第十五話 火の神様、祝杯をあげる

 祝杯をあげようと言い出したのはフラウのほうだ。


 試合に勝ったのに落ち込んでいる僕を

 元気づけようとしたのか、

 ただ自分が飲みたかっただけなのかはわからないけれど。


 紹介された医者はやや高齢だったものの治療は丁寧だった。


 腕や肩の骨に異常がないかを触診で確かめ、

 カルハリの拳を受けた腕には打ち身に効くという

 硫黄みたいな匂いのする軟膏をたっぷり塗って

 ガーゼと包帯を巻いてくれた。


 僕たちは焼け落ちた尖塔の近くにあった酒場に舞い戻り、

 店主には追い返されそうになったが、金を見せたら歓迎してくれた。


 店内の壁際に二人掛けのテーブルまで用意してくれて

 注文した酒は瓶ごと置いて行った。


「どうやってあいつを倒したかは、あえて聞かないでおく。

だが、ここでは二度と試合はさせない」


 何が気に入ったのか、フラウは審判をしていたチョッキの男の

 別れ際の言葉と顔をまねして一人で笑っている。


 もう酔っぱらっているのかもしれない。

 色が薄い酒は強いと師匠が言っていたが、

 彼女が飲んでいる酒は無色透明だ。


 フラウは楽しそうだが、僕はそうでもなかった。


 背中が痙攣するみたいに痛くて

 背筋を伸ばすと息ができないし、

 顎の付け根も蝶番が緩んでしまったみたいに動かしにくかった。


 殴られてもいないとこばかり痛い。


 酢漬けのキャベツと臭いニシンをちょっとずつ齧りながら

 酒をすすっていると一気に年老いた気分になれる。


「さて、金も手に入ったことだし、

これからのことを話そうじゃないか。

そもそも君は何のために旅をしてるんだい?」


「ああ、そんなことも話してませんでしたっけ?」


 喋るのつらいんだよな、一人で喋っててくれないかな。


「そうだねえ。私も意外だよ、

君のことならなんでも知ってるみたいな気分だったから。

いい機会だ、

勝利と酒の酔いに任せてお互いに聞きたいことを聞こうじゃないか。

どうだい?」


「いいですよ。

まずは僕が何のために旅しているか、ですか?」


「私に出会うためだね」


「じゃあ、それでいいです」


「おっとすまない、これは旅じゃなくて人生の目的だね」


「厄介だなあ。前にも言ったけど、

ランゲンという街で統一国家党に嫌気が差したんです。

それでここ、ブルンナゴを経由して

さらに南のアフラムまで行くつもりです」


「アフラム……なんて素敵な国の名前だ。

それはどこだい?」


「南だって言ったぞ、ちゃんと聞いてんのか」


「ときどき辛らつになるの、いいね」


「どうも。アフラムっていうのは確かにアフラが由来です。

『聖なる炎』みたいな意味だったかと」


「私の火だ。もはや国全体が私のものと言っていい。

決めた、私もアフラムに行こう。

そこなら私の信者がいっぱいいる」


「そんな軽率に決めていいんですか?

フラウこそ僕と会う前は何してたんです?」


「眠っていたよ。

目が覚めて、おかしいなと思ってぶらぶら歩いていたら君と会った。

ちょっと運命的すぎるかな?」


「野良犬に噛まれた気分です。

えと、どこで目覚めたか覚えてますか?

そこがフラウの住んでいる場所……ですよね」


「だからそんなものはないと言っただろ。

祠だよ。私を祀った祠。

すっかり廃墟になって、火も消えてしまっていたがね」


「火?」


「マーダシュ・ワフラム。最上位の火。

消してはならない火だ。

本来、その火が消えるのはフラーショ・クルティのはずなんだよ」


「フラ……なに? どこの言葉?」


「知らんよ。名前を付けたのは私じゃない。

簡単に言うと、世界の終わり。

人も神も死に絶えた後、世界を焼き払うのが私の役目だ」


 やっぱりだ。

 完全に酔っぱらってる。


 フラウの言っていることは黙示録の内容に似ているから、

 誰かに読んで聞かせてもらったのだろう。


 誰も知らない言語は悪魔に取りつかれた人間がよく口にする。

 彼女の場合は古代神の贈り物か。


 そうに決まってる。


 テーブルに並んだ料理にはほとんど手を付けず、

 酒ばかり飲んでいるフラウの顔を見つめる。


 酒を口の中に留め、首を軽く反らせて一息で飲み干し、

 微かに開いた唇から艶やかな吐息を漏らす。


 断じて見とれているわけではない。

 考えないようにしているだけだ。


 逆に考えたら、

 フラウが目覚めたということは

 世界が終わろうとしていることにならないか?


 考えてしまった。

 酔っているのは僕か?

 酒の味がしないし、足元で地面が揺れている感じがする。


「フラウは、僕がいても世界を焼き払うんですか?」


「まさか。人が一人でも生きている間は私の出番はない。

だから驚いているんだよ、なんで目覚めたんだろうって」


 僕は何を聞いているんだろう。

 彼女に世界を焼き払うことなんて、できるはずもないのに。


 人が一人でも生きている間は、と彼女が言って、

 その一人は僕じゃなくてもいいってことに

 がっかりする必要なんかないのに。


「わかりました。

なんだかよくわからないけど、わかりましたよ。

とりあえずアフラムまでは一緒ということで、僕たちの旅路に乾杯」


 わざとろれつが回っていないみたいに言って

 僕がグラスを差し出しても、

 彼女は自分のグラスを軽く持ち上げるだけで合わせてはくれない。


 グラスの縁から、僕が隠した嘘とごまかしを覗き込んでいる。


「聞かなくていいのかい? あの夜のこと」


 時間が経てばあの夜の出来事の印象も薄れ、

 何かの見間違いだと思えるようになると考えていた。


 でも今、彼女の語る世界の終わりが

 あの夜の記憶をより鮮明にして、現在と結びつこうとしている。


「どうせ、ちゃんと答えてはくれないでしょ」


「どうせってなんだい?

今まで嘘をついてきたのはどちらかといえば君のほうだろう。

私は嘘もごまかしもなしだ。

酔ってるときにそんな面倒なことできない」


 そんな酔っ払いの冗談に僕は真顔になってしまっている。

 唾を飲み込みそうになったけど

 緊張してるのを知られたくなくて、酒をあおった。


 考えすぎだ。話半分で聞けばいい。


「じゃあ、あの夜のこと、世界の終わりと関係あるんですか?」


「ある、と私は考えているよ。少しだが、あれの気配も感じた」


「気配……ね。きっと人じゃないんでしょうね」


「そうだねえ。あれはダエーワ。悪魔といったところかな」


「機関砲で撃ってきましたよ。

最新の兵器ですよ。悪魔、最先端だ」


「キカンホウっていうのか、あの火遊び。

あいつは直接こっちに干渉できないものだから

ダエーワを使って人を操るんだ。実に面倒なやつさ」


「操られた人はどうなるんです?

当てましょうか? きっとあなたを見たら踊り出すんだ」


「やがて人でなくなる。

その前に殺してあげたほうがいいだろうね」


 僕は首を振る。


 どうしてそうなっちゃうんだ。

 彼女の口から聞きたいのはこんな話じゃない。


 妖精が去っていった常春の国からやってきたとか、

 古代の英雄が傷を癒す孤島を支配する女王の化身だとか、

 そういう話なら信じてもよかったのに。


「そんな顔するな。

もう君をあんな目にあわせたりはしない。

次はもっと素早く、周囲に影響を与えないで殺して──」


 僕は酔っぱらってる。

 テーブルを叩いて立ち上がっていた。


 フラウは驚いて僕を見上げ、言葉と酒を飲み込む。


 周囲で騒いでいた他の客が僕たちに視線を送り、

 その神聖なものを穢したことを咎めるような目に、

 僕は怒鳴り声を喉の奥に押し戻した。


 殺すなんて言わないで。


 そう思うのは、僕のわがままなのか。


「すみません、ちょっとふらついて。

もう帰りませんか? ハードな試合だったし、休みたいんです」


 フラウは目を閉じて微笑み、

 名残惜しそうにグラスをテーブルに置いた。


「そうか。

疲れている君につまらない話をしてしまったね。

酒の席でのほんの冗談だ、忘れてくれ」


 本当に忘れてほしいならあなたこそ、そんな顔をしないで。


 何度も期待して、失望して、諦めて、

 願うことすらやめてしまった寂しい笑顔をどうして忘れられる?


 酒場を出て、僕の後ろを歩く彼女の足取りは

 眠りにつかせた幼子の側を歩くように静かで、

 いつの間にか消えてしまいそうだ。


 僕は足を止め、

 路地を歩く足音が聞こえなくなる前に彼女の手を掴んだ。


 信じられなくても、信じたくなくても、

 今日の会話をあの寂しい笑顔と一緒に思い出して後悔したくはない。


 彼女が鼻で笑ったような音が聞こえたが、

 つないだ手を弱々しく握り返してくる。

 ためらいがちに指先を絡めて。


 黙って夜の街を歩きながら、僕たちは互いを知るための努力が

 どこに迷い込んだのかを考えている。


 

 いつか、触れ合った手の体温が同じになっていくみたいに、

 僕の思い描くフラウと本当のフラウが近づいていくといい。



 それまでに、世界が終わらなければ。

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