第三話 火の神様、文明に触れる1

 結局のところ必要なのは神にも人にも共通の憂さ晴らし。

 酒だ。


 彼女は僕のフラスクから半分くらい飲み干した。

 師匠からシルクハットと一緒に譲り受けたもので、僕以外に触ったのも口をつけたのも彼女が初めてだ。


 だからどうってこともないけど……


「思い出した。私にはやることがあるんだった。

子供と遊んでいる場合ではなかったね。この幻影はどれくらい維持できるんだい?」


「そのサイズだと目の届く距離より離れると消えますね。

距離を置くごとに追従性も失われます」


「ふむ、では君も一緒に来たまえ。服を手に入れるついでに何かお礼をしたい」


「服を買うならお金がいりますよ。わかります? お金」


「心配するな。君たちにとって金がどのくらい大切かは理解している」


 貴族の娘だ。装身具の一つも手元に残しているならそれで事足りる。

 それに、彼女を屋敷まで送り届ければ謝礼が期待できる。

 クレイアニメよりは金になりそうだ。


「でも、お金の心配がないならどうしてさっき買わなかったんです?

広場からちょっと行けば服も雑貨も売ってたでしょうに」


 彼女は僕が一緒に行くのが決まっているかのように歩き始めた。

 一緒に行くなんて一言も言ってないのに。

 基本的に他人の自由意思を考慮しないな、こいつ。


「もちろん行ってみたさ。だが、得体が知れないだの臭いだのとひどい扱いだ。

こっちの話など聞きもしない。

金に支配された人間はみんなああなのかい?

金のないやつがみんな物乞いに見える病なのかい?」


「いや、見たままだったと思います」


「そこで広場で途方に暮れていたら君が何やらおかしなことを始めるじゃないか」


「途方に暮れてたんですね」


「いや、驚いたよ。今の幻影術士はあんなに動く絵を見せられるんだね。それとも、あれができるのは君だけ?」


「キネマのことですか? あれは誰でもできますよ。

僕の持っていた道具、映写機っていうんですけど、あれの使い方さえ学べば誰でもね。幻映士って呼ばれてます。そういうのを仕事にする人」


「うん? でも君は幻影術を使うだろう。

エイシャキとやらに頼らずとも、人々を魅了できるだろうに。

少なくとも、あんな人だか犬だかわからんものよりはずっと」


 ゴール銃撃事件のことを話そうとしたが、やめておいた。

 戦争だの人種差別だのは彼女の世界に必要ないと思ったからだ。


 いや、庇護者を気取るのはやめておこう。

 本音ではそういうのがない世界を、僕が求めているのだ。


「幻映士の登場ですたれてしまったんですよ、幻影術は。

今じゃ幻影術も、それを使う人間も、あまりよく思われていないんです」


 彼女は異音を聞き取った猫みたいに首をかしげると、歩調を緩めて僕の隣に来る。腰をかがめ、僕と同じ空気を吸おうとするみたいに口と鼻の高さを合わせ、横顔をのぞき込んだ。


 間近で見る彼女の目は視界がそれでいっぱいになってしまうくらい大きい。

 赤い色がずっと奥まで続いていて、ほんの一瞬、目が合っただけで自分の顔が熱くなるのを感じて顔をそむけた。


 彼女は含み笑いをすると小走りに僕の前に駆け出し、垂直に飛び上がると空中で一回転してみせる。


 肩のケープが遠心力で浮き上がり、彼女の長い髪と一緒に二つの円を描いたのはほんの一瞬。


 その一瞬が僕の中で長く、長く引き伸ばされて、でもその長い一瞬、僕が見ていたのは幻の衣ではなく、木漏れ日が偶然そんなふうに影を切り取ったような彼女の微笑みだった。


 着地で足をもつれさせ、倒れそうになった彼女の手を取ると、まるでそこまでが一連の振り付けだったみたいに僕を引き寄せ、額をぶつけ、笑いながら離れる。


「見たかい? この雨よけ、私の髪と同じ動きだった。

私は知っているよ。幻影術士は世の理の探究者で、神秘を愛する。

すたれてなどいるものか。君は私に、神に選ばれたんだからね」


 僕の望んだ世界に、僕の望んだ言葉。


 少なくとも彼女はこの短い時間に僕が望んだものを二つもくれた。

 彼女自身は神でないにしても、今日の出会いを神が用意してくれたと思えるくらいには幸運だ。


 遠慮がちに、彼女の半分くらい笑いながら、そうですねと素っ気なく返し、そのくせ彼女を屋敷まで送り届ける道行を楽しみにし始めている。

 ときには古代神の贈り物も悪くない。


 そして、その日の午後には僕は彼女を本当の神だと思うようになった。



 彼女が換金しようとした指輪はおもちゃだと突き返された。

 自信たっぷりに涙目で僕を見つめる彼女のために路銀の大半を失って服を買う羽目になった。


 特に靴。

 彼女の足は大きさに対して幅が狭く、中に詰め物をしなくてはならなかった。

 その費用として僕の一張羅である裏地のついた上着を売った。


 僕の木綿のシャツには胸にひだが縫い付けてある。

 上着を着たときに派手に見えるようにだが、上着がないと涎掛けみたい。

 サスペンダーで吊った太ももの膨らんだズボンは掠れた色合いの縞模様で、トータルではまるっきりくたびれたピエロだ。


 彼女は初めて自分の足にピッタリの靴を履いたと喜び、買った服を僕に持たせたまま広場で子供と追いかけっこして遊んでいる。


 あの疫病神。とっとと屋敷に送り返して代金を過剰請求してやる。


 僕が剣呑な目で睨んでいると、視線に気づいた彼女が腰に手を当てて呆れたように首を振る。

 呆れてんのはこっちだよ。

 子供たちに一方的に勝利を宣言して堂々と歩いてくるあんたにな。


「しかし、君はそうしていると本当にかわいいね。

なんだい? 私と遊びたかったのかな。

それとも私が君以外と一緒にいるのが気に食わない?」


「かわいいですか、お金の心配してる顔?

いいですね、神様はお金の心配しなくていいんですから」


「嫌味を言ってる口もいい。

でもさっきのは私のせいじゃない。

あいつらがこれの価値をわからないのが悪い。なんなら君にあげようか」


「いりませんよ、そんな玩具……」


 彼女の差し出した指輪を突き返そうとして、くすんだ鈍色の指輪から鮮やかな色が煌めいた気がして顔を近づける。


 屋内で見たときは気づかなかった。


 指輪の表面にはまだら模様が浮かび、光の当たり具合で青が緑、緑が黄色にといくつもの色が内側から浮き出てくる。

 持ってみても重さはほとんどなく、それなのに巨大な質量が圧縮されたような質感があった。


「これ、虹石では?」


「今はそう言うのかい? すごいだろ、私がいないと作れないんだ」


「まあ、確かに神が作ったとか言う人もいますね。

遺跡なんかでたまに見つかるけど、どんな道具でも傷一つつかなくて、加工は不可能です。価値がわからなかったんじゃなくて信じられなかったんですよ。

専門家の鑑定が必要でしょうね」


「金になる?」


「希少すぎて値段がつきません。

よく手放す気になれますね。大切なものじゃないんですか?」


 返した指輪を受け取ると彼女は指輪の穴から僕を覗き、いたずらっぽく笑ってから見せつけるように左手の薬指に指輪を通した。


「たいしたものじゃない。昔、私と一生添い遂げると誓った男がくれたものだ」


「めちゃくちゃ大事でしょ、それ。二度と売ろうなんて考えないで」


「気にするな、とっくの昔に死んでいる。

それに、あいつと私は……おっと、恋する少年に昔の男の話は無粋だったね」


「恋してませんが?」


「ふふ、自分の恋心に気づけないか。子供だね。

君が私の信者になれないのは、私を一人の女として見てしまったからだ。違うかい? 違わないね。

それにさっき私を見ていた情熱的な目。この指輪をくれた男とまったく同じだよ」


「だとしたらその指輪、呪われてますね」


「愛は呪いか。詩的だね。それを題材に詩を書いて私に捧げるといい」


「一種類の花しか咲かないお花畑みたいな頭してんな、あんた。

ああ、ホントおめでたいわ。おめでとうございます」


「いいぞ、もっと言ってくれ」


 深いため息をつく僕の首筋を、彼女は慈しむように撫でる。

 自分に向けられる言葉は全て賞賛だと信じている人間に何を言っても無駄だ。

 切り替えていこう。彼女は金の入った袋だ。


「そろそろ行きましょうか。家はどこなんですか? 送りますよ」


「この大地はどこでも私の家と言えるだろう」


「そういのいいから……ああ、もう、じゃあ家族。

家族のいるとこに帰りましょう。きっとあなたを探してます」


「自己の存在を認識して以来、ずっと一人だ。家族はいない」


 神様ごっこにはうんざりだ。

 それなのに、自分を一人だと言う彼女が寂しそうで、まるで世界の全てがただ死んでいく過程にしか見えていないかのようで。 

 暗い影が瞳に差して、僕は何も言えなくなった。


 彼女が黙ってしまうと僕たちに会話はない。

 なんだか一方的に傷つけてしまったみたいな気がして──被害を受けているのは僕のはずなのに──彼女と目を合わせられなくて、広場を行きかう人々を眺めた。


 僕たちが出てきた商店のほうが騒がしい。

 盗みでもあったかと振り返り、反射的にシルクハットを目深にかぶって顔を隠す。


 カーキ色の軍服に磨き上げられたブーツ。

 前方に短いつばのある特徴的な黒い帽子。

 三本のサンザシが重なる徽章。


 しくじった。こんな田舎にまで派遣されているとは思わなかった。国境が近いのだから、もっと警戒すべきだったのに。


「おい、そこの帽子のお前。顔を上げろ」


 安易な尋問、その先の拷問が選択肢に入っている、高圧的な態度。制服よりも徽章よりも見分けやすい特徴だった。


 統一国家党政治局員だ。

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