八話 犬猿

 狭い部屋の中で二人の女が言い争いをしている。耳障りな罵倒が、鼓膜に相当する器官を痛めつけた。

「いいから返しなさいよ、筋肉女」椎倉と名乗っていた短髪の方が、金切声で言う。

「ダメに決まってんだろ、根暗女」二階堂と呼ばれている傷だらけの方が、一蹴した。

「私は根暗じゃない」

「霊媒なんてみんな根暗だろ」

「これだから世間を知らない奴は。あんたどこの家のモンよ」

 椎倉が眉間を絞った。

「いい歳して中学生みたいな脅し文句を使うなよ。恥ずかしい」

 二階堂が鼻を鳴らす。

「こ、この、言わせておけば」

「霊を降ろしていないお前なんか、怖くも何ともねえ。一人で吠えてろ」

 はたから見れば、二人とも幼い子供のようだった。小児的な言い争いに中身はない。しかし人間は、時に生産性のない会話を嗜むらしい。

「じゃ、じゃあ、いつ返してくれんのよお」

 ついに椎倉が泣き出きた。中性的な顔に涙が浮かぶ。やはり嗜好の一種ではなかったようだ。

「あーらら。しーらね」

 泣かせた本人は知らず顔だ。

 椎倉は口を真一文に引いて堪えようとしていたようだが、その健闘も虚しく、哀れ雫が頬を伝う。

 霊が抜けて人格を取り戻した椎倉は、存外に泣き虫だった。ここに来るまでの道中でも二階堂に何回も言い負かされ、涙を流していた。

 数刻前を思い出す。


 二階堂らの戦いに闖入ちんにゅうしてきた顔のない怪物は譫言を残して、文字通り溶解した。

 その正体はわからず終いだったが、自身と同じ匂いのする怪物は、おそらく出自が近いと思われた。

 強力な霊体を降ろしていた椎倉は、本来の人格を取り戻すやいなや泣き出し、二階堂に縋りついた。


 経路を通ってきた霊体は、雅な男だった。

 現代の服とはまた違った趣の衣装に身を包んだ彼は、呆けた顔でしばらく辺りを彷徨いていたが、出られないことを悟ったのか背子を見やり、話し合いを提案した。

 異物──この呼び名はどうにも気に食わない──をどう使いたいのか、と。

 背子らの目的は既に聞き及んでいた。人間的な視点で考えれば頷ける内容だ。故に彼女とは契約を結んでいた。それは生存を諦める踏ん切りにもなった。

 雅な男が持つ動機も聞いた。彼の言う宿敵の危険性。争いが長引けば人死にが増えるだけ。個人的な目的を果たした後は、異物を消去して人々に安寧を戻したい。などと熱っぽく語っていた。

 背子が男に賛同することはなかった。彼女は幼い顔には似つかわしくない、どこか大人びた眼を湛えて、ただ無表情にかぶりを振るばかりだった。歳は十になるかどうか。そんな幼い姿とは裏腹に彼女の所作はやはり子供らしくなかった。

「ならばあの男と出くわす前に流用を終えた方がいい」

 雅な男はそう言うと、異物──やはり気に入らない──の損失を瞬時に修復させた。


 そして。

 現世での解凍を済ませて、今に至る。

 二階堂も椎倉も肝が据わっているのか、あるいは、ただ阿呆なのか。人外である自分と普通に接した後、口喧嘩を始めた。

「鼻水ズビズビ女、汚え汁を部屋に垂らすんじゃねえよ」

 二階堂が八重歯を剥いて毒を吐いた。

「元から汚いわよ、狭いし暗いし汚い。私の豪邸を見せてあげたいくらい。庶民には想像できない規模を前にして、あんたなんか失禁するわよ」

 椎倉が声をが震わせて、よくわからない見栄を張った。

「くだらね。文句があるなら出て行けよ」

を返してくれるまで帰らない」

「返すわけねえだろ。あんな危ねえ奴」

「こ……の、彼を誰だと思って」

 もはや眺めているのもうんざりだ。短い余生を無駄に費やしたくはなかった。有無を言わさず流用されるところを、どうにか手に入れた僅かな時間。それを大切にしたかった。

「少しいいか、二人とも」

 二人がこちらを振り向く。無言で見つめられて、何を言うか逡巡したが、まずは。

「君たち、人間的に見ても頭が悪いな」

 冷房の利いた部屋が静まり返る。

 何か言い返そうとしたのか、口を開こうとする二人を掌で制した。

「生産的に話を進めよう。今の私は力の制限を学習済み。でも気づかれないなんて保証はない。椎倉、君が降ろしていた彼のように怪物じみた嗅覚を持つ者だっているだろう」

 椎倉が鼻を啜りながら首肯する。

 二階堂が渋々といった様子で鼻を鳴らす。

「故に、明日の行動を計画したい。私が背子との間に結んだ契約は、今夜0時から翌日0時までの間しか働かない。それが終われば私は背子に流用されて消える」

 説明していると、客観的に自分の立ち位置を自覚できた。胸部の辺りで妙な痛みが広がる。喉元まで何かが迫り上がってくるような不快感は、後に続く言葉を詰まらせた。

 それでも交渉して得た一日という時間は何よりも貴重だ。人間のように振る舞い人の社会を知る。それを指南してくれる霊能まで付けられたのだから、文句はない。早いところ気分を切り替える必要があった。

「それで?」

 未だ溜飲の下がり切っていなさそうな二階堂から促される。

 彼女は椅子に腰を下ろして、やたらと長い脚を組んだ。

「背子及び二階堂との契約は破れない」

 二階堂から離れることはできないし、力もほとんど出せない。それは背子の世界から脱するための契約条件だった。ここからは決して手の届かない場所で、今も背子と繋がっている。

「なんか当たり前に進めてるけどさ、ハイコって誰よ」

 涙の跡を頬に作った椎倉が首を捻る。

「私の背後霊みたいなモンだ。いいから黙って聞いとけよ」

「んだと、この……」

「もう、いいから。続けても構わないね?」

 思わず嘆息した。頭部の奥がちりちりと熱を持ち、胃と呼称される器官の辺りが重たくなる。どれも初めて経験する感触だった。

「だからまずは、椎倉。君には私を諦めて欲しい。つまりはが言っていた悲願は断念してくれ」 

 椎倉の望みと彼の悲願は一致している。あるいは、椎倉が彼の望みを叶えたいと心から願っているのかもしれなかった。

「それについて、彼はなにか言っていた?」

「ああ。言伝を預かっている」

 首肯して、記憶領域を手繰った。

「まずはご免。長い時間、君たち一家を拘束してしまった」

「そ、そんな滅相も……」

 椎倉が両手で口元を覆い、恐れ多いとばかりに眉を八の字に曲げた。

「私は今、少々特殊な場所に居てね。自力での脱出は困難だ。故に手前勝手で申し訳ないが、私の悲願は一先ず放念してくれ。争いからも身を引くんだ。二階堂らと異物が交わした契約が満了すれば、異物は消えて、巻き込まる人もいなくなる」

 椎倉は骨が折れるような勢いで首肯を続けていた。彼からの言葉が、相当に大切なのだろう。椎倉の猫のような瞳には、憧憬を超えた信仰が宿っているように見えた。

「そして同時に、が君を狙う理由もなくなる。野放しにしておくには危険過ぎる男、あるいは女だが、仕方ない」

「そんな……」椎倉が絶望の表情で俯く。

「何かの間違いでここを出られたら、また付き合ってくれると嬉しい」

 以上だ、と存外にあっさりとした言伝を締めくくる。

 椎倉は口を開けて、しばらく呆けていた。

 二階堂は興味が失せたのか、椅子の肘掛けで頬杖を突いて欠伸をした。

「やっぱり、返しなさいよ……」

 沈黙を経て、椎倉が二階堂に迫った。

「しつこい」

「事の重大さが理解できていないようね」

 椎倉が二階堂の肩を掴んだ。腰を屈めて顔を近づける。

「彼の悲願が果たされなければ、世界は丸ごと大変なことになるのよ」

 椎倉の声音は、幾分か落ち着きを取り戻していた。それはどこか幼い子を諭すような口ぶりだった。

「私を殺そうとした奴に言われてもな」

「それはねえ……」

 椎倉の言葉を遮って、二階堂が続ける。

「それに、お前の話は要領を得ないんだよ。自分本位で話を進めるな。正直なに言ってんのか、ほとんどわかんねえよ」

「詳らかに話せば、彼を返してくれるの?」

「さあな。話の内容次第だ」

 二階堂が椎倉の手を払った。

「わかった」

 椎倉は頷き、語り始めた。


「彼の目的は二つ。一つは異物争いに終止符を打ち、無用な人死にを止める事」

 椎倉の人差し指が立った。

「待て」二階堂が早々に口を挟む。

「な、なによ」

「私を殺そうとしたくせに、人死にを防ぎたいだあ? 言動が矛盾してんだよ」

 睨めつけられた椎倉は嘆息すると、見下した目でかぶりを振った。

「うぜえ」

「視野が狭いわね。彼はただ、あなた一人と大勢の命を天秤にかけて、重たい方を選んだに過ぎない」

「あっそ」

「続けるわよ。目的その二」

 こっちの方が重要、と椎倉は目を見開き親指を立て、

「彼の悲願──道摩法師を打倒する事」

 陰陰滅々たる声音で言った。

「はあ?」

 二階堂が立ち上がり、

「まさかだろ」

 口の端を上げた。

「そのまさかよ」

「じゃあ、降ろしていた霊って」

「ええ──安倍晴明様、その人よ」

 そう言い切った椎倉は誇らしげだった。

 意識を獲得した際に、人類の情報や言語も一通り頭に入っていた。それに誤りがなければ、椎倉が言った二人は稀代の陰陽師であり故人の筈だ。

「……妄想癖まであんのかよ」

 それは人外視点からしても突拍子のない話だと感じられた。二階堂の半信半疑な顔にも頷ける。

「あんたが信じようが信じまいが、事実は変わらないわ」

「そもそもお前と安倍晴明に何の因果関係があるんだよ」

「ああ。そういえばフルネームを名乗っていなかったわね」

 椎倉は胸を張ると、

「土御門椎倉」

 ふんすと鼻から息を出して、

「安倍氏嫡流の本家本元そのものよ」

 やはり誇らしげに言った。

「嘘くせえ。土御門家を騙る変人なんて、世にごまんといるわけだしなあ」

「私は本物よ!」

「偽物はみんなそう言う」

「じゃあ、これならどう?」

 椎倉は財布から一枚のカードを取り出し、二階堂へ突きつけた。

 横から覗き込むと、そこには確かに『土御門椎倉』の文字が踊っていた。写真も本人で間違いない。それはおそらく身分証明証と呼ばれる代物だと思われた。

「霊能はみんな身分を偽装しやがるから、そんなもんは証明にならねえ」

「私たちは家に誇りを持っているの。いくら呪詛の類を受けようが、名を騙ることは絶対にしない」

 椎倉が眉間を絞り、二階堂も負けじと睨め付けた。またしても無用な口喧嘩が始まる予感がした。

「二人とも、話がずれ始めている」

 口を挟まざるを得なかった。

「だって、コイツが……」

 駄々を捏ねる子供のように、椎倉が二階堂を指差した。

「確かに、その晴明という霊の存在を証明をすることはできない」

「はん!」

 二階堂の顔がいやらしく歪む。

「当然だ」

「だが、その事実確認に重きを置く必要はないだろう。一先ずは、二階堂も晴明が居ると仮定して聞くんだ」

 踏ん反り返る二階堂を横目に、雅な男──椎倉曰く晴明の話を思い出す。

「今、椎倉が伝えたいのは、晴明と私の関係性。そして道摩法師を放置することによる危険性じゃないのか?」

 椎倉の話が一段落しないと、計画を練る時間が削られる一方だ。

 晴明の証明が叶わない彼女は、心底から腑に落ちないといった表情で不満そうに口角を曲げていたが、説明を再開した。

「道摩法師は何処かで生きている。だけど所在が知れず、晴明様は平安の世から彼の行方を求め続けているの」

 それは人間的に考えなくとも、気の遠くなる話だった。常人であれば気が触れてしまうほどの年月を晴明は彷徨い続けている。あるいは既に狂人の域へと足を踏み入れているのかもしれなかった。

「魂があれば見つけるのは簡単よ。綿密に隠そうとしても無駄。晴明様が道摩法師の匂いを辿れない筈がない」

「犬みてえ」二階堂がまた余計な口を挟む。

「二階堂」

 彼女と視線を合わせてかぶりを振った。本当に小児的な女だ。

「もはや何処にも居ないという可能性は?」

 話を促すために訊いた。

 おそろしく長い時間が経過していることに加えて、魂すら感知できないのであれば。道摩法師なる存在は何処にも居ないのではないだろうか。そう思わざるを得ない。

「道摩法師は現存している。何故なら、晴明様が現存しているからよ。それがこの世界の法則なの」

 椎倉は、晴明と同じ意見を口にした。

 晴明の言によれば、道摩法師と安倍晴明。互いは鏡写しである。道摩法師に斬首されるも蘇生を果たした晴明のように、また晴明に斬首された道摩法師も蘇らない筈がない。

「でも、魂が感じられないんだろう?」

 椎倉は頷くと、

「だから晴明様は一つの仮説に辿り着いた」

 またしても人差し指を立てた。

「道摩法師の魂は既に消えている。だけど彼の記憶は根付いている」

「つまり?」

金烏玉兎集きんうぎょくとしゅう。そこに記された禁呪を道摩法師は知っている」

「き、きんう、なんだ?」

「教養のない女ねえ」

 椎倉は唇の結び目をいやらしく上げた。

 二階堂が舌を打つ。

 いちいち人を煽らないと話を進められない彼女らに、心底から辟易した。

伯道上人はくどうしょうにん様が残した陰陽術の実用書よ」

 伯道上人。晴明が師事したと伝わる文殊菩薩もんじゅぼさつの眷属。かの仙人が残した実用書には、数多の陰陽術が書き記されていて、その中の一つには。

「同書の中には遺伝の禁呪が残されていた。それは自分の子種に記憶を移植し、後世に残すという疑似的な転生技法」

 空隙を経て、椎倉が続ける。

「魂を継げないのであれば、記憶を残して願いを子に託せばいい。道摩法師はそうして今も息づいている」

「そこまでする目的はなんだよ」

 二階堂が訊いた。

「文字通りの世界変革よ」

「いちいち容量を得ないな」

「つまり。道摩法師は現世に不満がある。晴明様が正義漢として語り継がれて、道摩法師が悪鬼として認識されている世の中を変えたいと考えているのよ」

「そこで異物が出てくるのか?」

 二階堂がこちらに視線を投げた。

 椎倉は深く首肯した。

「異物をエネルギー源として、過去と経路を繋げる。そして簠簋抄ほきしょうの書き換えを行う。それが道摩法師の目的だと考えられるわ」

 椎倉の言によれば、時間への干渉を可能とする禁呪も、金烏玉兎集には載っているのだという。

「ああ。因みに、簠簋抄というのは、金烏玉兎集を注釈するとともに読み物として仕上げた書物を指すわ」

 二階堂の疑問に満ちた顔から察したのか椎倉は説明を挟むと、

「その書物が人々の認識を固着させた」

 更に続けた。

「だから簠簋抄の書き換えをしたい。そして今度こそ晴明様を打倒したい」

「後者はまだ理解できる。だけど道摩法師は悪人なんだろ。ホキショとやらに嘘の武勇伝を書き残したいってことか?」

「いや」

 椎倉はかぶりを振ると、

「晴明様曰く。道摩法師は狂人だったが、悪人ではなかった。ただ、晴明という一個に取り憑かれた男だった」

 聖書でも引用するように言葉を並べた。

 晴明の言葉を借りた彼女の顔は恍惚としていた。

「更に曰く」椎倉は接頭語を強調した。

「まだ続くのかよ」

「道摩法師はが気に入らないのだ。陰陽術にて人々を助け導いた記述が一切ない。それが我慢ならないのだ」

「漠然としか知らねえけど、晴明の宿敵で悪人っていう認識だったな」

「ええ。だからそれが気に入らない。世界を過去から変えようとしているのよ」

 椎倉は息を吐くと壁にもたれかかった。その瞳には疲労の色が浮かんでいた。二階堂との戦闘後、その足のまま家に来て熱弁しているのだから無理もない。

 沈黙が訪れる。

 話を咀嚼しているのだろうか。二階堂が顎を撫でながら天井を仰ぐ。

 そして。

「ま、付き合う義理は無いな」

 結論を口にした。

「話聞いてた?」椎倉が凄む。

「お前の話は全て推測だ。仮に道摩法師が居たとしても、それは私に関係ない。怪物との戦いに巻き込まれるリスクは背負えない」

 二階堂は至極冷静に言葉を並べた。先刻まで小児的な言い争いをしていた女とは別人のようだった。

「あのねえ。異物を流用できずとも、道摩法師はいつか禁呪を完成させるわ。そうなったら今あんたが立つ世界ごと上書きされるの。それでも関係ない?」

「論点はそこじゃない」

 二階堂はぴしゃりと一蹴して、

「私が言いたいのは、他人の推測に命を賭けられないってことだ」

 冷たい眼差しを湛えた。

「……懸念はもう一つあるのよ!」

 椎倉は噛みついて離さなかった。

「な、なんだよ」

「もはや道摩法師は道摩法師ではない」

「意味不明」二階堂が嘆いた。

「晴明様曰く──」

「それもう飽きた」

「──道摩法師の魂は既に失せ。ただ独り歩きする肉体と記憶は、やがて狂気の域に達するだろう」

 恍惚の表情を浮かべる椎倉に対して、舌を打つ二階堂。彼女は「つまり?」苛立ちを隠さずに訊いた。

「晴明様の打倒。そして簠簋抄の書き換え。この二つを目指す道摩法師は、本来の道摩法師とは別人ってことよ」

「それのどこがマズイんだ」

「人間は長い時間に耐えられない。精神は磨耗して、いくら引き継いでも記憶は薄れていくでしょう」

 恍惚から転じて沈痛な面持ちになる椎倉。なんとも表情の豊かな人間だ。

「明確な目的だけを濾過して、転身を続けた結果。それを達成するためだけに稼働する怪物が出来上がる」

 思わずその顛末を想像してしまう。本来の魂を失い、記憶だけを延々と継いだ人間の成れの果て。それは新たな命を冒涜し、別の魂へ寄生するに等しい行為。そうして誕生した命は、やはり道摩法師本人であるとは言えないだろう。

「現世の道摩法師は、どうして自分がその目的を達成したいのかも漠然としたまま。だけど目的成就のため、脇目も振らず突き進む」

 やがて記憶も人格も薄れていき、貧弱な精神はいつしか磨耗し切ってしまう。

 濾過された目的を達成するためだけに生き永らえる存在。それは人外目線からしても、怪物だと言わざるを得なかった。

 晴明は道摩法師のことを悪人ではないと言った。しかし独りよがりな願いを後世に継いで他者の人生を拘束する人間が、果たして悪人ではないと言えるのか。あるいは、それこそが狂人と評された所以なのだろうか。

「殺人など厭わないだろう過去の亡霊。精神も倫理も摩耗した道摩法師の贋作。そんな怪物を野放しにしておける?」

 椎倉の瞳には、揺るぎない意志が宿っているように見えた。強い訴えも。道摩法師の打倒を自分の責務だと考えているのだろう。

 後世に生きる他者を拘束している。その点においては、安倍晴明も道摩法師も変わらないように思えた。

 しばらくの沈黙を経た後、二階堂は口を開いた。

「やっぱり、私には関係ねえな」

「は、はあ?」

「筈だとか、おそらくだとか。推測を基盤にして話されても説得力ねえよ」

「わ、分からず屋!」

 椎倉が地団駄を踏んで叫んだ。人間的に見て大人である彼女が地を踏む様は滑稽を通り越して無様だった。

「まあでも。私の目的を果たした後には返してやるよ」

 二階堂はあっさりと言った。

「え、うそ」

 途端に椎倉が地団駄を止める。

「というか、自動的にそうなる」

「よくわからないけど、嘘じゃないわね?」

「ああ。当然、異物の力は流用するけどな」

「返してくれるんだったら、最初からそう言いなさいよね」

 背子とは既に契約済み。流用される未来はどう抗っても変えられない。そもそも力が抑制されている状態で、餌の役割を果たせるかどうかもわからなかった。

「その後で、勝手に怨讐バトルを繰り広げてくれればいい。私に迷惑のかからないところでな。餌は他を当たれ」

 二階堂の目はどこにも向いていなかった。遠い何かへと想いを馳せるかのような眼差しを湛えていた。

「晴明ほどじゃないが、私もそれなりに長い間、目的のためにもがいてきた。少しの懸念も許容できない」

「あっそ」

 椎倉は投げやりに言って、

「でもまあいいわ」

 大きな嘆息を漏らした。

「振り出しには戻っちゃうけど、彼が帰ってきてくれるなら、いくらでもやり直せる」

 長い会話を終えて、二人はようやく口を閉じた。部屋に沈黙が戻り、冷房の駆動音だけが自己を主張した。

「……そろそろ明日の計画を立ててもいいだろうか」

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