第16話 交渉開始/黒斗②

 黒斗はその場でひざまずき、こうべを垂れる。


道真公みちざねこう、一つお願いがございます」

「……申してみよ」


 こうして確認を取るのは、相手が明らかに格上だからだ。道真公ほどの力があれば、一介のあやかしに過ぎない黒斗など、簡単に排除出来る。それがわかっているからこそ、黒斗は相手を敬い、頭を下げる他ない。


「傍におりますむすめへのお慈悲を賜りたく」

「ほう。大衆への影響よりもそれを優先するか」

「かの娘は、今回の呪いとは無関係でありましょう? 御身のおわすこの場所を穢した訳でもない」


 無言のまま先を促す道真公。黒斗は顔を伏せたまま、進言する。


「むしろ、この少女は御身の信奉者でございます。それは御身もよくご存知のはず」

「守り一つで信奉者とは。笑わせてくれるな」

「ですが、この少女は日々願いを込め、願い成就の暁には感謝を捧げております。神への信仰が絶えつつある現代において、これ以上の信仰心がありますでしょうか」


 道真公の視線がわずかに揺らいだ。流石に神様相手に心を読むなどおこがましいので、能力は使っていない。それでも、視覚情報さえあれば、相手の胸中も多少は推し量れるというもの。いかに相手の心境を読んで上手く立ち回れるかが、交渉における重大な要素であることは言うまでもない。


 能力に頼らず、自力で心中を量られたとなれば、いかに神様と言えど立つ瀬はないはず。出来ればすぐにでもこちらの願いを聞き入れて貰いたいところだが。


「……本当にこのむすめだけでいいのか? 他にも我が力の影響を受けている者はいるぞ?」


 確かに。直接被害を受けている人間もいれば、危険を察してこの地から逃げ出したあやかしもいる。事態を収拾するという点で見れば、俺の願いは的外れだろう。


 しかし、相手は正真正銘の神様だ。願いを叶えて貰うのなら、本来は相応の代償が必要となる。大きな願いであればより代償は大きくなるのだから、願いは小振りであるほどいい。


 それに、菜月が道真公の影響を受けているのは不慮の事故のようなもの。偶然とは言え、向こうのミスである以上は、それを打ち消すと言う願いも聞き入れて貰いやすくなるに違いない。


「そちらに関しては話を分けさせていただきたいのです。ですので、まずはこの娘を苦しめている念を祓っていただけませんか?」


 道真公はしばし考え込むように視線を流し、それから菜月の方を見据えた。


「よかろう。この娘に流入している我が念を取り除く。しばし待て」


 そう言うと、道真公は右手で空中に何やら文字のようなものを描き、それを菜月に向けて押し放つ。光の筋で描かれた文字が菜月の身体に浸透すると、彼女は急に正気を取り戻したのか、ハッと顔を上げた。


「え、何? 急に目の前が明るく……」


 菜月はすぐ傍にいた黒斗に気付き、ゆっくりと立ち上がって状況を確認してくる。


「何がどうなったの? 雷は?」

「別に何も起きちゃいない。お前は幻覚を見てただけだ」


 幻覚と言われても納得が行かなかったのか、菜月は眉を潜めた。しかし、この場で雷が鳴っていると感じていたのは菜月だけ。黒斗にそれがわかるのは『さとり』としての能力があるからなので、余計なことを言わないよう、すぐに彼は口をつぐむ。


「そなたの願いは叶えたぞ。して、残りの問題はどうする?」


 どうやら、願いの代償を求められることもないようだ。何かしらの代償があるものだと思い込んでいたので、正直なところ驚いているのだが、わざわざ藪をつついて蛇を出す必要もあるまい。


「ん? 皐月原君、この人に何かお願い叶えて貰ったの?」

「ああ。お前に出ていた影響を抑えるために、ちょっと、な」


 黒斗が言うなり、菜月は目を見開いて怒り始める。経緯はどうあれ、自分だけ助かって、田原姉妹が助かっていないことが不満なようだ。


「何で、全員助けてくれるように頼まなかった訳!? 被害者が田原さん姉妹だけとは限らないのに!」


 彼女の言い分もわからないではない。しかし、いくら怨霊であった過去を持っているとしても、広く名の知られた神様が、意味もなくこのような事態を引き起こすはずはないのである。


「あのな~。この方は菅原道真公。俗に言う天神様てんじんさまだ。名前くらいは聞いたことがあるだろ?」


 その名を聞いた菜月はハッと目を見開いた。それもそうだろう。彼女は道真公の恩恵もあって受験戦争を乗り切ったのだ。もっとも、そのせいで霊的パスが繋がりやすくなっていたため、今回は悪影響を受けてしまった訳だが。


 ともあれ、ここは話がこじれないよう、菜月の言動に注意を払いつつ、残りの問題を解決してしまおう。


 黒斗はそう考えたのだが、彼は想定を誤っていた。藍川菜月という人物は、彼の思う以上に突拍子もない発想をする人物であったのである。

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