二十二話
激痛に悶えた男の獣のような絶叫も生憎の気象に掻き消され、誰かへと自らの危険を知らせられぬまま仕舞いには強烈に閉じられた窓が遮断した。
再び万雷の雨声に包まれたコラス。この一年で新たに増築された建物やその影響で通れなくなった道が、時折彼を迷宮へ閉じ込めようと惑わせる。
いつの世も変わらない方角と嘗ての土地勘を頼りに彼がフルートの家へ到着するまでそう時間は掛からなかった。一年前と変わらない場所に構えられていた彼女の家へコラスは数日ぶりに帰宅した。
インターホンが鳴らされるとすぐにフルートの声が語り掛ける。
フ『合言葉知ってる?』
コ「――知らない」
自動音声に対するコラスの返事とは裏腹に生体認証で鍵を掛けられていた扉の開錠された音が鳴った。しかしその扉が開いて中からフルートが出迎えにくる気配は一向に無い。するとインターホン越しに入室を促す声がして、コラスは言われた通りに中へ入っていく。
家具や研究資料の配置は一年前と特段の変化も無く、然れど床や机上までざらつく程の埃を被った、彼にとって実家にも等しい家。そこにはもう人が住んでいる気配は無かった。
フ『ごめんね、最近全然そっちに帰ってないから埃凄いでしょ。それからお帰り。保存庫にあんたの好きな丸じゃが入ってるよ。まぁあんたが出発した日に夕飯として作ったやつだけど、悪くはなってないはず』
アスターの私室からモニター越しに語りかけたフルート。自分で切っていた髪は遂に伸ばしっぱなしで束ねるだけとなり目の下に隈を作って、その憔悴した様子は埃に暈けた画面からでも十二分にコラスへ伝わった。
朝ご飯を軽食で済ませていた彼はすぐさま保管庫へ向かうとフルートの手料理を取り出す。自身の結界の外で一年が経過したという事実を実感させる物事に次々と相対して、彼は数日しか経っていなかった自らの感覚でさえ恰も一年ぶりの帰還を果たしたかのような懐かしさを覚えて感傷していた。
床を踏み締め歩き抜けただけでその風圧により舞い上がる累月の埃――それを幾らか巻き込みながら家庭の味を堪能するコラス。
フ『美味しい? (コラスが頷くのを見て)――良かった』
月日の経った料理で申し訳なく思いながらも久しぶりに帰ってきた彼の喜ぶ姿に安堵し、彼女はその流れでついアスターの所在を問いそうになった。
彼女はコラスの生存を彼の結晶体に取り付けた機器によって送られてきた波形から確信していた。鼓動に合わせて脈打つかのような計測がされていた波形は、彼が左腕の異形の結界内で世界から遅れている間も彼の時の流れと共にフルートの元へ送られ続けたのである。
同様の理屈でアスターが生きている事を知っていた彼女は、何れ意識を取り戻すであろう最愛の人へ顔向けするのに屈してしまった自分の不甲斐無さから笑顔になれず、只々慚愧の念に苛まれていた。
喉元まで出てきていた、アスターを案ずる言葉。それを取り繕った質問で誤魔化した彼女は返ってきた答えなど聞き流し突っ伏してしまった。
そうして鬱然と黙り込んでいる間にも魔が差してしまう事がある――それが人というものだ。
フ『ねぇ、これからどうするか決めてる?』
コ「――うん。此処から出ていくけど」
フ『そうだよね、私もそれが良いと思う。それでさ、あんたの結界って何人か入れるんだから、その…………子供達、いるでしょ? シャルとかまだ諦めてないみたいだから、連れていってあげてくれないかなって』
私達だけでも連れていって欲しい――口を突き掛けたのは人の本性であり曲私な思い。フルートは蜜のように甘いそれに既のところで目を瞑り、もうじき閉まる地獄の釜の蓋から子供を優先して逃がす事で最期まで自らの罪に向き合う覚悟を見せた。
結晶体に取り付けた機器を外し食べ終えた後の食器と共に放ったらかしていいと言われたコラスは、その通りに机へと置いたまま彼女の家から出た。去り際の彼に再々切願されたのは子供等の事なのだろう。このような状況下で如何に相手が子供と言えど、他者を想えるのもまた人の本質だ。
この拠点から少し外に目をやれば彼等の存在さえ知らずに自らの生を謳歌する異形で溢れかえっているというのに。
無人の本通りを人面に付き纏われながら歩くコラス。フルートからの頼まれ事を果たす為に彼は集合までの残り少ない時間を悠々と使って施設へ向かった。
吹き荒れる風に流された横殴り雨が聖痕を通過して拠点外へと降り注ぐ。それでも高が知れている範囲――懿卡護様に恐れを成した生物達へ影響を与える程ではなかった。
空で渦を巻いていた人面の群れが俄かに騒ぎ出したその時だった。地響きと共に生えてきてきたのは刺々しい茨の形状をした大小幾つもの巨石。人面の群れが飛んでいた真下から地面を突き破って、畝り、絡み合いながら生えた巨石は周囲の建物をその中にいる住民ごと巻き込んだ。
それは聖痕が新生した瞬間だった。元々ザ・サミットにあったものとは比べ物にならない程広大な安全圏を有した聖痕だったが、それでも懿卡護様を退かせるに至らず雨によって忽ち汚されその効力を失ってしまった。
人面は、待ち侘びていた新しく巨大で自身をも屠らんとする攻撃的な聖痕を手中に収めお祭り騒ぎ。光の差さぬ悪天に舞い踊るその様は宛ら堕天使のようだった。
時は少し遡り、コラスと別れたアスターは帰還を報告する為クドゥの元へ向かっていた。
ア「(人面の渦を見上げて)――旧時代なら戦犯として打ち首だったな」
ザ・サミットに着いてからというもの、時折雨音に交じって拠点内に響いていた艶めかしい女の声。完全防音の建物ばかりである筈のこの拠点でそれが一際外へ漏れてくる――正確には住民が意図的に漏らしていた建物の前をアスターが通り掛かった時だった。
その姿に気付いて彼を呼び止めたのは傍らに素っ裸の女を抱いて自身もパンツ一丁という、彼の友人でもある遊蕩漢。しかもそれは彼等だけではなく、部屋にいる男女全員が似たり寄ったりな格好で肉欲に耽っていた。中には腹を膨らませてあからさまに妊娠した様子の女まで。
彼等もまた一人につき一体の人面による監視を受けながら、最早それを生活の一部であるかのように自然と受け入れていた。
ア「これは一体どういう事だ?!」
アスターの友人「あー驚くよな、これが俺達人間の新しい生活様式なんだよ」
ア「新しい生活様式、だと?」
アスターの友人「ああそうだ。お前も戦ったなら理解した筈だ――奴には逆らわない方がいいってな。ああいや違う、人間では逆らえない。ならどうするか占領されてから皆んなで考えてな、決めたんだ――俺達の代わりに奴の食糧として生きてくれる子供を産もうってな」
人は支配される事に慣れていないかもしれない。だが支配する事に於いては滅法老巧である。毎日毎日贅肉を削がれ四肢を噛み千切られる事に辟易した彼等は遂に、食糧としてのみ生きる人類を産み落とし調教する決断をした。
食糧である人を懿卡護様が喰らい、人が痩せぬよう日に何体と異形元い餌が運び込まれ、欲を満たしながら人は生活する――この一年で懿卡護様に対する彼等の認識は「争うべき天敵」から「ファームの運営者」へと変わっていた。
異形が蔓延るまで人が君臨し続けてきた王座は、生態ピラミッドから独立した虚構の頂点。全てが始まったあの日に人々は心地良い空想から現実へと引き戻されていた。
そんな事とは知らずいつかのように王座へ返り咲こうとする彼等が、新たな世界と本来の生態ピラミッドの中で虚構の頂点にいた頃と同等の地位を確立するまで、聖痕は図らずもこれ以上無い隠れ蓑となった。
こうして逆三角形の生態ピラミッドに出来たのは人を頂点として分けられたか細いモデル。わんさかいる天敵と隣り合わせの艱難な日々を送りながらも子孫を増やし家畜を飼育して、彼等の生活は嘗て虚構を極めたそれへと着実に近づいていた。
アスターの友人「――全員で決めた事なんだ。避難してきた奴等もガキ共も皆んな投票して、半分開けた時点で九十九パーセントが賛成だったらしい。何なら奴だって俺みたいな毛むくじゃらよりガキの肉の方が好きみたいだからな」
ア「(深い消魂に苛まれて)――人としての尊厳は……この大地で人の時代を再建すると誓ったのを忘れたのか?」
アスターの友人「(傍らの女性に外すよう頼んでから)――ありゃお前が一人でやった感情任せで若さ全開の宣言だった筈だぜ」
アスターはザ・サミットへ着いて間も無い頃に酔った勢いで酒場の大衆を煽り、囃し立てられた事があった。その頃には既に彼の能力や実力が拠点中へ広まっていて、彼自身も人々から向けられる視線が罪への好奇から期待のそれへと変わっていくのを緊緊と感じていた。
彼の言葉にそこで酒を飲んでいた者達は皆ジョッキを掲げ彼の勇猛な勢いを偉人に照らし合わせるなどし、一夜の肴として楽しんだ。
アスターの友人「――俺達だって自分なりに本気でやってきたぞ。お前の言葉を本気にして真の天敵が居なかった世界とやらを夢見た馬鹿な奴等も、今は奴の機嫌さえ取れば争うような天敵の居ない暮らしに満足してる。なぁアスター、俺からも聞かせてくれ――これがお前の言ってた世界なのか?」
ア「そんなわけ――」
アスターの友人「ああいいぞ、分かってる。じゃあもう一つ――お前さっき尊厳がどうとか言ってたな。一年前のあの作戦でお前は人らしく奴と戦ってきたのかもしれん。それで、勝てたのか?」
アスターが答えに詰まった質問。彼の友人はそうなる事を読んでいたかのような、将又最初から返事を聞くつもりなど無かったとも取れるくらいの早さで、「これも皆んなが分かってる」――そう言い切った。
言い切るに足るだけの根拠なら彼等の拠点に起きた出来事と一年間帰還しなかった作戦部隊が十分に物語っているだろう。彼の友人は立て続けに腕の一本も倒せてはいない事や集団自殺があったのを境に自ら命を絶つ機会さえ奪われた事を明かした。
右腕を倒したつもりでいたアスターが最も衝撃的だったのは、責任を果たせなかった結果引き起こされた惨状でも人として尊厳ある死に方を選ぶ事さえ出来なくなった点でもなく、今も懿卡護様に右腕があるという事実だった。
アスターの友人「人は順応出来る生き物だ。激しい気候にも人が増えて狭っ苦しくなった拠点にも、尊厳の無い生活にもな。安心しろ、お前の側にはあの研究者がいる筈だ」
ア「見損なったぞ……奴等が現れた時でさえ人が手放さなかったものをお前達は手放した――これは堕落だ」
アスターの友人「心外だな。確かに俺達は非人道的なやり方で奴の食糧事情を解決しようとしてるが、決して諦めちゃいないんだぜ。お前の目には俺達が野生人と同列に映ってるのかもしれないけどな、(自分の頭を指差して)自慢の此処を使って生き残る手法を変えたに過ぎないのさ」
ア「それが堕落だと言っているんだ! 人の誇りを投げ打ったその行為こそ死していった先人への裏切りであり、罪人の俺達には唯一残された贖罪――」
アスターの友人「ならお前今すぐ奴を殺してこい!!」
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