第十六話 嫁取り競馬(下)

「なんだ、何がどうしたというのだ?」


 公爵閣下が血相を変えた私とマロンドおじ様を見て、戸惑ったように仰った。他の皆様も怪訝な顔をしている。


 私は皆様に向けて言った。


「ルールです!」


「ルールとはなんだ?」


「ヒート競争についてのルールです。それには失格規定があるんです!」


 私は説明する。ヒート競争の興りは、運不運やマグレの要素をなるべく減らし、確実に強い馬が勝つようなレース方式を、と考えた事によるらしい。


 だから誤魔化しの効かない長距離を走らせ、同じ馬が複数回勝たなければ勝利と認められないという制度になっているのだ。弱い馬でもマグレで強い馬に一回くらい勝てちゃったりするからね。


 つまり、本当に強い馬を選び出すためのレース方式なのである。そのため、その馬が飛び抜けて強い、あるいは弱い場合に対応した規定があった。それが失格規定だ。その馬が圧倒的に強ければ、あるいは弱ければ、勝敗は明らかだとして弱い馬を失格にして次のヒートに進めなくして、無駄なヒートを省略する規定が存在するのである。


 その規定はこうだ。


「勝ち馬と二百五十メートル以上差を付けれられた馬は失格となり、次のヒートに進む事が出来なくなるのです!」


 私の言葉に、全員が一斉にコースの方を見る。ガーナモントとハイレガーはクラブハウスの向こう正面を走っていた、その差は、目算で二百メートルくらいになっている。


 公爵閣下が唖然として言った。


「アクロードの狙いはそれか?」


「恐らくは」


 なのでアクロード様は勝敗が明らかなのに、ハイレガーとの差をドンドン開いているのだ。


 しかも、一気に差を開こうとすると、ハイレガーの騎手に狙いを気付かれる可能性があると考え、馬の脚を緩めジワジワとゆっくりと後ろを確かめながら差を開いて行ったのである。


「失格規定は、普通はあまり適用されないルールです。だから私も忘れていました」


 それは普通は、馬の体力を節約するために、相手を見ながら駆け引きをするのがヒート競争というものだ。たまに桁違いに強い馬が現れて後続馬を見えなくなるまでちぎり捨てる事も、北の王国ではあったらしけど、おそらく帝国では相手の馬が故障した時以外に適用された事はないんじゃないかしら。


 だから、ベテランであるハイレガーの騎手も知らないかもしれない。知っていてもすぐには思い出せないかもしれない。そこをアクロード様は突いたのだ。


「な、何をしている! 馬鹿者! 早く追い掛けぬか!」


 マロンドおじ様が真っ赤な顔で叫ぶけど、声が届く筈もない。


 両馬の差はジワジワと開いていった。ガーナモントがコースの中間点を超えた時には、もしかしたらもう二百五十メートル差が付いたのではないか、というくらいになっていた。


 こ、これはこのままいけば、ハイレガーは失格になり、次のヒートを走らなくて済むかもしれない……。


 と私が思ったその時。


 遂にハイレガーの騎手がアクロード様の狙いに気が付いた。騎手がハイレガーに鞭を入れたのが見える。途端、ハイレガーは弾かれたように加速を開始した。


「気が付かれたわ!」「きゃー!」


 ディーリットとクリエールが悲鳴を上げる。しかし同時に、アクロード様がガーナモントの首を押すのが見えた。ガーナモントも加速を開始する。


「よし!」「いけアクロード!」


 公爵閣下と公妃様が叫ぶ。同時にクラブハウスと観戦席の大観衆がウワッと湧き上がった。すごい歓声だ。


「まだ間に合う! その馬はもうかなり脚を使っておるぞ! 行け! ハイレガー!」


「なんの! 公爵家の誇りを示せ! ガーナモント!」


「アクロードしっかり!」


「お兄様頑張れ!」「いけー!」


 とまぁ、貴賓室もお上品さをかなぐり捨てた皆様の大声援に包まれた。お父様お母様、お兄様夫妻も、いつもはお澄ましの公爵家の使用人達も。私が大きな声を出したりしたらコンコンとお説教をしてくる侍女長のニルベニアまで、声を枯らさんばかりにでガーナモントとアクロード様を応援している。


 もちろん私も無我夢中でガーナモントとアクロード様に声援を送ったわよ。自分でも何を言っているか分からないくらい興奮して。


 大歓声の中、ガーナモントとハイレガーは最終コーナーに向かう。差は……、遠過ぎて分からない。大きなアクションで鞭を叩きまくるハイレガーの騎手に対して、ガーナモント鞍上のアクロード様にほとんど動きは無いように見えた。しかし、ガーネモントは黒い馬体を躍動させ、美しいフォームで緑の芝の上を疾走する。


 はるかに遠い最終コーナーをガーナモントが回る。馬が正面を向いた瞬間、馬の背の上でアクロード様が何かを叫んだ。当然、その言葉は聞こえない。聞こえる訳がない。しかし、その時私には分かった。


 私を呼んだのだと。


 私はベランダから身を翻して部屋から飛び出した。後ろで慌てたように呼び掛ける声があったけど構わない。帽子も被らず、私はお姫様とは思えないはしたなさで、階段を二段飛ばしで駆け降りた。


 そのまま走り抜けて、下見所に飛び込む。誰何の声その他を無視して下見所を突っ切って馬場を目指した。下見所から馬場に出る所にも勝手に入り込んだ観客が溜まっていたけど構わない。私は頭から突っ込んで密集している人々を押し除け、掻き分けグイグイと前に出る。当然苦情や罵声は上がったけど、それどころじゃないのよ!


 そして遂に私は仕切りの柵まで辿り着いた。そしてドレスをはためかせて躊躇無く柵を飛び越えた。


「おい! 入っちゃダメだ!」「危ないぞ嬢ちゃん!」


 そんな声が掛かるけど耳に入らない。私は左の方。坂の下をグッと睨み付けた。


 そこを駆け上がってくる真っ黒な馬。芝を蹴り上げ、土塊を跳ね飛ばし、凄まじい勢いで最後の直線を傾斜をモノともせずに飛んでくる。その背中には白い上着を着た白金色に輝く髪を靡かせた男性。帽子はどこかで飛んでしまったのかしらね。


 人馬一体となったガーナモントとアクロード様は、私の目の前を風のような勢いで駆け抜けていった。でも、一瞬だけアクロード様の目が動いて、私を見て、そしてニヤッと笑ったのが見えたわよ。


 そのままの勢いでガーナモントとアクロード様はゴールラインを通過していった。歓声が一際大きくなる。第一ヒートはガーナモントの勝利だ。


 しかし、問題はその差だ。果たして、ハイレガーとの差は、失格規定が適用される二百五十メートルに達しているのだろうか。私は慌てて視線を坂下に向ける。


 ……のだが、そこには何も見えない。え? 一瞬戸惑ったのだが、目を凝らすと遥か彼方。二百五十メートルどころではないくらいの後ろに栗毛の馬の姿があった。私は驚きに目を瞬いた。


 ようやく坂を上がってきたハイレガーはフラフラだった。口から泡を吹き、背中からは大汗をかいている。そしてやっとのことでゴールラインを通過した。


 ハイレガーは長距離が得意な馬である。長距離戦はヒート競争もダッシュ競争もゆったりした流れになる事が多く、鞭が入るような走りをするのはゴール前の直線だけだ。


 それが今回は残り距離が千メートル以上残ったところからスパートを強いられたのだ。それはそんな長距離をスパートしたことのないハイレガーにはさぞかしキツかった事だろう。


 ハイレガーがゴールした時には、ガーナモントはゴールラインに戻ってきていた。クーリングアップも済んだのか、息ももう平静に戻っていた。六千メートルも走ったのに、凄い馬だ。


 私はガーナモントに駆け寄り、彼の鼻を抱き締めた。


「凄い! 偉い! ガーナモント! 良くやったわね! 流石だわ!」


 ガーナモントは当たり前だ、と言わんばかりにブフンと鼻息を吐いた。その鞍上で苦笑が聞こえる。


「そこはまず、勝利の立役者であるこの私に抱き付くべきではないか? 愛しの婚約者殿?」


 私は恥ずかしいので、そっちを見ず、ガーネモントの首に顔を伏せながら言い返した。


「競馬は、走った馬が、勝った馬が偉いんです。人間は二の次です!」


 しかし私は顔を上げる。多分、ちょっとあんまり人に見せられない顔になっていると思う。だってさっきから涙が止まらないんだもの。きっとお化粧はぐちゃぐちゃになってしまっているわよね。でも、どうにも収まらないのだ。


「う、うううう、あ、アクロード様!」


 私はもう我慢出来ずにアクロード様の脚に抱き付いた。そこしか届かなかったからだ。しかしアクロード様はその私を流石の腕力で掬い上げ、自分の胸に抱き寄せた。私はガーナモントの背中でしっかりとアクロード様に抱き寄せられる。


「どうだ。見事勝ったであろう? 私と君の勝利だ」


 そんな事はない。何もかも、アクロード様とガーナモントのおかげだ。私なんて何も出来ていない。つくづく、アクロード様は凄い方だ。そんな彼に望まれた私は本当に幸せだ。そう思うともう私の涙はとめどなく溢れてしまってどうしようもなかったわね。


  ◇◇◇


 やがて、公爵家の皆様とマロンドおじ様が貴賓室から降りてきて、馬場にいるガーナモントとハイレガーの所にやってきた。


 アクロード様は私を抱いたままマロンドおじ様を見下ろす。


「標準ルールに基付き、其方の馬は失格だ。勝敗は着いた。これで良いな? 侯爵?」


 アクロード様の言葉に、マロンドおじ様は言い返せない。真っ赤な顔をしてうぬぬぬと沈黙している。アクロード様は勝ち誇って更に言う。


「まぁ、納得出来るぬならもう一回走っても良いぞ? 其方の馬が走れるのならな?」


 ……確かにハイレガーは草臥れ果てていて、騎手が降りて支えないと立ってられない有様だ。三十分後にもう一ヒート走っても勝敗は明らかだろう。ガーナモントはもう全然普通の顔しているもの。


 つまりアクロード様の作戦は二段構えだったのだ。


 こっそり差を開いてハイレガーとの差を二百五十メートル以上開くことを狙い、気付かれたらリードを保って相手を焦らせ、ハイレガーには無茶なスパートをさせる。そうすれば例え次のヒートに突入しても有利な戦いが出来るという寸法だ。


 勿論、それには前提としてガーナモントに高い能力が必要になるんだけどね。その辺はアクロード様には自信があったのだろう。


 実はアクロード様はレースが決まってからほとんど毎日、競馬場のガーナモントの所に行き、調教を付けていたのだそうだ。お仕事そっちのけで。だからガーナモントの能力を信頼出来たし、あんなに息も合っていたのである。


 それだけではなく、実はアクロード様はこの一戦に向けて様々な準備をしていたのだった。


 まず、ダイエットだ。アクロード様はご自分の体重では、自分が騎手になったら不利になってしまう事は分かっていた。なのでレース二週間前からダイエットして体重を十キログラム以上減らした。だから当日の鞍などを含めた重量が八十二キロに収まったのだ。本来は九十キロ以上あったのだから、多分ほとんど絶食したのだろう。アクロード様曰く、戦場では絶食も普通に経験したから大した事は無い、ということだった。いやいや、そんな事は無かったと思うのよ。


 そして、ヒート競走について様々な文献や、専門のジョッキーや調教師の話を聞くなどして知識を蓄えた。そうして考えついたのが失格規定を使った作戦だ。その辺りは流石に軍の名将である。敵を知り、己を知れば百戦危うからず、というのがアクロード様の座右の銘なのだそうだ。


 それ以外にも、今回ガーナモントに乗ったアクロード様は、鐙を非常に短くしていた。馬の腹を過ぎるくらいまでの長さの鐙に、脚を伸ばして掛けるのが普通なのだけど、アクロード様は鞍のほんの少し下までの短い鐙で、膝を曲げた姿勢でガーナモントに乗っていたのだ。見た事のない騎乗法だったけど、アクロード様はこれを南方の遊牧民出身の兵士から教わったらしい。なんでも、馬に負担の少ない乗り方なのだそうである。


 そして何度がダフネス競馬場を走って研究して、どうも馬場の中央付近は地面の固さがあって走り易いことも見抜いていたそうだ。


 そのように用意周到に準備を整えて、アクロード様はレースに臨んだのだ。後でそれを知った私は感動するやら感心するやら驚くやらだったわね。若いのに軍で名将と呼ばれているというのも、こういう用意周到な所に拠るのだろうね。


 レースの審判員がやってきて勝敗を告げる。


「ハイレガー号は勝ち馬との着差が二百五十メートル以上あったため、失格と致します! ですので、第二ヒートは行われません! 勝ち馬は、ガーナモント号と確定いたします!」


 審判員の宣言と同時に、大観衆からわっと大歓声と拍手が沸き起こった。アクロード様は右手を高々と上げて握りこぶしを作っている。まったく凱旋将軍の仕草だったわね。私はその胸の中で幸せいっぱいな気分で観衆に向けて手を振った。まるで救われてきたお姫様の気分だったわよ。


 アクロード様は目を細めると、マロンドおじ様を睨み付けた。マロンドおじ様は悔しそうに下唇を噛んでいる。


「侯爵。何か言いたいことはあるか?」


 冷たいお声だったわね。決闘に勝ったのだから、アクロード様には侯爵を不敬の罪で罰する権利が有ると言える。


 今回の決闘は、アクロード様には非常に不利な決闘だったからね。アクロード様が負ければ、クラーリアを失い、その結果私という婚約者を失い、名誉を失うところだった。一方、マロンドおじ様は負けてもクラーリアが得られないだけ。


 そんな不利な決闘に、身分が高い次期公爵が応じたのだ。その事を考えれば、敗北したクレバーン侯爵家の不敬に対して、公爵家から何らかの罰が下っても当然だろうね。現公爵のマロンドおじ様の強制隠居くらいなら可愛いもので、本人の死罪とお家の伯爵家への格下げぐらいはあっても全然おかしくはない。


 私としては、恩義のあるマロンドおじ様を、愛するアクロード様が罰するなんて耐えられない気分だったけど、事は公爵家の名誉の問題だ。公爵家の人間である私がマロンドおじ様を庇うことは出来ない。


 マロンドおじ様は暫くアクロード様と睨み合った後、がっくりと項垂れた。


「……ございません」


「そうか」


 アクロード様は満足そうに笑った。勝者の笑みだった。


 しかし、マロンドおじ様は次の瞬間顔をガバッと上げた。興奮した真っ赤な顔で、目をなんだかキラキラと輝かせている。意外な表情にアクロード様が仰け反る。


 マロンドおじ様はそして、興奮しながらまくし立てた。


「こ、このガーナモント! これは本当に凄い馬です! 是非! 是非この馬の子供が欲しい! 家の牝馬に是非この馬の種を下さらぬか! いや! クラーリア! クラーリアを是非この馬と娶せるべきですぞ! ガーナモントとクラーリアの子供なら、私は万金を積んでも買いますとも!」


 目を子供のように輝かせ、大興奮でガーナモントの素晴らしさと、クラーリアとの子供の可能性を語りまくるマロンドおじ様の姿に、私はプッと吹き出してしまった。相変わらず、私と同じくらいの馬馬鹿ね、このおじ様は。


 アクロード様もおじ様の馬オタクぶりに呆れ果て、毒気を抜かれたようだった。そしてアクロード様は苦笑しながらマロンドおじ様に言った。


「それは約束出来ぬぞ。侯爵。何しろ今後、フェバステイン公爵家の馬産の責任者はエクリシアになるのだからな。ガーナモントもクラーリアもエクリシアが管理をする事になる。頼むならエクリシアに頼む事だ」


 それを聞いてマロンドおじ様は私に輝く目を向けた。


「エリー! 頼む!」


 私はクスクスと笑って、そしてアクロード様を促した。


「さぁ、どうしましょうかね?」


 アクロード様はガーナモントをパッと駆けさせた。追いすがるマロンドおじ様を引き離し、私とアクロード様は気持ち良さそうに走るガーナモントの背中で笑い合ったのだった。


  ◇◇◇


 決闘の結果、クラーリアの譲渡先はフェバステイン公爵家に決定し、正式な書面による(もう口約束はこりごりだったので)譲渡契約が行われ、レースの半月後、クラーリアはフェバステイン公爵城へとやってきたのだった。黒鹿毛の見事な立ち姿を見て、私は感動のあまり躍り上がったわよね。


 もう競馬には使わず、来年の春には種馬を付けて繁殖牝馬にする予定だ。それまでは公爵城で休ませる予定だけど、それまでは少し乗っても良いわよね。こんな良い馬、乗らないと勿体ないじゃ無い? 皇帝陛下が半分以上乗馬に使っていた理由も分かるわ。クラーリアは気性も良い馬だし。


 季節は秋になり、私はまた馬の調教と社交に忙しい日々を送っていた。来年の夏の挙式も決まって、アクロード様との仲も非常に良好。公爵家の皆様も相変わらず優しく楽しく、私は本当に幸せで充実した日々を送っていたのだ。


 こんな幸せが、永遠に続けば良いと、私は思っていた。

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