11/19 置き去り

「タキシード似合ってたね」

「あれタキシード?」

「なのかな、喫茶店のマスターの服?」

「リツもメイド服着たらよかったのに」

「なんか恥ずかしくて」

「まあそうだよね、うちだって先輩が言わなきゃ着なかったし」

「でも、すっごくかっこよかったよ、橘さん」

「名前で呼んだらいいのに」


「えっ、」


 目が覚めた。学祭はべつに出席を取られるわけじゃないから、参加しない子もいる。私は結局昨日も今日も学校に行って、遊んでいただけで大したことはしていないのに、帰ってシャワーも浴びず、パソコンの前で机に突っ伏して眠ってしまっていた。

 心の中に夢の余韻の幸せな気持ちと、同時に、きっと橘さんが私にそう言う日は来ない、という残念な気持ちが広がった。たぶん、橘さんは下の名前で呼ばれるのをあまり好まない。好ましくないであろうことを強引にするのは、よくないことだ。すっごくかっこよかった、というのは、もっと伝えてもよかったかもしれない。大したことないと思われてる、と思われるのは嫌だ。でも、感情をぜんぶぶつけたら、きっと引かれてしまう。


 学祭でにぎわう校舎の中、トイレに行く途中の階段で見かけた光景を思い出した。知らない子で、たぶん一年生だ。友達らしき二人を相手に、私、今日なんの役にも立ってない、と言って泣いていた。友達はそんな彼女に、そんなことないよ、ちゃんとやってるよ、と慰めの声をかけるが、でも、でも、と泣いている子はさらに涙を拭いながら、それを否定した。

 プラスの感情でも引かれることがあるのに、あんなふうに自己憐憫みたいな内容をぶつけられたら、たぶん相手にする方は嫌になってしまう。しかも、べつに仕事とか試合とかじゃなく、ただの学祭で。彼女はめんどくさがられてだんだん避けられていくだろうな、と思いながら、横を通った。

 トイレから出てきたら、誰もいなかった。さっき泣いていた子だけが置き去りにされているわけでもなく、彼女も、友達二人もいなくなっている。それどころか、階段の上も、下も、私の視界に入る場所に、人っこ一人いない状態になっていた。一瞬、私が置き去りにされたような気がして、ざわめきが戻りだれかが階段をのぼって来るまでのほんの短い間、そこに立ち尽くした。

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