第十二話 火の神様、幻影術士に賭ける1
ひさしぶりにゆっくりと昼食を楽しんだ。
ソーセージとマッシュポテト、
チーズをのせてカリッと焼き上げたパン、
温かい昼食こそがトラーン人の活力だ。
街を散策していくつか夜の目星をつけ、
移民用の一時滞在所に二人分の寝床を確保した後、
荷物を置いて焼け落ちた尖塔に向かった。
もちろん僕はフラウに収益を期待していなかった。
リンケルを助けたのは愚かだったが、
フラウに金を稼ぐ能力があると思うのに比べたらささやかなものだ。
だから尖塔の下で待つ彼女の服が変わっていることで
激しく動揺してしまい、角の酒場の樽に隠れてしばらく観察していた。
偽物かもしれない。
上から順に見ていこう。
男物のまっさらな木綿のシャツは袖が肘まで折り返され、
彼女がそうすると、そういうふうに着るデザインに見える。
カーキ色のズボンはウエストが合っていないからズボン吊りで留め、
背中の交差したストラップが彼女の薄い背中を
秘密の扉のように装飾している。
足が長すぎてズボンがくるぶしまでしか届いていないが、
そのおかげで僕の買った足首まで覆う靴がシルエットを引き締める。
髪型も変わっていた。
細い三つ編みにした髪が両肩から前に垂らされ、
それを退屈そうに指に絡めているフラウは近寄りがたい雰囲気だ。
でも、彫像が息をしているかのような非人間的な美しさもあって、
多くの人が彼女を遠巻きにしている。
どうしよう、話しかけられない。
僕は樽につかまってうつむき、この衆目の中、
僕みたいなみすぼらしい子供が彼女に話しかけることの
敷居の高さに打ちのめされていた。
身なりさえまともになってしまえば明らかに住む世界が違う。
そもそも彼女が自分で稼げるなら僕と一緒にいる意味ってなんだ?
つまりはそういうことじゃないのか?
フラウは僕に金を返し、簡潔に別れを告げるのでは?
服は自分で用意できるから大丈夫、
君はもういいよ、今までありがとう、指輪は返してね。
樽に頭突きする。
当然のように二人分の宿を用意してきた自分が
急に恥ずかしくなって顔を手で覆った。
「フラウは、なんで僕と一緒に来たんだ」
「君が面白いからだね」
「面白いですか、僕?」
「今なんて特にね。何をしてるんだい、さっきからコソコソと」
声が上から降ってくる。
顔を上げるとフラウが樽に肘をついて僕を覗き込んでいた。
僕は彼女を見上げて言い訳を考え、何も思いつかず、口だけ開けている。
バカみたいだ。
「す……素敵だなあって」
「わかりきったことを言うな、バカにしか見えないぞ」
褒めがいがない。
差し出された彼女の手を取って立ち上がり、深呼吸する。
さて、どうする?
用済みを宣告される前にこっちから指輪を返すか?
「この服はもらったんだよ。
君と別れた後、面倒だからその辺の連中に
片端から祝福を与えていたんだがね、誰も金をよこさない。
ただ、孫が戦場に行ったという老夫婦だけが喜んでね、
若い娘がそんな恰好をしていちゃいけないと服をくれた。
家に寄ったらお茶とお菓子もくれた。だが、金だけはくれない」
僕の葛藤になど気づきもせず、
フラウは親切にしてくれた老夫婦に不満を募らせていく。
なんて罰当たりな神様だ。
「お金を品がないと思う人もいるんですよ。
神様への供物に現金ってありですか?」
「ない。お菓子がいい」
「ならその老夫婦に感謝しないと」
「孫のぶんも祝福してやったよ。
顔も知らんが、まあ死ぬようなことはあるまい。まだ死んでいなければね」
金がなければ旅は続けられないのに、
彼女が金を稼げなかったことに僕は安堵している。
その理由を考えないようにしていたのに、
僕の手は勝手に指輪を触っている。
フラウは目を細め、少し寂しそうに僕の手を見下ろしていた。
「外そうか、それ」
「いやこれ、結構きつくて、油とかないと取れないかも」
「外せるよ。君がそう望むなら、簡単にね」
静かで落ち着いた大人の声。
諭すような言い方。
まるで僕がそのやり方をすでに知っているかのようにうなずき、
樽の蓋を人差し指でコツコツと叩く。
手を乗せろということらしい。
指輪を失うことは繋がりを失うことだと感じながら、
思い出を懐かしむような眼に引き寄せられ、
僕は彼女の思い出の中にいる人と同じように、
たぶんそうするしかなくて、左手を差し出していた。
フラウが僕の手を掴んで指輪を力任せに引っ張る。
「痛い、いった、ったい、たい、やめろ」
僕が全身を使ってフラウの手を振り払うと、
彼女は樽を叩いて笑った。
さっきまでの落ち着いた雰囲気は消え、
尊大なくせに幼稚ないつものフラウの笑い方だ。
「なんだ、くっついてるみたいに外れないじゃないか。
重い空気を出すから別れ話かと思ったよ」
「もともとそんな話をする間柄じゃない。僕は一度だって──」
「わかったわかった、くだらん建前は樽の中にでも叫ぶといい。
おい、そこの君、何でもいいから強い酒を持ってきてくれ。
準備中? ハハ、そんなに畏まるな。
そのへんの酔いどれに接するようにしてくれればいい」
そのへんの酔いどれより厄介だ。
しかも金も持ってない。
急に上機嫌になったし、
僕が懸念していたような展開にはならなかったからいいけど。
薄汚れたエプロンをした店主らしき男は不機嫌さを隠さずに
ショットグラスを二つ樽に叩きつけ、金が先だと言った。
僕が手持ちの硬貨を樽の上に並べると、
琥珀色の酒を注いでから二枚を手に取る。
「新婚なんだ」
いたずらっぽく微笑むフラウを直視できず、
店主は僕に怒りと疑いを全部向ける。
いやそんな目で見られても困る。
僕が指輪を見せると、怒りのほうが若干大きくなった気がする。
それでも硬貨を一枚、戻してくれたから見た目より優しい。
「それでお金は全部かい?」
フラウと僕はグラスを軽く持ち上げ、一息で飲みほす。
十代前半で酒を覚えたのは悪癖と言える。
でも、師匠も悪癖を持っていたから、
おそらく立派な幻影術士には必要な悪癖なのだ。
「差し当たっては。今日明日の食費ってとこです」
「あんなに嫌がってたニュースをやって、それだけ?
君が私のために心を痛めながらニュースを
上映する姿を想像するのは気持ちいいが、ちょっと心配になるね」
「情緒、死んでます?
心配してもらってなんですけど、ニュースはやってません」
「どうして?」
僕はうずくまって泣くリンケルの絞り出すような声に、
目を閉じて耐える。もう二度と、あんな声を出させる側に立ちたくない。
「もっと楽に稼げるからです」
「ほう、構わない。やってみたまえ」
新しい芸を披露する子犬を愛でるかのような鷹揚な口ぶり。
実際、彼女の中で僕ってどういう認識なんだろう。
夫婦というのは当然からかっているだけで──
考えても仕方ない。
僕をどう思うかは彼女の問題であって僕の問題ではないから。
僕は硬貨を集めてポケットに収め、フラウについてくるように促す。
彼女は未練がましくショットグラスのふちを指でなぞっていたが、
もちろん無視だ。これ以上、酒に使える金はない。
「こういう荒っぽい男たちが集まる街にはたいてい、
一つや二つはあるんですよ」
「娼館?」
「そ……れもあるけど、僕が言ってるのは違います」
「私に遠慮しなくていいから行っておいで。
君は若いんだ、発散も必要だよ。
性病なら気にしなくていい。だいたいは私が焼ける」
「違うって言ってんだろ。拳闘だよ、拳闘の賭け試合」
「賭博か。破滅の美学だね」
「失敗前提で、なんで嬉しそうなんだよ。
僕だって賭けで大儲けできるなんて思ってません。
闘士として出場するんですよ」
「誰が?」
「僕が」
フラウは鼻で笑って僕の肩を拳で叩く。
意外と重くて僕が簡単にふらつくと勝ち誇った顔で拳を見せつける。
やる気満々の猫みたいだ。次に何を言うかまでわかる。
「やめておくんだね。かわいい顔が台無しになる。
そんな貧弱な身体で闘うくらいなら、
私が出たほうがいいとまでは言わないが」
「言ってます。
そのかわいい顔のせいで孤児院ではさんざん殴られましたからね、
幻影術より先に拳闘を学びましたよ。
こう見えてテクニックと持久力はあるんです」
「テクニックと持久力。
いいね、理想的じゃないか。
力任せで独りよがりの男なんかよりずっといいよ」
「拳闘の話ですよね?」
「もちろんだ。
それで、テクニックと持久力に優れたブリタニクス君は
どうやって私を楽しませてくれるのかな」
「バーナムです。わざと間違ってますよね。
賭け試合ではそこそこうまいよそ者は主催者が歓迎してくれる。
二、三回勝たせて客に期待を持たせてから
人気株との試合を組ませるんです」
「そこで君が勝って新たな花形になるというわけか。
かっこいいじゃないか、ぜひやりたまえ。加護はいるかい?」
「話、聞いてました? 負けるんですよ。
博打好きっていうのはね『もしかしたら』の誘惑に勝てない。
だから僕に賭ける」
「それじゃ八百長じゃないか」
「具体的な取引があるわけじゃないから、違います。
どっちにしろ勝てる相手じゃないんだ。
大事なのはどう勝つかじゃなく、どう負けるかですよ。
僕がやるのは拳闘ではなくビジネスですから」
「君にはがっかりだよ、敗北主義者め」
「そういうの、どこで覚えてくるんです?」
リンケルと出会った川辺から近い、
かつての干し草市場が最初に目星をつけた場所で、
行ってみたらすでに人が集まり始めていた。
厩舎にも使えそうな広い倉庫の中央に、
杭を打ってロープで囲っただけの闘技場が準備されている。
試合の組み合わせをボードに書き出し、
側の長テーブルで賭けた相手と金額に応じたトークンを受け取る仕組み。
お馴染みのシステムだ。
エントリーについては、ボードの前に立っている
チョッキにハンティング帽の男と直接交渉。
仕切っているのはリンケルの兄だと言っていたが、
見た限りではシリ人は一人もいない。
客層は採掘労働者を中心とした男性が多く、
女性の姿はほとんどない。いいことだ。
あまり上品だと僕みたいなウサギが血まみれになるショーを喜ばないから。
僕は外で待たせていたフラウのもとに戻り、持ち金を預ける。
「自分には賭けられるけど、相手には賭けられません。
ですから、人気株が出てきたらフラウが相手に全額、賭けてください。
それまでは僕に賭けて元手を増やして」
「そんなのわかるかな。私は君しか見ないだろうしね」
「強そうなのが出てきて会場が沸いたらそれが合図です」
「本当に勝たなくていいのかい? 私の加護があれば君の細腕でも──」
「相手に、賭けて」
僕が指を突き付けると、
フラウはちょっと不機嫌そうに唇を歪めたけど、
一応は了承してポケットに金を入れた。
「じゃあ、頼みましたよ。あとこれも持っていてください」
シルクハットを差し出すと、
親に褒められる子供みたいに嬉しそうに頭を下げてくる。
気に入っているみたいだ。
こんなもの被っていたら目立つだろうが、
フラウの場合、顔が見えているほうが目立つ。
シルクハットの角度を変えながら誰に見せるでもないのに
ポーズを取っているフラウを残し、僕は先に倉庫に入る。
「ああ、そうだ、ベルゲン君。言い忘れていたんだが……」
わざと名前を間違えているときは無視していいと思ったが、
ここに来て重要な情報が抜け落ちていたら計画が破綻する。
仕方なく振り向いてやると、
フラウは僕の心臓を射抜くみたいに指さした。
「私は君が一緒にいれば、金なんていらないよ」
僕は即座にフラウに背を向け、
歩きで出せる限界の速度で彼女から離れた。
彼女の顔を見られない。
今の僕の顔を見せられない。
そういうのは言い忘れたとかじゃなくて、言わなくていいんだよ。
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