第二十四話 幻影術士、後悔の朝
一晩たっても僕の気分が晴れることはなく、
昨日の会話はまだ頭の中を巡っている。
昨夜と何も変わらない。
朝一番でアントンたちに事情を話しに行こうと思えたのは、
この感覚に少し慣れたというだけ。
密告、ということになるのだろうか。
僕はトラーンの侵攻を支持してはいないが、
反政府組織の活動が正当とも思わない。
それにルインは一般市民を巻き込んでいる。
手段を選ばない、というより手段が目的化している。
反政府組織の活動に隠れ、思想もなく、
ただ自分の変質した幻影術に意味を求める哀れで危険な男。
すぐにでも通報すべきだ。
僕がどうにかできるなんて考えるな。
顔を洗って鏡に映る自分の顔を見て、ため息をつく。
十五になって声変わりもしたのに、ひげも伸びない。
大きな黒目がちの瞳、小さくて優美な曲線を描く鼻、
丸みのある輪郭、二枚の花びらを重ねたような唇。
「兄さんって私より美人だよね」
かつて妹に言われたことを呟いて、
鏡に映った自分の顔を手で覆い隠す。
もっと精悍な男らしい顔なら自分に自信が持てた。
ルインの言葉なんか笑い飛ばせた。
もっと強い身体があれば、
幻影術で劣ったからといって逃げ出さなかった。
一番許せないのはいつだって、弱い僕だ。
ブルンナゴを出よう。
ルインを通報すれば僕への疑いも晴れ、
フラウが聖母を演じる必要もなくなる。
そうしたら一緒にアフラムを目指そう。
僕は鏡に向かって笑顔の練習をして
彼女への謝罪の文言を考え、
今度こそは花を間違えないように下調べをしたいなと、
居間に書棚があったことを思い出す。
もう昼のほうが近い時間だ。
この時間に起きてもデンケルは朝食を用意してはくれない。
まずは朝食を買いに出ようと玄関まで降りていくと、
知らないシリ人の男が立っていてキッチンのほうを指さした。
昼に家にいることがなかったデンケルがテーブルに座り、
書類を手にするでもなく正面を見据えている。
彼は忙しい。
何もしていないなどありえない。
キッチンにはもう一人、別のシリ人の男がいて、
僕をデンケルの正面に座らせて肩を押さえる。
玄関にいたシリ人もキッチンに入ってきて、
彼がもう一方の肩を押さえるとデンケルと目の高さが同じになった。
「ルインが消えた」
僕はうつむき、痛みにたえるみたいにぎゅっと目をつむる。
全部、逃げるための時間稼ぎ。
僕は今もまだルインの幻影に吞まれている。
「昨日、派手に言い争ったらしいな」
「あんな人を使って、子供巻き込んで、
それで体制が打倒できると信じてるんなら、
あなたは思ったほど賢くない」
頭を掴まれ、顔面をテーブルに叩きつけられる。
口の利き方に気をつけろという警告だろうけど、
僕はつい笑ってしまう。
アントン、ルインと対峙してきた後だと、
こういうわかりやすさが嬉しかった。
鼻血が出てると男らしいし。
「打倒なんて考えてない。
あんな男を使って身近な危険を演出しているだけだ。
それを解決させないことで市民の不安とトラーンへの不信感が増す。
市民は俺たちを頼り、トラーンも俺たちの協力を必要とする。
みんなが手を取り合える」
「じゃあ今度はリンケルに爆弾を持って行かせろ」
またテーブルに叩きつけられる予感がしたが、
デンケルが首を振って背後のシリ人を制止する。
「ルインの行き先は?
お前は思ったより賢い。知らなくても考えて、教えろ」
デンケルの目を見返しても、睨むことはできない。
どんなに独善的で残酷だとしても、
リンケルが生きていける場所を作るのに必死な気持ちがわかるから。
「一つだけ聞かせてほしい。
僕とフラウを爆破テロの現場に仕事で行かせたのはわざと?
僕たちを殺す気だった?」
「殺すつもりはなかった。
ただ、一緒に死んでくれたらいいとは思った。
リンケルに初恋は早いし、相応しい相手でもない。
それよりも困ったのはルインだ。
本気で人形劇をやりたいなどと言い出した。
お前と一緒ならかつて夢見たような劇が作れると
目を輝かせているのを見て、これはダメだと思ったな」
あくまでデンケルがそう感じただけだ。
リンケルについても盛大な勘違いをしているし、
彼に人の心が、
それもルインのような人間の気持ちが測れるとは思えない。
それでもまだちょっと、信じたい自分が嫌だ。
「どうしてフラウも一緒に?」
「彼女がいればお前は必ず行く。
それだけだったんだが、失敗だったな。
まさかあんな奇跡が起こるとは。お前が何かしたのか?」
黙って首を振る。
僕が信じられないことを彼に言っても仕方ない。
いま僕が全力で考えなければいけないのは、
頭の中でまとまりつつあるルインの行き先について、
デンケルにどう伝えるかだ。
言ってしまって大丈夫か?
僕の安全は担保されるか?
まずは嘘の情報で様子を見ようと口に出しかけたとき、
玄関ドアが勢いよく開く音がして、
その場にいた全員に緊張が走った。
「兄さん、帰ってるー?」
リンケルの声が聞こえると
シリ人の男たちは速やかに裏口へと向かい、
デンケルは僕にハンカチを差し出す。
鼻血を拭けということだろう。
「ねえねえ、これルインさんがくれたんだけど、
私たちの人形だって。バーナムと会ってからルインさん、
すごいやる気なんだよね──」
「それを捨てろ」
僕はとっさに怒鳴っている。
だから守れない。
守れる人はとっさに動く。
デンケルみたいに。
どうして、と思う。
ルインのことを知っている僕たちを殺すのはありえそうだが、
彼が人形を作っているのは周囲に知られていたし、
それを見逃す特務隊員ではない。
反政府組織から離れたいのだとしても
デンケルはその一員でしかなく、敵を増やすだけだ。
つまりこれは、理性からの行動ではない。
リンケルから人形を奪い取って
窓のほうへ投げるデンケルの動きを目で追って、
僕はようやく彼と同じ時間感覚で身体を動かせる。
テーブルを倒し、その影に身を縮ませる。
リンケルを胸に抱いて、庇うデンケルと同じ姿勢で。
リンケルを守るためには動けないのに、
自分を守るためなら動けるじゃないか。
そういうことだ。
僕は間近でデンケルとリンケルの二人を見て記憶する、
作品の額縁みたいなものだ。
ルインは本当に僕と一緒に人形劇をしているんだ。
だから僕は二人を見ない。
妹のために命を投げ出す兄と、
何が起こったかもわからずに驚いているのが
人生最後の瞬間になるかもしれない妹を、僕は見ない。
これがアリシアと僕だったら、なんて考えない。
考えたくない。
目を閉じ、耳をふさぐ。
深い水の底から浮き上がるときみたいに
肺が空っぽになるまで息を吐き出す。
ここでの食事はおいしかったな。
にぎやかな朝もあったし、静かな夕食もあった。
あまり得意じゃないけど、僕も料理をした。
フラウはいっさい何もしない。
ふいに食べた料理の匂いがして、他愛のない会話が聞こえてきた。
家だ。
誰のものかもわからない、
何の関係もないのに勝手に住んでいた僕たちの、ここは家だ。
初めてと言ってもいいかもしれない、僕の家。
こんなふうに失われてしまうのなら、
最初からそんなふうに思いたくなかった。
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