第六話 火の神様、国境を越える2
アフラの馬比べという童話がある。
一番足の速い馬をアフラが飼い主から取り上げ、
元気をなくした馬を無理やり走らせようと叩いて振り落とされるという話。
わがまま言っていると痛い目をみるという教訓を子供に与える。
こういうしょうもないところも、アフラが親しまれる理由だ。
南へ向かう途中、
ブルンナゴに移民を運ぶトラックに同乗させてもらえた。
フラウは自分で勝手に動く乗り物が嫌いだとかで
ずいぶん乗るのを渋ったが、
国境まで歩くと数日はかかると言うと素直に荷台に乗った。
同乗者にはオーバーオールにハンティング帽を被った季節労働者や
僕と同年代の少年、子供を連れた母親もいた。
彼らは最初はフラウの外見に驚いたものの、
彼女の尊大だがどこか幼い言動に馴染むと家族や友達のように話した。
食べ物もくれた。
移民たちは新しい土地に希望を見出した前向きな人たちだ。
同じように南を目指す僕たちを仲間だと思ってくれたのかもしれない。
一緒にがんばろうという和気あいあいとした空気が
トラックの中にはできあがっていた。
ブルンナゴが、
トラーンの武力侵攻によって実行支配されている土地だとしても。
トラックに乗っていた人たちは
統一国家党の身分証明を受けているから検問所は素通りだが、
僕たちはそうではない。
短い間の疑似家族に別れを告げると、
検問所にできた長い列に並ばなければいけなかった。
フラウがおとなしくできるはずもなく、
十分もしないうちに列を追い越し、
フェンス前に立っている兵士に詰め寄ったものの、
二言、三言交わしただけで戻ってきた。
「神でもダメだって言われた。すごいんだね、検問って」
兵士が子供の扱いに慣れている人でよかった。
こんなところで幻影術を使うはめになったら、
今度こそお尋ね者だ。
「まあ、時間はかかりますが、検問自体は厳しくありません。
今はどんどん移民を入れて
ブルンナゴをトラーン化したいですからね」
「民族移動?」
「そんな感じ」
「証明書を用意しろと言われたが、
神に証明など必要ないだろう。
むしろ君たちが神に証明すべきだ。信仰をね」
「僕が用意するんで黙っててください。本気で」
僕は鞄から証文に使う上質紙を取り出し、
軽くプシュケを吹いて表面に伸ばす。
トラックで見せてもらった証明書を転写し、
名前の部分を僕とフラウに変える。
「アリシア・ハイハント。
私は姉かい? なんなら妻でも構わないんだよ。
君はもっと欲望に忠実になったほうがいい」
フラウが僕の顎に指を添えると、熱が耳まで上がっていく。
彼女の体温が高いのか、近づくと顔が熱くなる。
頭を振って彼女の指先から逃れ、証明書を丸める。
「姉弟です。僕の年齢で結婚なんてしてるわけないでしょう」
「そうなのかい? ずいぶんのんきだね。
美しくいられる時期も、
子供を産める時期も冬の昼のように短いだろうに」
「それはまず自分に言うべきでは?」
何かと話しかけてくるフラウを黙らせるのに忙しく、
僕たちの番がまわってくるのに気づけないところだった。
僕が使い込まれた愛想笑いを浮かべて前に出ても、
簡素な事務机に座った検査官は後ろのフラウしか見ていない。
怪しんでいるというよりは困惑している。
僕の提示した証明書と彼女を何度も見比べ、
たまにインク染みでも見つけたみたいに僕に目を向ける。
「かわいいだろう、私の自慢の弟だ。
この子が産まれた日、私がどれだけ嬉しかったことか。
ちょっと聞いてくれるかい?」
どうやら僕が産まれた日は猛吹雪だったらしい。
その中をフラウが産気づいた母親を背負って医者まで運んだらしい。
初耳ですね。
自分の胸に手を当て、英雄譚でも謡うかのようにフラウが語りだすと、
検査官が小さな丸い眼鏡に手を添えて僕に目線を送る。
微かな同情。
僕はすかさず口だけ動かして古代神の贈り物、と告げた。
秒でハンコ押してくれた。
声に熱のこもってきたフラウを引っ張って検問所を通り抜ける。
別に線が引いてあるわけでもないのに、
サリアとトラーンの国境を越えると不思議なもので、
それだけで空気が変わったように感じた。
何もかもが良くなっていく予感。
何もかもが取り返しがつかないという不安。
それらが隣り合わせの緊張に、
愛国という名前がついた空気から解放され、
身体を伸ばす僕の腰をフラウがつっつく。
「私のおかげでうまくいったね。
私が少し語ってやれば検問などこのとおりだ」
「僕の幻影術のおかげですよ。
細部まで完璧な証明書があれば、そもそも嘘なんか必要ないんです」
「あの役人、証明書なんか見てなかったじゃないか」
「誰のせいですか」
「私の美しさに責任などない。
夏の暑さの責任を太陽に求めるバカなどいまい。
季節を楽しむように、私の美しさを楽しめばいい」
この人と話してると僕が間違ってるような気持になってくるの、
なんでだ?
思ったよりすんなり通ることができて浮かれていたんだと思う。
検問所を抜けてなお見られていることなんかないと。
声は抑えていた。
でも、安心しきった顔が他とは違ったのだろう。
「そこの二人、止まれ」
かつての駅馬車の待合室から男が二人出てくる。
屋根があるだけの小屋のような建物だが、
昼間は中が影で暗くなっていて、逆に中からは外を歩く人々が良く見える。
おそらくこっちが本物の検問だ。
胸の左側、縦に並んだ三つのボタン。
こげ茶色のコートに真っ赤な腕章を巻いただけで、
円筒形の軍帽を被っている。
徽章はなし。
どうにも運が悪い。
任務に応じて軍隊から選抜される特務部隊。
政治局員が番犬なら、こいつらは猟犬。
そして昨今、最も多い特務は政治犯の追跡。
「書類に不備でもありましたか?」
こいつら相手に愛想笑いなんか必要ない。
特務部隊に呼び止められれば怯えるのが当たり前だし、緊張もする。
頭が回らなくなって嘘がつきにくい。
「近辺の町で幻影術を使ったものがいると報告があった。
若い男女の二人組だという話だ」
僕はうなずきながら、
詰問される僕たちから距離を置いて検問を通り抜けていく若い夫婦を見る。
特務部隊の二人は彼らには目もくれない。
僕たちを呼び止めた理由が別にある。
「鞄の中には何が入っている?」
僕は素直に鞄を地面に置き、開いてみせる。
協力的な態度でまずは様子を見る。
特務部隊の一人が鞄の中を覗き込むと、僕は横目で彼の顔を観察する。
何を見ているかは重要な情報だ。
波打った黒い髪に茶褐色の瞳。
細面だが顎はしっかりしていて首も太い。
唇や鼻が薄くて表情も読みにくく、
細い目はくまのせいで落ち窪んで見える。
目の周りに力が入って常に凝視しているような視線だ。
「幻映士か」
「はい。ランゲンでニュースキネマの上映をしていました」
「どうしてブルンナゴに? ランゲンなら仕事に困らんだろう」
「ゴール銃撃事件の上映をして、その後の暴動に直面しました」
「そうか……」
鞄の中、バンドでしっかり固定された映写機しか見ていない。
映像を記録する幻映石は鉄との相性が悪く、
銅製の持ち手がついた長方形の本体には
細かいツタの装飾が施されている。
装飾を指でなぞり、彼は祈るように目を閉じた。
道具の価値を知る人だ。
「そうか、あのときランゲンにいたか。
それは大変だったな」
「恐れ入ります」
本来なら好感を持てる相手だ。
だが、優しい言葉を使う特務隊員ほど恐ろしいものはない。
彼らが何を調べているのかわかるまでは気が抜けない。
気が抜けないのだが、妙におとなしいフラウも心配だ。
古代神の贈り物で見逃してくれる相手ではない。
特務隊員が興行で使う化粧品を手に取り、
匂いを嗅いでいる間に一瞬だけフラウの様子を確かめる。
彼女は細かすぎて上下がわからない絵でも見ているかのように、
もう一人の特務隊員を見つめていた。
顔をしかめてもはや睨んでいると言ってもいい。
「フラ……姉さん、何してんの」
僕は慌ててフラウにシルクハットを被せ、
もう一人の特務隊員に頭を下げた。
「すみません。姉はその、かなり世間知らずでして。
決して協力を拒んでいるわけではありません」
「構わないよ、こんな美人に見つめられるなら大歓迎だ」
笑う特務隊員なんて聞いたこともない。
金髪と碧眼は統一国家党が神に最も近いと定義している容姿だし、
くっきりとした目鼻立ちは顔に落ちる影さえも洗練されて整っている。
育ちも性格もよさそうで、
睨んでいたフラウに怒るどころか笑顔を返し、
クリストフだと自己紹介までしている。
「おい、アントン、そろそろいいだろ。お前の見込み違いだよ。
この子たちじゃ年齢もぜんぜん合わない。
だいたいそんな鞄で爆弾なんか持ち歩けるわけないだろ」
「爆弾?」
アントンと呼ばれた黒髪のほうが舌打ちすると
クリストフは肩をすくめて彼から離れる。
アントンは鞄を閉じると僕に向かって差し出し、
帽子を取って謝った。
「手間を取らせた。古いがよく手入れされてるいい映写機だ。
記録はできるか?」
「どちらかというとそっちのほうが得意です」
「バーナムだったな。覚えておこう」
嬉しくない。忘れてほしい。
気さくに手を振るクリストフに見送られ、
僕はフラウの手を引いて検問所を後にする。
フラウはシルクハットを目深に被って目線を隠すようにはしていたが、
最後までクリストフを睨んでいた。
「彼らの機嫌をそこねれば僕たちはどこにも行けない。
そういう相手なんですよ」
「あの手の顔は気に食わない。見逃してやったのはこっちだ」
フラウはシルクハットの手触りを確かめたり、
回したりして遊んでいてなかなか返してくれない。
アントンの相手をした僕は疲れ切っていて
彼女の態度に怒る気力もなく、
彼女の手を行ったり来たりするシルクハットを眺めるだけだ。
検問所を抜けた人を相手に商売するテントがいくつか並んでいて、
パンの焼けるいい匂いも漂っている。
物々交換にも応じているらしく、
フラウがシルクハットとパンを見比べた。
「交換しませんよ」
「やだなあ、私にもそのくらいの分別はあるよ」
手を差し出してくる彼女に、トラックでもらった乾パンを手渡した。
彼女が食べ物につられている間に鞄を開け、
アントンが調べていた化粧品を彼と同じように手に取って思考を重ねる。
爆弾と言っていたな。
彼らが追跡しているのはただの政治犯ではないということだ。
侵略が始まって以降、
自分たちの主張を通すために暴力的な手段に訴えるものたちが増えた。
そのうちの何人かは指名手配され、僕も名前を知っている。
アントンの口ぶりでは彼らもブルンナゴに向かうのだろう。
僕は顔を上げ、ブルンナゴに続く街道の先に目を向ける。
移民たちが希望を胸に歩む道に戦争と、
戦争のもたらす腐敗のような暴力の影が伸びている気がして。
「長い道のりになりそうかい?」
フラウが僕の頭にシルクハットを乗せる。
僕が見上げると、待ち構えていたみたいに歯を見せて大きく笑った。
影を焼き払う、中天の太陽。
不思議な人だ。
普段の傲慢なふるまいからは自分以外に興味がないとしか思えないのに、
不安や悲しみには敏感な猫みたいにすり寄ってくる。
あるいは、彼女にとって僕が猫みたいなものなのか。
「そうですね。乾パンは少し取って置きましょうか」
「全部食べた」
このクソ疫病神が。
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