第七話 火の神様、お客様をもてなす1

 すぐに移民を乗せたトラックが通ると思ったが、

 その日はトラーン側に戻るトラックとしかすれ違わなかった。


 日暮れ前にはフラウが足が痛くて歩けないと

 しゃがみこんで動かなくなった。


 予想通り、旅慣れていない。


 ちょうど街道から見える丘の上に建物が見えて、

 寄ってみることにした。


 脇道は林の中を通っていたが、

 手入れはあまりされておらず、

 木々の合間から伸びた草で覆われそうになっている。


 五歩くらいごとに足が痛いアピールをしてくるフラウを

 何とか丘の上まで歩かせ、街道から見えた建物に近づくと、

 脇道が手入れされていない理由がわかった。


 反対側は手投げ弾か砲弾で破壊され、

 焼け焦げた床板や梁が崩れた石壁の中に埋もれていた。


 丘から見下ろせる草原には戦闘の跡が残り、

 戦車のキャタピラで抉られた地面からは水が染み出し、

 迫撃砲で空いた穴にはまだ草が生えていなかった。


 丘を少し下ると何軒かの家があるが、

 どれも丘の上の建物と似たような状態だ。


 国境が近く、トラーン軍が侵攻してきたときに

 サリア軍が最初に抵抗した場所だった。


 戦闘は短時間で終わったと聞いている。


 戦車と装甲車を中心にした機甲師団を投入したトラーンに対し、

 国境を守るサリアの兵にはろくに対抗できる兵器はなかった。


 せめて住民が避難する時間は稼げたと信じたい。


「戦争もずいぶん様変わりしたんだね。

まるで神話の怪物たちが争ったかのような荒れようだ。

本当に人同士が戦ったのかい?」


「これは戦闘じゃありませんよ、蹂躙です。

あの辺の家、まだ屋根が残ってますね、

あっちに行ってみましょう」


 いやに早口になっている自分が情けない。

 戦争の話を避ければ、戦争が避けられるとでも思っているのか。


 僕みたいな人間は、結局は戦争を支持しているのと同じだ。


 一軒だけ屋根に穴が開いただけの家があり、

 そこが今夜の寝床に決まった。


 ドアは蹴破られて壊れていたが、立てかければ風よけにはなる。

 屋根の穴は近隣の家屋が吹き飛ばされた瓦礫が突き破ったものだ。


 屋内には瓦礫が残り、その周辺は焼け焦げ、

 家具の残骸や木製の食器などが床に散乱していた。


 地下の食糧庫には人の胴体ほどの大きさの何かが

 白い布にくるまれて幾つか置いてあったが、

 中身を確認する気にはなれなかった。


「夜空が綺麗だね。

知ってるかい? 私が与えた火の星座があるんだ」


 石壁の瓦礫を円形に組み、

 その中で火を焚くと屋根の穴から煙が出ていく。

 フラウは立ち上る煙を目で追って、そのまま夜空を見上げていた。


「火ではなく、火を受け取ったザオストラですけどね」


「預言者って言われてるんだって?

彼の子孫には夢見の力があったが、彼には何もないよ。

言うことは面白かった」


「あなたに言わせると、どんな偉人でも凡人にされそうだ」


「何も持たない人間が

力持つものでも成し遂げられないことを成し遂げる。

それを偉業と言うのだよ」


「じゃあ僕には無理だ。

幻影術を使えるのに、人を喜ばせることさえできやしない」


 フラウの視線が夜空から降りてきて、

 うつむく僕の顔を見て微笑む。


「ザオストラも同じことを言ったよ。

医者なのに母親の病気一つ治せやしないと」


「彼と僕は違う」


「一緒だよ。私から見れば、人間なんてみんな一緒」


 焚火の前で彼女が人差し指を回すと、

 それに合わせて炎が肩を揺らすみたいに動く。


 炎が踊っている。

 今度は僕が夜空を見上げる番だ。


 フラウの言うとおりだ。

 みんな一緒だ。

 こんなささやかな神秘さえ、僕は受け入れられない。


「ランゲンっていうところで、何があったんだい?」


「え?」


「今日、アントンと話してたね。

ランゲンで暴動が起こったとき、そこにいたと。

あの話をしてから君の様子がおかしい。

昔、神の教えを曲解して自分を罰することに

夢中になっている連中がいたが、それと同じ目をしてる」


「人が入ってきてほしくない場所に

土足で入り込むような礼儀知らずは、昔にはいなかったんですか?」


「人同士の事情など知らない。

言っただろう、私が気に入ったならそれは全て私のものだと。

私は君が気に入ってる。

だから君の悩みも私のものだ。さあ話せ」


 僕の悩みを、こんな南の土地まで僕を追いやった悩みを、

 まるで暇つぶしに消費するみたいな言い方に腹が立つ。


 彼女はまだ火を踊らせていて、僕のほうなんか見てもいなかった。


 せっかく僕が遠ざけたものに、

 彼女が自分から手を伸ばすというのなら、構わない。

 思い切りぶつけてやれと、幼稚な怒りに支配された僕の心が叫ぶ。


 古代神の贈り物を受けた女だ。

 話しても仕方ない。

 怒る意味もない。


 そう思いながら僕は後悔の予感を振り切って、

 言葉で殴りつけていた。


 濃い青紫、黒に近い色の肌を持つシリ人たち。

 彼らの受けてきた差別と偏見のことを。

 それが行き着くところまで行ったとき、何が起こったかを。


 統一国家党はシリ人を劣った人種と決めつけ、

 折からの不況の責任をシリ人に押し付け、

 死に絶えるべきだと演説した。


 最初は金融事業に深く関わるシリ人が

 真面目に働くトラーン人から搾取しているという根拠のない噂を、

 まるで真実であるかのように繰り返し報道した。


 統一国家党はシリ人の排斥を訴えて大量当選すると、

 国民との約束を果たす形でシリ人の銀行や資産を凍結。

 当然、抗議があって、でも声をあげた人々は片端から逮捕された。


 やがて、起こるべくして事件は起こる。

 資産の凍結を担った財務省の高等財務官が

 一人のシリ人の凶弾に倒れる。


「皮肉なことに、

撃たれたゴールは資産の凍結解除を財務大臣に進言していた

唯一の財務官だったんですよ」


 相変わらず退屈そうではあるけれど、

 フラウはもう火を踊らせてはいない。

 靴を脱ぎ、素足を火に向けて温めながら、それでもまだ僕を見ない。


 僕の怒りを見ない。

 見る価値もない。


「ゴールはすぐには死にませんでした。

統国党は毎日、彼の容態を重大ニュースとして公開したんです。

助からないとわかっているのに、

彼が弱っていくのを、英雄の死を看取るみたいに」


「それで、彼が死んだ後は暴動というわけかい?」


「ゴールの仇を取れ、シリ人を殺せってね」


 フラウはあくびをして横になり、真横から火を眺める。

 不思議そうに、話の要点などまるで理解できていない、

 戸惑ってさえいる目で。


「なあ、いつになったら君の話をするんだ?」


「僕の……話?」


「ゴールという男が死んで、暴動になったのはわかったよ。

でも、それは君が話したいことじゃない」


「あなたに話したいことなんてありません」


「あるよ。君はそのとき何をしたんだい?

暴動に参加した?

シリ人の一人でも殴り殺したのかい?」


「そんなことしない。僕はただ……」


「見てただけ?

何もせず、怒り狂う大人たちに怯えていただけ?

それだとつまらない。今からでも戻って暴動に参加しておいで」


「ふざけないでください。

あそこにいなかったあなたにはわからないんですよ。

本気で人を人として扱わない、

それなのにそんな自分に陶酔してる連中の顔の……不気味さを」


「そんなもの知らん。

私が興味があるのは君の顔だよ。

君にそんな顔をさせているのは何かってことだよ」


 僕は自分の顔を両手で触る。

 焚火に顔を向けているのに、

 頬と手のひらの間で冷たい汗が油の膜みたいに広がった。


 きっと土の色をした死人みたいな顔だ。

 僕はそういう顔を知っている。


 腎臓を撃ち抜かれ、悪臭を放ち、

 意識もないまま垂れ流すように嘔吐する、

 その姿を僕は知っている。


「僕の顔じゃない」


「誰の顔だい?」


 問われて僕は手を下ろし、フラウと目を合わせる。


 火を挟んで向かい合った彼女の目は

 星空全部を吸い込んだみたいに奥行があって、

 その目に映る僕は無数にある星屑の一つでしかなくて、

 抱えているもの全部、小さく、ちっぽけに感じた。


 彼女が僕を見ていなかったんじゃない。

 僕が、彼女を見ていなかった。


「毎日、お金がもらえたんです」


「うん」


「何もわからないふりして、

何も知らなければ、責任なんかないって……」


「うん」


 相槌のたびに僕の積み上げてきた後悔が崩れ、

 せきとめていたものが溢れ出す。


「だから……毎日、毎日、ゴールが弱っていくのを、上映してた。

泣く人なんかもいて、語りがうまいって見てた政治局員に褒められて、

あいつら嫌いなのに、ちょっと嬉しくて」


 彼女はいつ起き上がった?

 二人の間にあった焚火はどこに行った?


 いつのまにか目の前にいるフラウに、僕は上目遣いでねだっている。


「本当はわかっていたんです。

だから毎日、こんなことやめようって思ってた。

それなのに、僕だけやめたって何も変わらないとか、

金がないと冬が越せないとか、自分に言い訳して、続けて……」


 怒号と、たくさんの悲鳴だ。

 あの日を思い出すと耳をふさいでもずっと頭の中で聞こえて、

 シルクハットを千切れるくらい強くつかんで引っ張る。


「……あなたが本当に神様なら、僕に罰を与えて」


 都合のいい話だ。

 彼女を神だなんて信じていないくせに、罰を、

 救いをねだっている。


 結局、僕の幼稚な怒りなんて、

 誰かに優しくしてほしいという甘えの裏返しにすぎない。

 イルジグラー幻影侯爵を引っ張り出したって、これは否定できまい。


 だって彼女に抱きしめられて泣きそうになっている。


「ミトラじゃないんだ。罰なんか与えないよ」


 初めて母を感じた。


 母親は知らないけど、僕の中に母親の記憶はあったんだと知った。


 触れるか触れないかの力なのに僕がぴったり収まる形で、

 まったく動かない。


 ただ背中に腕を回されているだけなのに、

 頭からつま先まで包み込まれる心地よさが

 こわばった体を一瞬で柔らかくしてくれる。


 そんなふうに抱きしめられたのは初めてなのに、

 そんな気がしない。

 きっと誰かが以前、同じように抱きしめてくれたからだ。


 胸につけた左耳から入ってくる彼女の鼓動は頭の中の悲鳴をゆっくり、

 優しくほぐして大きいけどうるさくない声に変えていく。


 彼女の鎖骨から焼けた砂のような匂いがして、

 たぶんそれが母の匂いとして記憶されてしまうんだろうなと思った。


「よくがんばったね、ちゃんと話せて、えらいよ」

 言いながら僕の背中を寝かしつけるように叩く。


「それはもう私のものだから、君は悩まなくていいよ」


「そんなの……そんなわけ、ないでしょう」


 僕が笑うと、吐息が彼女の服を湿らせて、

 それが冷えていくにつれて彼女の体温を強く感じるようになり、

 そのままでいたら眠ってしまっただろう。


 戦場の跡地のこんな廃屋で、

 周囲に人の気配もない夜中にドアをノックする音に

 僕は背筋が凍り付いた。


 フラウが不満げに鼻を鳴らし、

 名残惜しそうに僕を強く抱きしめると、火のそばに座らせた。


「私の客だ。無粋だね、

待っていると来ないくせして、来てほしくないときにはやってくる」


 フラウはドアに近づく途中で肩越しに微笑んでみせる。

 そんな笑い方をされると僕が怖がっているみたいだ。


 手足が痺れて動かないのは、まあそうなんだけど。


「私の後ろにいるんだよ。

それと、この間の地味なのでいいから服を用意して」


 僕は言われるがままに、彼女に最初に作った巡礼服の幻影を生み出す。

 今の僕は彼女に火に飛び込めと言われれば

 飛び込んでしまうくらい言いなりだ。


 どれだけ息を吸い込んでも肺を満たせない息苦しさが

 思考力を奪っていた。


 彼女の手がドアに触れる。



 僕はこの後の、おそらくは数分程度だと思うのだけど、

 その数分をフラウと出会ってこれまで過ごしてきた全ての時間より、

 長く感じることになる。

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