第九話 火の神様、指輪を贈る

 アリシアは僕が殴られると、

 孤児院の裏手にある井戸に連れて行った。


 飲み水としては使われなくなったけど、

 畑にまいたり洗濯に使われていて、

 冷たい水に浸した布で僕の頬や頭を冷やしてくれた。


 看護師のように柔らかい命令口調で僕の頭を膝に乗せると、

 めまいがしないか、吐き気がしないかと尋ね、

 異常がないと孤児院から出た後の話をした。


 フォースクエアの花壇では

 チャリティーで配る花やハーブが育てられて、

 いつもいい匂いがして、

 季節の花の匂いがアリシアの匂いみたいに感じた。


 アリシアにとってはそれがとても大事な時間だったらしく、

 彼女は僕が殴られるのを期待してるんじゃないかと思ったほどだ。


「お兄ちゃんはバーナム一座を作って世界中を旅するんだよね?」


「ダサい呼び方やめろ。バーナム・ショーだって言ったろ」


「うん、それ、ショー。それってさ、私にもできることある?」


「ないよ、幻影術のショーだぞ。お前、使えないだろ」


「お兄ちゃんだって」


「才能はあるって言われた。すぐに師匠を見つける」


「どうだか。まず人の顔みて話せるようになれば?」


「それはお前ができるからいいよ」


「ふうん?

でもそれじゃ、私が一緒にいないとお兄ちゃん、何もできないね」


「一緒にいればいい」


「ショーでできることないのに?」


「ショーではね。それ以外はお前がいないと困る」


「ごめん、声小さい、もっかい言って?」


 ヘンに大人っぽく笑いながらアリシアは耳に手を添える。

 いつもそうだ。

 アリシアがいないと何もできないって

 僕の口から言わせるのが大好きだった。


 本当のことだとしても、

 さすがに何度も言うのは恥ずかしくて顔を横に向ける。


 いつもと少し違う、

 花弁を温めた油に浸したような広がりのある香りに、

 僕は彼女の太ももに鼻をつけた。


「アリシア……」


「なんだい?」


 声がぜんぜん違うだろ。

 太ももの厚みもだいぶ違うし、

 身体の下からくる微かな振動はなんだ?


 急に頭がさえてきて、横目で膝枕している相手の顔を確認する。


「ようやくお目覚めだね、旦那様」


 フラウだ。せっかくいい夢をみていたのに。


 舌打ちするのはさすがに失礼だから我慢して、

 起き上がろうとすると頭を軽く押さえられる。

 まだ起き上がらないほうがいいということか。


 彼女は胸に二か所、コイン大の穴の開いた外套を着ていて、

 膝の少し上から素足がむき出しになっている。


 そして僕は裾と肌の境目に鼻をつけ、

 川床で磨かれた石のように滑らかな膝に手を置いていた。


 見たときは筋肉がついているように見えたフラウの太ももは

 意外に柔らかく、頭をつけていると眠気が戻ってくる。


「やれやれ、また寝ちゃうのかい?

やっとでみんなに紹介できると思ったのに」


 みんな?


 僕は眠気に逆らって頭を起こし、薄闇に目を凝らす。


 車の荷台だ。

 細い金属の枠組みに幌が被せてある。

 幌の隙間から斜めに差し込む光は白く埃を浮かび上がらせていて、

 おそらくまだ午前中。


 友人同士といった二人の少女は

 互いの腕にしがみつきながら僕たちを見つめ、

 子連れの母親は子供達には見せないようにしながら

 自分はしっかり見てる。


 奥にいる男たちは猫の交尾でも見つけたみたいな

 いやらしい顔で笑っていた。


 移民のトラック。


 僕が跳ね起きると子連れの母親が豪快に笑い、

 他の人たちが僕たちをはやし立てながら祝福した。


「新婚なんだろ。恥ずかしがることないよ、ずっとくっついてな。

このご時世だ、後悔なんてしないようにね」


 左手に違和感を感じて顔の前に持ってくると、

 薬指にフラウの指輪がはめてあった。

 フラウは一つで二人分だと言わんばかりに手を重ねてくる。


「姉弟だと言ったんだが、ごまかしきれなくてね。

駆け落ちしたことまで話してしまったよ」


「それがごまかしてんだろ。あ、この指輪、外れねえ」


 少年らしい照れ隠しだとでも思ったか?

 トラックの中が笑い声でいっぱいになった。


 少女たちはフラウに駆け落ち話の続きをせがみ、

 男たちは僕にひどい味のビールを飲ませようと近づいてくる。

 道端で結婚式でもやってるのか。


 結局、ブルンナゴに到着するまでお祭り騒ぎは続き、

 街の入り口で降ろしてもらったときも

 大声で送り出してくれたものだから、周囲の耳目を集めた。


 おかげでブルンナゴ名所である外門をうつむいて通るはめになる。


 サリアは小国ながら昔から人と物流の中継点として利用され、

 さまざまな文化が混在している。


 そんな中でもブルンナゴはトラーン文化の影響を強く受け、

 街はシュタウフ帝国時代の塔を備えた外壁に囲まれていた。


 外壁はところどころ砲弾によって崩れ、

 内部に廃材を持ち込んで勝手に住み着いている連中もいた。


 僕たちは外壁の中や上からの視線を感じながら外門をくぐる。

 物資を積んだトラックや馬に引かせた荷車などが行き交い、

 歩行者のスペースは狭い。


 内門はずっと前に取り外され、トンネルのような外壁の下を抜けると、

 似ている街はないと言われるブルンナゴ独特の街並みが広がった。


 にらみ合うように

 二種類の建築様式が街路を挟んで向かい合っていた。


 一方には漆喰と木材を使った白塗りの画一的な建物が並び、

 一方には外壁と同じ石材を使った重厚で屋根の低い建物が、

 向きも大きさもバラバラに建っている。


 そこにトラーン軍が持ち込んだ街灯がそこかしこに設置され、

 軍用車両や銃を持った兵士が街角に急に現れたりして、

 落ち着ける場所などない。


 物珍しさに素直にはしゃげるフラウがうらやましい。


「これはすごいぞ、ベルナドット君、

どこだ、どこから回ればいい?」


「バーナムです。まず寝床と食事の確保でしょ」


「壁にいた連中は勝手に住んでるっぽかったぞ。

私たちもそうしたらどうだ?」


「ああいうのでもちゃんと管理してる人間がいて金も取られます。

フラウの服も何とかしなくちゃいけないし、

ああ、やっぱり仕事がいるな……」


 フラウはまるで聞いてない。

 兵士の連れている犬に触ろうとして怒られている彼女を見ながら、

 僕は昨夜のことを思い出している。


 夫婦ごっこのせいで聞くタイミングがなかったが、

 時間を置いて冷静になるほど、

 どう切り出せばいいのかわからなくなった。


 あの力は何なのか、誰が彼女を襲ったのか。

 その答えが返ってきたとして、

 僕のほうに受け入れられる自信はない。


 もし、こうなることを見越してあの夫婦ごっこを仕掛けたのだとしたら、

 フラウは意図して無邪気を装っている。


 何かを、僕から隠すために。


「ああ、昨夜のことなんだが、

説明が面倒だから時間のあるときでいいかい?」


 違った。


「ええ、まあ、差し当たって危険がないなら」


「安心したまえ。私の側にいて危険などあるものか」


 側にいたせいで死にかけたんだけどな。


 空爆で焼け落ちた教会の尖塔を指さして笑っているフラウの横顔を、

 僕は気づかれないように見つめ、

 アロルを冒涜する唇の動きを目で追っている。


 次から次へと興味の対象が移って、

 僕が答える間もなく矢継ぎばやに質問を繰り出す彼女の姿が、

 昨夜の彼女と重ならない。


 指先に火を集めてまばゆい光を放っているとき、

 彼女はまるで気分一つで

 世界を焼き尽くしてしまいそうな危険な存在に思えた。


 自分の考えにとらわれて

 ふと気づくとフラウがずいぶん離れてしまっている。


 トラーンに実効支配されてはいるものの、

 往来にはサリア人、トラーン人、シリ人が行き交い、

 トラーンの兵士相手にさえものを売ろうとするたくましさだ。


 フラウは珍しいものを見かけるとすぐに釣られる。

 ときどき手を引っ張らないといけない。じゃないと見失う。


「何か考えごとかい? 君はすぐに顔に出るね」


 引っ張ったつもりが引っ張られている。


 彼女に引き寄せられると

 身体が勝手に火に巻かれたような熱さと息苦しさを思い出して

 身を固くしてしまう。


 躓いて転びそうになったふりをしてごまかしたけど、

 気づかれただろうか。


「それなら、僕が何を考えてるかわかるでしょう」


「何を私に捧げるか、だね?

悩むな、手当たり次第でいい」


「金がない」


「なるほどね。

食べたいものがありすぎて、

早いとこその指輪を換金したいというわけだ。

食欲が第一とは、子供だね。

まあ付き合ってあげるから、さっさと売ろう」


「せめて僕のほう見て言ってください、

さっきから鯖サンドしか見てないくせに。

どっちが子供ですか」


「魚ってあんまり食べたことないんだ。水辺、嫌いで」


「ああ、そういえばバルナと仲悪いんでしたっけ、アフラって」


 確か、アフラは水の神バルナと美貌を競って負けている。

 フラウは具体的に誰かの顔を思い浮かべながら、

 わざわざ水辺と言い換え、苦々しく顔をしかめる。

 ちゃんと、そうとわかる表情だ。


 神話を踏襲した作りこみの深さに驚きながら、

 彼女のふてくされた顔が面白くて笑いをこらえていると、

 彼女は勝手に弁明を始めた。


「あのね、この時代にどう伝わっているかは知らないけど、

あいつはまっとうに勝負したことなんてないんだ。

だいたい私の火を照明にして

自分を美しく見せるなんてズルいじゃないか」


「へえ、美貌では負けてなかったんですね。

まあバルナは知恵の神とも呼ばれてますから」


 フラウは自信たっぷりにうなずいてから、

 何か騙されたみたいに首をかしげる。


 考え込む彼女をその場に残して

 犬を連れた兵士に統国党の支部の場所を聞いた。


 ブルンナゴへの移民は統国党が推し進める国策だから、

 移民用の住居や仕事の斡旋などが期待できる。


 南のアフラムに向かうにしても、

 二人分の旅費となるとしばらくはブルンナゴで稼いだほうがいい。


 ようやく自分が知恵で負けたと言われたのに気づいたフラウが

 走って追いかけてきて、僕は統国党の支部へと走る。


 二人分。


 片手に鞄、片手でシルクハットを押さえたまま走るのはバランスが悪い。

 当たり前のようにすぐに追いつかれる。

 当たり前のように二人分の旅費を稼ぎ、

 当たり前のように一緒にアフラムに行く気になっている。


 今はまだ、そうしていたい。


 彼女が神であるかどうかは、考えないようにしたい。


 もしも彼女に話を聴いて、

 それが受け入れられなかったら昨夜のこと全部、

 受け入れられなくなってしまいそうで。


 それは嫌だなと、僕は無意識に唇に触れて思っている。

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