第十九話 火の神様、母になる1
事態は日に日に深刻になっている。
僕がフラウを怒らせたらしいことはその日のうちに広まり、
僕の顔を見たすべての人が謝ったほうがいいと忠告してくる。
そうなるとデンケルの耳にも入り、関係の修復を急ぐよう言われた。
なんでみんな僕たちのことに口を出したがる?
あと気のせいかもしれないけど楽しそうじゃないか?
花だ。とにかく花だ。
ルイン、デンケルを含めた男たちの助言を要約するとそうなった。
リンケルを含めた女たちに意見を訊いたら自分で考えろと怒られた。
甲斐性なし、そんなんだからうんたらかんたら。
で、花だ。
慎重、かつ堅実である僕は当然プロの意見に従う。
謝意表明の調査中、
数人がプロポーズで世話になったと話したスペシャリストだ。
お花屋さん。
堂々とした体躯の堂々とした女店主が勧めてくれたのは
青く波打つような花弁を持った花。
女性の美しさを賛美するには最高だという。
フラウは自分の美しさを誇示しているし、ぴったりだ。
それが水の神バルナを称える花だったってわけ。
なるほどね、美と知の神だものね。
命の根源たる水の神だものね。
おかげで僕は人生で初めて花束で殴られるという経験をして、
それ以降フラウとは会話ができていない。
僕は誰に怒ればいい?
花屋か? フラウか? バルナか?
わかってる。
僕自身だ。
最初は納得がいかなかったし、腹も立った。
僕だけが一方的に悪いのか?
跡も残さないような涙の一筋に気づかなかっただけで?
理不尽だ。
ただ人形劇を観ていただけじゃないか。
でも、そう思うことが、フラウにとってその人形劇が、
喚起された思い出や歌がどれだけ大切かの理解を放棄している。
少なくともフラウはそう感じる。
それを不甲斐ないって言うんだよ。
不甲斐ない僕はフラウを映写機で記録に収めながら、
何度もため息を我慢している。
お互いに仕事中だ。
今が謝るタイミングじゃないのはわかっているのに
頭の中でどうやって謝ろうかと、そればかり考えている。
デンケルが紹介してくれたのは
統国党のニュース映像を記録する幻映士の仕事だった。
デンケルは侵略者であるトラーンの仕事を積極的に
手伝うことでシリ人の地位を守っていて、
必要な人材の手配は最も重宝される。
昨夜、仕事の話をしたときにデンケル自身がそう言った。
「アントンという政治局員がお前のことを覚えていた。
統国党にコネがあるとはしたたかだな。見直した」
「やりませんよ。
僕はもう統国党のプロパガンダに協力しないって決めましたから」
「ものごとを一面だけで語るなよ。
確かに胸糞悪い仕事だが、やつらに協力することで
この街のシリ人は隔離されずに生活できてる。
お前が寝ているベッドも毎日の食事も、そうやって用意されてるんだ」
「ニュースの内容を知らないわけじゃないでしょ。
自分たちの首を絞めているだけですよ」
「絞めてやるさ。飯が喉を通らなくなるまではな」
「リンケルの首でも同じことが言えますか?」
「女を盾に取るか。じゃあ俺もだ。
フラウは快く仕事を引き受けてくれたよ。
彼女を一人で統国党の仕事に行かせるのか?」
「フラウに何させるつもりです?」
「行けばわかる。というか是が非でも行ってもらう。
統国党の仕事は極力、請けていきたいんでね。
それに仕事をくれと頼んだのはお前だ」
最初から僕に断る選択肢はない。
デンケルはそういうふうに話を進める人だ。
だから彼は妹を守れる。
確かにリンケルを助けたのは僕だけど、
そうしなくても誰かが彼女を助けたのだろうと、
そんなふうにさえ思えてしまう。
僕とは違う。
不甲斐ない僕とは。
「おい、もういいぞ。無駄にスフィアを回すな」
監督していたアントンが僕の肩を叩く。
慌ててクランクを回していた手を止め、
中心点を合わせるためのファインダーを目から離した。
ロケーションは空爆で半壊した家屋の前。
トラーン軍が援助物資を届け、
兵士たちが瓦礫の撤去を現地民と一緒に行っている。
昨日は活気のある市場を映像に収めたし、
トラーンからの移民が初めて持った店舗も映した。
ようするにトラーンの支配地域の
安定と発展をアピールする映像制作。
フラウは現地民と触れ合うトラーンの移民の役だ。
女優と言われて喜んで引き受けるフラウの姿が目に浮かぶ。
「もう少し兵士と民間人が近い画が欲しい。
クリストフ、子供を用意できるか?」
「できるが、そいつはやりすぎだろ。
兵役募集のポスターじゃないんだからさ。
なあ、フラウもそういうやらせは嫌だろ?」
「私はいいと思うよ。
女子供にまで歓喜をもって迎えられるのが英雄というものだ。
私の側にいるなら英雄でなければ釣り合わん」
「仰せのままに」
クリストフがフラウに深々と頭を下げる。
彼は一般の兵士と同じカーキ色の軍服
──染み一つない新品──と軍帽を身に着けている。
丈の長いスカートと清楚なブラウスを着たフラウと並ぶと
まるで舞台の一幕。
青年将校と田舎貴族の娘が恋に落ちるやつ。
二人を中心にして撮ると瓦礫の山だって華やかな背景に見えてきて、
すごくいい映像になっているという確信が沸いてくる。
クリストフは背も高いし、
肩幅も胸の厚みも僕とは比べ物にならない。
一見すると冷たそうな目をしているけど、
笑うと子供みたいにチャーミング。
そのくせ余裕があってフラウのわがままにも笑顔で対応する。
誰だって思う。
フラウの隣には僕よりクリストフのほうが相応しい。
そもそも彼は僕と自分を比べたりもしないだろう。
我慢していたため息が漏れて、
隣で指示を出していたアントンに聞かれてしまう。
これじゃ彼のやり方に不満があるみたいだ。
アントンは通常の政治局員の制服姿で赤い腕章はつけていない。
一応、特務隊員であることは秘密らしいが、
クリストフと同じく身体の厚みが違うせいで
下手な擬態をした異様な獣みたいになっている。
怖いからこっち見ないで。顔近づけないで。
「彼女、お前を見ないな。何かあったのか?」
意外と優しいし、周りの人をちゃんと見てるんだよな。
特務隊員として他人の警戒を解くために
身に着けた人心操作かもしれないが。
「別に何も。二人とも仕事で来てますから、
内輪の感覚を持ち込まないようにしているだけです」
「そうか? 俺にはケンカしてるみたいに見えるぞ」
「してません。
ケンカになんかならないですよ、僕と彼女じゃ」
アントンは僕の愚痴みたいな言葉を無視して
援助物資を積んだトラックを呼び入れている。
「それならいい。そのほうがこっちも助かる。
彼女がお前を見ないおかげで、無防備な横顔が綺麗に撮れる」
「目立ちすぎでは? ニュースに使う映像でしょ」
「まず見せることが大事だ。知ってるか?
赤ん坊、動物、美人が映っていると、
ニュースに興味がなくても足を止めるそうだ」
「初耳です」
「覚えておくといい、その仕事を続けるならな。
しかし、美人はいいがクリストフは余計だな。
あいつのせいで芝居じみてくる」
「外さないんですか?」
餌に飛びつく子犬みたいだ。
僕はこんなにも本心を隠すのが下手だったか?
アントンにも笑われている。
「すまない。フラウが来たと知ったら、
どうしても自分も出ると聞かなくてな。あいつの悪い癖だよ」
女癖が悪くて特務隊員なんて勤まるんだろうか。
クリストフのほうを見ると、
進入してきたトラックの進路にいたフラウの腰に
自然に手を添えて引き寄せている。
動きが優雅でフラウも嫌がらない。
気に食わない顔だって言っていたのに。
それどころか彼が耳元で囁いた冗談に恥ずかしそうに笑って、
彼の肩に額をつけている。
フラウってあんなふうに笑うんだ。
クリストフはそのままフラウと手をつないで
ミュージカルのまねごとを始め、
僕に撮影しろというように腕を回している。
「撮らなくていいぞ。スフィアの無駄だ」
いらついたアントンが舌打ちして顔をしかめて
腕を組んでいるのが救いだ。
そうでなければ子供みたいに癇癪を起して
映写機を投げつけてしまいそうだ。
映写機を持つ手に力が入るのをアントンが横目で見ていて、
口を開いて言うのをやめて……を二回くらい繰り返す。
「もし、お前が彼女を怒らせてしまったのなら、まず──」
「花は贈りました。失敗でした」
アントンは黙り込む。
おい、それだけかよ。しっかりしろよ特務隊員。
クリストフとフラウのダンスが喝采を受けてるんだよ。
揺らめく炎のように絶え間なく動き続けるフラウの踊りに
僕も見とれちゃってるんだよ。
そして気づくんだ。
いや、気づいていたけどあえて言葉にしていなかっただけで、
本当はわかっていたことだ。
フラウは僕を、男としてなんか見ていない。
「昔、職場の同僚の女性をひどく怒らせてしまったことがある」
アントンがようやく話し始めたときには、
僕はスフィアの入れ替えを始めている。
クリストフはともかく、フラウは撮っておきたくて。
「謝ろうにも話を聞いてもらえなかった。
ほら、風の強い日に側で話したって聞こえないことがあるだろう。
あれと同じだ。何を言っても届かない」
「解決したのなら、その方法だけ教えてもらえますか?」
「実は解決していない。いまだに許すと言ってもらってない」
「失敗から学べと? だとすれば僕が花の失敗から学んだのは
他人の意見には従うな、です」
アントンは帽子のつばで顔を隠して苦笑する。
恥ずかしがっているようにも見える。
まるで自分の失敗を目の前で再現されているみたいな。
いい人だなと思う。
善人という意味ではなく、少なくとも僕みたいな子供に
こんな失礼な口を利かれても怒らない政治局員はまずいない。
彼はちゃんと僕と会話をする。
演技だと悟らせずに。
「結論を急ぐな、失敗を重ねるぞ。
何をしたかを先に言えというなら、俺は手紙を送った。
毎日、彼女の机に手紙を置いたんだ」
「それ、読んでもらえました?」
「捨てられた。たぶん一度も読んでない。
今となっては読まれなくてよかったと思っている。
おい、そんな顔するな。お前に手紙を送れと言ってるわけじゃない」
「ますます意味がわからない。骨子はなんです?」
「骨子ときたか。年上と話してる気分だな。
もちろん俺は最初からそんなつもりで謝っていたわけではないが、
気づいたらその女性と結婚して子供ができていた」
複雑怪奇な話だ。
アントンの話が本当なら、
彼の妻は怒りを抱えたまま結婚して出産したことになる。
心理学の実験だろうか。
特務隊員ならありうる。
なんにせよ僕とフラウの問題との接点が
女性が怒っている以外に見当たらない。
悩み始めた僕の背中を拳で軽く叩き、
アントンはトラックに向かって歩き出す。
勝手に伝わった雰囲気でうなずいているが、
僕は何もわかっていない。
「フラウはお前が嫌いだから怒っているのではないと思うぞ」
「じゃあ好きだから怒ってるんですか?」
「俺はさっきなんて言った?」
「結論を急ぐな」
アントンは合格を知らせる教師みたいに指を立て、
トラックの荷下ろしを監督しに行った。
なんだかさっきからアントンのほうばかり働いているな。
入れ替える途中だった新しいスフィアを映写機にセットし、
記録位置に固定して蓋を閉める。
次にファインダーを覗きながら絞りを調整していると、
手紙を書くのも悪くないなとふいに思った。
映写機の扱いと同じで手順が大事だ。
フラウの読む、読まないに関わらず、
まず自分の伝えたいことを整理しないと。
今、僕が彼女に伝えたいことってなんだ?
何を謝ろうとしているんだ?
一番、大事なことだ。
映写機だって最初にセットする場所を間違えると
撮影と投影が違ってしまう。
僕はフラウが怒る原因になった日、
すなわち人形劇を観た後のことを詳細に辿る。
彼女が怒ったのは見終わった後、
僕がルインと人形の話に夢中になっているとき。
ルインはたしか、フラウが僕と感想を共有したかったと言った。
違う。
それはルインが彼女を知らないから、
フラウが自分をアフラだと思っていることを知らないからそう思う。
「彼女が泣いているように見えて」
泣いていたんだ、フラウは。
僕は彼女を怒らせたんじゃなく、悲しませた。
寄り添うべきときに、彼女の手を振り払ったことで。
手紙の書き出しが決まるみたいに、僕の気持ちが定まった。
「なんだいそれ? 私にくれるのかい?」
フラウの声に顔を上げると、
小さな女の子がフラウに人形を差し出している。
木製の、軍帽を被ってライフルを持った兵隊の人形。
フラウが屈んで受け取ろうとすると
少女は首を振ってクリストフを見上げる。
「なんだ、君にだそうだ、クリストフ君」
アントンの仕込みだろうか。
占領地の子供が占領軍の兵士に贈り物をするなんて
ありえない風景だが、
プロパガンダは嘘を補強する嘘みたいなものだ。
花よりは役に立つ助言へのお礼のつもりで僕は撮影を始める。
クリストフは他の兵士にも一緒に踊れと言って迷惑がられ、
少女に気づいていなかった。
フラウに呼びかけられて振り向いた彼は
少女の差し出す人形を見て、
自分の目を疑うかのように意識的にまばたきした。
人形の手足は関節が緩いリングで接続しているだけで、
力なく垂れ下がり、微風にさえ大きく揺れた。
胴体はやや太いものの、服は塗装で余計な装飾もない。
子供が片手でも振り回せるような作りだ。
きっとクリストフも同じ違和感を抱いた。
そのわりには重そうじゃないか?
肩より上に人形を持ち上げた少女の腕が震えているのは
緊張ではなく、筋肉の疲労だ。
あるいは少女自身さえ、
見た目の軽さに感覚が引きずられていたのかもしれない。
「そいつから離れろ」
アントンが怒鳴り、僕に覆いかぶさってきた。
真っ先に考えたのは、僕が幻影術士だと彼が気づいて
取り押さえられたということだ。
僕もフラウも逮捕される理由がないとは言えない。
次の瞬間、
僕の顔をあぶった熱風はどちらのものだったのだろう。
フラウが発した熱か、人形が破裂して起こった爆発か。
アントンが僕を庇ってくれたおかげで
飛んできた瓦礫やトラックの破片で怪我をせずにすんだ。
轟音で耳鳴りがひどかったが、
他には軽いめまいがするくらいですぐに立ち上がれた。
意識を失い、うつぶせに倒れたアントンの軍服の袖は
割れたフェンダーに切り裂かれて出血している。
圧迫止血を。
頭ではわかっている。
でも、僕は呆然と立ち尽くしている。
霧みたいに周囲を包む、灰色の塵の混じった空気を吸って喉が痛い。
フラウの足元でだけ、
瓦礫が溶けて地を這う植物のように彼女を囲っていた。
煤と塵で灰まみれになり、
何が起こったのかまだ理解できていないのか、
目を見開いて少女を見下ろしている。
粉塵が収まってくると、無事だった人たちが起き上がって
暗闇の中をさまようように両手で空を掻く。
そしてただ一人、何事もなかったように
爆発の中心に立っているフラウを見つける。
輪郭が滲むように彼女の顔が歪み、口が開く。
彼女にとってそれは何よりも大事なものだ。
何よりも、尊いものだ。
頭部と右腕がかろうじて繋がっているだけの
小さくなった少女の胴体を抱き上げ、煤で汚れた胸に押し付ける。
まるで自分の心臓で少女を蘇らせようとするかのように
強く、強く抱きしめる。
涙が灰色の頬を引き裂いて喉から胸へと流れ、
涙に洗われた白い肌が、
暗雲の去った後に差し込む一筋の陽光のように
彼女の身体を降りていった。
波が引くように耳鳴りが消え、
波が寄せるように彼女の泣き声が聞こえてくる。
喉ではなく、身体を震わせる慟哭。
彼女は泣くことしか知らない赤ん坊のように泣いた。
僕は彼女の涙を止めることも一緒に泣くこともできず、
悲しくて、それ以上にどうしようもなく美しい涙を、
アホウみたいに撮影し続けていた。
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