第二十三話 幻影術士、幻影術を知る

 あてどなく街を歩いた。

 幻映士の語りが聞こえてくるたびに耳をふさぎたくなった。

 フラウの映像を見ないようにうつむいて通り過ぎた。


 その全部がゴール事件の映像で、僕の声のような気がした。


 ただ傷ついた人を、その人の意思に関係なく

 偶像に祭り上げる行為のおぞましさを知っていながら、

 僕には非難する勇気も資格もない。


 かつては僕もおぞましい行為に加担した。


 これがその罰だというのなら、

 立ち止まってフラウの映像と向き合うべきなのだろうか。

 激しい後悔と自己嫌悪で自分を責め苛むべきなのか。


 僕は人々の声をたどってフラウを捜し歩いた。


 聖母様を見た。

 お声をかけていただいた。

 この上ない美しさだった。

 向こうに聖母様がお見えになられた。


 いつの間にか走っていた。


 肺に負担をかけて痛めつけ、息苦しさに歪んだ顔で、

 決して聖母を賛美する顔と一緒にならないようにした。


 たぶん僕は最悪のタイミングに彼女を見つけてしまった。


 フラウはあの爆発で怪我をした人や

 犠牲になった人の家族を慰問していた。

 その中にはもちろん、フラウが抱きしめた少女の両親がいる。


 誰に呼びかけられても微笑みを返し、

 失われた手足に触れて祝福し、

 娘を失った夫婦とは新しい家族を迎えるかのように抱き合う。


 非の打ちどころのない聖母ぶりだ。

 その隣には彼女を敬愛してやまない、

 恍惚とした表情を浮かべるクリストフが騎士のように付き従う。


 フラウじゃない。


 フラウは赤ん坊を抱くのさえ面倒くさがる。

 子供が好きなのだって、精神年齢が近いからだ。


 それが僕の願望にすぎないとしても、

 あんな空疎な笑顔で慈愛を振りまいたりしないんだ。


 鈍い僕はようやく理解する。

 どうしてあのときクリストフが僕を釈放しにきたのか。


 答えは目の前のこれだ。

 フラウが取引して僕を釈放してくれた。

 彼女にあんな顔をさせているのは僕なんだ。


 シルクハットを取り、指に引っ掛けて回し、

 ゆっくりと息を吐いて頭に戻す。

 目深に被ったシルクハットの下からクリストフを睨み、

 僕はその場を後にする。


 状況が有利と言っていたのは、その通りだ。

 聖母は移民だけでなく、現地民からも尊敬を集めている。


 トラーンの実効支配をさらに盤石なものとし、

 噂が本国に伝わればより多くの移民を促せる。


 聖母を放置すればブルンナゴのトラーン化が進む。

 再び爆破テロの標的にしても、

 現状では反政府組織への非難が高まるだけ。


 どちらにしてもトラーン側に有利に働く。


 それがわかっているからか、

 フラウの警護は僅かで現場にアントンの姿もなかった。


 あえてソフトターゲットにして挑発しているのか、

 今度は幻影術を見抜く自信があるのか。


 まあ、僕が犯人なら今は動かない。


 監視されている可能性も考えて人通りの多い市場を選び、

 やたらと声の大きな果物屋からベリーを買いつつ、

 世間話にそこで聖母を見たと話した。


 果物屋が大声で情報共有してくれたおかげで

 周囲の人の流れが聖母がいたほうへと向かう。

 逆方向に進む僕を追ってくるものがいなければ、ひとまずは安心だ。


 さらに走ってシリ人の多い区画を抜け、

 外壁の近くまで来たあたりで雨が降り始め、

 ちょうどルインの工房が近かったから戸を叩いて中に入れてもらった。


「久しぶりに外に出たら、雨ですよ。

寒い時期じゃなくてよかった」


「雨が降ると木が削りにくくてね、一休みするところだったんだ。

来てくれてうれしいよ。何か飲むかい?」


 僕はシルクハットをコート掛けに引っ掛けながら、

 ルインの背中から目を離さずにプシュケを吐く。


「お構いなく。雨が上がったらすぐ帰りますよ」


「そんな寂しいことを言わないでくれ。

新しい人形を作ってみたんだが、君の意見を聞きたい」


「どんな人形?」


「顔だよ。投影する色を変えると表情が変わって見えるんだ。

今は二種類だが、

うまくやれば三、四種類くらいの表情を付けられそうだ」


「面白いですね。色をつけるだけなら幻影術の負担も少ない」


「君に出会ってからアイディアがどんどん湧いてくる。

今のところ何に使えるかわからないものばかりだけど」


「そうですね──」


 僕はちょっとした思い付きみたいに

 フラウの側で爆発した人形を幻影で作り出し、

 壁に吊り下げられた作りかけの人形たちに並べる。


 指にまで関節のある、生きた人形だ。


「怒った顔になると爆発するとか、どうです?」


 カップを持って振り返ったルインは幻影の正確さと

 自分の作った人形の出来の良さに嘆息し、

 近寄ってじっくりと眺める。


「一瞬しか見てないだろう。

よくここまで完璧に再現できるね」


「一瞬で足りるんです。僕には」


「天才だ」


「師匠にもそう言われました」


「うらやましいよ。私は師に褒められたことは一度もなかった。

だが、人形が私のものだからって爆弾までが私とは限らない。

そうだろ? 天才君」


「ある人と幻影術士の秘密主義について

話す機会があったんですが、そのとき思ったんです。

ルインさんに見せてもらったあの映像。

あれほどの幻影術を映像に残すものかなって」


「幻影術士は見せるのが仕事だ」


「何度も繰り返し見ることで何を、

どうやって動かしているかの技術を解明される恐れがある。

あんな形では残しません。

技術の継承を目的としているのでなければ、ね」


 軽い驚きで口を開け、

 やっとで納得がいったようにうなずきながら、

 ルインは僕にカップを差し出す。


 お茶は入っていないが、

 僕が受け取ろうとするとカップは手をすり抜けた。


 ルインは笑って手を重ね、

 左右に開くとカップがそれぞれの手の上に分かれた。


 一方のカップは妙に白くて絵の具を塗ったようで、

 もう一方は素焼きの器のように光沢のない、乾いた表面のカップ。


「『シェヒト』と名付けられた。

ものを幻影にするとき、重要になるのは色と材質だが、

一つの幻影で表現しようとすると平面的で質感が乏しい」


 再び二つのカップを一つにすると触れるまで幻影だとわからない、

 重ささえ感じさせるカップに戻った。

 精密なだけではなく五感に訴える、そういう幻影だった。


「色と材質を別々に作った幻影を重ねることで

実物に限りなく近づける。

人形師であり、幻影術士でもある我が家に伝わる幻影術だよ」


 しばらく言葉が出せなくて、

 僕はただ幻影のカップを凝視していた。


 動きを重視する師匠の幻影術とは真逆の発想。


 一つの幻影を作るのに複数体を同時に生み出す

 集中力を必要とする、言ってしまえば無駄な幻影術だ。

 人形と一緒に運用するか、

 あるいはまったく別の使い方をするのでなければ。


「なぜ僕に? あなたの犯行を認めることにもなるんですよ」


「もともと君には教えるつもりだった。

私はこれを過剰に重ねる訓練のせいで、

あの人形劇みたいに動かすことができなくなってしまったんだ」


「バカげてる。

あれは本当に芸術だったのに、あんなふうに人を、

子供を犠牲にするようなことでダメにしてしまうなんて」


 ルインが申し訳なさそうに微笑んだ瞬間、

 彼とその技術に抱いていた敬意が

 怒りに置き換わっていくのを感じた。


 この状況で、どうして僕に同情を求める?


 やっとでアリシアの夢に一歩近づけたと思ったのに、

 尊敬して高めあえる仲間に出会えたと思ったのに。


 全部、台無しにしてどうしてそんな顔で僕を見る?


「ニアルド機関」


 頭が熱くなっていて、

 ルインが何を言っているのかすぐにはわからない。


「聞いたことないか? ニアルド機関って」


「都市伝説だ。

そんなもの存在しないのは子供でも知ってる」


「少なくとも私の幻影術に目を付けた連中はそう名乗ったよ。

諜報活動や破壊工作に非常に有用だとね。

ひどいものだった、寝る時間以外はずっと幻影術をやらされる。

このシェヒトで何が、どこまでできるのか。

気づいたら私は幻影を動かせなくなっていた。

想像……できなくなったんだ」


「そんなの、信じられるわけがない」


「だが理解はできるだろう?

自分のただ一つの誇りが人殺しの道具にされたとしたら?

バカげてるなんて言えるか?

これを復讐なんていうつもりはない。

作り替えられた道具で、私はかつての幻影を追い求めているだけだ」


「あなたに何があったかなんて話してない。

子供だぞ? あなたが犠牲にしたのは何の罪もない子供だ。

人殺しの道具にされたって?

幻影術を人殺しに使ってるのはあなただ」


「それを君が言うのか? バーナム。

君はこっち側じゃないか。

フラウの映像、あれは凄かった。見るもの全ての心を揺さぶる。

私も泣いたよ。

大切な人が本当に嘆き悲しむ、

魂の削れる瞬間を写し取るなんて残酷なことはね、常人にはできない」


「ただの偶然だ。

あのとき僕は自分が何してるかもわかってなかった」


「最高の角度、最高の光量、最高の瞬間。

それを捉えたのが偶然ならそれこそが奇跡だ。

君は私と同じなんだよ。一目でわかった。心がないんだ。

自分の理想が実現できるなら、失われるものについて考えない」


「子供を犠牲にする理想なんかない」


「それは私がやった。そしてフラウが泣いた。

君がその悲しみを傷一つつけずに掴み出した。

合作だ。

外を歩いてきたんだろ? 嬉しかったろ?

あんなに多くの人が感動してるんだ。私たちの作品で」


「ふざけるな」


 僕は壁に吊るされた人形をつかみ、ルインに投げつけた。


 あんなに生き生きとした人形が、

 死体から盗んだ部位を組み合わせて作ったみたいに感じて、

 触れた手が気持ち悪かった。


 投げつけられた人形を避けもせず、

 彼は自分の顔に当たって落ちるに任せた。


 作りかけで手足を無様に折り曲げた人形を見下ろす目に

 ゆっくりと喜悦が浮かび、さっきよりずっと親しげに僕を見た。


「ちゃんとできの悪いのを選んでる。

君のそういったところが才能なんだ。

ここでこれを選べるから、君の師匠も天才だと言ったんだ」


 ルインが師匠の何を知ってる?

 僕の幻影の何がわかる?


 そう思いながら一歩退いて、

 視野を広げて全ての人形を見比べている。


 ルインは間違っている。

 僕には人形の良し悪しなんかわからない。


 まだ塗装もされていない無貌の人形たちはどれも同じで、

 ただ投げつけて壊れてしまうのはもったいないと感じているだけで。


「壊れていいものを選べる人間は、死んでもいいものを選べる」


 僕と僕の心の間にできた隙間に言葉が滑り込んでくる。

 幻影術士が、作り出した幻影を本物以上に見せるときに使う幻語。


 もしかして僕の見ている人形は

 ルインの作った幻影なんじゃないかと疑ってしまったら、

 僕自身、幻になったも同じだ。


 ルインを中心に工房がねじれていき、

 息が深く吸い込めなくなって、

 僕は後ろ手にドアノブを回して背中でドアを押し開ける。


 工房の空気から身体を引きはがすように外に出て、

 雨でルインの幻影を洗い流す。


「通報します」


「構わないよ。

でも本当に通報する気なら、わざわざ言わないほうがいいだろうね。

戸を閉めていってくれ、雨の日は湿気が工房に入る」


 悔しまぎれに叩きつけるようにドアを閉め、

 僕は逃げるように……いや、全力で走って逃げた。


 正直に言うと、ルインが怖かった。

 アントンと二人きりで尋問を受けるよりもずっと。


 通報に行くなんて考えもせず、

 僕は頭の中でルインとの会話を何度も繰り返し、

 そのたびに傷が開くみたいに心の隙間が開いた。


 昂揚するんだ。

 彼の言う、僕の才能に。


 試してみたくてしょうがないんだ。

 彼から教わったシェヒトを。


 何度か僕の名前を呼ぶ声がした。

 傘もささずに雨の中を走っていることを心配してくれたのに、

 無視して走り続けた。


 立ち止まるとルインが思い描いた僕に、

 人の死を作品に含める僕に、

 後ろから取りつかれてしまいそうで。


 僕は子供みたいにデンケルの家に逃げ込み、

 ベッドに突っ伏して泣いた。


 自分がなぜ泣いているのか整理もできず、

 ベッドを拳で殴りつけて声にならない叫びをあげていた。


 でも疲れて、たいして量もない涙が出尽くしてしまうと、

 全部が敗北の二文字に集約されていた。


 幻影術のレベルが違う。


 生み出した幻影をどう見せるかも、

 相手の心に忍び込む手法も僕よりずっと洗練されている。


 僕は彼の言葉に抗えず、

 目線や小さな手の動きを正直に目で追うことしかできなかった。


 何が違う?

 僕に何が足りない?


 まずそこからわからない。


 そして幻影術について考えるとき、

 僕はフラウのことを忘れている。

 聖母を演じてる、あの貼り付けたような笑顔を

 消してやりたいという願いが頭をかすめもしない。


 ルインの言うように何を失うかを考えもしない僕は

 何度も同じ敗北を繰り返しながら眠りにつき、

 眠りに落ちる瞬間か、あるいは夢の中で気づいた。


 僕は生まれて初めて狂気というものに、直に触れたのだと。

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