第四話 火の神様、文明に触れる2
やつらが師匠を連れ去ったときのことは忘れられない。
師匠が幻影術で客に妖精のような羽を生やしてみせている最中、
観客の輪の中に強引に入ってきて、
何も言わずに師匠を警棒で殴った。
合金製の、細いのに重くて硬いやつで、
先端の突起が肉も骨も容赦なく叩き潰す。
止めようと掴みかかった僕も殴られて、
頭頂近くからひどく出血した。
近くにいた観客の一人が引き離してくれなかったら
さらに殴られて死んでいたかもしれない。
血で霞む視界の中で遠ざかっていく師匠は
すぐに戻ると何度も叫んでいた。
それまで妹と一緒にいろ。妹を守れ、と。
「どうした、さっさと顔を見せろ。それと名前だ」
こいつらはどうしてみんな同じ顔をしてるんだろう?
痩せぎすで耳も鼻も尖っていて、
自慢の青い瞳は根拠もなく人を見下す。
肖像画を描いたとしたら、
矮小な精神というタイトル以外はつけられない顔。
でも、くやしいけど思い出すと手が震える。
シルクハットを胸に当て、
顔を上げて笑顔を作るだけで動悸が倍くらいになる。
「私はバーナムと申します。
何か問題がありましたでしょうか」
「この幻影術はお前だな」
政治局員は不格好な人形を僕に突き付ける。
だいぶドレスは薄れてしまったが、僕が着飾ったヘレンだ。
「これはどういうつもりだ?
貴様、公共の場で幻影術の使用は
党の規則で禁止されていると知らんのか」
「待ってください、これは屋内で遊ぶことを前提に──」
顔の横で何かが弾けた。
政治局員に目をつけられて無事で済むはずないのだが、
それでも早かったなと思う。
理由もわからず殴られた。
「俺は知らんのかと聞いたぞ」
「もちろん存じ上げています」
「では貴様は党の規則を無視したのだな」
どっちだって同じ、常に有罪に行き着く定番のロジックだ。
バカバカしい。
でも、僕には反論も否定もできない。
頭の芯が冷たく、固くなっていて、
涙が滲んでくるのを見られないようにうつむくだけだ。
「幻影術など人を惑わし、人を騙す、害悪でしかない。
それを子供に向かって行使して、かどわかすつもりだったか?
シリ人どもにでも売りつけるか?
やつらは子供の肉を食うらしいじゃないか」
どうにかして労働再教育施設送りになるのだけは避けたい。
でも金品での買収は裏目に出る場合があるし、
そもそも金などない。
政治局員が喜ぶのは隠れているシリ人の通報か、
反国家分子の告発だ。
ちょうどいいのがいるじゃないか。
頭に古代神の贈り物が入っていて、
濡れ衣を着せられても自分で無実を照明なんてできない。
やめろ。彼女を見るのはやめろ。
でも、僕が彼女になんの義理がある?
助けてやった。服も買ってやった。
それに貴族の娘だ。
親が有力者ならすぐに解放されるし、無事に家にも戻れる。
芯が冷たくなった頭はいいことしか思いつかない。
自分に都合のいいことしか。
「誰だか知らないが、害悪などと言うな。
私は彼の幻影術に助けられているよ。
見たまえ、この素晴らしい服は彼が作った幻だ。
信じられるかい? これこそ芸術だよ」
たぶん政治局員も僕も、広場に集まって不安そうに、
そしてやや迷惑そうに成り行きを見守っていた人々も、
全員が同じ顔をして彼女を見た。
周囲の呆然とした顔に尊崇の念でも見出したのか、
彼女は満足して笑った。
イヤな予感しかしない。
彼女は踊るように腕を伸ばし、袖口に指を当て、
肩まで腕をなぞる。
指の第一関節までが服を貫通して隠れているのが見えると、
政治局員は腰のホルスターから銃を抜いた。
「それ以上動くな、貴様、今すぐ幻影を消せ」
「それは困るな。消すなら服を着てからにしてくれ」
よく見る七発入りの小型の自動拳銃。
連射ができて反動が少なく、子供でも兵士になれる。
政治局員は僕と彼女に交互に銃を向け、動くなと怒鳴った。
周囲にいた人々が悲鳴を上げ、取り囲む輪が大きく広がる。
彼女はゴール銃撃事件を知らない。
犯人が幻影術で武器を隠して財務省官僚に近づいた事実は、
幻影術を纏うものは武器を隠匿しているという偏見を生んだ。
「待って、アフラ、動かないで」
僕の必死な声はか細くて弱弱しい。
あのときと一緒だ。
師匠を助けようとして、止められなくて、ただ見ていた。
少しは成長したと思っていたのにやっぱり叫ぶだけで何もできない。
怖いんだ。
身体が言うことをきかないんだ。
「この道具はなに?
エイシャキに似ているね。この穴から何が出るんだい?」
彼女は無防備に、
贈り物を開ける子供みたいに目を輝かせて政治局員に近づく。
僕がこんなに必死に叫んでいるのに、
周囲があんなに怯えているのに、
自分の好奇心にしか興味がない。神話的な傲慢さだ。
でも、僕にはわかっていたはずだ。
出会ってまだ半日だけど、
彼女がそういう人間だとわかっていたはずなのに、
彼女の幻影を消さなかった。
何もできなかったんじゃない。
何もしなかったんだろ。
間近で発砲音がして僕は目を閉じ、暗闇の中に逃げ込んだ。
薬莢が広場の石畳に落ちる甲高い音が目の奥に響いた。
漂う硝煙の匂い。
一発の銃弾がその場にいる全員を
撃ち殺してしまったかのような静寂。
「びっくりした。すごい音だ」
ゆっくりと目を開けると、彼女は耳を押さえて片目をつむり、
それでも興味深そうに銃口を覗いていた。
軽くせき込みながら漂う煙を払い、顔をそむける。
「なるほど。こんなに狭いところに火を押し込めて、
その怒りを推進力に変えるなんて。
よく考えるものだね、こんなこと」
不発か? でも音はした。
薬莢も目の前に転がってる。
銃弾はどうなった?
僕の耳が聞いた、
焼けた鉄板に水滴を落としたような音はなんだ?
額から垂れた汗が服の中に入ってきて不快だ。
暑い。
まだ朝方には冷たい空気が残る季節なのに、汗が滲み出てくる。
熱は彼女に近いほど強く、
押し出されるように熱風が吹き下ろしてくる。
僕はいつの間にか膝をつき、彼女を見上げていた。
「まあ、あまり好きにはなれないが、
君たちに火を与えたのは私だ。
頑張って作ったのなら、褒めないわけにもいかないね」
彼女の手が黒い帽子の上から政治局員の頭をなでる。
手の動きに合わせて彼の頭が揺れ、
帽子の繊維が縮れて白煙が立ち上った。
「これは君が考えたのかい? えらいね」
政治局員は一滴の汗もかいていない。
全身の体液が凍結したみたいに青白い顔で、
まばたきもできずに眼球が乾いていた。
彼女は笑顔だ。
本当に嬉しそうな、子供の成長を喜ぶ母の顔。
でもその笑顔が、政治局員の凍った心を砕いた。
たとえ心の底からの優しさであったとしても、
大きすぎれば容易に人の心を押し潰す。
政治局員は裏返るみたいに背を向け、
バランスが取れているのが不思議なくらい
大きく左右に揺れながら走っていく。
口からでなく、どこかに空いた穴から空気が漏れるような声で、
間延びした悲鳴をあげながら。
彼女は苦笑し、
それでも心配そうに政治局員を見送ってから僕に振り向く。
「お、ようやく拝跪したね。私の偉大さ、わかってくれた?」
何もわからない。
ただ、政治局員の悲鳴は風に乗っていつまでも広場を巡っていて、
汗も凍り付く恐怖が立ち尽くす人々に広がるのは感じている。
誰か一人でもそれを口にすれば、
取り返しのつかない事態になる。
魔女狩りはそんなに遠い過去じゃない。
僕はどうだ?
彼女が怖いか?
彼女が僕に向ける笑顔に
雨上がりの日差しに似た温もりと美しさを感じながら、
まだ何もしないでいられるか。
僕は萎えた足を拳で叩き、シルクハットを頭に押し込む。
まだ一人で逃げ出しそうな動悸の心臓を鋭い呼気で押さえつけ、
緊張で狭く、固くなった気道に熱い空気を送る。
そろそろ目を覚ませ、ベルンハルト・イルジグラー幻影侯爵。
仕事の時間だ。
「さあさあみなさま、いかがでしたか?
我がバーナム・ショーの誇る演目『驚異の消失』
消えた銃弾がどこに行ったか、私にもわかりません。
誰か偉い人の頭の中に入っていなければいいのですが」
人は恐怖から目を逸らす。
理解しえないものを安易な娯楽へと変えてくれるのなら、
十五歳の子供が鼻持ちならない態度で喚く口上だって受け入れる。
いいぞ。みんなの目が一気に僕に集まった。
ただ、彼女の目だけが気にかかる。
背伸びした子供が唐突に下手な芝居を始めたのを
気恥ずかしく見守るような目はやめてくれ。
あんたのためにやってるんだろうが。
悔しいから彼女も驚かせよう。
言葉の合間にプシュケを織り交ぜ、
シルクハットのつばを指で挟む。
「それではご紹介しましょう。
かのアフラ・マーダより神秘の力を授かりし、
彼女の名は『ヴァイネン・フラウ』」
名前と同時に彼女の背中に描いた熾火が激しく燃え上がり、
赤と黄色が肩を越えて胸の前で交差する。
火はそのまま腰の外側へと抜け、
腰回りで揺らめくスカートになって広がる。
彼女にはできれば飛び跳ねずにクールに立っていてもらいたいのだが、
子供と一緒で興奮するとじっとしていられない性質だ。
ほっとこう。
まばらだが拍手が聞こえた。
幻影の視覚効果で頭の中が白紙になった瞬間を見逃すな。
無害な道化を演じ、人々に怯えていたことを思い出させるな。
「頭の固いお役人様には少々、刺激が強すぎたようで。
しかし、ここに残ったみなさまは
どうやらこの程度ではご満足なさらないご様子。
なんと強欲な。
あんなに喜んでくれたお役人様が聖人に見えますな」
今度は笑い声。
そうだとも。
あんな横暴な政治局員が好かれてなどいるものか。
ジョークにして、殴られた僕への共感を引き出せ。
「そんな困ったみなさまに今宵、この場所で
我がバーナム・ショーのさらなる驚異をお見せしましょう。
そのときには必ずみなさまにもお役人様のような声を……
ん? どんな声だったかな。こうか──」
得意のヤギの鳴き声を響かせると、
その声に引き連れられて笑い声が広がった。
まばらだった拍手が隙間を埋めるように繋がって、
すぐに広場を拍手と歓声が埋め尽くす。
僕は緊張を笑顔でごまかして深くお辞儀する。
切り抜けた。
あとは興奮が冷める前に広場を離れるだけだ。
服の背中を見ようと身体をねじっている彼女の手を掴み、
周囲に適当に手を振りながら広場を後にする。
服の背中がどうなっているか
見せてくれとせがむ彼女の声も耳には届かない。
歓声に後ろ髪を引かれてる。
僕の幻影術が生んだ歓声じゃない。
ただ騙しただけだ。
害悪と言われても仕方のないような使い方をした。
それでも、広場から一塊になって追ってくる歓声と笑い声と拍手が、
いつまでも耳の奥で鳴りやまなかった。
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