第二十話 火の神様、母になる2

 あれから何日たっただろう。


 僕はまだ息をしているか。


 石造りの薄暗い部屋に一つだけある小さなテーブル。


 僕は尻がはみ出る座りにくい椅子に腰かけて、

 テーブルに突っ伏している。

 横になって眠りたいが、冷たすぎて床では眠れない。


 狭いテーブルにしがみついて眠るのは、

 木片につかまって海を漂うように心細くて

 眠っている間に死んでしまうのではないかという恐怖がつきまとう。


 意識を失ってもはじき返されるようにすぐに目覚めた。


 食事は不定期。

 水も好きには飲ませてもらえない。


 空腹と渇きが思考力を奪い、

 こんな冷たい空気の中で水分が染み出るみたいに汗をかく。


 この部屋に閉じ込められて、

 わりとすぐに日にちの感覚が失われた。


 アントンは不規則に訪れ、

 僕が寝ていても食事をしていても排せつしていても、

 まるで意に介せずに尋問を始めた。


 内容は毎回同じ。


 爆弾をどうやって用意したか。

 仲間は何人でどこにいるのか。

 他に爆破計画はあるのか。

 過去の爆破はすべて一人でやったのか。


 爆弾なんて知らない。仲間もいない。


 それから爆発のあった日、

 目が覚めてから爆破の瞬間まで何をしたかを詳細に訊かれる。


 前回とちょっとでも違う箇所があると

 どちらが正しいのか、なぜ間違えたのか、

 何の意図があって嘘をついたのかと追及される。


 これが執拗に繰り返される。


 僕の一日は何度も繰り返され、摩耗し、

 僕の記憶から乖離した別の物語になる。


 アントンが、これは爆弾を用意した人間の一日だ、

 と言ったら信じてしまいそうになる。


 激昂して怒鳴ったり、ふざけて答えたりすると

 黒い皮手袋をした男たちが入ってきて僕を殴る。


 殴ってもすぐ拳を引かずに残し、

 身体に埋めるような殴り方をする連中だ。


 そのときに胃の中にあるものを全部吐くまで、僕を殴る。


 尋問ではなく、拷問なんだ。


 僕を僕でなくして、あいつらが用意した人間に

 作り替えるための工作。


 泣いて謝っても意味がなかった。

 アントンは無表情に最初からだと告げて、

 僕の脳を粘土みたいにこねる作業に没頭した。


「幻影術はどこで習った?」


 僕は机から顔を上げる。

 初めての質問だ。


 尋問が始まって以来、初めてアントンが僕を見ている。

 毎回、僕の頭のちょっと後ろに焦点があるような目だったのに。


「師匠から……習った」


「そいつの名前は? どこにいる?」


「師匠は師匠。シリ人で、捕まった。それから会ってない」


 アントンなら師匠を見つけられるだろうか。

 もし生きているなら……いや、死んでいるなら、

 師匠と同じ場所へ僕を送ってくれるだろうか。


 僕のせいで師匠にどんな疑いがかかるかも考えずに、

 うわごとのように師匠師匠と呟く。


 会いたい。

 僕の幻影術を褒めてもらいたい。

 私にはまだまだ及ばないがな、と笑う顔が見たい。


「爆弾に使われたあの人形は幻影術で偽装されていた。

俺やクリストフでさえ瞬時に看破できない高度な偽装だ」


 背後から足音が聞こえる。


 アントンはいつの間にかテーブルを離れ、僕の後ろを歩いている。

 一歩一歩が強く踏みつける、僕の肌に足跡をつけるような重苦しい音。


「ゴール事件以来、俺たちのような任務につくものは特に、

幻影術を見破る訓練を受ける。

検問所でお前が見せた許可証に使われた幻影術もわかっていた。

綺麗なだけで面白味のない幻影だ。

インクの掠れや染みがわざとらしい」


「それなら、僕に高度な偽装なんてできないってわかるでしょ」


「だからこそだ。

俺たちにそう思わせるのが狙いだったとしたら?

本物の幻影術士が操るのは幻影ではなく人の心だ。そうだろう?」


「そんなの疑い始めたらきりがない」


「疑うのは先入観や仮説があるからだ。

俺たちはそういう情報に頼らない。

信じるのは直感だ。

相手が子供で年齢的に不可能だろうが関係ない、

俺がそうだと思ったらそうなんだ。

お前がカルンでの連続爆破事件の犯人だ」


 直感というなら、正しいのは僕の直感だろ。


 優しい特務隊員ほど怖いものはない。

 アントンは異常だ。


 年下の僕の技術に敬意を示し、

 爆発から身を挺して守ってくれる一方で、

 ただそう思うからという理由で僕を犯人にする。


 人格と狂気は関係がない。


 アントンは自分の直感に従って

 権限を行使するのを躊躇わないだろう。

 つまり僕は、彼の言い分を受け入れるまでここから出られない。


「僕は、カルンに、行ったことがない」


 無駄な抵抗。


 足音の間隔がほんのちょっと長くなるくらいで、

 この部屋を支配するアントンの世界に変化は起こらない。


「そうか? だが前回の供述で、

お前は二年前カルンにいたと言っている」


「言ってない」


 声が震える。

 言ってないという自信が持てない。

 僕の記憶が僕のことじゃないみたいだ。


 アントンは僕の声に含まれる迷いを見逃さない。

 僕の頭をテーブルに押し付け、頭蓋骨が軋むくらい体重をかける。


「カルンだ。よく思い出せ、二年前だ」


 否定したくてもアントンの巨大な手が僕の顎を圧迫し、

 まともに声を出すこともできない。


 唾を飛ばし、舌足らずなうめき声をあげるだけだ。


 僕の潰れる音。

 痛いくらい空腹で、でも気持ち悪くて身体が冷えて手足が痺れ、

 身体が思うように動かせない。


 圧し潰される。

 僕の十五年が平らになって、アントンはそこに好きなものを乗せられる。


 僕はカルンにいてもいい。

 それはどうせ僕じゃない。

 アリシアに、師匠に、

 ……そしてフラウに出会ってきた僕はここで潰れてしまうから。


 涙が滲み、光の届かない部屋の片隅から

 ぼやけて姿がよくわからない誰かが僕に手を伸ばす。


 それは師匠の、指が太いのに爪が綺麗な手であったり、

 土いじりで汚れたアリシアの手であったり、

 僕を強引に引っ張ろうとするフラウの手でもあった。


 そのどれもが、僕にはもう掴めない。


 見ているのが辛くて目を閉じると、

 頭を押さえつける力が消えた。


 水の中から窒息寸前に引き上げられたみたいに

 喉を空気が通り、せき込みながら身体を起こす。


 僕の見た幻の腕に誘われ、

 アントンが部屋の隅へと吸い寄せられている。


 今にも崩れ落ちそうな器を捧げ持つように両手を前に出し、

 急激に年老いたかのように乾いてひび割れた顔になる。


「マール……お前なのか、マール」


 部屋の隅には僕が無意識に作ってしまった不鮮明な幻影が、

 少しずつ形を変えながら立ち尽くしている。


 悲しげに僕を見つめてる。


 アントンがアリシアの頬に手を触れようとすると、

 輪郭がゆがんで彼の手が頬を突き抜ける。


 アントンが、幻影を見破る訓練を積んだアントンが、

 そこで初めて幻影だと気づき、振り向いて僕の首を掴んだ。


「お前だ、やはりお前がやったんだ。マールを殺したのは……」


 首を掴まれたまま壁に押し付けられる。


 足が床から浮いて首に僕の体重がかかると異音がして、

 アントンの腕につかまって必死に自分の身体を吊り上げる。


 もはや自分さえ支えられない弱った足で

 アントンの腹を蹴っても首を絞める力は一向に弱くならない。


 気道が少しでも開いているうちに行動すべきだ。


 マールじゃない。

 アリシアだ。

 あの手は、僕の守れなかった手だ。


 僕は強く思いながらプシュケを吐く。

 僕が僕でなくなっても、アリシアを奪うことだけは許さない。


 あの日、アリシアの側にいて無力だったお前を、

 なかったことにはさせないぞ、バーナム。


 指先から火花が散り、アントンの頭を炎が包んだ。

 たとえ幻影だとわかっていても避けずにはいられない、

 本能の恐怖を引き出す炎。


 練習したんだ。

 見た目だけじゃない、本物の熱を感じられるような炎を。

 異常な寒波に襲われた冬に、凍えた身体を温められるような炎を。


 アントンがのけ反ると、

 僕は思い切り壁を蹴って彼の顔面に額を打ち付ける。


 上から胸を合わせ、

 体重をかけてアントンを押し倒そうとしたが、

 片手で引きはがされて壁に叩きつけられた。


 鼻血と涙を流して怒号をあげるアントンを、

 部屋に飛び込んできたクリストフが引き離してくれなかったら、

 僕はアントンが掴んだテーブルで頭を割られていた。


 それぐらいに彼は正気を失っていた。


「落ち着け、アントン、あれはマールじゃない。

髪の色も歳も違うだろ」


「こいつだ。こいつがマールを殺した。

俺にマールを見せて、笑ってるんだろう」


「おい、誰か手を貸してくれ。

それと、そいつを外へ。迎えが来てる」


 黒い皮手袋をした男がクリストフと一緒にアントンを取り押さえ、

 別の政治局員が僕を引きずって部屋の外へ連れ出す。


 一人で歩けない僕を無理やり立たせて強い力で引っ張っていくのは、

 政治局員自身が逃げたがっているみたいに見える。


 お前を殺すと叫ぶアントンの、

 ひび割れた弦楽器のような声が這いずって僕を追いかけてきたが、

 階段を上り、黄色い光が見えるようになると聞こえなくなった。


 たぶん、久しぶりの外の光で目まいがして意識が遠のいたからだ。


 胸を中心に身体が浮き上がった感覚になり、

 意識はあるのにどこにも繋がっていない、

 誰からも、何からも切り離された存在になっていた。


 死んでも生きてもいない。


 たとえ僕が目覚めても、

 今この白い闇を漂う僕はこのまま取り残されそうな気がして、

 怖くて、叫ぶ喉ももがく腕もないまま

 誰かに気づいてほしいと願い続けた。


 だけど、それを願う言葉さえも僕の中から消えていく。


 言葉さえも消えていくというのが、

 僕が最後に考えることなんだと思った。


 だから、そんな僕を抱きとめてくれた細くて力強い腕の感触が、

 その瞬間、僕の世界の全てだった。

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