*番外編 とある子爵の独り言


 娘が家を出た。

 その連絡が届いたのは、夫が事件を起こしてから10日ほど経った頃だった。


「そうか。リィナは無事に家を出られたのか。」

 私は、執務室の椅子に座ったまま窓の方へ顔を動かして空を見つめた。

 今思えば、リィナには申し訳ないことをしてしまった。



 子供への接し方や愛情表現が分からない不器用な夫は、事あるごとに幼い娘を泣かせてしまっていた。細長く柔らかくて絡まりやすい髪を梳かすにしても、力任せに引っ張って抜いてしまう。庭で散歩するときに歩幅を合わせることもせず、歩くのが遅いと怒鳴る。しまいには泣き止まないからとカップを壁へ投げつけ、もっと大泣きさせたこともあった。



 そんな中、リィナが五歳になり父から正式に爵位を受け継いだ私は地方への赴任が決定した。まだ幼いリィナと夫を二人きりにする事は流石に不安だったので、教育という名目で私と共に地方で暮らすことにした。


 今考えればあの頃の夫は、不器用なのではなく自分本位で行動しているという事が分かる。だが、あんな夫でも一人娘であるリィナの事が大好きという素振りがチラチラ垣間見えていたのだ。だから今は少し距離を置いて、リィナがもう少し大きくなった頃には夫も落ち着き良い親子関係を築くことができるだろう。私は本気でそう思っていた。





 でも、私の目論見は外れた。

 あれはリィナと共に、夫が一人で残っている王都の邸宅へ一時帰宅した時だった。私が少し席を外している時に、夫がリィナへ暴言を吐いたらしい。

 リィナは反論したうえで退出したが、激高した夫は部屋まで追いかけまわしたらしい。結果、リィナは過呼吸になってしまった。


 過呼吸は収まったものの、涙を滲ませ夫の声にわずかながら身を縮こませる娘を抱きしめながら私はようやく気付いた。このままではいけない、と。

 恐らく夫が変わる事はもうないだろう。私には敬意を払い接してくるが、リィナの事は自分の意のままに操って良いと思っている事も分かってしまった。

 だから、もしリィナが将来この家を出ていきたいとそう思った時に自分で歩いていけるよう私にできることをしよう。そう決めたのだった。



「傍にアンナを置いておいて正解だったみたいだな。まさか、エトワル商会の小隊と一緒に国を出るなんてな。」思わずふふっと笑いがこみあげてきてしまった。

 リィナ専属の侍女を雇ったのは、過呼吸事件の後からだった。一人でも確実に、リィナの味方となる存在が必要だと思っていたから。それで旧知の仲だったエトワル商会へ声をかけた所、ぜひ娘をとアンナを紹介されたのだ。少し風変わりな趣味があることで有名だったが、リィナとは気が合ったようですぐ仲が良くなっていた。



「……リィナ、どうか元気で。」

 私の方からリィナとはもう連絡を取るつもりはない。もしかしたら、そこから夫に居場所がばれてしまうかもしれないから。そしてこれは、娘の苦しみに気が付かなかった私の贖罪だ。

 最後に、もう二度とリィナに夫の火の粉が掛からないようにしなければ。私は引き出しから離縁申請書を取りだし、部屋を後にした。

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