二十三話
怒気に満ち満ちた一声で部屋中の色欲も刹那に凍て付く。露骨な殺意にもからかうのを止めない人面を鬱陶しそうに頭部から剥がし、叩き付けて、彼の友人は捲し立てた。
アスターの友人「お前が本気出したってそいつ一体も壊せやしないんだろ。認めろ、尊厳は負けたんだ。それでもお前は負けてないって言うならさっさと奴を磔にでもして、広場で晒したらどうだ!」
言い返す事が出来ないアスターは足元に転がる人面を睨み、懿卡護様に対して敗北を認めた自分の弱さを擦り付けるようにそれを殴った。
アスターの拳を真正面から食らった人面の体組織は一片さえ欠ける事なく、彼の脳裏に一抹の無力感が過ぎる。純粋な力の勝負でも勝てないのか――あの結界を使われたら勝てる奴など居ないという彼の考えはたった今変わった。
そもそも人と大型の異形とでは天と地ほども自力が隔たっていて、彼は唯一そこに届き得ると自負していた。実際単騎で大型の異形と戦えるのは彼しかいない。
ただそれは肉弾戦の話であって、当異形のように特殊な力を有している相手との戦闘では流石の彼も苦戦する事がしばしば。有している力も種類毎に様々ある為、彼もその全てに最適解を導き出すまでは至っていなかった。
それでも最後には相打ち以上の成果へと持ち込むのがアスターという男。彼の中では異形を倒した事実と勝利はイコールであり、大型の異形相手にどんな過程を経て勝利したかと言えば俗に言うゾンビアタックに近しい事をする回数が全体としてとても多かった。
戦っては倒れて、学び、再び起き上がって戦う――他の異形には罷り通っていたアスターならではの戦法。それが通用しない初の相手は時の流れに干渉する人智を超えた能力の使い手だった。故に彼は敗因を外部に――結界に求めてしまったのである。
しかしそれは間違いだった。人面からすればアスターを倒すには体を生やすだけでも十分で、一年前からそうだった。実力差による余裕から人面達が態と結界という手札を使って遊んでいたのだと気付いた瞬間、彼は初めて認めた格上の存在に吠えた。
室内ではそれと一線を画した色欲が盛り返す。雨に奪われていく筈の彼の体温は暗い自室で一定を保ったまま、然れど一粒一粒の凍てるような衝撃は確実に結晶体を浸透していた。
敗退した先に待っていたのは純然たる熱誠をも歪めてしまいかねない程の、冷めた現実。酒池肉林の本通りから獣の骨散らばる地下居住区へ、人の堕落が聞こえる野外から働き者達が消え失せた役所へ――幾ら景色が移り変わろうとただ一つ不変なのは、何時かの良き時代が遠のいた事実だけ。
それにうんざりしたアスターも心做しか俯き加減で視覚情報を限定する。クドゥの執務室へ淡々と歩き続ける彼のモノクロが如き視界に、一人の足が映り込んで彼は顔を上げた。
役所の廊下で唐突に立っていたのはクドゥだった。アスターが帰還すればその時は報告の為に執務室へ来ると知っていた彼は、道中に出向いて一年越しの帰還を歓迎した。
ク「あの少年は?」
ア「小僧なら此処にはいない」
ク「――そうか。彼の能力は得難いものだからな。天才の頭脳で再現出来たならどれ程良かった事か」
此処にはいない――その言葉を聞いたクドゥはコラスの所在についてそれ以上言及しなかった。懿卡護様を不可侵の結界、或いはそれに類似した力で討伐出来る段階が疾うに過ぎ去ってしまった事に加えフルートがこれまで通りに研究を行えない状況にある事から、彼がコラスをザ・サミットに留まらせようとする理由も無くなっていた。
ザ・サミットが拠点として機能していなければ当然クドゥの統率者という立場も無くなる。愛するパートナーが自分の部屋に居たのは研究を離れて付きっきりで世話をしてくれていたからだと知ったアスターは、戦闘記録等の今更な報告を省いてそそくさと立ち去ろうとした。
去り際の彼にクドゥが一言――「すまなかった」とだけ伝えると、それが何に対しての謝罪かに察しのついたアスターは足を止めた。この謝罪は出撃した彼等が帰ってくる為の場所を守れなかった責任からきた訳でも、人々を守る為に一時的な降伏を選んだ事で彼に拠点奪還の責任を押し付けてしまったからしたのでもなかった。
ア「一年前までの俺だったら殴ってたかもな。それこそ今更だろ」
たった一人の敗北者がザ・サミットへ帰ってきただけで拠点の奪還を模索出来る程状況は簡単ではなかった。更に言うならその一人こそ今でも変わらずザ・サミット最強の戦士なのだが、拠点の住人が辛酸を嘗めた一年は彼の数日でしかない。
死んだと思っていた仲間が実は生きていて、ひっそりと特訓を重ね強くなってから因縁の相手を倒しにくる――夢物語は所詮夢物語だ。それでも人が理想のヒーロー像を思い描くのは自分がそうなれると信じているからか、或いは種として非力故の現実逃避か。
性交と食事、そして睡眠――この三つの間に娯楽が無い住人は生気が抜け切った顔色で暇を持て余す。
一時は待ち望まれた戦士の帰還だったが、何時会えるのか分からないとなった時点で拠点の人々は最強の戦士に任せるのを止めた。一人ひとりが抵抗する中で住人の心が戦士から完全に離れたのは、彼等二人が作戦後数日の状態であると知らされた時だった。
自室の近くまで来たアスターはその扉の傍へ壁をずって力無く凭れると、そのまま意識を本体へ向けた。目の前にある扉を開ければすぐそこが我が家でフルートが迎えてくれるというのに、戦地から帰ってきた彼は見慣れた飾りと幾度も歩いた土地勘に気を緩め、その僅かな距離に甘えた。
明晰夢とは違い陰惨な現実から目を覚ました彼の記憶には、自分を待ち侘びて作られたポスターや一箇所に纏まった人骨もしっかりと焼き付いている。
まるで社畜が月曜日の朝を迎えた時のような猛烈な強迫観念が覚醒と同時に彼を襲った。いつもならそれから気を紛らわせてくれるのは天井のモニターに映ったフルートなのだが、今日のモニターには彼自身の顔が反射していた。
机に向かい作業している猫背の背中が彼を安心させたのも束の間、彼が目覚めた事に気付いて自らの食事情の改善と結び付け狂喜乱舞する人面をアスターは一喝した。
人面の騒がしさには無反応だったフルートもその声にまさかと振り向いた。アスターと目が合うなり彼女は飛び付き、がやがやと喋くる人面を黙殺して一年の空白を埋めるように彼を抱擁する。
研究者としての無力、パートナーとしての裏切り――傷心目一杯の慟哭に溢れ出た涙は止め処無く、フルートの胸の内は張り裂けそうな程に絶望の念で満ち満ちていた。
頻りに謝る彼女を抱きしめる事も叶わない己が肉体の不自由に歯痒さを抱いて、アスターは宥める為の精一杯の言葉を羅列する。彼女の自責を否定するかのように。彼自身の敗北が必然であったかのように。
しかしそれらの言葉を遮ってフルートは首を振った。彼女は自分を責めていた。それは自らが研究を成功させていればまた違った未来があった可能性を捨て切れず、そうならなかった為にアスターの思想とは真っ向から異なる手段で敵に争う事となったからである。
その結果最愛のパートナーを死へと誘ってしまうのが彼女の悔やんでも悔やみ切れない涙の理由だ。
これから起ころうとしている事を知らず彼女を励ますアスターの視界に、体を生やしフルートの背後へと立った人面が映った。槍のように変形させた腕、その鋒を眉間間近まで向けられた彼は顔を顰め、俄に彼女の涙が意味するところを察した。
眉間から照準をずらさず腕を引いた人面――矢庭に刺突すれば抵抗出来ない者の頭を貫くのは一瞬である。
それは万死を告げる鋒がアスターへ直撃する寸前の事だった。奇しくも彼は再び時の流れから外れ、幼少期に聞いた大人同士の会話や忘れ得ぬ暴力と傲慢に生きた学生時代を白んだ世界で追憶した。
罪人となって彼は四肢を失ったが、結晶体を操っている間はその事実から逃れられていた。一方で異形に敗北した時の気分はソウルライクゲームのプレイヤー宛らに、何処か一線を引いて戦況を分析し決して自らを悲嘆する事は無かった。
アスターは心の奥底で結晶体が本当の自分ではないという事に蓋をしていたのだ。強者とは何かを追求してきた傍らで弱者への理解を深めないまま来た彼は、異形との戦いに負けたところで自分が殴り倒した者の気持ちなど知る由も無かった。
芽生えた弱者としての自覚、まざまざと見せ付けられた生殺与奪――それらが死する間際の走馬灯のような回想を疑いながらも推定する一助となり、彼は己が罪を今知ったのだった。
極限まで圧縮された彼だけの時は正に人体の神秘が為せる技。次第に外部の刺激を彼の脳が処理し始め、本来の時の流れに彼は帰ってくる。
自分の遥か後方へと幽体離脱し追憶していた感覚から吸い寄せられるように彼の意識は肉体へと引き戻されていった。フルートの嗚咽より人面の馬鹿騒ぎより、槍が額へと減り込み肉を押し除け頭蓋を圧迫する感覚がそれを早めた。
白んだ世界から他人の部屋を透過する頃にはアスターの感覚が正常に機能してきており、自分が寝ているベッドを見た次の瞬間には頭蓋を砕かれて昇天した。実に情け無い断末魔の「あっ」という声には、憐れ哉貫かれた痛みなど微塵も乗ってはいなかった。
否、彼が最期にこの世へ残したのは遺言にすらなれなかった儚い言葉ではなく、絶命の間際に暴発した四肢の結晶体がみるみるうちに巨大化し造形された聖痕だった。
懿卡護様は広大な縄張りを持ちそれを侵す上位の存在が縄張り付近にはいない。新たに生まれた聖痕の安全圏は元からあるものを大きく上回ってはいたが、それでも懿卡護様の縄張りの広さには遠く及ばない上に双方の格付けは済んでいた。
人を守る役目も果たせない只の巨石に人が縋る道理は無いが、拒絶される側の当異形がこれを求めたのは先に述べた通り食事情を改善する目的があったからだ。
人一人につき一体が監視役について尚、人面は夥しい数が手持ち無沙汰の状況にあった。仮に縄張りへと他の異形が侵入しようものなら母体がいち早く勘付く為巡回係は求められていない。この個体達がファームの中で生産性を持つには代わる代わる餌を食べる捕食係となるか、新たに生まれた人を監視するか――何れにせよより多くの人間が必要だった。
懿卡護様の嗜好はこの一年で更に拘りを増し、年齢や性別はおろかストレスの有無にまで及んでいた。旧聖痕内が溢れかえる程人を繁殖させようという食欲を我慢してまで当異形が聖痕領域の拡大を計画したのは、人が想像以上に繊細だと学んでから。
聖痕が汚された事により可視化された安全圏は今や酸の檻となっている為一部を除き自力で拠点を出入り出来る者は居らず、人口密度を高めれば肉の品質が落ちる事から領域の拡大は必須。本能のままに聖痕を汚し縄張りを誇示した際の副産物に暴君は思わぬ形で苦しめられたようだが、それもこの時を持って終わろうとしていた。
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