第十六話 火の神様、夜を愛でる
言ってしまえば油断だ。
本来ならまともに試合にすらならない大男に勝った。
金を稼ぎ、フラウを守った気になって、
祝杯をあげて……酔っていた。
いつもなら当然、警戒していたことに気づいていなかった。
僕たちを襲ったのは四人の男。
ガス灯のない暗い路地だったから顔はよく見えなかったが、
聞き覚えのある声もあった。
カルハリの仲間だろう。
僕を幻影術士だと知っているから
幻影を使って切り抜けるのも難しかった。
正直まずいなと思っていたら、
フラウが僕を庇うように進み出た。
後で彼女に聞いたら、そのときは四人くらいどうということはない、
という気分だったらしい。熱いのとかなしで。
冗談じゃなくホントに酔っぱらってんじゃねえか。
「去るなら追わない。だがこの場に残るなら……
そうだな、最も大切な人の顔を思い浮かべろ。
(一呼吸、待つ)
そして二度と会えぬと悔いろ」
酔っぱらって気が大きくなっても
普段と言ってることがたいして変わらないのが厄介だ。
体格で言えば僕より上だし、
本当に格闘技の心得でもあるのかなと思ってしまった。
実際、彼女の顔で凄まれると誰でも怯む。
暗かったために見た目だけで場を支配する力が半減していたが、
昼間なら男たちは逃げていたかもしれない。
ふざけんなと怒鳴りながら一人が前に出てきて悲劇は幕を開ける。
握り方を知らないからフラウの拳の中には
隙間ができていた。
手首も固定されていないから
そのまま殴ったら自分の手を痛めるだろうなと思った。
そうなった。
前に出てきた男の顔面を殴った拍子に手首が内側に曲がり、
なまじ勢いがあったものだから
親指が腕にくっつきそうなくらい曲がっていた。
それ、痛いよねえ。
以下は僕の記憶から再現した当時のやり取り。
当人は頑なに否定しているけど、
フラウは手首も身体も丸めて半泣きでした。
「痛い、すごい痛い、ナニコレ、ずっとこんなことやってたのかい?
君、バカなんじゃないのかい?」
「やれって言ったの誰でしたっけ?」
「口答えするな、バカ。さっさと何とかしたまえ」
「僕、怪我してるし疲れてるんですけど」
「私もだ。こんな痛いの初めてなんだぞ。
君と一緒にするな、蛮族めが。
どうせ痛いのは慣れっこなんだろ」
「できないのに拳を握るから痛めるんですよ。
手のひらの底の部分で殴ったほうがはるかに効果的です」
「あ、ホントだ」
手前の男がどうして二回も黙って殴られたのか、
いまだにわからない。
理解しがたい現象を目の前にして
思考が鈍化するというやつだろうか。気持ちはわかる。
フラウの牧歌的なパンチで
僕たちの脅威度を低いと判断した男たちの動きは大胆になり、
僕たちを囲んで、効率的に掴むと殴るを分担して作業した。
僕はフラウに覆いかぶさるようにして庇ったが、
自分より体の大きな相手を庇うのは限界がある。
助けがこなければ僕の背中に靴跡をつけられるのと
金を奪われるだけではすまなかった。
四人の男たちがその姿を見ただけで、
まるで巨人に踏みつぶされそうになったみたいに逃げだす。
そんな男が今、僕のために朝食を用意してくれている。
それほど大柄というわけでもないが、肩幅は広く、
動作がゆったりしているせいか僕よりずっと年上に見える。
褐色の肌に少し長めの黒髪は左右に分け、
やや伏し目がちだが思慮深い目をしている。
リンケルの兄、デンケルは妹とは印象が正反対だ。
無口だし。
僕がテーブルにつくと同時に出てきたスコーンは
まだほんのりと温かく、
クロテッドクリームとリンゴジャムが添えられ、
茹でた芋とソーセージ、牛乳とオレンジジュースも用意されている。
ブルンナゴの街に二種類ある漆喰と石造りの家の石造りのほうで、
広い台所にはオーブンや重厚な家具が揃っている。
隣の居間にある蓄音機からは朝の空気を柔らかくする優美な音楽。
この家に泊めてもらうようになってから毎日
こんな充実した朝が続き、毎朝僕は感動している。
夢のような生活だ。
デンケルは自分の家じゃないというけど、
誰のものかも住み着いた経緯もどうでもいい。
デンケルは香り豊かな紅茶だけ自分の前に置き、
朝の事務処理を始めるのだが、この穏やかで静かな時間も好きだ。
それなりに厚さのある書類を最初に拳でトントンと叩く。
それから一枚ずつ目を通し、ときどきポケットから
取り出したペンで何かを書き込み、ポケットに戻す。
決してテーブルには置かない。五枚、目を通して紅茶を一口。
わかるよ、リンケル。
彼を完璧だと思うのも、決して逆らえないのも。
こういうのもなんだけど、フラウよりよほど神様らしい。
「あの、そろそろ腕もよくなってきたし、仕事をしたいんです。
幻映士ができそうな仕事ってありませんか?」
最初は話しかけてはいけないと思ったが、
僕とフラウとリンケルが同時に話しかけても、
全部に答えながら彼の仕事のペースは変わらない。
タスクに余裕がある。
「金なら取り戻せる。
妹を苦しめた連中をこのままにしておくつもりもないし、
お前が急ぐなら明日にでもやらせよう」
「いえ、お金のことはいいんです。
ちゃんと働いて稼げるならそのほうがいい。
だから、できれば彼らには何もしないでもらえますか?
川原でのことは、決して本意でない人たちもいました」
「たとえ本意でなかろうと危害を加えるものは許さない。
だが、お前がそう望むならそうしよう。
少なくとも、お前がこの街にいる間は手を出さない」
「ありがとうございます」
「金からも報復からも目を逸らす。
お前が妹を助けた男じゃなかったら、嫌いになっていたよ」
「リンケルに感謝だ」
素敵な朝だ。
毎朝、こういう会話で頭を目覚めさせたい。
僕は音楽に耳を傾けながら、
静かな朝を台無しにしてくるであろうフラウの挨拶を待っている。
「フラウならもう出かけたぞ。朝が早いな」
「そうですか。誰かに迷惑かけてないといいけど」
「問題ない。むしろみんな喜んでいるんじゃないか。
神秘的で美しい巫女が祝福を与えてくれると評判だ」
「神秘的、ですか?」
「俺も最初は彼女の言動に驚いたが、
このあいだの夜中に彼女を見かけてみんなと同じに思うようになった」
「寝たまま徘徊してたとかじゃないでしょうね」
「お前を見てた」
オレンジジュース、吹きそうになった。どういうこと?
「ベッドに腰かけてずっとお前を見ているんだ。
息をしてるかどうかも怪しいくらい微動だにしない。
教皇の枕元に立つ天使の絵、見たことないか? あれと似てる。
俺はしばらくそこにいたが、
永遠に夜が終わらないような気がして怖くなってな、
部屋に戻って寝たよ。
フラウはたぶん朝まであのままだ。彼女は寝ないのか?」
怖い怖い怖い。
そういえば僕はフラウが眠っているところを見たことがない。
たまに微睡んでいることはあるが、
夜は僕より遅く寝て、朝は早く起きていた。
今までずっとそうしてたのか? 毎晩? なんのために?
僕の混乱を察したデンケルは珍しく書類から目を離し、
たぶん紅茶を飲み終わるまでと決めて
僕との会話を主要タスクに切り替えた。
「あれはどう見ても初めてじゃないぞ、今まで知らなかったのか。
お前たちなりの愛情表現かと思ったんだが」
「まず表現すべき愛情がないですね」
「なんだおい、しっかりしろ。お前がそんなんじゃ困る。
フラウみたいな女に決まった相手がいないとトラブルのもとだ」
「彼女とはただの旅の道連れです」
「ただの旅の道連れを一晩中眺める女がどこにいる?
なあバーナム、フラウくらいの女だとどれだけ言動がおかしくても
側に置いておきたい男なんざいくらでもいる。
それこそお前より金も地位もある連中だ。
彼女がそっちを選ばないと言い切れるか?
そういうことを考えたことあるか?」
考えたよ。焼け落ちた尖塔で待ち合わせたときに。
樽に頭突きもした。
「あなたは知らないんですよ。
彼女の側にいると、たまに火傷じゃすまないこともある。
危険なんです」
「カルハリとの試合か?」
「あんなの序の口だ」
「言うじゃないか。
つまりお前はその危険を自らの意思で受け入れているわけだ。
別に拘束されてもいないんだからな。
女は男を一晩中眺め、男は女のために危険を冒す。
教えてくれないか、そういうのただの旅の道連れって言うのか?」
どうにも分が悪い。
議論の展開で負けているのではなく、情報量に差がある。
デンケルにはわかっていて、僕にはわかっていないことがある。
「少なくとも僕はそう思ってますよ。
あなたがどう思うかはあなたの自由だ」
「議論から逃げるか、卑怯者め」
「それでカルハリに勝った。余計な詮索も避けられる」
「詮索ではない。助言だ。
俺はお前のおかげで妹を失わずにすんだ。
だからお前が彼女を失わないように助言している。等価交換だ」
「ありがとうございます。
でももう、寝床も食事も用意してもらってる」
「仕事もだ。今日の昼までには何とかしてやる」
「仕事も。これじゃもらいすぎです。等価じゃない」
「その通りだ。いま言ったこと、忘れるなよ」
ハイ負け。言質取られました。
僕がデンケルに借りがあることくらいわかりきっているのに、
わざわざ口に出して言わせるのがいやらしい。
なにが等価交換だ、こういうのを悪辣って言うんだ。
音楽が耳に戻ってきて、デンケルは僕との
会話なんかなかったみたいに書類の文字列に戻っていった。
これ以上はここにいても仕方ないので僕は席を立つ。
「フラウによろしく」
他にやることがないときはフラウに会いに行くと思われている。
デンケルだけでなく、リンケルにも近所の人にもだ。
僕が一人で歩いていると
必ずと言っていいほどフラウはどうしたと聞いてくる。
しばらく雨が続いて、今日は久しぶりの快晴だ。
川の増水で河川敷に溢れたゴミの掃除や雨上がりの市で、
多くの人が出歩いている。
顔なじみになった人もいる。
あのつたないクレイアニメを喜んでくれた人もいる。
笑顔で挨拶を交わし、軽く天気の話。
そして早速、フラウはどうした?
僕は肩をすくめてさあ、と素っ気なく言う。
朝早くからどこか行ったみたいですよ。
挨拶をして別れたあとも僕は笑顔のまま歩く。
彼らはフラウが一人のとき、
バーナムはどうしたと聞くのだろうか?
たぶん聞かないだろうな。
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