第一話 火の神様、幻影術士と出会う1

 金がない。


 人生で金に困ってない時期なんてなかったが、空腹でめまいと吐き気までするのは孤児院から逃げ出して以来だ。


 飲み水は確保できているから、あと一日くらいは問題ないと油断した。

 私の体はあの頃にくらべ、だいぶ欲深くなったらしい。


 この私、ベルンハルト・イルジグラー幻影侯爵たるものが空腹でふらつく無様な姿を市井にさらすなどありえない。


 ゆえになけなしの体力を使って村のはずれまで人目を逃れてきた。

 誰も見てないと思って鞄を椅子にして腰かけたところなのに。


 広場から一人の少女がついてきてた。

 何を気に入ったのかずっとこっちを見てる。

 諦めよう。振り切る力は今の私には残されていない。


 私はシルクハットをちょっと持ち上げ、淑女にするように礼儀正しく挨拶する。

 相手が女性であるなら、たとえ赤ん坊であっても淑女として接するのは常識。


 当たり前の振る舞いである。

 しかし、このような都市から離れた農村にはよくあることで、単なる挨拶を社交辞令ではなく、友好の証と受け取る子供たちがいる。


 私の隣に座り込んだ少女もその類い。

 聞いてもないのに長年の友である薄汚れた人形の紹介を始めた。


 頭の大きさに比して体が小さく、顔に縫い付けられた目の代わりのボタンが言い知れぬ不気味さを醸し出す、奇怪な人形の名前はヘレン。


 まさかの女性。

 で、あるからには同じように挨拶せねばならず、少女は人形への愛を私と共有できたと喜び、さらに話が膨らんでいく。たぶん今考えてる。


 どうでもいい。目下の懸念は少女でもヘレンでもない。

 少女と接触したことで確信したが、空腹などで私の意識に変性などみられず、存在しないものを見えていると勘違いするなど断じてない。


 すなわち、先だって私につきまとい始めた死神は本当にそこにいる。


 道を挟み、古代の街道敷設のときに建てられた石塀に身を隠しているつもりのようだが、ほとんど見えてるぞ。

 身を包むローブはぼろきれ同然。

 フードの下では春の日差しの下でさえ暗い赤色に光る瞳が私を追いかける。


 死神を最初に見るようになったのは昼前、広場で四分間のクレイアニメを上映した直後からだ。


 このクレイアニメは私の自作で、統国党のプロパガンダ満載のニュースを拒んだ私には上映できる唯一のキネマだった。


 出来に自信はある。

 が、初老の発明家と有能すぎる犬がトロッコに乗って走っているだけではいささか退屈だ。

 動きがありさえすれば子供は喜んでくれるが金にはならない。

 結局シルクハットに入ったのは芋を潰して固めたお菓子だけ。


 まさにその芋菓子を夕食にとっておこうと袋に入れたときだ。

 食い入るような、いや食いつくような視線を感じた。


 広場の中央に、何に使うのかわからない櫓

──今思えばあれは魔女狩りの時代に火刑台に使われたものに違いない──

その影から染み出るようにそいつは現れた。


 よく見れば死神が身に着けたローブ、魔女の断末魔で煮詰めたような色をしているではないか。においも雨に濡れたたい肥のようだ。


 かつては女のような顔をした男は魔女として処刑されたと聞く。

 私も孤児院では女のような顔だと侮られ、殴られた。

 それゆえに魔女の魂を狩ることに味をしめた怠惰な偏食家の死神に標的にされたとしてもおかしくはない。


 かくなる上は我らが幻影術士の始祖『仮面のルード』に倣い、一世一代の幻影術で死神の目を欺かん。

 と思案していると、ヘレンの女主人が私の袖をつまんで引っ張っていた。


「大丈夫? おなか痛い?」


 通りすがりの旅人に、家族を心配するような言葉をかける。

 無邪気、無知ゆえの無尽の慈愛をどうして愚かと笑えよう。

 私を見つめる純心な瞳を前にして自らの安寧しか頭にないのなら、そんな魂は狩られてしまえ。


 幻影は人に夢を見せ、同時に悲しみを覆う帳。


 師匠の言葉に従うなら今、私がやるべきことは死神の目にこの子が入らぬように遠ざける。ただ、それだけだ。


 シルクハットのつばを引き下げ、すぼめた唇から空気を薄く引き伸ばすイメージで吹く。幻影術士がプシュケと呼ぶ吐息だ。


 思い描いた形と色をプシュケに乗せてヘレンにそっと被せるように手を動かせば、長い時間をかけた変化が脳を欺くがごとく、いつの間にかヘレンが豪奢なドレスを身にまとっている。


 晴天を切り取ったようなまぶしい青を、薄雲に似せたひだが螺旋に包むデザイン。


 少女の語った設定ではヘレンにはフランツという将来を誓い合った恋人がいる。今のヘレンを見れば、フランツも結婚を先延ばしになどできまい。


「ここまで一緒に来てくれたお礼だよ」


 目と口を限界まで開いて驚く少女に二人だけの秘密ができたみたいに囁く。


「家にいるフランツに見せてあげるといい。昼までには消えてしまうからね」


 少女は勢いよく飛び跳ねるように走り出し、充分に距離を取ってくれたところで振り返る。

 驚きでまだ言葉を失ったままの少女はヘレンを私に向かって突き出した。

 きっと代わりにヘレンがお礼を言っている。


 手を振る私に全身を揺らして返し、走り去っていく少女を見ているとアリシアを思い出す。


 愛しいアリシア。私の妹。孤児院の名づけ表、Aの覧の13番目。

 それでもBの私より先だから自分がお姉さんだと、かわいい理屈でお姉さんぶっていたアリシア。


 彼女のおかげで生きてこられたし、彼女のために生きている。


 思い出に浸る間に死神はすでに手の届く距離に近づいていた。

 もはや遠慮はいらないというわけか。

 フードの奥で赤い目はさらに凶暴な光を放ち、飢えた獣の唸りが口ではなく腹の底から響いてくる。


 対して私は悠然と足を組んで死神を見返す。

 アリシアの思い出を胸に抱いた私が死神ごときに恐れをなすと?


 ありえない。魂が欲しければくれてやろう。

 この偉大なる幻影侯爵、生きるのに魂などいらぬ。

 魂など、幻を操る幻影術士が心の底から幻でないと言い切れるものではない。幻でないもの、真に生きるために必要なものとは──


「それ、食べないならくれないか?」


 頭の中の口上、ぜんぶ飛んだ。


 やや鼻にかかる、気取った猫みたいな女の声だ。魔女から奪った?

 それにローブの隙間から差し出された手はどうだ。

 きめ細かい肌に雨上がりの大理石のようなしっとりとした質感。想像していた腐りかけの手と違う。


 認めよう。動揺した。

 言われるがままにベルトに挟んだ袋を抜き取り、天上から天使が差し出したかのような手に乗せていた。


 しばし呆然としていた私だが、礼も言わず、まだ使える袋を路上に投げ捨て、私の夕食をむさぼり食っている死神を見ているうちに無性に腹が立ってきた。


 わが祖国トラーンが自国民の保護などという詭弁で隣国サリアに侵攻を開始して二カ月。

 政情不安や経済の低迷により周辺諸国の動きは鈍く、戦火は収まるどころか拡大の兆候さえみせる、そんな時世だぞ。


 私の魂など狩ってる場合か? 他にやることあるだろ、死神なら。


 いかんいかん。

 紳士が激情にかられるなどあってはならないが、顔に出てしまっていたようだ。


 私の怒りに気づいた死神は最後の一口を口に入れようとしていた手を止める。

 凶暴性の代わりに露になったのは、私の怒りを嘲弄するがごとく傲慢さ。


「安心したまえ。味について君を責めたりしない」


 ぜんぜん気づいてなかったし、全部食いやがった。

 深いため息をつく私の前で指についた粉を払い落とすと、死神は獲物を吟味するかのように私を子細に眺めまわした。


「君は幻影術士だね? さっきのドレス、見させてもらったよ。

たいしたものだ。その若さであれだけの幻を操れるようになるのは苦労したろう」


 私は力なくうつむく。これは何だろう?

 魂の行き先を決める審問だろうか。だとすればこの死神は人の世に疎い。


 昨今は幻影術を人前で使えば逮捕の危険すらある。

 無知と無関心が偏見を生み、我ら幻影術士は息もできぬ。

 とても善人でなど、いられるはずもない。


「少し困っていてね、ぜひとも力を借りたい」


 死神が何の冗談かと思って顔を上げるのと、ローブの前が開くのが同時だった。


 このベルンハルト・イルジグラー幻影侯爵。

 かつてロームに相対したウェルキンゲトリクスに劣らぬ勇猛を自負してはいるものの、悲しいかな女の肌など妹の手しか知らぬ十五歳。

 ローブの下が一糸まとわぬ姿であったなら、感じるものはただ一つ。


 恐怖。


 これ以外にはあるまい。

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