第七話 婚約の条件

「君に提案がある」


 アクロード様のプロポーズを速攻、完璧にお断りした私に、アクロード様は顔色も変えずにこう言った。


 提案? プロポーズではあんまり聞かないような言葉よね。


「な、なんでしょう」


 私は恐る恐る問い返す。アクロード様の事はそれなりに信用している。私は彼が身分差を振り翳して一方的に自分との婚姻を迫ってくるような男だとは思っていない。


 そしてアクロード様は頭が良い方だ。それに私の事を良く知っていらっしゃる。私が結婚なぞより馬育てに夢中の変人であり、普通にプロポーズしたってあっさり断って来ることは分かっていただろう。


 おそらくだけど、アクロード様は私が何か納得出来るような条件を準備してこのプロポーズに臨んだ筈なのだ。それがこの提案なのだろう。


 それにちょっと興味が湧いてしまったのだ。結果的にはそれが私の運の尽きになる。


 アクロード様は魅力的な笑顔のままこう仰った


「私と婚約してくれたら、ペーパロルドを君にあげよう」


「え?」


「というより、結婚して家を継げば、公爵家の資産は全て私のものとなり、ひいては妻である君のものにもなる。所有している馬は牧場ごと君の好きにして良い」


 私は頭を殴られたような衝撃を受けた。な、なんですって!


「ペーパロルドの他にも北の王国から輸入した競走馬は何頭かいる。種牡馬も母馬もな。それを全て君の好きにしていい」


「そ、それはつまり……」


「私の妻になった暁には、公爵家の馬産は全て君に任せよう」


 公爵家は当然だが、物凄く広大な牧場を持っていると聞いている。何百頭という馬を保有しているのだ。それを全て私の好きにしていいという。私の心は一気に熱く盛り上がった。そ、それは凄い!


 それに馬産を任すという事は……。


「勿論、結婚しても馬に関わってくれて良い。次期公爵夫人としての仕事は、まぁ、しないで良いとまでは言えないが、最低限で良い。他の時間は牧場に入り浸っていても結構だ」


 なんと! 私は驚愕した。そんな事を言い出す貴族男性は前代未聞ではないか?


 女は結婚したら家の事を取り仕切り、社交に励み夫を支えるのが当然だと考えられている。常識だ。貴族夫人が事業を始めるなんてもっての他。まして馬は本来貴族当主の嗜みだ。ジョッキークラブの会員には貴族当主しかなれない。


 それなのにアクロード様は私に結婚後にも馬に関わり、馬産事業に励んで良いと言ったのだ。


 私は感動した。アクロード様は私の事を良く理解していて、そして私の望みを最大汲む事を約束してくれようとしているのだ。おそらく周囲との軋轢や異論も出る事だろう。彼はそんな事は百も承知の上で、私にこの条件を提示してきたのだ。


 本気なのだ。アクロード様は本気で私にプロポーズしているのだ。彼の真剣な愛情を感じて、私は狼狽える。


「ど、どうして、なんで私なんかを……」


 アクロード様は社交界のアイドルではないか。隣国のお姫様が表敬訪問した時に、彼の顔を見て一目惚れした話まであった筈だ。なにもこんな真っ黒に日焼けした馬ぐるい女でなくとも、結婚相手は選び放題な筈ではないか。


 アクロード様は私の右手をギュッと握った。


「君が良いのだ。私は君に惚れた。君の夢にも惚れた。だから君が欲しいし、君の夢にも協力したいのだ」


……このセリフは効いた。私の心の防壁は一気に崩壊寸前になった。


 アクロード様は容姿も性格も素敵な方だという事は分かっていたけれど、どことなく本心を見せないような、典型的な貴族で、笑顔の裏で策謀を巡らせるような方だという印象がどうしてもあった。


 しかしながらその言葉は本当に直裁的で、飾りが無く、真摯だった。それだけに私の胸は撃ち抜かれたのだ。


 私は馬が好きだ。馬はあんまり表裏がないし、素直だし、こちらの信頼には必ず応えてくれる。それに比べて人間は本心を見せないし、嘘を吐くし、平気で信頼を裏切る。


 しかし、この人は違う気がした。私に対する愛情を素直に表明してくれた。私の事を理解してくれた。信頼してくれた。


 この素晴らしい人と、ずっと続く信頼関係を結べたなら、それは素敵な事だと思えた。もう半年も貴族令嬢らしからぬ所を曝け出し、馬ぐるいぶりを存分に見せ、人より馬の事が好きだから結婚出来ないと言い放った私を、それでもアクロード様は求めて下さった。


 それは感動的なことで、心が動かされる事で、そして胸が暖かくなる事だった。


 正直、私の心は半ば定まっていた。こんな素敵な男性にはもう二度と出会いまい。その彼が私を妻にと求めている。これはもう千載一遇の機会であり、女神様の下さった一世一代の幸運であり、逃したなら一生後悔するだろう良縁だった。


 ……しかし、それでも私は決心が付かなかった。


 なにしろ私は、今日の今日まで結婚する事など考えもしなかった馬ぐるい女なのだ。いきなり理想の男性が現れたから、すぐに結婚しましょうと言えるわけがない。しかも相手は次期公爵だ。


 アクロード様がお約束して下さっても、私が牧場に入り浸るなんて許されないかも知れないではないか。お屋敷に閉じ込められ、次期公爵夫人としての義務を課されるかも知れない。私はアクロード様は嘘を吐かないと信じているけど、彼の周囲の方々の事は全然知らないのだもの。


 しかし、跪き、穏やかな笑顔で返答を待っているアクロード様を放置は出来ない。いつまでも迷っている暇はない。それは「考えさせて下さい」でも良いのかも知れないけど、それはあまりにアクロード様に失礼だ。


 野次馬は増える一方。公爵閣下も公妃様も、二人の妹姫様もワクワクしたお顔で私とアクロード様を見守っている。家の家族は真っ青な顔をして放心状態だ。役に立ちそうにない。


 追い詰められ、切羽詰まった私は、思わずとんでもない事を言い放った。


「ふ、不足です!」


 私の言葉にアクロード様の目が丸くなるが、それほど驚いた様子はなかった。


「不足とは? 結婚の条件が?」


「そ、そうです! えーっと……」


 私はもうテンパってしまって、半分自分が何を言っているか分かっていない。彼の思いに応えたいという気持ちと、結婚したくないという気持ちがごちゃ混ぜになってしまい、その挙句に口から出た言葉がこれだ。


「クラーリアが欲しいです!」


「クラーリア? それはなんだ?」


「こ、国王陛下のお持ちになっている競走馬です! 北の王国から贈られたという。あの馬を下さいませ!」


 ……恐らくは、アクロード様と出会った時の事を思い出し、同時になんとか返答を先延ばしにしたいと思い、そのためには何か無理難題をふっかけようという考えになり、それでこんな事を口走ったのだと思われる。


 後になってどうしてこんな事を言ったものかと頭を抱えたわよね。


 実際、かなりの無理難題の筈だった。クラーリアは国王陛下の所有馬であるし、外国からの贈答品であるからには簡単には売買出来ないと思われる。例え次期公爵のアクロード様と言えど、手に入れる事は容易には出来ないだろう。


 無理難題を吹っかけて、それでアクロード様が諦める事を期待した……。わけではない。その程度で自分の決めたことを覆すような方ではないと、私はもう知っている。あまりに失礼な事を言われて立腹したアクロード様が求婚を取り消すことを期待した……。わけでもない。彼なら私が無茶苦茶な事を言い出すくらいは予測範囲内だろう。


 実際、アクロード様は私の無理難題を聞いて、呆れたようなお顔をなさったけど、少しも驚いてはいなかった。


「それが条件なのか?」


「そ、そうです」


「クラーリアを君にプレゼントすれば、私と婚約してくれるんだね?」


「そ、そうです! 勿論、先のお約束も守って下さればね!」


 私がどうにかこうにか必死で言い放ったにも関わらず、アクロード様はなんだかホッとしたような表情をなさった。


「よかった。もっととんでもない要求が来るかと思って身構えてしまったよ」


 本当にホッとしたのか、柔らかい口調でアクロード様は言った。そして私の手の平にもう一度優しい口付けを落とすと言った。


「分かったそれでは、クラーリアを国王陛下から譲って頂くまで返事は保留ということだね。では、待っていてくれ。必ずや吉報をもって君を迎えに行くから」


 ◇◇◇


 ……その日は、それから全員で貴賓室に戻り、貴賓室でお茶を飲みながら歓談したり、競馬を見て公爵閣下が私に色々質問してきたりして、終わった。


 クランベル伯爵家一同はぐったりだ。着替えもせずにお屋敷のサロンのソファーに全員崩れ落ち、伸びてしまった。


 私も例外ではない。いや多分私が一番大変だった筈よね。


 あの後もアクロード様はずっと私の腰を抱いたままだったし、公爵閣下も公妃様も、妹姫様達も主に私に話掛けて来たんだからね。


 特に妹姫様二人、ディーリット様とクリエール様は私を将来の義理の姉とみなして、積極的に話し掛けてきたわね。ちなみにディーリット様が十三歳。クーリエル様が十二歳だそうだ。


「「私たちお姉様が欲しかったんです!」」


 との事だった。


 公爵閣下も公妃様も、私がアクロード様のプロポーズを一度断った挙句、無理難題を押し付けたというのに怒りもせず、もう当然私が嫁に来る事を前提としてお話になっていたわね。お父様に「これから親戚になるのだからな」などと親しげに声を掛けて失神寸前に追い込んでいた。


 公妃様は私が結婚しても馬産に取り組む気だという事について「領地の殖産興業に務めるのは領主夫人の勤めですからね」と意に介していないようだった。いや、それでも公妃ともなれば色々あると思うんだけど。


 とにかく、公爵家の皆様はこんな大して大きくもない伯爵家の三女の馬ぐるい女が嫁に来る事を全面的に歓迎して下さっていた。どういう事なのか。


 私が頭を抱えていると、お母様が恨めしげなお声で仰った。


「……なんではっきりとお断り申し上げなかったのですか」


 ……断りましたとも。最初にはっきり。


「もっと徹底してお断りすれば良かったのです! おかげでもう取り返しが付かないではありませんか!」


 確かにもう、ちょっと取り返しが付かないかもしれない。なにしろアクロード様のプロポーズは競馬場の皆様、衆人環視の元で行われた。今頃帝宮で行われているだろう夜会の会場で噂は駆け巡っているだろう。明日の朝には帝国貴族に知らない者はいなくなるに違いない。


 だって仕方がないじゃない! アクロード様、あれは私がどんなに断っても、絶対に諦めなかったと思うわ。それだけの覚悟があってのプロポーズだったのだ。


 それに私だって帝国一のアイドルともいうべきアクロード様の、あの真剣な素晴らしいプロポーズを、断れる訳がない。無理だ。いくら恋愛などどこかに投げ捨てて生きてきたこの馬ぐるい女でも、あれは断れない。威力が違う。


「で、でも、なんとか即答は避けたわよ。そう簡単にクラーリアを譲って頂ける訳がないから、その間になんとか……」


 しかし、お母様もお父様もお兄様も兄嫁も、揃って呆れ果てたというお顔をなさった。


「バカね」「バカか」「バカだな」「バカよね」


 散々な言われようである。むー! そりゃ、私はバカかも知れないけど!


「クラーリアは皇帝陛下の所有馬だぞ? それをアクロード様が譲って頂くなんて造作もない事だ。そんな簡単な条件を付けるなんてバカ以外の何者でもないだろう」


 お兄様の言葉にびっくりしてしまう。え?


「アクロード様は皇帝陛下の甥だぞ? 皇太子殿下とも幼い頃からの親友だ。そのアクロード様が『嫁取りのためにクラーリアを譲って欲しい』と言ったら、皇帝陛下は喜んで譲って下さるに決まっているだろう」


 皇帝陛下の甥?


 なんでも、アクロード様のお母様の公妃様。ファランティーネ様が皇帝陛下の妹なのだそうだ。だからアクロード様は公爵家の嫡男にして皇帝陛下の甥という事になる。


 なので、アクロード様は皇位継承順位で言うと、皇太子殿下の次、つまり継承順位二位なのだそうだ。ちなみに三位が公爵閣下で以下公爵家の当主の残りお二方が続く。


 な、なんですと? 私は愕然とする。甥っ子だけにアクロード様は皇帝陛下に息子のように可愛がられており、その彼の願いはまず断られないだろうという。まして事が嫁取りだ。


 どうりでアクロード様も公爵閣下も安心し切った顔をしていたわけだ。考えてみれば公爵家の方は皇族だもの。それは皇帝陛下と親戚として私的な関係があるわよね。そのルートで打診すれば、皇帝陛下はあっさり許可を出して下さるだろう、出してしまうだろう。


 唖然とする私を見ながら、お父様もお母様もお兄様も、期せずして同時に大きなため息を吐いた。


「こうなってはもう覚悟を決めるしかあるまい。……皇族と縁繋がりになるなど畏れ多い事だが」


「せめて嫁に行くのがエクリシアでなければねぇ……」


 お母様はそう言って嘆いたけど、私だって私が次期公爵の妻になるなんて無理だと分かっている。せめてもう嫁に行ってしまったお姉様達ならなんとか務まったかも知れないけど。いや、無理か。


 分かっている。分かっているんだけど、アクロード様が求めたのが私だったんだから仕方がないのだ。そして私も、心が動いてしまったのだから。


 ……三日後、アクロード様が家の屋敷を訪れた。


「無事、クラーリアを譲って頂く許可を、皇帝陛下に頂いたよ。これで結婚してくれるね? エクリシア」


 ……というわけで、観念した私は彼の求婚を承諾した。ここにフェバステイン公爵家嫡男アクロード様と、クランベル伯爵家三女エクリシアの婚約が内定したのであった。私は十八歳。アクロード様が二十三歳の、秋の事だった、


 ただ、クラーリアについては、皇帝陛下がもう少し競馬に使いたいという意向があり、正式な譲渡はクラーリアが引退した後という事になっていた。これが、後に問題を引き起こす事になる。

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