第十一話 幻影術士、川原で語らう
鞄を取って戻ってきたときには少女はまだ泣いていた。
ブランケットをかけてあげると話ができるくらいには落ち着き、
ようやく互いに自己紹介ができた。
少女の名前はリンケル。十歳。
ブルンナゴで生まれたサリアのシリ人だ。
混血が進んだシリ人は肌の色から青みが抜けて
褐色に近くなっていくのだが、リンケルがまさにそれだ。
シリ人の婚姻に制限があるトラーン以外ではそのほうが多いくらいだ。
「前はこんなことなかったんだよ。
あの中にはね、仕事手伝ったらお小遣いくれた人だっていたよ。
トラーンの連中が来る前で、稼ぎは今より少なかったのにね」
頭からかぶったブランケットをきつく体に巻き付け、
リンケルは涙を堪えていた。
幅の狭い唇は上下とも中央でぷっくりと膨らんで、
犬みたいに鼻にしわを寄せている。
「トラーンは伝統的にシリ人に対して差別意識がある。
統国党が政権取ってからはひどいもんだよ」
「でも、バーナムもトラーンの人でしょ?」
「そうだね」
「助けてくれたじゃん」
僕は曖昧にうなずく。
うまくいかなかったときのことを考えるとまだ怖い。
何もできない、仕方ないと思っている自分も確かにいたから。
「あっちの門のほうじゃ、シリ人だって一緒に商売してたけどな」
「取り決めがあるんだよ。そこ以外じゃ全然ダメ。
ちょっとでも違反したらごらんの通り。これも前にはなかったけどね」
リンケルは大きく手を振って困った顔をしながらも笑っている。
動作が大きい。活発で少し生意気で、
そういう態度を周りに許される魅力を持った少女だ。
じっとしているのが苦手なのだろうか、
ブランケットの下でもぞもぞと身体を動かし始めている。
「今日はもう帰ったら?
稼げなかったぶんを取り戻そうなんて思わなくていいんだよ。
君が無事だっただけで利益は十分だ」
リンケルはびっくりして背筋を伸ばし、
僕の顔を凝視したあと唾をつけた指で僕の肌をこすった。
「なにすんだよ」
「いや、兄ちゃんとそっくりなこと言うから、
私の知らない兄弟なのかと思って。
肌の色、ごまかしてない? あと小さくない? 歳いくつ?」
「リンケルが追われてたのってそれじゃないの?」
「どれ?」
「無神経」
「また兄ちゃんと同じこと言った。すげえ、やっぱ兄弟だ」
「お兄さん、きっと君のことすごくすごく心配してるから
今すぐに、できれば走って帰って顔を見せてあげてね」
僕は彼女からブランケットをむしり取ろうとしたが、
強く引っ張り返されてしばらく奪い合いになる。
でも、リンケルがかなり本気になってきたから僕が放した。
「帰りたくない。今日のこと話したら兄ちゃん、すごい怒るもん」
まるで自分の匂いをつける犬みたいに
ブランケットに鼻をこすりつけている。
「お兄さん、怖い?」
「怖いくらい優しい。なんでも私が先。
ごはんも半分くらいくれる。おなか一杯だって言ってんのに、
私の言うこと聞かないの。
私だって兄ちゃんのために何かしたいのに、
そうするといつも怒られる……今日も」
お互いの好意がすれ違っている。
まるで懐中時計と綺麗な髪だ。
でもこういう時代だと、あんな美しい話にはならない。
「ちゃんと話し合うしかないだろうね。
お互いの気持ち、お互いのためにできること。
君の気持がわかっていれば、お兄さんだって怒らないよ」
「そんなことしてたら私はお婆ちゃんだよ。
兄ちゃんなんでも一人でやっちゃうもん。
頭いいし、みんなに頼られて、バーナムとそんなに違わないんだよ?
なのにさっき言った取り決めとか、
賭け事仕切ったりとか、任されてるんだよ?」
「賭け?」
「うん、夜にやるの、これ」
リンケルは両手の拳を交互に突き出す。
たぶん拳闘だ。
彼女は拳を胸に引き寄せ、
ため息をついてブランケットの中でしぼんでいく。
「一回、こっそり見に行って怒られたなあ。
ルインさんの人形持ってったときも怒られたし、
ああ、怒られてばっかりだ、私」
僕はブランケットの上から彼女の頭を乱暴に撫で、
彼女が怒って腕を振り回すと笑いながら叩かれる。
彼女が元気でいるだけで、その兄がどれだけ救われているか
リンケルは知らないだろう。
「僕にも妹がいるよ。こっちは僕が妹に頼ってばかりだけど」
「いいなあ、兄ちゃんもバーナムみたいに
ちょっと頼りないとこあるといいな」
「そんな頼りない僕でも妹を喜ばせるのは得意なのさ」
「どうやって?」
「ちゃんとありがとうって言う」
「そんなの私だっていつも言って……ない、かも」
記憶を探って呆然としたリンケルの隙をついて
今度こそブランケットを奪い返し、素早く折りたたむ。
「じゃあ、まずはそこからだ。心配ない。
完璧に見えるお兄さんも、そのうち完璧じゃないってわかる。
完璧じゃないってわかったら、
その完璧じゃないところをリンケルが補ってあげればいい」
「うん……うん、つまりどゆこと?」
「たくさん食べて大きくなって、よく学べってこと」
「結局、兄ちゃんと同じじゃん。役に立たないなあ」
聞こえないふりをして鞄にブランケットをしまっている間、
リンケルは唇を尖らせて川面を見つめていた。
自分を殺しかけた川に復讐でもしそうな顔だ。
でも、鞄の留め金をかける音が合図だったみたいに立ち上がると
土手を走って上がっていき、
登り切ったところで何かを思い出して、駆け降りてきた。
「あのさ、バーナム、助けてくれてありがと。
こんな感じでい?」
「完璧」
僕が右手を上げるとリンケルはすかさず右手を打ち合わせ、
手のひらの心地よい痺れが消える前に走り去った。
今のを本命相手に試すので頭が一杯だ。
砂色のチュニックが褐色の肌によく似合っていて、
走っていく背中がちょっと犬みたいでかわいい。
僕はのんきな観光客みたいに川辺を歩き、
サンザシ頭からスリ取った財布の中身を抜いて川に捨てた。
フラウの服くらい買えるだろう。それと僕の昼食。
サンザシ頭に胸ぐらをつかまれただけなのに、
今になって胸や首が痛くなってきた。
シャツも胸元のひだがちぎれかかっている。馬鹿力め。
後悔してる?
「してるよ、すごくしてる。
以前の僕ならぜったいにこんなことしない。
命がいくつあったって足りない」
誰もいないのに一人で喋っている。
不安をため込まず、紛らわすにはそうしたほうがいい。
たいして痛くもない胸を大げさにさすり、
誰かにアピールするみたいに顔をしかめて自分を罵倒する。
だけど痛みの内側には、リンケルを助けられた喜びと
別れた後のほんの少しの寂しさ、
今日ばかりは満たされることが約束された空腹しかない。
後悔はしてるけど、気分は悪くなかった。
僕は愚かだったけど、勇敢でもあった。
そう思うと、ほんの一歩か二歩くらいの距離だけど、
あの日から離れられた気がした。
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