七話 超人

 闇夜を疾駆する愛車ネイキッドが、エンジン音だけを響かせる。背子の力量であれば、二階堂はもちろんのこと、単車も紫電で包み込めた。

 人の目を欺き、道交法など無視して単車を爆走させる。

 背後では時速八〇キロに追い縋る亀のような怪異が宙を駆けていた。おそらく先刻の霊能が放った追手だろう。

「無病息災混沌邪悪」亀の怪異が吼える。

「背子、もう一度、下の名を使うぞ」

『もう説得済だよ』

 車の間隙を縫い、生暖かい夏の空気を裂きながら疾る。奔る。横断歩道に差し掛かかれば紫電を車輪で暴発させて、車体を跳ね上げ飛び越えさせた。曲がり角ではさながらレーサーのように進行方向へ体重を乗せて速度を殺さなかった。

「花子さん、いらっしゃいますか!」ヘルメットの中でくぐもった声が反響した。

「……はーい」平時より少し不満気な王女の返事が頭の奥で聞こえた。

 果たして、

「無病息災混──」

 怪物の咆哮が霧散した。

 辺り一体の浮遊霊が消滅する。

 それと同時に紫電が解けて、二階堂は現世に姿を現した。徐々に速度を落とし、何事もなかったかのように車の群れに紛れる。

「これでようやく一安心かな」

『ああ。これからどうする』

「家に帰ろう。異物を追いかけ回して、虫使いと対峙して、馬鹿みてえに強い霊能から漁夫の利を攫って、流石に限界だ」

 自宅は大浜海岸からそう遠くない場所にある。若干の懸念が脳裏を過った。しかし他に行く宛ても無い。勤務先の零細事務所もとうに店仕舞いをしている時間だ。

『わかった。実はちょっとした問題が発生していてな。家に着いたら話そう』

「おいおい。まだなんかあんのかよ」

 肺から息を絞り出した。ただでさえ暑苦しいヘルメットの中を蒸す。

 帰路は平穏そのものだった。

 駐車場に単車を駐めてヘルメットを脱ぐ。

 汗で額に張り付いた前髪を掻き上げた。外気温は鉄帽子の中とあまり変わらないように感じた。

 マンションフレグランス。三階建ての小さく寂れたそこは、マンションというよりアパートという風体をしていた。

 壁に張り付く建物の名表を視界に入れるといつも心が落ち着いた。気休めでも霊能跋扈する殺伐とした空間から、何の変哲もない日常に帰って来れたと実感するからだ。

 草叢で鳴く夏虫の音色が耳に心地良い。

 三階に上がり自宅へ入る。と、誰が迎えるわけでもないのに、「ただいま」掠れる声を漏らした。喉が渇いて仕方がない。

『はい、おかえり。それで、さっき言った問題についてなんだが』

「ああ。もう。今はとにかくシャワーが先」

 徐に服を脱いで、乱雑に床へ放った。足下の下着を蹴り通路の端に寄せる。

『はいはい。お前の裸なんて見たくないから眠ってるよ。終わったら起こしてくれ』

「馬鹿。スカウトされねえのがおかしいくらいのプロモーションだろうが」

『言ってろ』

 通路とバスルームは直結していた。段差を上がればすぐに洗面台が出迎える。その側には窮屈そうに浴槽が鎮座していた。

 冷水と温水。二つのハンドルを回して適温に調節。念願のシャワーを浴びた。虫使いに焼かれた腕の火傷がひどく痛む。それでも汗が洗い流される心地良さは変わらなかった。

 思考に耽る。

 背子との経路を広げるために、今まで試行錯誤を重ねてきた。しかし二者間の隔たりは尋常ではなく、経路の拡大は困難を極めた。

 背子も二階堂と繋がっているのが限界だった。むしろ、それが叶っているだけでも奇跡と言えた。

 辿り着いた結論は、論理的な帯域の拡大だった。経路は広ければいいというものではない。帯域が狭ければ背子が通れない。彼女の容量は規格外だ。

 新たな問題として浮上した背子との経路増量だが、それは異物が解決してくれる。高密度な霊力を流用し、二階堂という宛先に向けて複数の経路を繋げれば、論理的な帯域確保が可能だと確信していた。

 これでようやく目的を果たせる。王女も晴れて自由の身だ。異物の到来は、まさに天からの授け物だった。

「さて、と」

 湯船に浸かる気はなかった。ただ汗を流せればそれだけで十分だ。化粧を落とし、タオルで水気を取り、浴びるように化粧水を顔にかけた。時間にして二十分にも満たないだろう湯浴みを終えて、浴室を出る。涼しい空気が全身を撫でた。冷蔵庫から水を取り出して一息に煽る。

 王女の顕現により、道中の霊的な追跡は全て振り切れている筈だった。が、いつ新手に襲われてもおかしくはない。急ぐに越したことはないだろう。

 狭いワンルームの明かりを点けて、室内干しされたままの下着を着用した。

「終わったぞ──」

 椅子に座り、

「──それで問題ってなんだ」

 背子に訊いた。

『ああ。送られてきた異物なんだが、干渉できない状態になっている』

「ど、どういうことだよ」

『雑魚ならそのまま送られてくるが、思いの外、異物の容量が膨大だったみたいだ。狭い帯域へ無理に通したせいでロスが発生している。経路の狭隘を利用して自己圧縮もしているようで、損失を復元させても、解凍とロックの解除に時間がかかりそうだ』

「それのどこがちょっとした問題だよ」

 気の遠くなりそうな課題を前にして、思わず天井を仰いだ。背子と一体に成れば、全ては解決するというのに。

「時間は。どのくらい必要だ」

『最低でも一日。場合によっては二日』

「……遅過ぎる」

 大浜海岸で見た超人。両替町の怪物。軒下のような天才。この争いには、想像以上に能力の高い霊能が参加している。

 二階堂は彼らから集中的に狙われる状況にあるのだから、自宅の場所を嗅ぎつけられるのも時間の問題だろう。

 王女の力を借りたとはいえ、異物を掠め取れたのは、奇跡に近い。それだけでも命を賭けた博打だったというのに、真正面から彼ら怪物と対峙しようものなら、今度こそ命は無いだろう。

『そう言われてもな。こればかりはどうしようもない。諦めて今日は寝ろ。万一にも霊能の気配が近づいてきたら、叩き起こしてやるからさ』

「ああ……そうだな。そうするよ」

 本棚の中段に備わっている引き出しを開けて薬箱を取り出す。

 痛み止めの軟膏を患部に塗り、左腕に包帯を巻いた。気休めの処置でも痛みが幾らか引いたように感じた。

 髪を乾かして、部屋の明かりを消す。

 薄闇を手探りで進んだ。

 ベッドへ身体を投げ出すと、まるで背中に錘がつけられているかのように勢いよく倒れ込んだ。骨組みが悲鳴を上げて、疲弊した肉体を迎える。

 瞼を閉じると、刺すような目の渇きを今更ながらに思い出した。枕元に置いたままにしてある目薬を手で探り、闇の中で瞳に差す。

 染み渡る清涼感を味わいながら、微睡に落ちた。


 目覚めると、視界には見慣れた白い天井が広がった。昨日の目まぐるしい出来事のせいで自室にさえ現実感を見出せなかった。

 事態は進展しているが、置かれている状況は変わらない。薄氷の上に成り立っている現状は、いつ瓦解してもおかしくなかった。二階堂は他の霊能に対して、何も有利に立てていない。背子と一体になるより先に、昨日の怪物らに襲われれば、今度こそ命を拾えないだろう。

 起き上がり、背子に訊く。

「進捗はどうだ」

『たぶん二割くらいかな。なにせ感覚的な作業だから、正確な進捗はわからん』

「今日中にいけそうか?」

『無理だな』ぴしゃりと即答される。

 長めに有給を取っておいて正解だった。

『でも成果がなかったわけじゃない。ロックの開錠条件がわかった』

「と言うと?」

『異物の願望を叶えて、ようやく力の流用が図れるようになるみたいだ』

「どうしてそんなことに……」

 そして何故、背子は開錠の条件を理解することができたのか。

『異物本人がそう言っているんだ』

「え、対話できる状態なのか?」

『ああ。復元の途中で可能になった』

「それで、その願望ってのは」

 嫌な予感がした。到底、自分では叶えられそうにない要求ではないのか、と。寝起きのぼんやりした意識が、早まる心臓の鼓動で明瞭になっていく。

『生きていたい。存在していたい』

「……」不可能の単語が即座に浮かんだ。

 背を反り唸る。骨に溜まった気泡が小気味の良い音を立てて弾けた。仰いだ天井はやはり白で。頭を抱えたくなる現状など知らず顔だった。

『まあ、それは難しいと返答したよ』

「……だよな」

 残酷だが、異物は他に類を見ない怪物から一斉に狙われる身。ただ生存したい。異物にはそんな真っ当で当然のように主張できる権利すら許されていなかった。

 僅かながら同情の念も抱いている。が、霊能から異物を守れる自信はないし、二階堂にも異物の力を流用しなければならない事情があった。

『だから代わりの条件を提示された。一日だけでも自由の身で、人間の世界を体感したいんだと』

「それも難しいな。道中で危ねえ連中と遭遇するに決まってる。人道的じゃないが、条件を無視して解錠はできないのか?」

『可能だが、一週間以上かかると思う』

「嘘だろ……」

 危険を冒してでも、異物に付き合う必要がありそうだった。一週間もの長期間を逃げ続ける自信はない。

『私らを含め、頭が終わってる霊能に狙われている自覚はあるらしい。生存の道は諦めるから、せめてこのくらいは許容してほしいとのことだ』

 承諾せざるを得ないだろう。

「わかった。それにしても、よく私らにそんな話を持ちかけたな。異物から見れば、他の霊能も私らも変わらないだろうに」

『昨日会った霊能の中で一番マシだから。そんなことを言っていたな』

 至極妥当な所感だった。異物がどれだけの霊能に襲われたのかは知る由もないが、両替町の怪物や大浜海岸での超人に比べれば、二階堂など赤子のようなものだ。

「じゃあ、差し当たって私がやらなきゃいけないことは無いな。シャワー浴びてくる」

 強いて言うならば、背子の作業が早く終わるように祈ることくらいだった。

『まったく羨ましい限りだよ。私は徹夜で作業し続けているというのに』

「悪いとは思ってるよ。でも、お前は寝れない身体だろ?」

『そうだけど、精神は疲弊するんだからな』

「ああ。悪いとは思ってるよ」言いつつ廊下に繋がる襖に手をかけた時。

 玄関の鐘が遮った。

 心臓が跳ね上がり、耳朶の裏でどくどくと鈍い音を立て始める。

『……出ないのか?』

 背子の声には確かな緊張がはらんでいた。

「平日の朝から来る奴なんて、宗教の勧誘くらいだし。無視だ無視」

 とは言ったものの、脳裏では最悪な展開を想像していた。

 王女の顕現により、昨晩の霊的な追跡は全て振り切れている筈。周囲一体の浮遊霊を食い荒らすということは、紫電を纏った追跡者も霊的存在も等しく無力化されると同義。背子の空間に居る異物の力を追うこともできないだろう。

 こうも早く居場所を嗅ぎつけられるとしたら、それは相当な実力者でしかあり得ない。

 昨日に見えた霊能らの姿が脳裏を過る。

 鐘は再度、鳴った。鳴った。鳴った。

 ワンルームを挟んだ襖の更に廊下の向こう側から、女の声が漏れ出した。

「居るんだろう」

「……クソ」予想は的中したようだった。

『ここまで接近されて、私が気づけないなんて。気をつけろ二階堂。相手は相当……』

 背子は言葉を切った。後に続く言葉は言外に伝わった。

「出てこないなら扉を壊すが、構わないね」

「構うわボケ! 賃貸を知らねえのか! 少し待ってろ!」

 廊下の奥へ向かって叫ぶと、クローゼットから適当な服を見繕った。戦闘に備えた軽装に身を包み、愛用の帽子を被る。

 襖を開き廊下へ踏み出した。

 はめ殺しの窓から朝菊の明かりが漏れ出して、廊下に薄明を齎している。

 霊的措置の施されていない鉄扉など霊能の前では紙切れに等しい。距離を取り奥の扉に向かって言葉を投げる。

「平日の朝から女性の家を訪ねるなんて、随分と熱烈なアプローチじゃないか」

「ここを開けてもらえるかな」

 そう言われて素直に開けるほど阿呆ではなかった。

「存外に理性的な奴だな。霊能なんて、窓でも扉でも突き破って侵入する手合いばかりだと思ってたが」

 乾いた唇を舐めて、唾液を飲み込んだ。

「私は話し合いに来たんだ」

 二階堂の緊張など知らず、扉の向こう側にいる女は理性的に言葉を並べた。

「このまま聞こう……要件は」

「言うまでもないだろう」

「断ると言ったら」

「もちろん殺す」

 それが当然であるかのように、女は涼しげに言った。どう理性的に繕っても所詮は霊能の類。覚悟を決める他ない。

「要求に応じてくれるなら、君たちに手は出さない。なにも私は人を殺したいわけでも争いたいわけでもないからね」

「……こんな住宅地でやり合いたくねえ」

「そう言うだろうと思って、既に会場は考えてある」

「ご丁寧にどうも。場所は?」

「安倍川大橋の下。そこに人払いの結界を張るつもりだ」

「わかった。先に行け」

「言っておくけど、逃げても無駄だよ」

 頭の隅で密かに考えていたことを指摘されて、胸の辺りが急速に冷えた。背中にじんわりと広がる汗を感じながら舌を打つ。

「私の式神が既に君の匂いを覚えている。仮令、地球の裏側に居ようとも追跡が可能だ」

「わかったから、さっさと行けよ。逃げる気なんて更々ねえ」

 女の一言一句が嘘ではないと思えた。脅しでもないだろう。彼女の言葉には有言実行の殺意が込められていた。

「今が六時半より少し前だから、七時までに現地に来ること。一秒でも過ぎた場合は、さっき言った通りだ」

「急かし過ぎだろ。もう少し時間をくれ」

「駄目だ。私は早いところアレを手中に収めなければならない。一秒でも惜しいんだ。それに君には単車があるだろう。時間は足りると思うけど」

「……わかったよ」

「それじゃあ、待ってるからね」

 女はそれだけ言い残すと、扉の向こう側で気配を霧散させた。おそらく本人ではなく使い魔の類だったのだろう。

『二階堂。アイツは多分、昨夜の海岸に居た霊能だぞ』

「だろうな」

 単車のことを知っている物言い。短時間で二階堂の居場所を突き止めた実力。そして式神。どの要素を取っても昨夜の超人であることを示していた。

「万一にも別人って可能性はないかなあ」

 淡い希望を口にする。

『それはないだろう。驚くことに王女自ら協力を申し出て来ているからな』

「嘘だろ」

 王女の腰は重たい。背子と二階堂で解決可能な脅威に対しては、いくら説得しようとも首を縦に振らなかった。そんな彼女が自ら戦いに志願するなど初めてのことだ。

 それは頼もしい申し出だったが、同時に胸中の不安を飽和させた。王女が限りある存在力を賭けてまで協力するということは、相対する敵がそれほど強大なことを意味しているからだった。

『とりあえず現地へ向かおう。作戦は道中で練るしかない』

「そうだな」

 許された時間は三十分にも満たない。

 壁に掛けてある単車の鍵を手に取り、鉄扉を開けた。階段を足速に降りて、駐車場へと向かう。狭い駐輪場に佇む単車は、自身を主張するように黒い巨躯を光らせていた。

 ヘルメットを装着して、サイドスタンドを蹴り上げる。単車に跨り、メインキーを回してスタートボタンを押下した。

 太腿に伝わるエンジンの鼓動は、引けた腰を奮い立たせてくれた。眼前に据えられた懸念に囚われている場合ではない。今はただ超人に打ち勝つ方法を練らなければならなかった。

 発車させた単車と共に風を切りながら背子に呼びかける。

 応答したのは彼女だけではなかった。


 安倍川大橋は平時と変わらず長大な体躯を対岸へと掛けていた。しかしその上を走る車は一台もない。それどころか周囲には人の気配すら感じられなかった。既に人払いの結界とやらが展開されているのだろう。

 路傍に単車を駐めて、河原へと降りた。砂利が足裏で忙しなく合唱する。

 橋の下。夏の陽光を退ける影の中で華奢な女が一人。佇んでいた。

「やっぱそうだよな……」

 白黒ボーダーのシャツと紺色パンツ。男らしい短髪。華奢な体躯。彼女は間違いなく昨夜の超人だった。

 彼女の基本戦術は、式神と呼ばれる怪異の使役だと思われた。おそらく間合いは広い。

 接近し過ぎないように、ある程度の距離を担保して立ち止まった。

「昨夜はどうも──」

 超人が笑みを浮かべる。

「──アレを何処にやった?」

「ここからじゃ手が届かない、遠い場所に」

 嘘は言っていなかった。

 超人は言葉を返してこなかった。その代わりと言わんばかりに力の渦が巻き起こる。彼女を避けるようにして砂利が退き、草木が乱れた。

 紫電の嵐に曝された肌が粟立つ。

「うん。やっぱり、道中で気が変わったりはしなかったようだ」

『二階堂、手筈通りに』

 背子の声とともに紫電が全身を包む。

「ああ。わかってる」

 思わず生唾を飲み込んだ。震える身体を鼓舞するように息を吐く。

「最後に聞くよ。考え直すつもりは?」

「ねえよ」

 腰を落として身構えた。火傷の痛みが肌を舐るように疼いた。

「そうか。じゃあお別れだ──」

 紫電の嵐が急速に収まると、女の身体に纏わり付いた。辺りに静けさが戻る。

 間隙。

「──たつ

 女が言った。

 数十メートル離れた場所で、黄金の巨躯が顕れた。それは昨夜に目撃した怪異の蛇と相違なかった。地を這う蛇が、凄まじい速度で迫る。砂利が飛沫のように舞った。

 強化された動体視力は、不規則な蛇の動作を捉えていた。足裏に力を込めて右前方へと駆ける。おどろおどろしい牙を尻目に走り抜けた。が、支柱のように太い蛇の胴体は存外に器用な動きを見せて、瞬く間に二階堂の身体を絡め取った。万力のごとく締め上げられて、至る所で骨の軋む音を聞く。

「来い!」苦悶の声を絞り出す。

 と、蛇の胴体が一部霧散した。

 王女の刹那0.01秒的顕現が僅かな浮遊霊と共に蛇を喰らう。

 拘束から脱すると、そのまま蟠を巻く胴へと突進した。

 右手を眼前に掲げると、

「来い!」

 やはり蛇の一部が霧散した。

 拓かれた道を進み、超人へと迫る。至近距離で視線が交わった。

 歯の隙間から抜けるような息を吐き、右拳を放つ。

 中指骨が女の顎に届くことはなかった。寸止めのフェイントだ。

 彼女が臆する様子はなかった。肝が据わっているのか反応できなかったのかは判別つかないが、動きはそれだけに終わらない。

 瞬時に背後へと回り、今度こそ一撃を入れるための蹴りを放った。狙うは頸椎。紫電の強化を限界にまで引き上げたそれが入れば、骨は容易に砕けるだろう。超人相手に手加減をする余裕はなかった。

 殺さなければ、殺される。

 超人が身を捩った。

 蹴りが空振りに終わる。

 足首を掴まれ、

 女の呟きが聞こえた。

「こ、来い!」取り乱しながら叫ぶ。

 右脚を掴む握力が弱まった。超人の纏う紫電が一部解除されたからだろう。

 脳裏で警笛が鳴った。

 死の予感を察知し、後方へ大きく跳ぶ。

 瞬間。

 赤い炎柱が目に前で立ち上がった。おそろしい熱波が顔を舐る。

 一息つく間もなく、背後で声がした。

「二つも破ったな」

 振り向く暇はなかった。

 脇腹に痛烈な衝撃が走る。肺の空気が一息に漏れ出した。

 気づいた時には砂利の上を転がっていた。

 四つ這いになり血反吐を撒き散らす。

 痛みに支配される思考を振り切って、瞬時に立ち上がった。

 再び背後から声がした。

「二つも破ったな」

 今度は間に合った。即座に腹這いになる。後頭部で空を切る何かを感じた。跳ねるように体勢を戻し、背後の何かへと回し蹴りを放つ。しかし手応えがない。

 爪先が捉えた先には、古めかしい袴を着た男が居た。彼には間違いなく筋骨強化の一撃が入っていたが、虚な目で佇む男には堪えた様子がまるでなかった。

「二つも破ったな」

 怪異の持つ条件が読めない。

 だから、「来い!」叫ぶ他なかった。

 脚に触れた先から男の身体が瓦解する。

 と、再び足元から碧い炎が立ち上がった。

 全身を焼かれる寸前で飛び退く。卸したての夏服が虫食いになった。肌が覗く。

 視界の中で女を探す。彼女は戦闘が始まった時と同じ位置で悠然と構えていた。

 瞬間──駆け抜ける。

 本人を叩かなければ、このまま彼女が使役する怪異に嬲り殺されるだけだ。

 真正面から迫ると見せかけて方向転換。死角から左拳を撃つ。が、首を曲げて易々と避けられる。

うし

 またしても怪異。女の呼びかけに応えるように顕れたのは、裸身に稲を巻いた怪女だった。

 怪女から伸びる稲が迫る。

 死。単語が脳裏で閃くが、同時に好機でもあった。

 攻撃を叩き込めると確信した時。人は少なからず油断をする。それは喧嘩であろうとボクシングであろうと霊能であろうと変わらない。

「今!」

 震える声に応えたのは、王女の巨腕。かつての信仰の証だった。肩から伸びた青白いそれは今度こそ稲の怪女を霧散させて、超人を握り潰すために五指を蠢かせた。

『入る』背子の緊迫した声が頭に響いた。

 しかし。それでも。

 彼女に攻撃は届かなかった。

 地面を突き破り生えた太い稲が、王女の腕を巻き取ったからだ。

 刹那の間ではない。およそ十秒ほどに及ぶだろう王女の部分顕現は、周囲の浮遊霊を食い潰すには十分な時間だった。

 それなのに何故。霊的要素を持つ筈の。紫電の援助が無ければ姿を保てない筈の。使役される怪異が消えないのか。

「それはもう見ている」

「ぶ……ふ」咥内に鉄の味が広がる。

『二階堂!』耳朶の裏で背子の声が響く。

 腹部に甚大な痛みが生まれる。

 王女の顕現。それは諸刃の剣。周囲の霊的資源は霧散し、二階堂を護っていた紫電も等しく消えていた。

 おそるおそる視線を眼下にやると、腹を突き破る鋭い稲が見えた。間違いなく貫通している。

 地面から生える稲は一本だけではなく。今にも割れ目から飛び出そうと、その鋭利な先端を覗かせていた。

 痛みに構っている暇はなかった。無理矢理に稲を引き抜くと、素の身体能力を頼りに超人から距離を取った。

 同時に数本の稲が槍のごとく突き出す。

 その何本かが身体を掠めて肌を裂いた。

 腹が燃えるように熱く、冷たかった。

『とにかく浮遊霊の在る場所まで戻るんだ』

 背子の言葉を皮切りに、超人を背にして駆け出した。足裏が砂利を踏み締める度に、腹の傷が尋常ではない痛みを訴える。

『私らの持てるカードを全部切って、一撃すら入らないなんて』

 背子の沈痛な声が耳に届く。

「ああ、それに、動きが全部、先読みされてるみたいな、感覚……」

 言葉は最後まで続かなかった。

 何かに足を取られて、地に倒れ伏す。

 踝に違和感。脚に巻きついていたのは、おそろしく太い稲だった。周囲には依然として浮遊霊の気配は無く、素の膂力で振り払うのは困難だった。

 視界の外で砂利を踏み締める足音が響く。

 半身を起こして視線を上げると、見下ろす超人と目が合った。降り注ぐ陽射しを背に受けた彼女が言う。

「終わりだね」

 影が浮いた超人の顔には、何の感情も張り付いていなかった。猫のような瞳に慈悲の文字はなく、生存への模索を許容しない鋭い光を携えている。

 早々に訪れた決着に打ちひしがれて、歯噛みする他なかった。上手く立ち回れば勝ちを掴めるかもしれない、などと驕っていた過去の自分を恥じる。

「非人道的だが、異物の情報は君の脳に直接聞くことにするよ」

 腹からは容赦なく夥しい血が流れている。頭の中では背子の喚きや王女の嘆息が残響していた。

「君に恨みはないけど、ごめんね」

 超人が無情にも別れの言葉を口にした。

 大量の稲が鋭利な首をもたげて。その先端が一斉に迫った。

 思わず瞳を閉じる。

 走馬灯は無かった。そして痛みも無い。死は思っていた以上にあっさりしていた。最期に浮かんだのは親友の顔だった。結局、彼女の身体は弄ばれたまま戻ることはなかった。それが無念で仕方がない。

 と──気づく。

 思考が止まっていない。

 風切音が耳朶を打つ。次いで超人の驚愕に満ちた声が河原に響いた。

「……な、なんだ?」

 おそるおそる目を開く。

 スーツを身に纏った美丈夫の男が刈り取られた稲の中で佇んでいた。裾から覗かせる白濁色を帯びた触手が、鎌のような鈍い光を宿している。

「誰だ……?」

 美丈夫に見覚えはなかった。

 彼の胸には、自分のものとは比較にならないほどの大きな風穴が空いていた。間違いなく致命傷だろうそれを抱えたまま、美丈夫が駆ける。

 狼狽する超人は、

「何故、生きているんだ」

 自問自答するように言った。

「ご恩、ごぼ、ごぼんぼおがえじできず」

 美丈夫は譫言のように言葉を漏らしながら無防備にも手刀を繰り出した。

 粗雑な攻撃が届く筈もなく。美丈夫の右腕は鋭い稲によって切り落とされた。そして均整の取れた顔が乗った頭部さえも。赤い噴水が河原を濡らす。

 それでも美丈夫は倒れなかった。それどころか彼の首からは白濁色を帯びた触手が生えて、再び稼働を始めた。

 ぬらぬらと鈍く照る頭部の触手に真一文字が生まれ、やがて赤黒い咥内を覗かせた。

「何なんだ、君は……」

「んフフ。さて、何でしょう」

 血の雨の中で触手が鞭のようにしなる。

 その様子を訳もわからず眺めていたが、我に帰ると浮遊霊の居そうな空間へと走った。

 やがて肌を舐めるような独特の感覚が全身を襲う。

 背後で怪物同士が激突する気配を感じた。

『……よくわからんが助かった』

 背子の憔悴し切った声が頭に響く。

「危機的状況であることには、変わりないけどな」

『とにかく、

「頼んだ」

 斜面にもたれかかると、腹が唐突に疼きを訴えた。泥濘を攪拌するような気色の悪い音が鳴る。と、時間が巻き戻るかのように腹の穴が塞がっていった。

 宿主を壊さないための恒常性。今だけは全盛期の力を限定的に行使できた。

 しかし王女の存在力は有限だ。何度も使えるわけではなかった。その上、致命傷を貰えば常人と同じように死に至る。恒常性に頼り過ぎるのは禁物だった。

 かつて美丈夫だった触手の怪人は、信じられないことに超人の女と互角に渡り合っているようだった。

『さっきの戦いで気づいたことがある』

 背子が出し抜けに言う。

「なんだよ」

 完治した腹を擦りながら訊いた。

『あの女の身体には、どうやら魂が二つ格納されている。憑かれているのか、降ろしているのかは知らんが、それなら勝算があると思わないか?』

 彼女の意図はすぐに理解できた。背子と繋がっているからこそ可能な離れ業。それが上手くいけば、確かに勝算はありそうだ。離れ業を通すには超人に触れる必要がある。しかし触手の怪人との混戦であれば可能性はあるかもしれない。

「魂が二つあるとはいえ、双方が肉体に強く結びついているんじゃ失敗するぞ」

『それについては問題ない。強大な霊を無理やり格納しているんだろう。引っ張れば簡単に引き剥がせそうだ』

 それは致命的な弱点と言えた。除霊を得手とする霊能であれば、引き剥がすのは更に容易だろう。

 が、相手はあの超人。そう簡単に魂への干渉を許すとは思えない。手持ちの怪異があとどれだけいるのかもわからない。勝算と言えば聞こえはいいが、結局は賭けに変わりなかった。

 それでも。「やるしかねえか」

 左腕の包帯を剥いでポケットに仕舞う。腹のついでに火傷も修復されていた。

 怪人と超人。彼らは位置を変えて、互いの刃を交えていた。鞭のようにしなる触手と得物のように鋭い稲。金属同士が打ち合うような鈍い音が河原に響く。

 超人の側には、彼女を護るように佇む虎の姿が在った。

 二人の居る場所にも浮遊霊は在る筈だ。その証拠に超人の方は紫電を纏っている。

 覚悟を決めて駆け出した。背子からの紫電を受けて、走る速度が更に増す。

 戦法はほとんど変わらない。超人が操る怪異を避けて接近。今度は殴るのではなく身体に触れる。それだけだ。

 全身の震えは止まっていた。あるいは半ば自棄やけだった。

 異物の開錠措置には時間を要する。損失の修復や要望を叶えるためには、最低でも二日を想定しておかなければならない。その間に再び超人と見えることは避けたかった。

 好機があるとすれば今しかない。正体不明の怪人が混戦を作り出している今しか。一対一での対峙では勝ち目がない。千載一遇の好機を逃すわけにはいかなかった。

 二人の間に割り込むのは自殺行為だ。

 超人の背後に回り、地面に靴先を突き刺すと蹴り上げた。強化された膂力によって石の礫や砂が舞う。即席の目潰しだ。

 怪物が繰り出す触手の刃を地から生える稲で捌きながら、

「丑」

 超人が言った。

 舞い上がる砂の幕。その隙間から稲の怪女が再び顕現したのが見えた。

 怪女の裸身に巻きつく稲が迸る。

 瞬間、距離を取った。

 砂も礫も悉くが振り払われて、不揃いな稲の何本かが身体を斬りつけた。あちこちで鋭い痛みが走る。

 超人と稲の怪女が背中合わせになった。超人は変わらず怪人へ剣戟を振るい、稲の怪女はこちらに視線を投げた。

 怪女との対峙は埒が明かなかった。強化された動体視力で、どうにか追い切れる稲の応酬を避けるのが関の山だった。

 怪女を突破しなければ、超人に触れることすらできない。王女の顕現で怪女を霧散させるしかないが、それをしたところで超人に隙は生まれないだろう。どういうわけか、彼女は浮遊霊に頼らなくても怪異を呼び出せる。側に居る虎も何をしてくるかわからない。

 絶望が胸中を侵し始める。

 意気込んだまではよかったが、

「さっきまではいけそうだと思えたのに」

 やはり実力差が開き過ぎている。

『クソ、もどかしい』

 背子が毒を吐く。

 もはや二階堂に彼女の心境は量れない。背子自身が直接介入できれば、いくら超人といえど五秒も要らずに倒せる筈だ。が、楔の世界から現世の距離はあまりにも悠遠で、背子が顕れるには経路が狭隘に過ぎる。

「んフフ」

 鳴り止まない金属音に混じり、触手の怪人が笑った。

 突如、怪人の身体が膨張する。スーツが弾け飛び、漆黒の毛で覆われた巨大な筋肉が露わになった。

 夥しい稲の先端が黒の巨体を貫く。稲の怪女も応戦し、更に貫かれる。

 しかし膨張は止まらず、頭部と思しき触手は自切された。

「わけがわからん。あの男、死後に自律稼働する怪異でも飼っていたのか?」

 超人が舌打ち混じりに言った。

 怪人は天を穿たんばかりに巨大化し、背中からは漆黒の翼が生えた。触手の代わりと言わんばかりに伸びた首の先に顔はなかった。

 黒で塗り潰された無貌むぼうが睥睨。稲で貫かれたまま怪女を貪った。

 本体が消えても、地から生える稲はそのままだった。しかし数に限りがあるのか、新たな稲が生える様子はない。同時に、無貌の怪物もほとんど動けずにいるようだった。

「背子、限界ギリギリまで飛ばすぞ」

『任せろ』

 肌を焼きかねない紫電が肌を撫でる。眼球が急速に乾き、骨が軋んだ。

 動体視力が周囲を認識できる限界の速度で駆け出す。

 超人との距離が瞬時に埋まった。

「辰……!」

 日差しを受けて黄金に輝く鱗が顕れる。

 常人ならざる膂力を以て、赤黒く閉じる捕食者の牙を避け切った。

 虎が消えて、

いぬ!」

 超人が吼える。

 周囲に黄砂が舞い彼女の両腕に収束した。刃になったそれも避ける。

 つもりだった。

 筋骨の悲鳴を聞きながら側面に回った先に刃が

 動きを予測したとしか思えない動作に対応することができなかった。胸から腹にかけてを斬り刻まれる。

 血飛沫が舞った。

 紫電の防護は間に合っている。

 致命傷でなければ問題ない。

 超人の鼻から血が垂れた。

 おそらく有限なのだ。彼女ほどの才を以てしても、強力無比な怪異を代償もなしに操れる筈がない。このまま押し切ればあるいは。

 背後で砂利を押し除けて這う蛇の気配を感じた。

 合図を送り、王女を刹那的に顕現させる。

 迫る蛇の頭部を霧散させた。

 大蛇が倒れ伏し、地鳴りが起きる。

 稲の怪女を貪り終えた無貌の怪物が、稲を引き千切って進み出した。

「ぐ……こんなわけのわからない奴に」

 超人の両腕に収束していた砂が、重力に従い足下に落ちる。彼女の背中が見えた。怪物と対峙せざるを得ない状況が、新たな隙を作り出す。

 超人の背に迫った。

 両腕を前に投げ出す。強化された膂力に後押しされた速度は、瞬きの間に距離を詰めた。

 触れる。

 寸前で。

「卯……子……!」

 亀のような甲羅を持つ怪異、そして虚な目をした禁則の男が顕れる。

 亀は裂ける口腔で右手が噛み潰そうと。

 男が左腕をあらぬ方向へ曲げようとした。

 逡巡している時間はなかった。

「花子!」喉を切らんばかりに吠える。

 全てがリセットされた。

 無貌の怪物を止める稲が消えた。

 右手に顎を食い込ませた亀が消えた。

 骨を折ろうとする寸前の男が消えた。

 二階堂と無貌の怪物。奇妙な共闘関係が実を結ぶ。超人を挟む形で。ようやくその手が彼女に触れようとした。瞬間。

「……巳」

 朱い炎の壁が超人の周囲で立ち上がった。

 無貌の怪物による混戦。身体を犠牲にした背子による紫電の援助。鍛え上げた膂力。王女からの惜しみない助力。それらを併せてもまだ足りない。まだ超人に届かない。

 しかし。

 浮遊霊を食い潰した王女の腕が、消える寸前に炎をかき分けて、二階堂へ道を拓いた。

『行け』珍しく王女が言葉を発した。

 消し切れなかった炎が肌を舐める。が、虫使いから受けた火傷に比べれば。歯を剥いて熱量に耐えた。

『行け』希うような背子の声を聞いた。

 炎の壁。その役割は足止めではなかった。

 視界を遮るためだったのだろう。

 朱い壁の開けた先には、両腕に砂を纏う超人が居て。左腕で唸る砂の槍は、無貌を正面から貫いていた。鉈のような黄砂の刃は、既に振り下ろされようとしている。刃の向かう先は当然、二階堂。その眉間。

 これでもなお届かない。絶望に膝が笑い体勢を崩した。そのおかげか。砂の刃は鼻梁を掠め、触れた髪を散らせるに終わった。

 砂利の海に膝を落とした刹那、超人の異常に気づく。

 彼女の目はどこも見ていなかった。猫のような瞳は深緑に覆われている。

 膝を突いた流れを殺さず、前のめりに倒れ込んだ。

 後頭部のすぐ側で砂の唸りを感じる。

 右腕を目一杯に伸ばして。

 その手はようやく、超人の踝を掴んだ。

「──背子!」

『こっちに、来い』

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