第十三話 大問題

 は? 公爵閣下のお言葉を聞いて私も驚いたんだけど、アクロード様の反応はそれどころではなかった。


 アクロード様は立ち上がって怒鳴ったのだ。いつも穏やかな彼がこんなに感情を露わにするところを見たのは、私は初めてだった。


「どういう事なのですか!」


 しかし公爵閣下は別に戸惑うでもなく、ただし不機嫌そうなお顔のまま言った、


「どうもこうも無い。皇帝陛下が仰るには『先約があった』との事だ」


「しかし! 皇帝陛下は私に『分かった。嫁取りのためなら仕方が無いな。クラーリアは其方に譲ろう』と確かに仰ったのですよ!」


 アクロード様があまりに怒っているので、私は慌てて席を立って彼を宥めに行った。


「落ち着いて下さいませ。アクロード様。皇帝陛下にも何か事情がお有りなのでしょう」


 私に背中を撫でられて、どうにか心を落ち着けたアクロード様は席に着き、私も自分の席に戻った。私とアクロード様が席に戻ったところで公爵閣下が説明を始めて下さった。


「どうもクレバーン侯爵からクレームが付いたようなのだ」


 クレバーン侯爵は良く知っている。ジョッキークラブの理事長を務めている大貴族だ。ある意味、私以上の馬ぐるいだと言って良い人物である。


 侯爵はもう七十歳にもなる人物だが、先代の皇帝陛下の時代から陛下や帝国政府に働き掛け、帝国競馬の発展に力を尽くして来たのだ。


 北の王国からランニングホースを輸入し、その優秀さを帝国に知らしめ、同時に北の王国の競馬体系を取り込んだ。帝国でのダービー開催も彼の発案である。彼のおかげで帝国の競馬は飛躍的に近代化したと言って良い。文字通り帝国競馬の立役者。それがクレバーン侯爵だった。


 で、そのクレバーン侯爵がどうしてクラーリアの所有権を主張しているのかというと、これが実に複雑な事情があったのだった。


 そもそもクラーリアは四年前、北の王国から帝国との友好の証として贈呈された名馬だ。血統も馬体も素晴らしく、これは北の王国としてはクラーリアを基礎繁殖牝馬として、友好国である帝国の競走馬を改良して欲しいという意味があったようだ。


 しかし当時、皇帝陛下は競馬にあまり興味が無く、ランニングホースの事が良く分からなかった。しかし綺麗で良い馬だと思った陛下はこの馬が気に入り、帝宮の厩舎に入れた(私が見に行ったあの厩舎だ)。


 しかしこれに対してクレバーン侯爵が物言いを付けた。こんな良い馬を帝宮に死蔵しておくのは勿体無い。競馬に使うべきであると。


 皇帝陛下はその言を入れ、クラーリアを競馬に出す事にした。その手配をしたのもクレバーン侯爵だった。調教師を決め、レース登録も手配した。クラーリアを気に入っていた陛下はクラーリアを競馬場に預けっぱなしにはしなかったのだけどね(高位貴族には競馬よりも綺麗なランニングホースを乗馬に使いたいからとレース前にだけ競馬場に入れる例も多い)。皇帝陛下の馬が競馬に出るようになったのはクレバーン侯爵の尽力のおかだったのである。


 そんな風にクレバーン侯爵はクラーリアに強く関わっていたのだ。そしてことある毎に皇帝陛下に「競馬を引退した暁には、クラーリアを下賜して頂きたい」とお願いしていたのだそうだ。


 これに対して皇帝陛下は「考えておこう」くらいの返事をしていたようなのね。確約は与えていなかったから、これをもって先約というのは無理があると思うんだけど。


 しかし、考えておく、検討すると言ったのは確かだった。それなのに、皇帝陛下はクラーリアを、突然アクロード様に譲る事にした。これを聞いてクレバーン侯爵が「約束が違う!」と皇帝陛下のところに猛抗議したらしい。


 この時、クラーリアのアクロード様への譲渡が書面でまとめられていれば良かったのだが、皇帝陛下とアクロード様の譲渡の件も口約束に過ぎなかった。見方によってはクレバーン侯爵との約束と同等の重みしかないと言える。


 クレバーン侯爵としても、こんな名馬であるし、前々から自分が尽力して競馬に出していた馬でもある。譲渡をお願いしたのも自分の方がずっと前だ。色良い返事も頂いていた。


 それを次期公爵とはいえ、それまでクラーリアに何の関わりも無かったアクロード様が横から掻っ攫って行ったとなると、それは文句を言いたくなる気分も分からないこともない。


 クレバーン侯爵は帝国政府の重鎮の一人であるし、ジョッキークラブの理事長として貴族達に大きな影響を持っている人物でもある。クラーリアの面倒を頼んだという事情もあり、皇帝陛下としても侯爵の抗議を突っぱねかねたらしい。


 それで公爵閣下に(アクロード様がいなかったので)「クラーリアを諦めてくれないか?」と打診があったのだそうだ。


「まさか父上。それを承知してはおりませんでしょうな?」


 アクロード様の答えに、公爵閣下は憮然としたお顔で仰った。


「当たり前だ。今更エクリシアとお前が婚約出来ないなどという話になったら我が家も困るではないか」


 アクロード様は少し落ち着いたように大きく息を吐いた。


「そうです。ここは引けませんよ。父上。例え皇帝陛下と争う事になってもです」


 私は仰天した。とんでもない話になってきた。皇帝陛下の最側近たるフェバステイン公爵と、次代の筆頭大臣は確実と言われているアクロード様が、皇帝陛下と争い対立するとなると大変な事だ。


 しかも原因が私が思い付きで付け足した婚約の条件だ。そんな事で公爵家が危機に陥るなんて私はちっとも望んでいない。それに私はもうフェバステイン公爵家、何よりアクロード様が大好きになっている。今更婚約破棄する気なんて無い。


「お、お二人とも、落ち着いて! 皇帝陛下がお困りなら、残念ですけど諦めるしか無いのではございませんか? 婚約の条件だったとはいえ、先約があったのでは仕方が無いではありませんか」


 しかし公爵閣下もアクロード様も揃って首を横に振った。


「ダメだ」「無理だ」


 ダメは兎も角、無理とは? 私は無理だと言ったアクロード様を見詰めた。アクロード様は厳しいお顔で仰った。


「君への求婚は公衆の面前で行われた。君の『クラーリアが欲しい』という望みも皆が耳にした」


 ……そうね。改めて言われるとちょっと恥ずかしいけれどその通りだ。


「そして、私と君は婚約した。当然、周囲は私が君の婚約の条件を満たしたのだと考えるだろう。それなのにクラーリアを私が君に贈れなかったという事になると、私は約束を違えた、という事になる」


 私を謀って私と婚約した、という事になってしまうのだそうだ。確かにそれは不味い。アクロード様の名誉に関わるだろう。ひいては公爵家全体の評価の低下に繋がりかねない。


 なので今更私が婚約の条件を取り下げるのは無理なのだ。もしもクラーリアが手に入れられないという事になった場合、アクロード様は名誉のために婚約破棄を余儀なくされるだろうとの事。


 そ、そんな。私は涙目になってしまう。確かに最初は渋々だった婚約だけど、アクロード様や公爵家の皆様に暖かく迎えられて、私はすっかり幸せだったのだ。今更婚約破棄して牧場に戻っても嬉しくない。


 泣きそうな私をアクロード様が慌てて慰めて下さった。


「勿論! 婚約破棄など論外だ! 私は名誉に賭けてもクラーリアを手にしてみせる。場合によっては武力に訴えてでもな! 案ずるな!」


 クレバーン侯爵に兵を差し向けて討ち取ってでもという話である。私は真っ青になった。


「そ、それはいけません! クレバーン侯爵の功績は大きく、ジョッキークラブの皆様は侯爵を慕っています! 私も随分お世話になっているのです!」


「君が?」


「ハイ。子供の頃からお世話になっています」


 子供で女ながら馬が大好きで、競馬場の下見所で目を輝かせて馬を見ている私を抱き上げて、懇切丁寧に馬の見方を教えてくれたのは他ならぬマロンドおじ様。クレバーン侯爵だったのだ。私にとっては恩人なのである。


 その恩人とアクロード様が争うなどとんでもない事だ。見ていられない。


 しかし、アクロード様に譲って頂くことなど出来ようもない。事がアクロード様と公爵家の名誉の問題なら、決闘沙汰、公爵家と侯爵家の戦争になっても本当におかしくないのだ。


「とりあえず、明日帝宮に上がって皇帝陛下に直談判しよう。それしかない」


 そう言うアクロード様に抱きしめられながら、私は身体が震えるのを止める事が出来なかった。


  ◇◇◇


 翌日、アクロード様と公爵閣下は二人で帝宮で皇帝陛下に交渉すべく向かった。私は同行はせず、さりとて社交に笑顔で出席することも出来そうになく、悩み過ぎて頭痛を起こして馬にも触れずにベッドで寝込んでしまった。


 いつも元気な私が寝込んだものだから、ミミリアとニルベニアを始めとした侍女たちが大騒ぎになってしまったわね。


「大丈夫でございますよ。お屋形様と若君が強く望んだ事は皇帝陛下でも覆せませんよ。ご安心ください」


 ニルベニアは力強く請け負ってくれたが、クレバーン侯爵は人望があり、年齢もあって大貴族の重鎮と繋がりが深い。そして馬への執着心は人一倍で、私と良い勝負だと思う。クラーリアを諦めさせることは簡単な事ではない筈だ。


 夜になってようやくアクロード様と公爵閣下はお戻りになった。私は知らせを聞いてお出迎えに行ったのだけど、エントランスホールに入ってきたアクロード様は物凄いお顔をなさっていた。


 美男子がプラチナ色の髪を逆立てるくらい怒ると、あんな凄い形相になるのね。歯を食いしばり、目を血走らせているアクロード様はこの私でも近付き難かった。


「お、おかえりなさいませ……」


 私が言うと、アクロード様は厳しい表情のまま、私の事を痛いほど抱きしめた。何も言って下さらなかったので、交渉がどうなったのかは分からないけど、どうもあまり芳しくはなかったようだ。


 サロンに場所を移し、私から離れないアクロード様とソファーに座って公爵閣下のお話を聞く。


「どうにも、皇帝陛下も困り果ててしまっていたな。やはりジョッキークラブに繋がりのある貴族が連名で意見書を出す事態になっているらしい」


 クラーリアの育成に尽力したクレバーン公爵に、下賜される場合の優先権があるのは当たり前である。何年も前から下賜を願い出てもいる。それなのにそれまでクラーリアに何の関わりも無かったアクロード様がクラーリアを求めるのは筋が通らない、という意見だった。


 確かにそれはそうなのよね。私だってマロンドおじ様がクラーリアをお求めだと知っていたらあんな条件は出さなかった。私は国王陛下が隣国からの贈呈品であるクラーリアを他には出さないだろうと思っていたのだ。


 しかしアクロード様は激昂し、皇帝陛下を詰り、慌てて飛んできた皇太子殿下が、今にも手が出そうなアクロード様を皇帝陛下から引き剥がして別室で宥める事態になったそうだ。流石に皇帝陛下をぶん殴ってしまったら。陛下の甥っ子のアクロード様とはいえ処罰は免れ得なかっただろう。


 公爵閣下も名誉の問題であると食い下がり、困り果てた皇帝陛下は、陛下立ち合いの元でのクレバーン侯爵との直接対話を提案してきたそうだ。直接話し合って落とし所を探ってくれということだろう。


 アクロード様も公爵閣下もそれ以上皇帝陛下を詰めても何も出てこないだろうと考え、とりあえずその提案を了承したそうだ。クレバーン侯爵からの返事があり次第、日時が設定されるとのこと。


 これを聞いて公妃様が物凄く怒ってしまった。


「あのお兄様ときたら! 優柔不断で一つも頼りにならないではありませんか!」


 公妃様に言わせれば。臣下たるもの皇族が望めば譲るのは当然で、それを徒党を組んで皇族に刃向かうなど反逆に等しい所業。全員並べて首を斬ってしまえ! という事だったわね。流石は皇帝陛下の妹。生粋の皇族のご意見だ。


 公爵閣下もアクロード様も似たようなお考えを持っている事は間違いない。クレバーン侯爵はクラーリアに拘るあまりにフェバステイン公爵家の誇りと名誉を傷付けてしまったのだ。


 アクロード様のこのお怒りようだと、交渉にノコノコ出てきたクレバーン侯爵はその場で斬殺されかねまい。皇族に対する不敬の罪に対する罰だとアクロード様は言うだろうね。おそらく皇帝陛下はその言い分をお認めになるだろう。


 しかしそんな事をすれば、クレバーン侯爵を慕っているジョッキークラブの面々は皇帝陛下やフェバステイン公爵家に反感を強く持つに違いない。そうすれば次期公爵夫人である私も競馬界から爪弾きになってしまうだろう。


 そんな事をさせる訳にはいかない。マロンドおじ様は個人的に慕う私の恩人でもあるし。


 私はアクロード様と公爵閣下に強く主張して、クレバーン侯爵との交渉の場に同席させてもらう事にした。


  ◇◇◇


 交渉は一週間後、帝宮の一室で行われた。


 出席者はまず立会人の皇帝陛下と皇太子殿下。


 そしてクレバーン侯爵と息子の次期侯爵。


 そして公爵閣下とアクロード様。


 そして私である。


 案の定、アクロード様はクレバーン侯爵を見て、今にも飛び掛かりそうなお顔をなさっていたわね。もう五十代の次期侯爵なんてアクロード様のお怒りを見て真っ青な顔になってしまっていた。


 しかしクレバーン侯爵ご本人は一切動じた様子が無かった。厳しい表情でアクロード様を恐れる事なく睨み返している。私は、アクロード様の手が腰に下げている剣に伸びるのを抑えながら、クレバーン侯爵に声を掛けた。


「おじ様、お久しぶりです」


 私の声にクレバーン侯爵は一瞬だけ表情を緩めたが、すぐに表情を引き締めてこう言った。


「エリーか。悪いが、其方の頼みでもクラーリアは譲れんぞ」


 その固い口調からして、クレバーン侯爵もクラーリアを譲る気は全然なさそうだった`。クレバーン侯爵の言葉にアクロード様の目付きがより鋭くなる。


 困った。このままでは何が起こるか分からない。私はアクロード様を懸命に宥めながら席に着いた。


 両家の主張は全くの平行線だった。お互い一つも譲らなかったのである。


 フェバステイン公爵家はクラーリアは既に当家に譲られたもので、皇帝陛下にお預けしているだけだと主張した。口約束とはいえ間違い無く皇帝陛下は譲渡を約束したのであり、契約は既に為っているという主張だった。


 一方、クレバーン侯爵家の方は、クラーリアを競馬に出すに当たっての調教費用や預託費用、レース出走料などを当家で負担したのは、クレーリアが引退したら譲渡してくださるという約束を信じたからであり、その時点で手付金を払ったようなものだ。それを反故にされてはたまらない、というものだった。皇帝陛下は競馬に興味が無かったため、その辺の費用に無頓着であったらしい。


「それでは掛かった費用を我が公爵家で返そうではないか」


「そういう問題ではございません。閣下にもお分かりのはず」


「そもそも、皇帝陛下は一言もはっきり譲渡するとは言っておらん。其方の勘違いだ」


「ほう。皇帝陛下や公爵閣下は、いつも私たちにはっきり何から何まで本心を仰って下さるのですかな? 我ら臣はいつもはっきり仰って下さらぬ皆様のお心を慮って動いておりますのでな」


 確かに、皇族の皆様や皇帝陛下の物言いは遠回りな、持って回った言い回しが多いのだ。その皇帝陛下が「考えておこう」と仰ったというのは、確かに約束は成ったと考えてもおかしくないような言葉なのである。


 アクロード様は怒り狂ってクレバーン侯爵を怒鳴りつけたが、マロンドおじ様は流石の胆力で一歩も引かなかった。


 場の雰囲気は険悪になり、アクロード様と公爵閣下は爆発寸前。アクロード様なんて既に剣の鞘を先ほどから強く握って離さない。私にはいつも限りなく優しい彼にこんな激しい一面が隠れていたなんて知らなかったけど、軍人で物凄く強い騎士だというのだから当然なのかもね。


 それにしてもこれ以上はいけない。取り返しの付かない事が起こりかねない。仲裁に入るべき皇帝陛下は何しろ曖昧な事を言ってしまった当事者なので口を出し難いらしく沈黙している。皇太子殿下も困った顔で口を出しかねている。クレバーン次期公爵なんて真っ青な顔をしていて先程から動いていない。


 ……私が何とかするしかない。


 事がここまで拗れれば、両家が和解出来ない事は明らかだ。両家ともプライドがあるもの。もしも皇帝陛下がクラーリアをどちらの家にも譲らないという裁定をしても、両家の間に火種は残るだろう。いや、アクロード様のこの様子ならそんな事になったら帝宮に乗り込んでクラーリアを奪って、その帰り道にクレバーン侯爵家を襲撃しかねないわね。


 そうなると、両家は一度戦った方がいいと思う。戦って勝ち負けがついた方が、その後にしこりが残らないのではないか? 勿論、武力衝突なんて論外だ。帝国内部で貴族同士が私戦をするなんて厳禁されているもの。皇帝陛下から両家に厳しい処罰が下る事でしょう。


 ……そうなると、方法は一つしかないと思われる。いや、違うわね私には一つしか考えられない。馬ぐるい女の私には。


 私は言い争いを続けるアクロード様とマロンドおじ様に向けて、意を決して呼び掛けた。


「提案があります!」


 突然叫んだ私に、アクロード様とマロンドおじ様の目が丸くなる。私はその両方の目を見ながら、特にアクロード様の碧色の瞳を見ながら、ゆっくりとこう言った。


「馬のことは馬で、競馬の勝負で付けましょう!」


 

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