第十四話 火の神様、幻影術士に賭ける3

 緩く張ったロープの輪の中で僕は身長差20cm以上、

 体重は倍以上あるだろう相手と向き合っている。


 改めて見ると熊みたいな男で、

 腕の太さも胴の太さも大人の二人分はある。

 頭の位置も高く、簡単には狙いにいけない。


 僕は輪の外側で、長テーブルの上に

 貴金属や懐中時計と一緒に並んで座っているフラウに目を向ける。


 彼女の値段でひと悶着あったものの

 今は落ち着いて僕に向かって呑気に手を振っていた。


 自分の置かれている状況がわかっているのだろうか?


 僕が相手を一撃で昏倒させる力を手に入れたからと言って

 必ず勝てるとも限らないのに。


「金玉と目玉はなし、掴む、投げるも禁止だ。

おい、聞いてるか、坊主」


 僕はうなずいて拳を打ち合わせる。


 審判はチョッキの男。

 カルハリに対して決して好感は抱いていないから、

 不公平な扱いはないはず。


 カルハリはしっかりと身体を温め、試合が始まる前から顎を引き、

 下から睨むような視線を僕に向けている。


 本当に他人を傷つけるのが好きなんだな。

 舐めきって締まりのない顔でもしててくれればやりやすいのに。


「おい、幻影術も禁止だろ。

おかしなことをしやがったらその時点で袋叩きだ」


「そうだな。坊主、そういうのもナシだ。

袋叩きじゃなくて俺が止める」


「殴り合いしながら使えるわけないでしょ。

僕は準備いいですよ」


 カルハリも黙って構える。


 かかとまでしっかり地面につけて背筋を伸ばし、両拳は肩の高さ。


 典型的なアップライトスタンド。

 正面から殴り合うことしか想定していない、男の中の男だ。


「はじめ」


 開始の合図と同時に僕は飛び出す。


 小さいほうが様子を見たって相手のいいように殴られて終わりだ。

 とにかく動いてかく乱。

 チビは人生の初期でだいたい学ぶ。


 身体が軽い。


 心臓が機械式のエンジンみたいに唸っていて

 自分の血流の音がうるさい。


 視野が狭まっているのに、

 視界の外で起きたことがちゃんとわかっていて

 野次の一つ一つを聞き分けることさえできる。


 覚えている。

 妹が背後にいるとき、彼女を守らなきゃって思ったとき

 僕はいつもこうだった。


 カルハリは動かず、迎撃の構え。


 素早い相手に自分から前に出ても距離の目測を見誤るだけ。

 正しい判断だ。

 カルハリが拳闘慣れしていてよかった。


 カルハリは自分の腕の届く範囲に僕が入るより早く

 拳を打ち下ろしてくる。


 馬鹿どもが。

 お前たちに幻影術の何がわかる。


 幻影術士は息をするように幻を操るものだ。


 僕は自分の顔の少し前に幻の顔を浮き出させている。

 頭を腕で守っているから周囲からは見られず

 正面のカルハリには実際の顔の位置より近くに見えている。


 カルハリの拳が僕の顔面を撃ち抜いたはずが空振り。


 体重を乗せた大ぶりの一撃はカルハリの上体を前へと流し、

 腕の引き戻しも遅い。


 容易に腕をかいくぐり密着に成功。

 カルハリのつま先を踏んでおくことも忘れない。


 よくある事故ですゴメンナサイ。


 そのままわき腹とみぞおちに左右のフックの連打。


 わき腹には手ごたえがあるが、みぞおちはさっぱりだ。

 牛とか馬とか大きな動物の背中を叩く感触だ。


 それでも少しカルハリの頭が下がったタイミングで

 飛び上がるように背筋を伸ばして

 後頭部でカルハリの顎を打ち上げた。


 一方的に殴り殺すつもりだった小動物の

 反則まみれの奇襲で牙を突き立てられた。


 カルハリみたいな男は自分の痛みには過剰に反応する。

 憤らないはずがない。


 僕を殴るふりをして首の後ろを押さえ、

 ガードのために上げた腕の肘を肩にねじ込んでくる。


 定番の反則。反則には反則。幼稚な反応。


「つかんでんじゃねえか、審判、さっさと引き離せ」


 フラウの声はよく聞こえるな。

 反則を指摘するタイミングもいい。


 でもなんで周りのおっさんと同じ口調なってるの?


 僕はカルハリを押しのけようと彼の顔に手を当てる。

 削って尖らせた親指の爪を瞼に押し付けて。


 審判が僕たちを引き離そうと割って入るのに合わせて

 スッと指を引く。

 練習したんだ。

 薄い紙くらいなら切れる。


 僕をいかさま野郎と呼んだな?


 その通りだ、カルハリ。

 ありったけのいかさまを見せてやる。


「待ってくれ、出血だ」


 僕は腕を広げて試合を中断する。

 審判がカルハリの瞼からの出血を見ている間、

 僕は肩と首の後ろを揉んで深呼吸する。


 あのままだと腕も首ももぎ取られてたな。


「そんなんじゃ試合できないだろ、今日はやめにしよう」


 ていうのを僕から提案するのが大事だ。


 子供相手に多少の出血を心配されて

 試合を中止になんてできるわけがない。

 カルハリは男の中の男だもんな。


「ふざけるな、こんなもん怪我に入るか」


 客たちの大半がカルハリに同意して僕を罵倒する。


 別に味方になってくれなくていい。

 興奮して、熱を発して舞台を温めてくれればいい。


 汗だ。


 僕の額から流れた汗が頬を伝って顎から落ちる。


 カルハリは僕よりもっと汗をかいている。

 汗は瞼の傷に流れ込んで血が固まるのを妨げる。

 これでカルハリの左目は潰れたも同然。


 試合が再開されると僕は徹底して血で見えていない

 左目のほうへ回り込む。


 そうすればカルハリは身体を回して僕を視界に捉え、

 それから拳を打ち出すしかなくなる。


 大振りで体力の消耗も激しく、

 僕の速さなら腹に打ち込んでから逃げられる。


 踏み込んで有効打を狙うつもりは最初からない。

 ただ一方的に殴られているというストレスをカルハリに与え、

 そうとしか見えない観客から野次を誘発するための打撃だ。


 こんなの拳闘じゃない、ただの鬼ごっこ。


「効かねえぞ、そんなヘボ拳打。もっとしっかり打ってこい」


 嫌だね。


 身体が追いつかないから口を動かすしかなくなる。

 このまま時間をかけて体力を奪い、

 背後に回り込めるくらい動きが鈍ったら後頭部に一撃を加える。


 それまではカルハリがやみくもに振り回した腕に

 当たらないように気を付けるだけ。


 順調。


 髪を引っ張られ、頭がのけ反る。

 動き続けることでしか優位を保てない、僕の足が止まる。


 見えていない僕に向かってやたらと腕を振り回してくるなと思ったら、

 仲間のほうへ誘導されていた。

 観客に混じったカルハリの仲間が僕の髪をつかんでいる。


 間に合わない。


 カルハリの岩の塊のような拳が飛んでくる。


 僕は顔の前で両腕を閉じ、額をしっかりと押し付ける。

 腕、首、肩、背中の筋肉を一塊にして耐える。


 高いところから地面に叩きつけられた。

 そんな衝撃だった。


 腕に当たったカルハリの拳は僕の全身を吹き飛ばし、

 ガードした腕が顔面を強打して鼻が焼けた。


 耳を叩く歓声が痛くて、カルハリの追撃かと思った。

 自分でもどこに向いているのかわからない目が

 飛び散る血の一滴を無意味に追いかける。


 どちらにもたいして有効打がない、退屈な試合だった。

 だから僕が思い切り殴られて観客が沸くのはわかる。


 でもね、フラウ、なんであなたまで

 テーブルの上に立って喝采を上げてるんですか?


 僕が殴られてそんなに嬉しいですか?

 退屈で勝負がどうでもよくなっちゃったんですか?


 本当にどうしようもない、移り気な女神さまだ。


 僕は頭がおかしい。


 強烈な一撃をもらって、腕の感覚がなくなって

 もう一度殴られたら死んでしまうかもしれないのに、

 彼女が笑うと、僕も笑っている。


 構わない、笑えって思う。


 自分から大きく後ろに吹き飛んで、

 僕の髪を掴んでいる男の顔面に後頭部を突っ込ませ、

 そのまま一緒に倒れる。


 他の客の足元を無様に這いずり、

 鼻血を唾と一緒に吐き出しながらカルハリの位置を探る。


 身体が重い。

 手足に力が入らない。


 立ち上がるだけなのに垂直の壁を登っているみたいだ。


 顔面に硬い板か何かが押し付けられているような感覚が消えない。

 あとどのくらいだ?

 僕がまともに立っていられる時間は。


 カルハリに向かって客を突き飛ばし、

 その後ろから脇をすり抜けて輪の中に戻る。


 審判は試合を止めようとしているが、カルハリはもちろん、

 観客も誰も聞いていない。


 僕もだ。

 試合を止めるな。


 僕が突き飛ばした客をカルハリが殴って押し戻し、

 興奮した観客たちが輪を崩すと審判が下がれと叫んでいる。


 そんな混乱の中から僕が飛び出す。


 血で片目を塞がれてから初めて、

 カルハリのクリアな右目の視界に僕が入る。


 ここで決めてしまいたい。

 カルハリはそう考える。

 僕に動き回られる前に、一撃のダメージが残っているうちに。


 捕まえにくる。

 さっきみたいに動きを封じて殴るのが確実。


 掴もうとするのは殴るよりずっと遅い動きだ。

 今の僕の集中力なら止まって見える。


 瞬時に方向転換し、

 カルハリが捕まえに来た腕を遡って彼の肩に手を置いた。


 肩に置いた手を支点に僕は飛び上がる。


 左手に熱を溜めるイメージなんか必要ない。

 僕の血も、空気も、フラウの叫び声も、全部が火みたいに熱い。


 フラウの期待には応えられないけど一応、心の中で叫んでおこう。


 女神の酩酊。


 当たり自体は強くない。

 腕も肩も油が切れたブリキみたいに軋んでいる。


 でも、カルハリの耳を打った拳からは確かに熱が、

 髪や皮膚の焦げる臭いが微かに漂うくらいの熱が放出されていた。


 倒れるというより、骨のない生き物が

 上から圧し潰されるみたいにカルハリは僕の足元で小さくなった。


 眼球が高速で動き、鼻血が垂れ、

 口の端からは泡立った唾液が零れるのを見て、

 審判が即座に医者を呼んだ。


 初老の医者は駆けつけるなり首を振り、すぐに手伝いの男たちを呼ぶ。


 四人がかりでカルハリが運ばれていくと

 さっきまでの熱狂が嘘だったみたいに観客たちは散らばり、

 ときどき僕のほうを見ながら何事かを囁きあっている。


 試合に勝っても扱いは同じだ。

 侮蔑が畏怖にすり替わっただけだ。


 審判はカルハリのあとで診てもらえと言って

 賭けの清算に行ってしまった。


 僕は自分の影とバンテージを巻いたままの手を見つめて、

 急速に冷めていく頭と体で、

 知らない場所で目覚めたみたいな孤独に耐えなくちゃいけない。


 勝つってこんなだっけ? 


 僕に賭けて儲かった客でさえ僕を称えない。


 インチキをいっぱいしたからか。

 そうじゃなければどうやってあんな大男を倒せるっていうんだ。

 それとも、僕が負ければよかったのか。

 僕が殴り殺されれば。


 鼻血で息が苦しくて、頭が重くて立っているのもつらい。

 試合は終わったし、僕が立っていなきゃならない理由もない。


 この場で倒れてしまおうか。

 敗者みたいに横たわっていれば誰かねぎらってくれるかもしれない。


 身体から力が抜けるのと、

 背後から柔らかな感触が僕を包み込むのは同時だ。


 フラウが背後から抱きしめ、

 血と泥で汚れた僕の横顔に自分の頬をつける。


「よくがんばったね。素晴らしい闘いだったよ」


「そう思ってる人はあまりいないみたいですよ」


「私が素晴らしいと言ってるんだ。それじゃあ不満かい?」


「いえ」


 彼女の声を聞き、彼女に触れられると途端に手が震えてくる。


 軽く殴っただけでカルハリが泥の人形みたいに

 崩れてしまった感触が消えない。


 みんなが恐れて当然なんだ。

 あんな、魔術みたいなこと。


「死にはしないよ。

ちょっと熱がこもりすぎただけさ、言葉通りの意味でね」


「殴られたら死ぬかもしれないっていうのと

同じくらい怖いんですね。

殴ったら相手が死ぬかもしれないって」


「君がそう思う人間でなかったら、その力を与えたりしないよ。

胸を張れ。君は私の期待に見事に応えた」


「期待、ね。

僕が殴られたとき、歓声をあげてませんでした?」


「あれは、ほら、私のために

君が血を流して闘うのを見て興奮したっていうか……

……いや君、あの瞬間に私を見てたのかい?

余裕すぎないか?」


 急に僕の横顔から頬を離して小声になった。


 言い訳が下手だ。

 僕が殴られて歓声をあげたこと、なにも否定できていない。

 きっと彼女は自分の本心に背いたりしないんだ。


 僕みたいには。


 だからこそフラウが僕を抱きしめるとき、

 それは純粋な優しさに満ち、

 僕が孤独を感じたときには迷いなく血と汗の臭いの中に飛び込める。


 僕が彼女のために闘ったというなら、それでいいじゃないか。


 そう思うことで、

 金なんか関係なくこの試合が報われた気がするから。

 この場で僕がしたことの全てを一言にするならこういうことだ。


 僕は血を流して、

 彼女を喜ばせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る