第二十七話 幻影術士、幻を追う3

 古臭い中折れ式のリボルバー。


 二等辺三角形に収まるフォルムは洗練された殺意の具現化で、

 銃口は微動だにしない。


 アントンの手から生えているみたいだ。


「アントン君の言うとおりにしてくれないかい?

私は君に傷ついてほしくないのと同じくらい、

誰も傷つけてほしくない」


「こうなることで僕が傷つくとは思わなかったんですか?」


 フラウは黙ってうつむいてしまう。


 彼女なりに考えた結果なのはわかってる。

 そのほうが正しいことも。


 でも、どうしても彼女の口から間違っていると言わせたくて、

 罪悪感を抱かせる言葉を、言い方を組み立てている。


 支配の感覚が消えない。


 まるで全てが自由に操れる幻影みたいに感じている。


 危険だ。

 フラウからアントンへと意識を移す。


 僕に銃を向けている彼のほうが

 よっぽど危険なんだと自分に言い聞かせる。


「銃をこっちによこせ、バーナム。

今なら何も見なかったことにしてやる」


「本音では撃ってほしいんでは?

あなたは殺してほしいはずだ。

どうせ彼を捕まえることはできない、

ここで見ているしかできないあなたは」


「侮るな。今、クリストフが手配してる。

あいつの親父は通商会議の議長だ。

列車ごと買い上げてでもそいつを引きずり出す」


 ルインがアフラムと繋がりがあることも想定済み。


 僕が先にたどり着けたのも

 フラウの足止めがあったからにすぎない。

 彼女がアントンに教えなくても、彼はすぐにここまで来ていた。


 所詮、子供の浅知恵だ。


 僕が自嘲気味に笑うと、それがアントンには諦めに、

 自分の命もルインの命も諦めたみたいに見えたのかもしれない。


「やめろ、バーナム」


 アントンの声はすでに警告を通り越していた。

 彼は特務隊員なんだ。

 そもそも、話なんか通じない連中なんだ。


 その引き金は僕の銃よりずっと軽い。


 フラウがアントンの頭に人差し指で触れると、

 彼は白目をむいて膝から崩れ落ちた。

 足を身体の下に巻き込み、背中をのけ反らせて倒れる。


 倒れた彼の足を伸ばしてやりながら、フラウは微笑んでいる。


 微かな木漏れ日や春先の温かい風を感じて

 意味もなく零れる、孤独な微笑み。


 彼女にとって僕はそういうものなんだという気がした。

 木々の間を通り抜けた日差し、

 一瞬通り過ぎるだけの風と同じだと。


 一瞬の遅れで僕は死んでいたかもしれないのに、

 彼女の動きは余裕があって穏やかで、

 僕の生きる時間と彼女の生きる時間の違いが押し寄せてくる。


 彼女と一緒に旅がしたい。

 神なんかじゃないフラウと一緒にアフラムに行く。

 そのために僕はここに来た。


 ルインと対峙し、彼女と対等になって横を歩く自分を想像したくて。


 なのにどうして今、彼女を神だと信じてしまったんだ?


 目の下から盛り上がってくる涙を拭い、

 僕はルインに向き直る。


 背後にフラウが近づいてきて人差し指が僕の頭に触れても、

 銃を下ろさない。


「やめるんだ。君にまでこれを使いたくない」


「やればいい。そうでないと僕は止められませんよ」


「どうしてそこまで。

確かに彼のしたことは許せないが、君が直接手を下すのは違う。

君はもっと深い傷を負う」


 僕が首を振ると、微かなため息が僕の首筋を撫でた。

 早く気絶させてくれ。

 そうじゃないと言ってしまいそうなんだ。


 僕がアフラ・マーダを嫌いだってことを。


「すまないね」


「謝るなよ。今さらお前が謝るな」


 怒鳴っていた。間に合わなかった。


「アリシアは凍えて死んだんだ。

僕は幻影の火を作って、祈ったんだぞ。

ほんの少しでもいい、

妹を温める力を僕の火にくださいって祈ったんだ、お前に。

妹を見捨てたお前に、僕を止める資格なんかない」


 フラウの指が離れ、僕は引き金を引く。


 無音で射ち出された銃弾がルインの額に吸い込まれ、

 後頭部を突き抜けてから煙みたいに消えた。


 弾まで出るとは驚きだ。


 ちょっと呆然としていると、

 自分が生きているのが信じられないというふうに

 額に触れたルインが震えながら銃を指す。


「そんな……それ、どうしてそんな幻影が……」


「これですか? あなたでもわからなかったでしょう。

本物の銃を分解してパーツを全部幻影で作ってから組み合わせた。

まさか本当に撃てるとは思わなかったけど」


「嘘だ! できるわけがない。

私が何年かけてシェヒトを完成させたと思ってる?

その何倍もの集中力とプシュケが必要だ」


「あなたが何年かけたが知らないが、僕の一晩にも及ばない」


 急に年老いたようにルインの顔に深いしわが刻まれ、

 運転席に寄り掛かったまま動かなくなった。


 喘息みたいに喉を引きつらせて呼吸し、

 もう何も見たくないというようにぎゅっと目を閉じる。


 ある日突然プシュケが吐けなくなり、幻影を操る力を失う。

 全ての幻影術士に、いつかは訪れる運命だ。


 ルインは今。

 そして僕は今じゃない。


 僕は手を振って銃の幻影を消し去り、運転席の扉を閉めた。


「さ、行きましょうか。アントンさんは放置して大丈夫で──」


 振り返るとフラウが僕を抱きしめるように両腕を広げたまま、

 見えない壁でもあるみたいに硬直している。


 僕が何事もなかったように振り返ったことに驚き、のけ反り、

 平静を装って腕を組む。


 威厳を保とうと必死だな。


「私をも欺くとはたいしたものだ。

最初から殺す気なんてなかったんだね」


「当たり前です。

ただ僕のほうが優れた幻影術士だって証明したかっただけですよ。

付き合わせてしまってすみませんでした」


 フラウは鷹揚にうなずきながらも、

 まだどこか気まずそうに口元を手で隠している。


 聞きたいけど聞けないこと。

 でも僕は、彼女にその質問をさせる気はない。


 本物の感情を引き出すために、本物の記憶を利用しただけだ。

 終わってしまえば全部、引き出しにしまい込める。


 そうだろ? バーナム。


「演技ですよ。

いま見たのも聞いたのも、全部幻みたいなものです」


「あれがかい? 私にはとてもそうは思えなかったんだが……」


「そんなに信じやすいと心配になりますね。

神様は信仰を求める側でしょう?」


「ヘンだ」


「あなたに言われるとひどく惨めな気持ちになるなあ」


「私のことを神だと言ったよ。信じてなんかいないのに」


「なんですか、それ。さんざん信じろって言ってきたくせに。

そんなことより今日中にブルンナゴを出ましょう。

荷物はありますか?」


 脇をすり抜けようとする僕の腕をフラウが掴んで引き止める。


 腕を触れ合わせて互いを支えたことも

 演技だったのかと確かめるみたいに、

 記憶の中の温もりを指先に探していた。


「急いでるの、わかりませんか?

話ならもう終わったんです」


「いや、まだだ。

ちゃんと話すんだ、私が君に何をしたか、何をしなかったか」


「そんなものありません。さっきのは嘘です、全部、嘘。

これでいいでしょ、行きますよ」


 それで諦めてくれれば、なかったことにできると思った。

 ただの旅の仲間と言うには近くて、

 でもはっきりとした名前をつけられない距離感が好きだった。


 フラウは手を放さない。


 伏せたまつげが影を落とし、

 暗い血の色になった瞳で僕の目を追い続け、

 僕の今だけじゃなく過去も未来も貪欲に求める。


 神話のアフラそのままだ。


 欲しいと思ったらたとえそれが自分を傷つけ、

 悲しませるのだとしても求めずにはいられない。


 神話では傲慢と好奇心で何度となく痛い目をみてきているのに、

 それでも足りないのか、この神は。


「言いたくないんですよ。

あなたと一緒にアフラムに行きたいから。

あなたと出会う前の一人の僕に戻りたくないから」


「私もだよ。

以前の私に、人の気持ちを無視し続けた私に戻らないために、

こうするしかない」


 僕は何を口走ろうとしただろうか。


 いいかげんにしろ、か。

 妹に謝れ、か。


 いずれにせよ心からの願望と感情が一致しない、

 経験のない精神状態から発せられる言葉は僕を後悔させ、

 彼女を傷つけただろう。


 だから、言えなくてよかった。


 フラウが突然、僕と身体の位置を入れ替えると同時に、

 立て続けに三回、銃声が響いた。


 彼女の背中で服が燃え散って体温が跳ね上がり、

 胸に抱かれた僕の頭が焼けたみたいにチリチリする。


「頭も身体も鈍いのに、こういうときだけは敏感だな」


「今回は私の前に出てこられたんだね。えらいよ。

今、きれいに焼いてあげるから少し待っていなさい」


 僕の肩に手を置いて少し身体を離すと

 フラウは申し訳なさそうに微笑む。


 彼女がお客だと言って親指で指した先には

 アントンと同じ銃を持ったクリストフ。


 一目でいつもの彼とは違うとわかる。


 まず、影がない。

 陽光が当たった特務隊員のコートが色鮮やかに浮き上がっていて、

 一瞬、幻影かと思えた。


 口や鼻、目の端から押し出されるようにタール状の液体が漏れ、

 海中で揺れる海藻のように揺らめく。


 憧れるくらい精悍な彼の顔が腐敗の途中であるかのように膨れ、

 紫の唇が開くと火みたいに赤い舌が口の中でねじれていた。


「バーナム、お前にはがっかりだ。

どうしてルインを殺さない?

お前には正義がないのか?

ただ臆病なだけなのを良識と言い換えるアホか?

なあおい、お前が抱っこしてもらってるそのアフラはな、

最初に悪を殺せと教えた気違いだぞ」


「やれやれ、君を穢そうと必死だ。聞かなくていいよ」


 子ども扱いされたくなかったのに、

 対等になりたくてルインと対峙したのに、

 僕の頭を愛おしそうに撫でたフラウの仕草は母親のそれだ。


 神だとかクリストフだとかどうでもよくて、

 ただ悔しくて、僕はうつむいて唇を噛んで、

 何もできない自分を受け入れるだけだ。


 そして彼女はそんな僕の情けない心の内も見透かして、言うんだ。


 服をお願いできるかい? 幻影術士君。

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