第十八話 火の神様、伝説を歌う
ルインが持ってきたスフィアは古くて色あせてはいたが、
表面に傷などはなく、状態は良かった。
大切に保管されていたのだろう。
上映会はルインの工房の隣にある寝室で行われた。
寝室とはいえ工房から溢れた工具や設計図、
人形関連の書籍が床を埋め、
ベッドの上は衣服が乱雑に投げ出されている。
僕たちは座る場所の確保から始めなくてはならなかった。
スフィアの溝は角度がついていて、
下から斜め上に投影する必要があった。
部屋の真ん中に映写機を設置し、
その後ろに座ってカーテンをスクリーン替わりに映す。
映写機を操作する僕以外は左右に広がって鑑賞することになる。
それなのになぜかフラウは僕の後ろに座り、
僕の背中に胸をつけて映写機のクランクを掴む僕の手に
彼女の手を重ねている。
「怪我が治ったばかりなんだ。
また悪くしては大変だろう? 手伝うよ」
「一定のリズムで回すだけなので、一人でも問題ありません」
「リズムは一定なのかい? ずっと同じじゃ女は飽きてしまうよ。
女は男が思っているほど楽しくないんだ」
「映写機の話ですよね?」
「もちろんだ、どんなリズムか私の手でやってみせてくれ」
古いスフィアだから二十か三十回転。
フラウの手にクランクを握らせ、僕の手で包む。
フラウの手はひんやりとしていて、
濡れた大理石のような肌の質感には合っていたけど、
彼女の作る熱で死にかけた身としては意外だった。
「あ、ちょっとフラウそれは協定違反じゃない?
私にできないことはしないって約束したよね」
「私は映写機の使い方を学んでいるだけだよ。
君と違って向学心がある」
カップに温めたミルクを持ってきたリンケルが
フラウの背中を軽く蹴る。
何の協定だか知らないが、
微かな振動でも回転に影響が出るからやめてほしい。
「なんだリンケル、一人で観るのが寂しいのか。
ならこっちで私と一緒に観よう」
「いやルインさん、これそーいうんじゃないから」
笑顔が寂しそうなルインが
正面からの光でほのかに白く照らされる。
映像が始まり、最初は雪の風景だ。本物の雪。
思ったより綺麗な映像にリンケルもフラウも歓声をあげ、
フラウは映写機から手を離してしまって、
慌てて僕がクランクを握った。
『天使と雪の悪魔』
シオン神王国時代、北端の雪国で疫病を流行らせた悪魔を、
一人の青年が天使の力を借りて退治するという物語。
ジョージ二世の竜退治のモチーフになったともいわれる古い伝説だ。
リンケルが僕に見せたがった理由はすぐにわかった。
収められた映像は人形劇だったが、
精巧に作られた人形に幻影術士が服を着せて動かしている。
この発想はなかった。
僕は幻影術だけで人を楽しませることばかり考えていたから、
人形劇と融合させ、衣装や視覚効果に幻影術を集中させて
クオリティを高めるという手法は衝撃的だった。
とくに恋人が生贄にされることを知った青年が、
それより早く悪魔を退治しようと雪原を走る場面。
背景の吹雪は書き割りだ。
しかし、青年のマントや衣服、髪の毛までもが
強風でなびいているのを見たときは嫉妬さえ覚え、
クランクを握る手が固くなり、回転数が上がりすぎてしまいそうになる。
赤ん坊をあやすみたいにフラウが僕の胸を手のひらで叩いていた。
いつからそうしていたのか、気づけないくらい穏やかに僕に触れる。
ちょうど二十回転のリズム。
フラウは背後から僕の胸の前に腕を回し、
肩に顎を乗せて映像に見入っている。
まあ、その……恋人たちがするみたいに。
雪原で迷い、倒れた青年に雪が降り積もり、
恋人への想いが再び心臓に火を灯す。
それに合わせてフラウが、彼らの雪を溶かす思い出を歌い始めた。
映像は無音だけど、その歌は映像の中から聴こえてくるようだった。
歌によって紡がれる思い出の一つ一つが、
雪に閉ざされた青年に命を与えていく。
二人の出会いが目を開き、抱擁が腕を、流した血が足を動かす。
僕と妹が夢見ていたショーだ。
生きているように精巧な人形、幻影術の演出、
物語に色彩を与える音楽。
この全てを映像ではなく、
観客の前で見せることができたらどんなに素晴らしいだろう。
映像が終わった後も、僕はしばらくクランクを回し続けていた。
そうしていると頭の中で僕のショーが、
僕のやりたいことがどんどん浮かんで
何も映っていないカーテンに、その外側にまで広がっていった。
「終わったよ。その情熱と集中力は私に向けたまえ」
フラウに手を止められ、
僕はようやく自分の頭の中から帰ってこられた。
物語の終わり、結婚式の余韻に浸っているフラウの腕を振りほどき、
ルインに礼を言う。
「あの人形、同じものを作れますか?」
「あれは父が作ったものでね、私はまだそこまでじゃない。
だが、できないとは言わないよ。あの人形はたどり着ける場所だ」
「じゃあもし、
あの映像でやっていたみたいな人形劇ができるとしたら──」
「喜んで提供しよう」
僕たちはどちらかともなく握手を交わしている。
演劇の人形になった気分だ。
最初から言うことも握手もみんな決まっていたかのように、
なんの遠慮も躊躇もない。
きっとあの映像を作った人たちも
こんなふうに可能性の広がる感覚に興奮したに違いない。
ルインの固い職人の指先も彼のぎこちない笑顔も、
僕にとっては全てが新しい可能性だ。
「でもあの人形、どうして指にまで関節が?
操演で動かすのは無理でしょう」
「それがね、父が言うには
『だって指が曲げられないと不便だろう?』と」
僕たちは顔を見合わせ、同時に笑った。
ぎこちない笑顔がふいに子供みたいに緩んで、
ずっと前に彼が父親にその質問をしてから
同じように笑ってくれる相手を求めてきたのが伝わってきた。
人形についてもっと訊ねたかったし実物も見たかったが、
フラウが深くて暗くて不満のこもったため息をついて僕を責める。
おかしいな、フラウは子供にはいつも優しいはずなのに。
「ブラウン君、きみはあんなに素敵な人形劇だったのに、
人形の指ばかり見てたのかい?
芸術を愛する目と心を持つと思っていたが、考えを改めるよ」
急に不機嫌になったフラウの様子に怯え、
ルインが僕の耳元で囁く。
「えっと、君の名前はブラウンだっけ?」
「いえ、バーナムです。
気を引きたいときにわざと間違えるんですよ」
「聞こえているぞ、臆病な男ども。
気を引いてるのは君だよ。あからさまに私以外と楽しげに話して、
それで気を引けると思っているのは可愛いがね。
あとこの子が眠っているのが見てわからないかい?
くだらない話をするのはいいが、少しは気を利かせたらどうだ?」
いつの間にか眠っていたリンケルの頭を膝に乗せ、
それが僕だけの特権ではないと見せつけるように
彼女の頭を撫でている。
いや、フラウの膝枕を僕の特権だなんて思ったことないけど。
言い返そうとする僕の袖をルインが引っ張り、
軽く首を振って部屋の外に連れ出すと、
工房と繋がる薄暗い廊下で表情まで暗くしながら僕に謝った。
「気にしなくていいですよ。
フラウの気まぐれはいつものことですし、
きっと僕たちが一番に彼女の歌を褒めなかったのが
気に食わなかったんでしょう」
「そうかもしれない。でもね、彼女が一番にしたかったのは
君と人形劇の感想を共有することだったのではないかと思う」
目を合わそうとはしないが、妙に確信を持った言い方だ。
僕の知らないフラウのことを彼が知っていると思うと
多少のいらつきは感じるが、無視できる程度だ。
「なんですか、はっきり言って」
無視できる程度なんだけど、言い方がきついな。
どうもフラウのことになると感情のコントロールがうまくいかない。
「ああ、すまない。その……人形劇を観ているとき、
彼女が泣いているように見えたものでね」
「フラウが?」
そんなに感動したのか?
確かに素晴らしい出来栄えの人形劇だったが、
その技術の高さに感動した僕だって泣いてはいない。
じゃあ内容で?
伝説を子供向けに脚色したシンプルなストーリーだ。
こっそり覗いてみるとフラウはリンケルを膝枕したまま目を閉じ、
眠ってしまったように一定のリズムで呼吸している。
微睡んでいるようにも、怒りを鎮めているようにも見えた。
リズムだ。
フラウの歌。
メロディーは覚えているが、
映像に夢中で歌詞をほとんど聞いていなかった。
でも、違和感がなかったか?
物語に与えられた彩に、
どこか遠くを眺めるような憧憬が含まれなかったか。
伝説を遠い過去と捉える僕たちにとって、その憧憬は当然だ。
決して手の届かない、想像するしかない世界。
でも、フラウが自分を神だと信じているなら、
彼女が見ているのは遠くではない。
一番近くで歌を聞いて、背中で彼女の鼓動まで感じていたのに。
彼女が泣いたなら僕が最初に気づかないといけないのに、
僕は自分のことにばかり夢中だった。
彼女はあの雪国を知っているし、彼女にとってあれは物語ではない。
届かなかったのは、彼女の想いだ。
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