危険性が増すだけだな。こんなことで二日目、三日目が中止になるのは避けねえと。)


「分かった。行こう。」


 姉の身体を抱き締め返し、二人は打ち上げ場所へ急行した。


「事前に提出された計画書だと打ち上げ場所って河川敷だけだったよね。」


「ああ。だがどう見ても四箇所から別々に打ち上がってるな。一つは元々の河川敷の辺りで、他の二つは街中、一番遠いところは山の方か。こんなことなら親父たちも連れてくればよかった。」


「どうする?」


「……機動力から考えて、山には俺が行く。姉ちゃんはここで降ろすから、対処が済み次第他の打ち上げ場所に回ってくれ。」


 セトラはアディプトを河川敷の打ち上げ会場で下ろした。


「俺も片付けたらすぐに戻る。この勢いで打ち上がり続けたら親父たちも起きて街の様子を見に来るはずだ。そしたら分担して、さっさと鎮めちまおう。」


「できるだけ早く処理するよ。それと……何か嫌な感じがする。油断しないで。」


「姉ちゃんもな。」


 それから彼は全速力で山へ急いだ。


(何らかの要因で誤って引火したとして、明らかに予定外の場所から花火が打ち上がってる理由にはならねえ。)


 そこはロンドレイツとウォーロンを結ぶ峠もある山だ。かつてメアとカウフからそれぞれ荷物の運搬を頼まれた際、一時的に通行できなくなっていた場所でもある。


(考えられるとしたら……罠か。この位置関係なら山には俺が行くのが一番早い。親父たちが一緒だったとしても同じことをした。)


 罠の可能性が濃厚であることを察しつつも、彼に山へ行かないという選択肢はない。山火事が起こる危険性を看過できないからだ。


(気色悪いな。相手の狙いに乗せられるしかないなんて。)


 現地に着くと、すぐに詳細な打ち上げ場所は分かった。花火玉が納められた筒の束と点火装置が開けた場所へ露骨に置いてあったからだ。無人にも関わらず点火装置は筒を一本ずつ点火していき、こうしている今も一定のペースで花火を打ち上げ続けている。


 セトラは点火装置と導火線を叩き切った。


「……俺が行くまで無事でいろよ。姉ちゃん。」


 無意識に願望が漏出する。


「誠に残念ではございますがご希望には添いかねます。」


 その本来なら誰の反応もない独り言に対して、耳馴染みのない低い声が答えた。


 声のした方向を向くと、そこには巨漢が立っていた。大男は真夜中にも関わらずサングラスを掛けており、虚白のタキシードスーツの内側から隆々の筋骨を漲らせている。


「誰だテメエは?深夜に花火を打ち上げたのはテメエの仕業か?」


「お答えできません。」


「そうかよ。だったら好きにしたらいい。騎士団の取調室で詰められてもまだそういうことが言えるならな。」


 剣に若干の闇属性魔力を纏わせ、横薙ぎの斬撃に乗せて放った。海竜デヴォラーレとの交戦時に繰り出したそれとは比にならないほど威力は小さい。


 その魔力の塊を、巨漢は大きく開口して咀嚼、嚥下した。


「……!?」


(加減はした。だからって口なんかで受けたら歯が全部吹き飛ぶくらいの威力はあるはずだ。飲み込むなんてとんでもねえ!)


「大変美味でございました。まるで住宅地の裏を細々と流れる溝の如き珍味です。」


 巨漢は深々と頭を下げた。


「はっ、だったら今度はもっとたくさん馳走してやるぜ。テメエの腹が内側から破裂するくらいによ!!」


 即座に威力を増した二撃目の縦振りを繰り出す。三日月上の一撃が怒涛の勢いで迫っていく。同時にセトラは高速移動し、先の魔力が敵へ到達するのと同時に背後に回り込んで剣を振り下ろした。


 対して巨漢は一歩退き、半身の姿勢を取って魔力塊を回避。直接振り下ろされた刃は丸太の如き剛腕で一瞥もくれず握り止め、直剣ごと引き寄せたセトラへもう片方の拳を叩き付けた。


 途轍もない膂力の打撃をもろに食らい、何本もの木々をへし折って吹き飛んでいく。


「……!」


 一方、巨漢とて無事では済まなかった。直撃する寸前、セトラは刀身から莫大な魔力を放出していた。故に右手は突如として到底握り潰せないほどのエネルギーの直撃を受け、肘から先を木端微塵に弾け飛ばされたのだ。しかし彼は微かにでも痛がる素振りを見せぬまま、大地を陥没させるほど蹴り込んで標的の下へ跳んだ。今の二回のやり取りで彼は確信していたのだ。


(標的は魔力放出を始めとする攻撃の威力が絶大ではあるが、決してインファイトの技量に長けているわけではない。だから標的の頭部を狙った攻撃は躱されず、完璧なタイミングで叩き込めた。しかしインパクトの瞬間、衝撃の全てが伝わり切っていない手応えがあった。十中八九、標的はまだ生きている。)


 それでは命令を遂行できない。強い義務感が巨漢を闇夜に向かわせた。ただでさえ周囲のエネルギーを不活化させ、暗黒としてしか認識できない魔力を有するセトラの間合いへと。


 途切れそうな意識を気力で保ち、剣へ凄まじい量の魔力を籠める。彼が有するような闇属性魔力には周囲にあるエネルギーを不活化させる性質がある。それを生命体が受けたら最期、瞬く間に体内の生命力が活性を失い、即死以外の未来が途絶える。


(接近戦じゃあのデカブツには敵わねえ……確実にヤツは俺にインファイトを強要してくる。暗闇で薄く見えるスーツの白も、分かりやすいくらい近付いてくる気配も、全部誘いだ。遠距離という間合いから俺に魔力放出で迎撃させ、その後隙を突いてくる算段。互いの土俵、攻守を入れ替えた二ターン制真っ向勝負ってわけか。)


「……やってやる。」


 但し最初からクライマックス。巨漢が攻め、セトラが受けて立つ構図だ。決着は今、ここで決まる。


 フィジカルでは圧倒的に有利である巨漢が、セトラの反射神経を超えた速度で砲弾の如く近接していく。


短縮レド加速アクツェル!!」


 対してセトラはある魔術を詠唱した。


 それはある初夏の昼下がり、セトラたちの食堂での会話を盗み聞きする際にアディプトが使用した魔術だった。術式効果は任意の対象の速度をある程度上げるというものに終始する。当時、彼女は神経パルスそのものを術式の効果対象に設定し、伝達速度を早めることで疑似的に神経系を強化する運用方法を取っていた。だが模倣には彼女以上の超高等技術が要求され、現在のセトラには真似できない。


 故にセトラが加速させたものは己と敵以外の全てだ。敵の動作によって生じる気流、大気中に遍在するマナの乱れ、振動など、己と敵以外の全てを加速対象に定め、それらを攻撃が来る方向とタイミングを報せる指標とした。


(今!!)


 体表面から魔力を噴出し限界を超えて加速させた斬撃を、まだ敵の姿がない虚空へ叩き込む。


 まるで未来を視て放ったかのような一太刀を凌ぐ術を巨漢は持たない。胴体を袈裟懸けに両断され、鮮血を激しく巻き散らしながら死体となって転がった。


 術式を解除し、セトラは念のため巨漢の生死を検めた。


「はぁ……はぁ……間違いねえ。死んでる。」


 今までなら地方騎士団へ通報、死体を回収して引き渡し、後日聴取されるという流れになる。


 しかしロンドレイツに何らかの脅威が侵入しており、実際に攻撃を仕掛けてきたという状況から鑑みて悠長に対処している時間はない。


 セトラは巨漢の遺体を花火の発射装置付近にある木の根元まで運んだ後、超特急で市街地へ戻った。未だ一箇所だけ花火が上がり続けている地点、駅前に聳えるビル群の中心地へと。


(四箇所で分散して打ち上げた花火はやっぱり罠だった。あの白いデカブツは本気で俺を殺しに来てた。……マズい。あれくらいの連中が他の打ち上げ場所にもいるとすると、流石に姉ちゃんでも分が悪すぎる。)」


 途中、目的地で大爆発が生じ、真夜中を真昼にするほど凄まじい火の手が上がった。


 直後にビルと比較しても見劣りしないほどの大きさの岩塔が空中に多数出現し、ある程度街を損壊させてでも火元を圧し潰して消火せんと地表へ降り注いだ。


「姉ちゃん……っっっ!!!」


 やがてセトラが到着した際、駅前は地獄そのものと化していた。ビルは倒壊し、駅舎は崩落し、地は夥しい人の死体で埋め尽くされていた。何が起きたのかは分からなかった。しかし何が原因であるかは一瞬で理解できた。


 女だ。目を覆いたくなる惨状の中心に虚白の女が立っていた。ドレス、髪、肌に至る全てが純然たる白さに溢れている。背は高く、同年代の平均を超えるセトラよりも頭一つ大きい。彩りを持っていたのは唯一眼球のみであり、虹色に輝きながら蠢いている。一切の感情が窺えない虫の如き双眸をした女は、その足元で倒れ伏すアディプトを見下していた。


「抹消。」


 右手で彼女に触れ、簡潔に単語のみを発する。


 本能でその行為を攻撃だと直感した直後、セトラは全身から莫大な魔力が迸らせ、両者の間に割って入った。


「姉ちゃんッッッ!!!」


 剣に暗澹たる闇を纏わせ、薙ぎ払いと同時に放出。闇の奔流が女を吞み込まんと殺到した。その闇は凝縮させた膨大な量の闇属性魔力そのものだ。


「消去。」


 一方の女は右手をセトラが放った魔力へ向けた。生命活動において極めて大きな脅威となる闇属性魔力と右手が接触した瞬間、まるで最初からそこに存在しなかったかのように跡形もなく消滅した。


 しかし彼とてこれほどの被害を出せる存在がただ一撃で倒せるとは考えていない。先の攻撃は陽動。本命はこの一撃だ。最大出力を刀身に籠めつつ敢えて放出せず、ただ絶大な破壊力を有する刃として超至近距離から相手の頸へ向かって振り下ろした。


「回避。」


 刃が虚しく宙を走る。切るどころか相手に触れてさえいない。


「!?」


 いつの間に移動したのか。確実に目の前にいた女が音もなく消え失せていた。それから上空へと再出現した彼女はセトラを見下ろし、彼に向けてそっと右手を伸ばした。


「掘鑿。」


 また攻撃が来る。セトラはアディプトを脇に抱え、両足から噴出した魔力による加速を乗せた重力移動で大きく距離を取った。されば予想通り、相手が放った何かが直撃した箇所は半球状に消失していた。


(やっぱりコイツ魔力を全く使ってねえ!魔術じゃねえなら何だコレは!?)


 正体不明の敵を前に困惑を禁じ得ない。先の瞬間移動と同様、大地を削った一撃に関しても全く思い当たる正体がなかった。


「質問。アナタはソトノの係累ですか?」


 唐突に、それまで単語しか発していなかった女が明確に意味を持つ文章を発した。


 しかしセトラには質問の意図が分からなかった。奉穣祭の出し物の一つとして行うほど、グランロッサ家が魔力神ソトノの血を引いていることは公に明らかにしている。敢えて質問されるようなことではない。


「だったら何だ。」


「肯定した場合――抹消し消去いたします。否定した場合――消去いたします。黙秘した場合――抹消し消去いたします。」


「デカい口叩きやがって。やれるもんならやってみろ。俺たちがソトノの直系だ!!」


 彼の回答を聞き、女から漂う異質な気配が更に一段階異常さを増した。


「加速。」


 セトラの動体視力を超えた速度で女が急激に降下、接近してくる。


「抹消。」


 続けて右手を伸ばし、セトラの胸へ触れた。


「!?」


 特にダメージはない。しかし疑問を抱ける余裕などあるはずもない。反射的に細く白い女の右腕に対し剣を振り下ろした。今度は確かな手応えと共に肘半ばから切断し、返す刀で頭を狙って切り返した。


「回避。」


短縮レド爆発エクスプロド!!」


 海竜デヴォラーレ戦の最終局面で発動したものと同一の魔術を発動させた。但し今度の威力はあの時の比ではない。


 短いながらも交戦し、幾つか判明したことがあった。敵が使う異能の詳細や理屈は依然として不明なままだが、異能を使う際に確実に条件のようなものが課せられている。


(単語と右手は自分以外に対して干渉する用で、単語だけバージョンは自分に対して効果を発揮する感じだな。じゃなけりゃ最初に死亡とか言われてお陀仏になるはずだ。)


 斬撃と爆破魔術を共に繰り出した理由も異能の仕様を推測したが故だ。


(抹消。消去。回避。掘鑿。加速。抹消。回避。言葉通りの意味なら削るだけの掘鑿よりまるごと消し去れる消去の方が格上。でもあの間合いで掘鑿を使ったのは、距離に応じて起こせる現象には限界があるからだって考えるのが自然だろ。それにあんな転移魔術みたいなことができるのにわざわざ加速して距離を詰めてきたってことは強い単語の連発にも制約が付いていなきゃおかしい。)


 回避で斬撃を躱させた後、回避を使えない状態の敵を爆破魔術で確実に屠る。爆発の熱と衝撃波が女へ襲い掛かる。


 咄嗟に女は己の左の小指を噛みちぎり、その上で左手で頭を捥ぐと爆破範囲外へ投擲した。その数瞬後に残った動体は原型すら残さないほど完膚なきまでに破壊された。


 しかし大爆発が裏目になり、セトラは相手が行った対処法を目視できなかった。このことが次手の組み立てに際して致命的な遅れを生む。


「復元。」


 爆発の向こう側で頭だけになった女は小指を口に入れたまま再び単語を呟いた。言い終えると彼女の欠損した身体はドレスまで含めて元に戻っており、その場で彼女は自身の胸に左手を当てた。


「加速。」


 先ほどとは比にならない強靭な脚力で地面を蹴り、爆風で巻き上がった土煙を強引に突破。瞬間移動じみた速度でセトラとの距離を詰めた。


(速過ぎる!!)


 彼は左腕にアディプトを抱えたまま、右手で握った剣での防御と回避で間一髪凌いでいく。相手の動作に拳法、格闘術の理合がないからこそ辛うじて成立している攻防だ。けれども腕一本で果たしてどこまで耐えられるものか。やがて防御に綻びが生じ、女の蹴りを受けてセトラは遥か後方へ吹き飛ばされた。一応胴体への直撃を避け、剣で受けた。それにも関わらずこの威力だ。右手が酷く痺れていて全く力が入らない。


 この間にも女は凄まじい速度で迫ってきている。敗北が、死が迫る。


「……雄大に広がり恵みを育む地天に冀う。星の大いなる安らぎに祈りを捧ぐ。そして蠢く大地に告げる。」


 そこで魔術の詠唱を行ったのはセトラではなかった。アディプトだ。セトラが女と交戦している間に少しだけ回復した彼女は彼と同じように戦況を観察し、ずっと機を窺っていた。


「広大なる地平を穿ち、茫洋たる大海を干上がらせる一筋の星となり、我が眼前へ墜落せよ。」


 あの女を倒すには一撃の下に全てを消し飛ばすしかない。人差し指に嵌めた指輪を通じ、残る全力をただ一つの魔術に熨せる。


覇級グランダ・ミスティカ隕石クラシーギ墜落メテオルシュトーノ……!!」


 覇級の魔術が成立し、極大の隕石が空中に生成された。見かけ通りの超質量の隕石は地上の重力に引かれ、アディプトたちごと一切合切を吹き飛ばす軌道で墜落する。


 必然、敵の意識は重傷の二人よりも差し迫った隕石の方へ向けられた。全速力でこの場から逃走していく。


 アディプトは重ねていた無理が祟って口から大量の血の塊を吐きながら、しかし獰猛に口元を微かに歪めた。


(逃がさない――)


(――殺す。)


 セトラが今一度剣を握り締める。ここまでして姉が作った好機を決して無駄にはしない。最早周囲へ与える影響を考慮する余裕は皆無だ。ありったけの魔力を剣に籠め、宿し、溜める。


「うおおおおおおおおおおっっっっっ!!!!!」


 そして極限まで凝縮した闇を、掛け値なしの全力の横振りで放出した。ビルを、隕石を、夜空に浮かぶ雲さえ消し飛ばして、漆黒の一撃が純白の女を呑み込む。闇は肉体を貪り、そして完璧に消し去った。


 これで終わりだと、薄れゆく意識の中で二人は思った。


「悍ましい。」


 闇夜の向こう、虚白の集団が現れるまでは。


 薄っすらと見えるシルエットに統一感はまるでない。だが全員が青褪めた白い衣類を身に纏っていることは確認できた。


「生命から力を取り出す業。神を騙る穢れた血の末裔には相応しい技術だ。」


 その集団の先頭に立つ、嘴のような仮面で頭部を覆った者。地面に垂れ下がるほど傷んだ長い金髪の何者かは、中性的でくぐもった声へ明確に敵意を乗せていた。


「負け惜しみか……?その悍ましい業とやらでテメエの仲間は死んだんだぜ……!!」


 反射的にセトラが魔力の一撃を放つ。


 それを金髪の人物は真正面から受けた。


「そのような下等な業が届くとでも思ったか。」


 しかしあろうことか、手袋越しの素手でセトラの一撃は軽々と弾かれ、付近のビルへ激突した。


(山で戦ったデカブツみたいにフィジカルが強いわけでもねえ。さっき殺した女みたいに魔力を消されたわけでもねえ。何だコイツは……!?)


 目の前の人物もこれまで同様、魔術の類を扱っている気配はない。それが益々彼を混乱させた。


「聢と目に焼き付け、そして死ね。これが純然たる神の御業だ。」


 右手を天に掲げる。


「照覧、申請、承認、天恵。」


(スペル……?いや、違う……これは……!)


「滅ぼせ――」


 敵の攻撃を察した瞬間、セトラは最大出力でこの場から逃亡した。アディプトを抱えたまま途轍もない魔力を噴射し、その際の斥力で自分もろとも遥か彼方へ吹き飛ばしたのだ。


 同時に上空へ次元の断層が発生。そこから無数の虚白の光柱がロンドレイツへ降り注ぎ、光に触れた傍から物体が消失した。都市部も昔ながらの町並みも、生物無生物の区別なく光は無慈悲に一切を解き消し去っていく。


 そしてセトラにもアディプトにもこの攻撃を凌ぎ切れる余力は残っていなかった。


超級ソィロ・ミスティカ自由落下リベーラファーロ!!!!!」


 重力魔術を発動し、光を回避しながら我武者羅に飛んだ。しかしその内魔力も尽きてしまい、どことも知らぬ山中へ墜落した。


 逃げて、逃げて、逃げ続けた果てに、二人は何一つ護れなかった。


 ▽ ▽


 未明。里山へ何かが降ってきたとの通報を受け、地方騎士団所属の騎士二名は現地に確認へ向かった。


「センパーイ。何でこんな朝早くに山登りなんてしないといけないんですかぁ。ただでさえ宿直なんて怠いのに嫌ですよぅ。」


「黙って歩きなさい。山登りとはいえ遊歩道もあるような里山なのだからまだ楽な方です。」


「言ってる傍から脇に逸れて道なき道を歩いてるじゃないですかぁ!」


 通報内容から大体の落下場所に検討を付けていた騎士は後輩騎士の文句を聞かず、藪の山の斜面を下っていく。


「文句を言わないでください。最近では例の野盗が出ているということもありますし、住民の方々も色々と不安に思うところもあると思います。ですがそのような懸念事項に対処することは当方の仕事で……っ、大丈夫ですか!?」


 そこで彼らは墜落してきたものの正体を目にした。


 赤いドレスを纏った少女と、白いシャツを土と血で汚した少年だった。


「ノンナさんは二人が何か身分を証明できる物を持ってないか確認してください!……大丈夫ですか!?起きてください!しっかりしてください!」


 身体を揺すったり頬を叩いたりしてみたが二人は目を覚まさない。


「何この会員証……」


 一方で少年が持ち歩いていた財布から取り出したギルドの会員証を見て、騎士の一人は怪訝な顔をした。


「センパイ。これって……?」


「見せてください!」


 目の前に出されたギルド会員証。そこにはグランロッサ家の家名が記載されているだけで、他は何の情報も載っていなかった。まるで本来書かれていた情報が抹消されたかのように、不自然な空白が目立っていた。


「グランロッサ家って東の公爵家でしたよねぇ。何でこんな山の中に……」


「……当方にも分かりませんが、ともかく貴族の方をいつまでもこんなところに置いておけません。すぐに町へ運び手当をしましょう。」


 騎士は身元不明の二人を背負って山を下りた。


「以前、王都帯ゼレハフトで大規模な会合があった際、当方は警護の仕事で会場にいました。その時はグランロッサ家の方々も大勢出席していた覚えがあります。」


「じゃあその時にセンパイはこの人たちを見たってことですか?」


「それが……全く記憶にないんです。」


 自身で背負っている少年と、もう一人の騎士が背負う少女を一瞥する。


「この方々を見た覚えはただの一度たりともありません。」


 しかし、やはり彼が思い出せることは何もなかった。

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