二十四話
人面が監視していればそれだけで人の自由は制限されるだろう。人の逃亡ではなく繁殖を妨げている酸の檻も、本当は聖痕を破壊する事で取り払えた。
懿卡護様が破壊に動かなかった理由は檻に価値を見い出したからだ。人が場合によっては自ら命を絶つ生物であると学べば監視をつけ、様々な奇怪な手を使って逃走を図る生物であると学べば行動範囲を制限する――意図せず出来上がったとはいえ触れた人を溶かす檻ならば、狡猾さを身に付けた異形が利用しない筈もなかった。
舌を噛み切る等の行為を未然に防ぐのは人面でも不可能であり、血を吹いて倒れた者を一々結界で覆い医療機器で再生させていた。だがその人数が嵩張ると食用としている人の再生へ機器を回せなくなり、食糧の供給に支障を来してしまう事が悩みの種の一つだった。
これを解決する為に懿卡護様は敢えて人が自死しやすい環境を残した。酸の檻があれば人が自死する際の手段をそちらへ誘導し、結果的にそれが食糧の安定化に繋がると踏んだのである。
監視役はお得意の演技で泳がせて、人を捕えるのは透明化し酸の檻に張り付いた人面の役――こうして食用としている人体の再生以外に回されていた医療機器を食事用に使い出した懿卡護様は、再生速度や肉質を維持したまま人の数を更に増やす為に聖痕を求めていたのだった。
人面が歌い踊る中で新たな聖痕に取り付きそれを酸で以て汚していくのは脳漿の異形。この異形は既に一度聖痕の汚染を実行済みである。安全圏が酸の檻へと変わり雨天となる度に拠点へ酸性雨が降り注ぐようになったのも、全て脳漿の異形によるものだ。
時間を掛けてゆっくり、今度は透明化する事も無く堂々と汚染していく。その様子を冒頭まで見ていたコラスに生じた、痛恨とまではいかないが哀惜染みた胸の苦しさ。
彼はそれの正体を確かめようとはしなかった。フルートの家で彼女とモニター越しに会話した時、その背後に僅かながら映ったベッドや部屋の間取りは彼にとって見覚えのあるものだった。
巨石へ近づく事で曖昧だった予感が現実となるのを、彼は恐れたのだ。確認せずに拠点を去ればいつの日かまた会える――そう信じて、今は約束を果たす為に施設へと向かった。
大層な地響きに只事ではないと顔を覗かせた住人達もコラスが帰還していた事を知るや否や、聖痕は其方退けにして窓から身を乗り出し彼へ救助を叫んだ。彼の結界へ入ろうと試みた者は漏れなく人面によって連れ戻され、不平に泣き喚く声と怒号で施設までの道は染まっていた。
『お前は必要な物を揃えて出て行け――誰に何と言われようとな』――昨日の今日のコラスにはアスターの言葉が鮮明に思い浮かぶ。
施設近隣だろうとお構い無しに、雨に物を言わせて盛る男女の声。完全防音の上に折角地上へと建てられた施設だったとしても、これでは子供を地下に移すしかなかったのだろう――施設は明かりが一切灯されておらず、その埃っぽさはフルート宅程ではないにしろ蛻の殻と言えた。
一階を粗方探し終えたコラスは地下へと降りていく。上階の荒れ具合に比べると下階も明かりこそ灯っていないものの、綺麗に掃除されており生活感が透けて見えるような空間だった。
踏み出すたび雨に濡れた運動靴のゴム底はギュッギュッと鳴って、たんまり吸い込んだ埃に鼻を擽られてはくしゃみが反響する施設内。子供達を探して一部屋ずつ見て回っていたコラスは、ある部屋を覗いた途端衝撃を受けた。
それは読んで字の如く体に何かがぶつかった感覚であり、透明な物体はすぐに自分から正体を明かした。コラスに飛び付いてきたのは光学迷彩で姿を隠したシャルと腕白な少年で、他に居たのは赤子を背負っていた児女と千二百七番。
呼吸音一つ憚られる隠密生活を暗闇の中で一年も続けてきた彼等は、コラスの結界へと入るなり大声で叫び倒した。肺一杯の空気を使い果たしては大きく吸い込んで仰け反り、また叫ぶ――息が上がる程繰り返して満足した彼等は(取り分けシャルと少年)矢継ぎ早に外へ繰り出そうとコラスを急かした。
陰々滅々とした幾日を挽回するように子供等が生を謳歌する一方、幼い双子と年長の少女の姿はそこには無く、赤子に至っては抱っこ紐やあやす為の玩具ごと児女の元から消えていた。
拠点が陥落してすぐに彼等の保護へと動いた人物は何名かいたが、子供等がコラスの帰りを光学迷彩で隠れ待っていたのも入れ知恵があったから出来た芸当である。
この間千二百七番とシャルは口にテープを貼って過ごしていたが、これについては声を出してはいけないという事を千二百七番に教える為、そしてそれを皆がやっているのだと見せる事で協力してもらおうという発想であり、結果としてそれは成功していた。
黙ってもらわなければいけない理由は明白――当然ながら光学迷彩には使用者が立てた音を遮断する機能は無い。勘付かれたら最後、子供は懿卡護様の食糧となり病院で延々と喰われながら自分の成長を待つ事になる。
この場に双子と赤子が居ないのは、まだ彼等が状況を理解出来る程成長していない為子供等に入れ知恵した人物が預かったからだった。
シ「――だから大丈夫だよ。言われた通りにしてたらこうなったんだもん、フルートさんも他の皆んなも良い人だよ」
コ「(鈴を受け取る)――じゃあもう一人は?」
少年「あーそれは一回バレかけた時に囮になってくれてさ、連れていかれたんだ。隠れてた奴が見つかったからそれっきり化け物達も来なかったな」
コ「助けに行こうよ! コラス君が居れば簡単だもん」
少年「場所が分からないんじゃ助けようが無いだろ――」
楽しみの人面「ビョーインビョーイン。ハハハハ」
悪魔の悪戯は我欲的だ。その囁いた言葉が真実だろうと嘘だろうと、魂胆は悪に染まっている。
少女の居場所に当ての無かった一行は人面に誘われて病院へ立ち寄った。導かれていく道中には多少の血痕があるだけで、夜更けまで盛り狂い一夜を明かした住人の部屋の方がまだ欲の生々しさを醸していた。
しかしそれは治療室の扉を境に一変する。食べても食べても無尽蔵に再生する夢のような食材へ一心不乱に喰らいつく人面。再生と損傷を繰り返した結果その部位の組織が異型化してしまった人々。天井から滴る血と腐った食べこぼし、喰われ続けた者の発狂が織りなす餐の会場は地獄絵図である。
そこでたった一人、人面に交ざって人を食す者の姿が。
ス「おお誰かと思えばポーンじゃないか、久しぶりだな。相変わらずペットも一緒だしよ。お前達も食いに来たのか?」
目の前の光景に唖然とする子供達を尻目に、涼しい顔で人肉を貪るのはスタインだった。コラス達と旅路を共にしていた頃から一段と人形を外れた外見へ変貌した彼の、旧来よりの密かな愛好――治療の際に麻酔で眠った患者から肉を剥ぎ取ってはそれを食し不徳義の快楽を満喫してきたスタインは、今日も今日とて好物である少女の肉を喰らっていた。
挙って赤子の肉を好む人面へ酒の味を教えてやりたいと冗談を抜かしつつ、彼はコラス達を食卓に誘う。
コ「――人を探して来たんだけど」
ス「人ぉ? そりゃお前、俺の事じゃないなら検討違いか手遅れってもんだぜ」
病院に居る人間はコラス一行とスタイン、そして食糧にされている住人だけ。その住人達は皆体の何処かしらが変形し、症状が酷い者は肉塊のように膨れ上がっていた。奇声は発すれど誰一人として喋らず、それどころか痛みへ反応を示さないで虚ろに一点を見つめる者も。
品性の欠片も無い会食の喧騒に負けじと声を張り上げて、シャル達は少女の名前を呼んだ。しかし少女から返事が返ってくる事はなく、救出の希望が覗いた住人の発狂に拍車が掛かっただけだった。
ス「――諦めた方がいいぜ。もしかしたらああやって叫び散らしてる奴等のどれかかもしれないが、此処に来た奴は全員脳を弄っちまったんだ。
喜びの人面「マスイヤダー。マスイ、ニク、マズイ」
そこにいる住人達は喰われ続けた末に気が触れてしまっていたが、著しい知性の低下や無気力状態といった人格の崩壊はその前から既に起きていた。
シャル達幼気な少年少女にはあまりにも過酷な世界。仲間が別の場所で元気にしていると信じたかった彼等は最初から人面に騙されていたのだと結論付け、治療室を出る事に。
数人の足音が次第に遠ざかり遂には扉の外へと消え去ってしまう――もどかしくも自分の居場所を伝える事が出来なかった一人の少女の瞳には涙が溜まり、軈て籠ったまま斟酌絶無たる無情の世界へ溢れた。
コラス達一行は病院を後にする。どんなに明るい言葉で希望を見い出そうとしても紡げる言葉は二三が限界――互いの弱点や特徴の
不在の仲間を捜索しようにもコラス達は双子等を保護している人物と少女の居場所に繋がるような手掛かりを持っていない。コラスは拠点に着いてから一時間が経過した事を本通りの街頭時計により知って、仲間を捜索する時間はこれ以上取れないとした。
シャル達は当然食い下がる。だが彼等には拠点全域を虱潰しに探す以外手段が無い。加えて異形から彼等の身を守っているのがコラスだったとしても人から守っているのは人面の気まぐれと天候である。
長居は出来ないとの意見にシャル達は泣く泣く同意した。住居から向けられる肉食動物顔負けの眼光に人の手で殺される可能性を予感しては、愚図る気力も失せるというもの。
先刻まではしゃいでいた姿は何処へやら、子供達は黙りこくって歩を進めた。唯一彼等を励ました千二百七番も言葉を掛けたのではなく、撫でる等の肉体的ストロークに限られていた。
一行はコラスが待ち合わせしている場所に戻って来たが、そこに人の姿は見当たらない。コラスは新たに出来た聖痕の方を見て、じっとアスターが来るのを待った。心の何処かで彼はアスターが二人でやってくるのを期待していたのだろう――どれ程待ったところで待ち人は現れないと彼の諦めがつくまでに、四半刻を用した。
こうして脱出への希望を捨てていない住人達の執念に見送られ一行はザ・サミットを立ち去った。新旧二つの酸の檻を超え子供達が吸った久方ぶりの新鮮な空気は、彼等に渇望した自由への感銘ではなく会稽之恥を刻み込んだ。
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