第十七話 アクロード様の出征

 その冬くらいからその兆候はあった。


 帝国の東にあるフローバル王国との関係は、この五年ばかり芳しくないとは聞いていた。アクロード様が国境に赴任されていた頃既に、小競り合いの対応に忙殺されてろくに帝都に帰れなかった、というお話だったわよね。


 それがもう少し深刻な帝国と王国の対立になり始めていたようなのだった。社交でもそれとなく国境の緊張が話されるようになり、アクロード様が忙しくて夜会に出られない日が何度かあったほどだ。


 ただ、王国との関係は歴史上、良くなったり悪くなったりを繰り返していたし、小競り合いは年中、しょっちゅうだったから、皆様あまり心配はしていなかった。私も、あまり深刻な問題と考えていなかったわね。


 それが、年明け直ぐぐらいから俄然フローバル王国との戦争の危険が語られるようになってきたのだった。


 アクロード様に伺ったところでは、フローバル王国の実力者であるワックエル将軍という人が非常な野心家で、かつて帝国が奪った旧フローバル王国の領域を奪い返すことをスローガンに、軍事力の増強に努めているのだ、という事だった。その準備が終わり、この所小競り合いでも勝つことが増えたため(多分、アクロード様が国境にいないせい)、図に乗ったワックエルは本格的な侵攻を企むに至った、という事らしい。


 帝国にとっては大変迷惑な話なのだけど、昔フローバル王国から奪ったという事実が示す通り、帝国も歴史上、そんなにお上品に振る舞ってきたとは言えないから、なかなかフローバル王国に文句も言い辛いらしい。


 帝国としては戦争回避のため、周辺諸国に使者を出し、調停を依頼したのだけど、これがいまいち上手くいかなかったようだ。


 帝国はこの大陸中央部で最も大きく栄えている国家であり、他の国からすれば畏怖と同時に妬みの対象ですらあるらしい。対してフロルン王国も近年グイグイと国力を伸ばしていて近隣各国にしたら目障りな存在だ。


 その両国が相撃って勢力を弱めるなら、近隣諸国としては望むところだ、という事らしい。中には帝国と縁戚関係にある国もあるのに薄情な事だ。敵対はしないけど味方もしてくれないという事で、帝国は単独でフロルン王国との対決を強いられる事になった。


 フロルン王国との戦争が避け難い情勢になってくると、皇帝陛下は貴族達に戦時協力を命じた。具体的には領地からの兵員の徴募と、物資や軍資金の供出だ。


 戦争には兵士が必要だ。帝国では平時でも国境に警備兵を一万人くらい置き、帝都にも緊急時に即応出来る一万の兵を常時置いているけど、フロルン王国と正面から戦争をしようと思ったらとてもそんなものでは足りない。


 今回は帝国全土から五万人の兵員と一万人の輸送や作業に関わる人員を集める方針らしい。それには皇帝陛下の直轄地で徴募しただけでは足りないので、各領主が自分の領地から兵を集めてくる必要がある。


 貴族達は皇帝陛下から割り当てられた人員を集めて帝国軍に加えなければならない。それが帝国貴族の神聖な義務である。


 同時に、戦争には途方も無いお金と物資が必要だ。直轄地では臨時税の徴収が行われる。資金に関しても領主貴族達に割り当てが来るため、各領主は自己資金が無ければ領民から臨時税を徴収するなり、何かを売るなりしてお金を作って国庫に収める必要がある。これも貴族の義務だ。


 そして物資である。武器弾薬、糧食は勿論、それ以外の様々な物資。戦争には兎に角膨大な物資が必要とされるのだ。


 中でも重要なのが馬である。


 馬は物資を運搬する輸送手段であり、兵士を馬車に乗せて前線へと運ぶ移動手段であり、いざ戦いの時には騎士や騎兵を乗せて敵に突撃して行く兵器でもある。


 戦争において最も重要な「物資」だと言って過言ではなく、馬の数と質が軍隊の強さを決めると言い切ってもけして言い過ぎではないのである。


 この馬に関しても各領主に割り当てが来て、決められた頭数の馬を供出しなければならない。これがあるので、領主貴族はほとんど必ず、領地に置いて馬を大量に飼育しているのである。


 私の実家のクランベル伯爵家は、領地の人口が少なく兵士が集まらなかったため、兵員の代わりに割り当てよりも多い馬を供出したようだ。本来であれば乗馬や農耕馬に売る予定だった馬も、全部帝国軍に供出してしまったらしい。何十頭も出してしまったらしいので、牧場は随分寂しくなってしまった事だろう。


 クランベル伯爵家は馬を多く出したけど、馬があまりいない貴族は代わりに兵士や資金を多く出す事になる。実家の牧場が空になるくらい馬を供出したのと同等の負担を求められるのだから、戦争というのは貴族に多大な負担を強いるモノなのである。


  ◇◇◇


 当たり前だけど、皇族たるフェバステイン公爵家は、臣下の貴族に範を見せねばならないのだから、率先してより多大な負担を担う事になる。


 公爵領からは人員を五千人も動員したそうだ。公爵領はノラーブの街だけでも二十万人の人口を誇るけど。それでもこれは限界ギリギリの動員数だと言っても良いと思う。しかも戦役が長引いた時のために、予備人員の確保も行なっているらしい。


 徴募した兵士には給料と、無事に帰還した時には追加報酬。もしも戦死した場合には見舞金を払う必要がある。これを五千人分だ。途方もない金額になる。


 お金に関しては軍資金を別に皇帝陛下に献上している。これも途方もない額であるらしい。まぁ、それでも公爵家はお金持ちだからいきなり貧乏になってしまったわけではないけど、戦争が長引けば赤字転落も十分考えられるそうだ。


 そして馬だ。公爵領にあるあの広大な牧場では常時軍馬を三百頭も飼育しているんだけど、これを全て前線に送る。勿論、一度にでは無いけどね。乗馬、農耕馬も戦争では役に立つからほとんどを送り、牛も大砲みたいに重い物の輸送に従事させるから相当数送ったらしい。


 公爵領がなんのためにあんなに大きな牧場を持っていたのか、私はようやく腑に落ちた。戦争の備えのためだ。


 私は公爵領の馬産を統括する予定で勉強していたのだけど、明らかに馬の生産数が過大だと思っていたのよね。馬を食べさせるのもタダじゃ無いんだから、売れるだけ生産すればいいのにと思っていたのだ。


 でも、戦争はいつ起きるか分からないのだから、常時備えて軍馬を抱えていなければダメなのだ。それが皇族たる公爵家の義務というものなのである。私は公爵家の馬産を取り仕切るのだから、この辺はちゃんと考えておかなければならないだろうね。


 ランニングホースは、基本的には軍馬にはされない。この馬種は北の王国から輸入された大変高価な馬たちだからだ。それに繊細なところがある品種で過酷な使い方をされる軍馬には向かないとされている。


 ただ、高位貴族の中には自身が出征する時にランニングホースを自身専用の乗馬として戦場に伴う事がある。高位貴族なら従者を何人か連れているから戦場でも馬に十分手を掛けられるし、それほど過酷な使い方をしないからね。その速力と持久力は戦場でも有用だから。


 もっとも、戦場に向かない馬というのも当然いる。臆病で敵の大砲の音でパニックになってしまうような馬はダメだ、軍馬として育てられた馬は、定期的に砲声や銃声を聞かせて慣れさせることまでする。ランニングホースを戦場に連れて行く場合は、事前に戦場でパニックにならないかを確認するらしい。


 ランニングホースはほとんど戦場には行かないとはいえ、戦争準備が始まれば貴族は競馬どころではない。当面競馬は中止と決まった。残念だけど仕方がない。それでも馴致や調教は休めないのだけど。


 こんな風に帝国は着々と戦争準備を整えていった。お義父様もアクロード様もお忙しそうだったわよ。でも、私はいつも通り馬の世話をして社交をして過ごしていたから、あまり実感が湧かなかったのよね。社交でもあまり戦争の話は皆様しなようにしていらした。あんまり楽しい話題でもないからね。


 だけど、私にとって衝撃的な知らせは、遂にフローバル王国の宣戦の使者が皇帝陛下の元に訪れた、その日にやってきた。既に戦時体制に近くなっていたために夜会がなく、私は帰宅するアクロード様の事を公爵城のエントランスホールで出迎えた。いつも通り麗しい笑顔の婚約者を出迎え、その抱擁を受ける。


 そして、私の腰を抱いたままアクロード様が誇らしげに仰ったのだ。


「来週早々に出征する事が決まった」


  ◇◇◇


 それを聞いて私は取り乱した。


「ちょ、ちょっと待って下さいませ!」


 私はアクロード様に取り縋った。


「出征って! アクロード様がですか? どうして」


 むしろアクロード様は驚いた様に碧の目を見開いたわよね。


「どうしても何も、私は騎士だ。騎士団の副団長で軍の主要指揮官の一人だぞ? 戦役が起こるなら前線に出向くのが当たり前では無いか」


 アクロード様は平然と言った。いや、それは私だって分かっている。分かってはいるのだけど。


「だって、アクロード様は今年の夏には私と結婚する予定ではありませんか。それなのに出征しなければならないのですか?」


「勿論だ。心配するな。予定される会戦時期は早春。夏の挙式には十分間に合う」


 私は悲鳴を上げる。


「でも! でも、アクロード様にもしもの事があったら!」


「馬鹿な事を言うな!」


 アクロード様は思わず私を怒鳴り付けた後、優しく仰った。


「私が負ける筈が無いだろう? 安心せよ。私は勝って必ず君の元へ戻る。そして夏には予定通り結婚式だ」


 ううう、それは、私だってアクロード様の強さ、賢さ、統率力は信じている。嫁取りレースの時に思い知った名将ぶりからして、アクロード様が戦勝将軍になって凱旋してくることを、私だって疑っている訳ではない。


 しかし事は戦争だ。矢弾飛び交う戦場にアクロード様は乗り込むのだ。一発の流れ矢、流れ弾がアクロード様にたまたま当たってしまったとしたら? それで全てが終わってしまう。私は結婚前に夫を失うことになってしまうではないか。


 それを考えると私は背筋に氷の柱を突き刺されたような気分になる。世の中には絶対は無い。圧倒的な一番人気の馬が、不測の事態が起こって最低人気の馬に負けてしまう事なんてざらにある。アクロード様に流れ弾が当たらない保証なんて何処にも無い。それは彼が本陣の奥深くから出ないような将軍なら可能性は下がるだろうけど、生憎アクロード様がそんな方では無い事は私が一番よく知っている。


 私はどうにも納得が出来ず、行かないでくれとアクロード様に何度も縋って彼を随分と困らせてしまった。翌日、お義母様に怒られた。


「夫が出陣する時は『後は任せて下さいませ!』と力強く請け負って、出陣する者の後顧の憂いを無くしてあげるのが武門の妻の務めですよ。それを不安にさせてどうしますか」


 それは、私だってまだしも結婚後だったら、アクロード様を何とか笑って送り出せたかもしれない。しかしながら、私はもう公爵家に迎え入れられているとはいえ、まだアクロード様の婚約者に過ぎないのだ。アクロード様にもしもの事があったら私は公爵家を出なければならない。今更そんなのは嫌だし、アクロード様の妻になれないのも嫌だ。


 お義母様曰く、アクロード様が結婚間近である事は、皇帝陛下も考慮して下さって、アクロード様をまだしも危険の少ない後方の部隊に配属しようとしたのだけど、案の定彼自身に拒否されてしまったそうだ。フェバステイン公爵家の歴代当主は常に前線で指揮を執り、勇猛果敢のフェバステインといえば敵もが恐るると言われているそうだ。その伝統から言って、アクロード様が後方に居る事など出来ない、ということなのだろう。


 ちなみに、歴代フェバステイン公爵、次期公爵の中で戦死したのはお一人だけで、やっぱり前線で指揮を執っている時に流れ矢に当たったのだそうだ。


 私は我慢して、その日以来アクロード様に出征しないでくれと言わないように努めたんだけど、気分が塞ぎ込んでしまって大変だった。馬が慰めてくれるから何とか普通に生活出来たようなものだ。特にガーナモントとクラーリアには癒やされた。二頭とも私に良く懐いてくれたからね。


 ガーナモントは競馬開催が中止になると決まってから、公爵城に再び引き取ったのだ。競馬場の調教師や牧夫の中にも出征する者がいて人手が足りなくなったため、競馬場のランニングホースはほとんど牧場に返されている。


 ガーナモントとクラーリアは仲が良く、一緒に走らせると二頭して実に楽しそうだった。二頭ともランニングホースらしい気難しいところのある馬なんだけど、非常に相性は良さそうだ。ガーナモントが引退したら、二頭の間に子供を産ませようとは思っていたけれど、こんなに仲良しなら初仔からガーナモントを付けた方が良いのかしら。馬だって好きな相手の子供の方が良いだろうからね。


 ……そんな事を考えてしまうのは、私もアクロード様のお子を産みたいと思っているからなんだろうね。


 アクロード様は公爵家の唯一の男子で、その彼のお子は誰もが期待している。早く、出来れば男の子をと。私にもその期待はグイグイと掛かっていて、私だってアクロード様の子供が産みたかったし、結婚したら直ぐに子供が産めるように頑張るつもりだった。妊娠期間は馬にも乗れないだろうけど、それも我慢するつもりだった。


 しかし、アクロード様にもしもの事があれば、その願いも叶わなくなる。その事を考えると、私はもういても立ってもいられない気分になってしまうのだった。せめて結婚していて、彼の子供を抱いてからならもう少し落ち着けたんだろうけど。


 そんな事を鬱々と考えながらクラーリアの乗り運動をしていたら、突然クラーリアに振り落とされた。


「ひゃあ!」


 スピードも出ていなかったし、クラーリアに踏まれもしなかったから怪我は無かったけど、レオックとミミリアが真っ青になって飛んできた。私は心配ないと二人に言った後、しれっとした顔で立っているクラーリアを睨み付ける。


「こら! クラーリア! 何をするの!」


 クラーリアは綺麗な瞳で私の事をじーっと見詰めていた。そんな暗い顔で乗られたら迷惑だ、と言わんばかりの顔していたわね。他の牧夫が運動させていたガーナモントもやってきて、私をなんだか馬鹿にしたような顔で見た後、クラーリアの首に自分の頭を擦りつけるとブヒヒンと鳴いたわよね。私を笑ったのかもしれない。そして、クラーリアとガーナモントは仲良さげに走って行ってしまった。もうすっかり夫婦みたいね、あの馬たち。


 ……二頭に「そんな風に悩んでいるなんて貴女らしくないんじゃないの?」と言われてしまった気がした。確かに、その通りかもしれない。


 物語に出てくる貴婦人みたいに、メソメソ悲しんでいるなんてまったく私風じゃないわよね。泣いているくらいなら頑張ろう。アクロード様のために、公爵家のために自分の出来る事をすべきだ。私は決心した。


 その日、帰宅したアクロード様をエントランスホールで出迎えた私は、彼に向かってこう言い放ったのである。


「結婚式をしましょう!」

 

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