九話 束間①

 テーブル席が四つにカウンター席しかないこぢんまりとした個人経営の店は、一人でゆっくりしたい時にはうってつけの場所だ。

 陽当たりもよく、肌色の壁は目に優しい。カウンターから聞こえてくる親子の話し声、流れる環境音は気分を落ち着かせてくれる。

 そこは二階堂にとっての安息地。静謐な時間を堪能できる場所だった。

 しかし今は──

 食器の扱いに慣れていないのだろう。対面で忙しなくスパゲティを頬張り、机の上を汚すイブは、がちゃがちゃと耳障りな音を立て続けている。

「もっと落ち着いて食べなさいよ!」

 忙しなく机上やイブの頬を拭く椎倉の声が二十坪程度の店内に響く。

 ──その静けさは完全に失われていた。

「いみもあべてみろ、うあいぞ」

「食いながら喋んな!」

 紹介する店を間違えたかもしれない。対面で騒ぐ二人を見て、二階堂は今更ながらの後悔に襲われた。

 行きつけの店だから、店主ともその息子とも顔見知りだ。カウンター越しに目が合った店主に軽く頭を下げる。と、人懐こい苦笑いが返ってきた。

「もう少し静かにできねえのかよ」

 視線を対面に戻して、二人を睨め付ける。

「ほら、あんたのことよ、イブ」

「いやお前もだよ」

 大量のスパゲティを平らげたイブは嚥下すると、

「しかし、名前があるというのは、やはり良いものだ」

 片方の口角を上げた。

 イブの表情には随分と人間らしさが帯びてきた。学習速度がおそろしく早い。

 昨晩まで常に真顔で話していた少年とは別人のようだ。

 事実、別人だった。

 力を制御して霊能からの感知を遠ざけたのはいいが、少年形態のままだと視覚的に気付かれる危険があった。

 だから試しに、姿を変えるよう提案したところ。ご覧の有様だった。

 無駄に均整の取れた顔。絹のように艶やかな黒の短髪。二階堂を模したとしか思えない体格。イブは少年の姿から、およそ成人に見える女性へと姿を変えていた。服は二階堂の私物だ。

 理屈は不明だが、霊能以外からも視認できるように調整しているらしい。つまり今のイブは、誰から見ても人間の女性としか認識されない筈だ。

「ネーミングセンスはともかくとして、だけどね」

 椎倉のいやらしい視線が刺さる。

「言うほど悪くねえだろ」

「安直過ぎんのよ。キラキラネームだし」

 異物──もといイブの名付け親は二階堂だった。背後霊から背子と命名したように、元の呼称から採ってイブ。

 名前には慰撫いぶの意が含まれている。それは二階堂なりの同情の現れだった。一日だけでも名前が欲しいと懇願したイブが憐れでならなかった。

「別にいいだろ。本人だって気に入ってるみたいだし」

「うっそ。あんたそれでいいの?」

 椎倉がイブに怪訝そうな眼差しを向けた。

「ああ。特に不満はない」

 イブは頷きながら、小高い皿の山を更に積み上げた。

「異物呼ばわりと比較しても、こちらの方が遥かに良い」

「そう。あんたが良いなら、良いんだけど」

「それにしてもよく食うな」

 店のメニューはそれほど多くはない。材料の廃棄を抑えるために品目を絞っているらしく、十五を数える程度しかなかった。

 先刻、イブが胃に収めたスパゲティで丁度十五品目が達成された。

「食わずとも稼働は可能だが、食糧を得る機能も備わっているらしい」

「あんたたちの分は、払わないからね」

「別に頼んでねえよ。これだって契約の範囲内だし、私持ちに決まってんだろ」

「もしかして、金銭とやらの話か」

 多幸感に満ちた表情でイブが訊いた。

 それはあまりに純真無垢な顔だった。胸の裡で罪悪感が肥大する。思わず彼女から視線を逸らした。

「ああ。人間は何かを得るための対価として金を利用するんだ」

 財布から何枚かの札や硬貨を取り出して、イブに見せる。

 彼女は別途価値を付与された紙切れを掴み興味深そうに眺めた。

「知識としては知っているが、目にするのは初めてだ。そうかこれが」

「そんな面白いもんじゃないでしょ」

 椎倉が退屈そうに言った。

「そうだな。貨幣自体には興味がない。だけど、内包された価値や認識には興味がある」

 イブは片方の口角を上げて続けた。

「これを争って、人々は事件の数々を積み重ねてきた、と認識している」

「なんでそんな知識まであるんだよ」

「……」椎倉が気まずそうに目を逸らした。

 何か思うところがあるのだろう。自称富豪の令嬢が何を家業としているのか気になったが、敢えて指摘するのは止めた。

「貨幣を得るのは、それだけ大変だということなのだろう。故に感謝しよう」

 真っ直ぐな視線が刺さる。イブの目に皮肉の色は一切無い。

「要らん。お前の力は、本来なら大枚叩いても得れるモンじゃない。対価としてはむしろ安いくらいだ」

「それじゃあ、今日は贅沢させてもらおう」

 イブが大仰に踏ん反り返った。

「……勝手にしろ」


 安倍川駅から電車に乗り、静岡で降りる。

 駅は人でごった返していた。世間は夏休みのただ中にある。平時なら鬱陶しく思う人の群れも今は好都合。人を隠すなら森の中だ。

 両替町での惨殺から、あまり日が経っていない。駅構内には、巡回する警官が何人も居た。

 歩く人々は誰も彼もが、怪異による被害など知らず顔だった。まさか自分に火の粉が降りかかることはないだろう。道行く人間の顔には等しくそう書いてあるようだった。

「もちろん気づいているわね?」

「ああ」

 椎倉と言外に意思疎通を図る。人目を憚らず言葉にするわけにはいかなかった。

 安倍川駅に向かう道中。電車の中。そして駅構内で。明らかに異質な存在が人ごみに紛れて彷徨っていた。

 イブ捜索用に放ったのだろう。夥しい怪異の群れからして、一人で操っているとは考えにくい。介入した霊能が増えてきた証拠だろう。数から考えて、静岡以外の場所でも同様の事象が起きているのかもしれない。もはや何処にも逃げられない。腹を括り、今日を綱渡りのように過ごす他ない。

「お前、帰った方がいいんじゃねえの」

 歩きながら横目で椎倉を見る。

「因みに、彼が現世に居ない状態で、あんたが死んだらどうなんの?」

「多分、取り残される」

「ど、どこに」

「説明が難しいな──」

 頭で様々な言葉を練り回し、どうにか説明を試みたが、

「──まあ、背子と一緒に永遠を過ごすことになるんじゃねえの」

 確実な結果だけしか口にできなかった。

「……やっぱり、彼を取り戻すまでは帰らないから」

「後悔すんなよ」

「元はと言えばあんたが──」

 椎倉は上擦った声を上げたが、

「──いやもういいわ」

 項垂れた。

 駅の北口を出ると、炎昼の陽が煌々と網膜を焼いた。思わず目を細めて、黒の帽子を目深に被り直した。

 警戒は怠らない。さりげなく周囲を見渡す。

 辺りにはやはり虚な視線を泳がせる怪異が跋扈していた。どうしても両替町の怪物が頭を過ぎる。彷徨う怪異群に彼の手繰るものが混じっているとしたら、見つかるのは時間の問題かもしれない。

 イブとの契約は絶対だ。反故にすれば力の流用は叶わない。それでもこの一日をやり過ごすことができれば、全ては思いのままになる。背子と一体になることは万能に成るのと同義だ。そうなれば両替町の怪物を含めた有象無象の霊能を恐れる必要はなくなるし、積年の怨讐を晴らすことも容易になる。

「……背子」

『わかってる。何が来ても紫電の共有ができるようにしておけばいいんだろう』

「任せた」

 伝馬町通りを超えて、新静岡サノバの前に立つ。それは葵区に悠々と聳える大型商業施設だった。イブに手早く社会勉強させるには丁度いい場所だろう。

 背の高い人類の叡智を見上げる。

「次はここだ」

 イブは感嘆の声を漏らすと、

「曰くサノバにはなんでもある」

 昨夜の二階堂の台詞を引用した。

「人の家で図々しく寝泊まりしたそこの女みたいな言い回しはやめろ。恥ずかしくて死んじまう」

「クソ狭い部屋で我慢してあげた私の身も考えてほしいわね」

 怒気を帯びた椎倉の声を背にしながら、サノバへと入った。橙の目に優しい照明が視界に広がる。

 一階は雑貨や衣類を取り扱う店ばかりが並んでいる。ガラス張りの飾り棚に陳列された品は、どれも簡単に手を出せる価格ではなかった。

 イブは飾り棚を凝視しては、何事かを呟きながら何度も頷いていた。内包された知識と現実を比較して、自分なりに咀嚼しているのだろうか。イブは急に立ち止まると、ふと顔を上げて言った。

「世間が休日だろうと働く人間が居る。労働の歯車は絶えず回り、人の営みを支える」

「なんか詩人みたいなこと言い出したな」

「君たちは、何をしている人なんだ?」

 突然、回答に困る疑問を投げられて硬直した。

 それは椎倉も同じだったようで、気まずそうに視線を逸らしていた。

「私は、アレだ。便利屋というか、何でも屋というか、よろず屋というか」

 しどろに答えた。

「容量を得ないな」

「私は、アレよ。拝み屋というか、迷える徒の導き手というか」

 椎倉も倣うように答えた。

「容量を得ないな」

「まあ、私たちのことはいいだろ」

「そ、そうよ。ほら行くわよ」

 目的の場所は九階の映画館。人間の娯楽も知りたい、というイブの要望に応えるため、二階堂の趣味を経験させる予定だった。

 エスカレーターで階を上がる度に、イブは眼前の店へと足を運んだ。知識の突合をしたり、所感を聞いたり、と彼女は忙しなく駆け回った。

 果たして、劇場も人で塗れていた。券売機には老若男女が列を成し、学生らしき集団が窓際の席を占拠している。生み出される喧騒は音の圧になり、全身を容赦なく叩いた。

 鬱屈とした表情の椎倉を尻目に、予約者用の券売機列に並んだ。

「それで、何観んのよ」

「前日でも予約できたやつを二つ」

「あんた、普段から映画梯子してんの?」

「ああ」

「暇な奴ね」

「はいはい」

 二階堂はごく短い付き合いの中で、椎倉のあしらい方を理解し始めていた。全く相手にしなければいい。

 彼女の小馬鹿にしたような言葉も、気に障らなくなってきた。罵倒の中に悪意が感じられないからだろう。本気で人を貶す意図があるなら、より核心を突いた罵詈雑言を用意すればいい。椎倉の言葉はどこか小児的で、それはきっと、彼女なりの不器用な接し方なのだと思えた。

「映画。知識としてはあるが、その趣向はやはり理解できない」

 イブがひとりごちた。

「観るのやめておくか?」

「ああいや──」

 イブはかぶりを降ると、

「──あくまで今のところは、だ。未経験の娯楽を否定するつもりはない」

 何に喜悦を見出しているのか、片方の口角を上げた。

 あるいはその所作は、癖なのかもしれなかった。人の姿を採っているからだろう彼女はますます人間然としてきた。

 チケットの発券を終えて列から離れる。

 と、イブの視線が売店へと注がれていることに気づく。

「まさか、まだ食えんのか?」

 イブは頷き、

「腹が減っているわけではないようだが」

 腹を摩った。

「そりゃあんなに食べたんだからね」

 カフェで山のように積み上げられた皿が脳裏を過ぎる。

「ただ味覚があるから、味を欲していると言えばいいのだろうか、何か食べたいという欲求が常にある」

「なんて燃費の悪い生き物なのかしら……」

「あるいは、初めて知った味覚に戸惑っているだけなのかもしれない」

 イブは眉間を絞り、指を宙で彷徨わせた。どうにか説明しようと頭を捻っているのだろう。

「今日の依頼人はお前だ。報酬も確約されているし、要望があるなら遠慮せずに言え」

「それじゃあ、売店のメニューを端から端まで貰おうか」

 イブの顔がぱっと華やいだ。

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