火傷

タチ・ストローベリ

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深夜だ。彼女は眠れなかった。恋人との不和が原因ではない。元々他人だった二人の、 輝かしい共同生活のこれからを考えれば、喧嘩はむしろ健全だった。

 彼に痛い所をつかれたと、そして自分も言い過ぎたなと、今更になって反省し始めたから、でもない。毎度こうなのだ。二人に口論があっても、必ず次の日になれば、どちらからともなく謝罪を始められた。

 ここが旅先だからか? いや、観光は済んで、明日は帰るだけだ。気を揉む必要はない。

 彼がこの部屋にいないせいでもない。喧嘩をした日は、別々の部屋で休むか、どちらかがはっきりと寝付くまで――或いは、寝付いたフリをするまで――片方が住処すみかを去る。大概、彼の方がそうする。それにそもそもの発端は彼が、今から湖の怪物を見つけに行こう、と言い出した事だ。彼は行きたかったのだから、行けて良かったのだ。

 では、この気持ちは何だろう?

 彼女はベッドを抜け出て、内側を全体的に火傷した手で、湖に面した窓のカーテンを滑らす。常夜灯色の照明を消すと、ガラスを隔てた内と外は、同じ静かさで抱き合った。広いカルデラを満たす水は今や紺青こんじょうの鏡で、それよりも巨大な冷たい暗闇に浮かぶ星々に、初夏の舞踏会のしたくをさせている。給仕係の風が滑らかに、ぬるいアルコールを運んだ。月の足元がふらつく。

 ここの住民は穏やかな夜を愛する様だ。湖と、それをぐるりと取り囲む老緑おいみどりの森との間に、まばらに点在するレストランや飲み屋は、普通の町のそれらよりも早い時間に閉じてしまい、民家の灯りも既にない。人の気配は認められない。

 いや、あれは――

 彼女の目線は、彼女のいるホテルの部屋のすぐ斜め下にある桟橋――その上で揺れる人工的な光をとらえた。

 二人の人間。一人は恋人で、一人はだった。占い師は彼を小舟ボートいざなうと、橋を引き返し、建物の影に消えた。そして残された彼は――

 彼は湖の中心へ向けて漕ぎ始めた。

 彼女は部屋を飛び出した。

 ベッドには誰かがいた。





 数分後、彼女もボートを漕いでいた。何故か恐怖心はなかった。彼を追いかけなくてはならない。不思議な衝動に背中を押されていた。

――私、何でこんな怖い事ができるの? 真っ暗な水たまりの上にひとりぼっち。ひっくり返ったらひとたまりもない。ないのに、何故か、そうはならない様な気がする。いいえ、そうなっても大丈夫な気がする。抜け出すだけ。

――抜け出す? 何から? さっきからなんだか変。おかしな考えが浮かぶ。そしてこの高揚感は何なんだろう。彼に近づく事を、彼を常に視界に入れておく事を、何よりも望んでいるみたい。人肌恋しい地方に長居したせい? ナイーヴな人間のつもりはなかったのに――

 彼の進みは緩やかだった。そして彼女は不自然な程のスピードが出せた。あっという間に距離は縮まった。しかし、手が触れる距離にまで近づく事は何故かできなかった。代わりに、彼女は彼の名を呼んだ。

――? どうして? どうして聞こえないの? こんなに叫んでいるのに――

 彼女は彼の名を呼ぶ。

――! 待って、変だわ。本当は、声なんてちっとも出てない! 叫ぼうとしてるのに、叫んだつもりなのに、私は、私は、ただボートに座って、彼を眺めているだけじゃない! オールさえ持ってない。

――もしや、これは夢? こんなにくっきりしてるのに。現実の私はホテルのベッドで眠ってるって事なの?

――よくよく考えたら、私、てのひらに火傷なんてしてない。なのにこの世界では、はっきりとある。明らかな火傷。しかもつい昨日出来たものみたい。全然痛まないのにね。あれ、そういえば私は灯りも持ってない。現実なら手元が見える訳ないわ。

――そうだ、このボートだって。このボートだって何処から湧いて来たの? 部屋から桟橋を見てた時は、彼が今乗ってる、あの一隻いっせきしかなかったじゃない。なんだ――

 彼女は納得して落ち着いた。

 という訳でもなかった。夢の中にいると認識する事では、焦燥感は鎮まらない。

――オーケイ、何か目的があるのね。いいわ――

 彼女はもう少し付き合ってみる気になった。振り返ると、岸は既に遥か遠い。彼はまだまだ進んで行くつもりらしい。





 彼女は、オールを置いた彼の十数メートル横を漂った。湖の中心にいるというのはまるで、大きな大きなガラス玉の表面に張り付いているみたいだった。見渡す限り何もない。ぎりぎり円のへりに沿って、グレーの毛羽けばが広がり、そこからは陸があると――自分達以外の何かがあると感じられる。しかし、そこまでの途方もない距離のせいで、無限の無に浮かんでいるよりもかえって、辛い寂しさにさいなまれていただろう。夢でなかったなら。

 彼は、天空から降り注ぐ数千数万の光を全て吸い込まんとするかの如く、大きく手を広げ、上を向いて座っていた。

 ボートは動かない。

――?

 望遠鏡ほどに性能の上がった目を凝らし、彼の顔を見ると、くちびるしきりに動いている。何か喋っているのだ。文章ではない。まるで呪文――おまじないを唱えるかの様に、短い単語を何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も――

 それは突然そこにいた。

 彼女にとってその光景は、前半を寝過ごしてしまった大作映画のクライマックスシーンの様に、自分自身のストーリーから完全に隔絶されたもので、どんな反応も見い出せなかった。あまりにも脈絡がなかった。驚いたり、おののいたりするすきさえなかった。

 一度のまばたきの後、彼のボートの真上に、直径がボクシングリングほどある銀色のフライパンが現れ、浮かんでいた。

 フライパンの胴は、蓋をしたみたいに閉じたフォルムをしており、その中心をちょうど、彼がいる位置と重ねていた。彼女からは左側に伸びて見える取っ手は、底のない円錐がいくつも、少しずつ隙間を開けて重なった構造で、まるで空気中を泳ぐ龍の様に上下左右にうねっている。

 彼女は呆然ぼうぜんと見るしかなかった。彼は歓喜の雄叫びを上げると、フライパンの底に向かって両手を振り出した。

――だめ、やめて! そんな事をするから、あなたはいなくなっての! 残された私がどれだけの年月、途方にくれて悲しんだ事か! 泣き暮らした事か!

――そうか、そうだ。この世界はただの夢じゃない。ここは、現実で居合わせる事が出来なかった、知る事が出来なかった――

 閃光。

 目が眩んだ一瞬に、波が立ち、ボートを転覆させた。彼女は濃い鉛色なまりいろに飲まれ、反射的にもがいた。本当の湖においてそうな様に、浮上は出来た。だが、どこにも液体の感触がない。また、だいぶ水を飲んだはずなのに苦しくもない。

――あの人はどうなった?

 そばに明かりが落ちている。水面の一部が黄緑のサーチライトで真上から照らされている。光線を目でたどって行くと、ほとんど見上げる角度になった所に、彼はいた。

 半透明になって。

 彼は、あお向けで腕と脚と頭をだらりと投げ出した、人型ひとがたのゼラチンだった。微かに識別可能な骨格のあちこちに、赤いつたの様な稲妻が絡みついている。渦を巻く水銀となった天井へ向けて、それはサーカスのブランコみたいに、ゆっくりと、ゆっくりと、上がっていった。そして、もう、まもなく――

――いけない! やめて! 連れていかないで! 私をひとりにしな――

 閃光。

 今度の波は泥の様に黒く、重かった。彼女は深く深く、地球の芯に届くほどずっと沈められて行くのを感じた。息苦しくはなかった。掌が燃える様に痛んだ。

――何故? 何故なの? 手の中だけが、やたら熱い。ここは何処? 私は今、真っ直ぐなの? 逆さまなの? だめ、もう耐えられない。熱い! 早く、早く手を離さなきゃ。もう離すんだ! 離す! 離す! 離す! 離――

――離す?





「大丈夫ですよ」大柄な男が言った。

 彼女は雑居ビルの一室で我に返った。掌を見つめていた。もう、ちっとも熱くはない。火傷の痕もない。

「お帰りなさい。どうでしたか?」

 そうだ、ここは――



   あなたの心の火傷、癒します

     人生相談・結婚相談

     浮気調査・人探し

  当ビル3F (突き当りEV在り)


       翡 翠 の 山 羊



 彼女は振り返って、後ろのガラス越しに反転した文字を読んだ。体を戻すと、目の前の真四角なテーブルには金色で装飾されたあいのベルベットが掛けてあって、その上に薄緑色の、おそらくは珍しい宝石でできた丸い球が乗っている。テーブルを挟んで向かい側に座る男は、おおらかな口調で続けた。

「お目当ての場面へは、たどり着けましたか? ご心配なく。先に説明いたしました通り、ジェイドに触れる事により見えた過去の光景は、あなた自身に関するもの以外、全て実際にあった出来事だと百パーセント保障できます。ここだけの話ですが、某王国で起きた首相暗殺未遂事件――数年前、世界を震え上がらせた、あの事件です――この首謀者の居場所を特定したのは、実は私なのです。

 さあ、どうでしょう。お話頂けますか? 喧嘩の後、あなたのフィアンセが何処へ行ってしまったのか、判明なさいましたか? もしや、辛い場面に遭遇してしまいましたか? それでも知らないで苦しむよりは、よっぽど良いのです。今、一時いっときだけの悲しみにできるのですから。さあ、どうぞ、全て私に掃き出してください。さあ」

 彼女はまだ、思考の整理ができないでいた。ただただ、ぼんやりと男の顔を眺めていた。何処から、何から、話せば良いのだろうかと。

――!

 彼女は椅子から飛び上がった。素早く後退りすると、窓ガラスに背中を貼り付けたまま、わめく様に質問をぶつけた。怯えていた。

「混乱されていますね。そうでしょうとも。大丈夫です。きっと傷は癒えます。しかしその為にはまず、詳しく話して頂かないと。私は何も見ていないのです。さあ、こちらへ。大丈夫です。私はあなたの力になれます」

 静かに立ち上がり、彼女に近づいて行きながら、は優し気に言った。

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火傷 タチ・ストローベリ @tachistrawbury

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