第六話 ペーパロルド

 公爵閣下とのご挨拶が終わると、私たちは椅子を薦められた。侍従がどこからともなく椅子を出してくれたわね。人数分。


 そして私はなぜか、アクロード様と二人掛けのソファーに座ることになった。……なぜに?


 公爵閣下のお隣には公妃様。つまりアクロード様のお母様であるファランティーネ様。薄茶色の髪と濃い緑の瞳の美しい方だ。


 その横の二人掛けのソファーに座っているのは、アクロード様の妹姫なんだとか。薄茶の髪の方がディーリッド様。アクロード様と同じ白金色の髪の方がクーリエル様というらしい。


 公妃様は社交笑顔で私の事はサラッと見ただけだったけど、妹姫のお二人は、何だか興味津々で私の事をジロジロと見てくる。何ですか?


 妹姫だけではなく、公爵閣下も私の事をためつ眇つ見ていた。そしてやや失望したように仰った。


「なんだ。意外に普通のご令嬢ではないか。アクロードが気に入ったというのだから、どんな変わった女性が出てくるかと思ったのに」


 一体何を期待されたいたんでしょうかね? それは私は普通の人間ですよ。いくら馬が好きでも馬の耳が生えていたりふさふさの尻尾が生えていたりはしませんよ。


 公爵閣下の言葉を聞いて、アクロード様はなぜか大変満足そうに頷いた。


「そう見えますでしょう。父上。それが良いのですよ」


 何が良いと言うのか。公爵閣下はともかく、公妃様の方の視線は厳しい、というか、胡散臭いものを見るような雰囲気があった。どうも自慢の息子が変な女に引っ掛かったのではないかと不安がっている感じだったわね。


 ……というか、完全に私品定められてるわ。公爵御一家に。アクロード様に相応しいかどうかって。いやいやいや。ちょっと待って下さいませ。そもそもそれ以前に私はアクロード様の恋人でも婚約者候補でも何でもありませんよ。ただのお友達です!


 ま、まぁ、ちゃんと品定められれば、私なんか問題外の女だと思われるでしょう。私なんかが次期公爵夫人に相応しいと認められる訳がない。アクロード様のお母様が彼の迷妄を叱り付けてお終いになるわ。うん。


「まぁ、良い。では、早速馬を見に行こうか」


 公爵閣下がそういうと、皆様は立ち上がった。私も、私の家族も続く。私はまたアクロード様にしっかり腰を抱かれている。


 バルコニーに出るのかと思ったら、公爵閣下を先頭に皆様は部屋を出た。そして、上がってきたのとは違う階段から下に降りて行く。どうやら貴賓席専用の階段があるらしい。


 出たのは下見所の前だった。下見所にも貴賓専用の席があるのだ。知らなかった。公爵閣下は吹く風に気持ちよさそうに目を細めると、下見所に丁度出てきた栗毛の馬を指差して言った。


「あれが家の馬だ。名前はペーパロルド」


 大昔の名将から取った名前だそうだ。馬を見た瞬間、私は今の状況とか場所を忘れた。下見所を囲む柵に走り寄ってペーパロルドの事を食い入るように見つめる。


 ……ほう……。私は感嘆のため息を吐く。綺麗。


 流石は公爵家の馬。スラリと脚長、胴もほっそりとした素晴らしい馬だった。あのお腹のくびれ具合は牝馬だろう。


 賢そうな顔。澄んだ瞳。ピカピカな毛艶。大事にされている事が一目で分かる。素敵!


 夢中で見ている私の横でアクロード様が言う。


「北の王国から購入した馬を掛け合わせた馬だ。今までの戦績は五戦二勝。ちょっと気持ちが弱くてね」


 そのせいでゴール前で他の馬に差されてしまうのだという。しかし話を聞くと、今まで走った距離が千メートルから千六百メートルであるらしい。


「この子は脚も胴も長いですから、もう少し長い距離の方が合いますよ。短い距離だとダッシュが付かないかもしれません」


 私が言うと、公爵閣下が驚いた顔をした。


「馬に得意な距離があるのか?」


「そりゃありますよ。短い距離が得意な馬は、犬みたいにガッチリした体格なんです。ペーパロルドみたいにスラッとした馬は長い距離が得意なんですよ」


 と言ってしまって、公爵閣下の後ろでお父様が真っ青になっているのが見えて、私は自分の失敗に気が付いた。しまった。


「失礼いたしました。出過ぎた事を申しました」


「いや、良い。うむ。そうか、流石だな」


 公爵閣下が快く許してくれたので、私は再び馬に集中する。観衆に良く見えるように、牧夫が馬を歩かせる。歩様も綺麗ね。良く調教されている証拠だ……。


 しかし私はそこで気が付いた。おかしい。


 見間違えではないかと。もう一度ペーパロルドの歩様を真剣に確認する。……間違い無い。私はアクロード様を振り仰いで叫んだ。


「アクロード様! あの馬の出走を中止して下さい!」


 私の事に慣れている流石のアクロード様も驚いた。


「何故だ?」


 私はアクロード様の碧の瞳を見つめながら真剣に言った。


「あの馬、歩様がおかしいです。故障しています」


  ◇◇◇


 私の言葉に驚いたアクロード様と公爵閣下は、慌ててペーパロルドを管理している調教師を呼び寄せた。レースが始まるまで時間が無い。


 調教師は、流石は公爵家お抱えの者だけあってこ綺麗な格好をしていた。跪く姿も堂に入っている。貴族の血筋なのかもしれない。


「何かございましたでしょうか。閣下」


 公爵閣下に直答を許されて、調教師が言った。閣下が頷く。


「うむ。そこのご令嬢がな、ペーパロルドは怪我をしているから出走せぬ方が良いと言うのだ」


 公爵閣下の言葉に、調教師は僅かに眉を動かした。しかし、平静な口調で言う。


「そのような事はございません。ペーパロるどの体調は良うございます。閣下のために必ずや勝利を成し遂げてご覧に入れます」


 私は我慢出来ずに口を挟んだ。


「嘘です! ペーパロルドの右後ろ脚です! 少し引き摺ってるではありませんか! 故障ですよ! 貴方にも分かるはずです!」


 灰色の瞳をした猫背の調教師は私の事をジロッと睨んだ。


「失礼ですが、貴女は?」


「クランベル伯の娘、エクリシアです」


 名乗っただけで私の事が分かったようだ。


「ああ、例の『馬ぐるい令嬢』」


 まぁ、私は調教師にも色々知り合いがいるからね。


 調教師はしかし、無表情に近い顔を私に向けて言った。


「なるほど。確かにペーパロルドの右後ろ脚は跛行しておりますな。しかしあれは筋肉痛です。少し動けば治ります」


 調教師が嘯いた瞬間、私はカーッと頭に血が上った。この男は嘘を吐いている!


「あれが筋肉痛ですって!」


 ドカンと大声が出てしまった。調教師が思わず飛び上がるほどだったので、周囲の人々の注目が一斉に私に集まる。が、私はそんな事を気にしている気分ではなかった。私は調教師を水色の目を光らせて睨みつけながら怒鳴った。


「あれは蹄を傷めている歩き方です! 確かに大きな故障では無いですが、あんな状態でレースに出たら大きな故障に繋がりかねません! あんな素晴らしい馬が、こんな小さな故障が原因で走れなくなったらどうするのですか! 断じて出走させてはなりません!」


 私がガーっと叫ぶと、調教師は呆然としてしまっていた。しかし、彼はそれでも認めなかった。首を横に振る。


「……出走を取り消すほどの怪我ではございません」


 そして私と睨み合う。調教師は一歩も引かない構えだ。……おかしいわね。


 ペーパロルドの仕上がりは素晴らしいものだった。故障を除けば。これはこの調教師がかなり腕の良い馬乗りで、しかも愛情を持って誠実にペーパロルドを育てている事を示している。


 ガーナモントを見れば分かるが、馬は育てる人間によって性格や能力が大きく変わってしまうのだ。ペーパロルドを見ればこの調教師が良い加減な人間ではない事は明らかだ。


 それなのに、なぜこうも頑固に傷付いたペーパロルドに無理をさせようというのか。


 ……あ。


 私はその理由に思い当たった。確かに、この調教師には自ら出走を中止したいとは言えないだろうね。


 私は方針を転換した。振り向いて公爵閣下に向けて深く頭を下げる。アクロード様も公爵閣下も何事かという顔をしていた。私は謹んで申し上げた。


「閣下。どうかここは、私の我が儘を聞いては頂けませんでしょうか。彼が言うように確かに小さな故障なれど、あの馬はまだ将来が楽しみな馬でございます。無理をさせたら将来に障るかも知れません」


 そしてアクロード様にもお願いする。


「アクロード様。どうかお願いいたします私の我儘をお聞き届け下さいませ」


 私は出走取り消しがあくまでも私の希望であり、我儘である事を強調した。調教師よりも私の身分の方が高く、公爵閣下やアクロード様に直接訴えれば、調教師の意見よりも私の希望の方が重視されるのは当然だからだ。


 これは一見、調教師の顔を潰す行為に見えるけどそうではない。


 調教師にはどんなに馬が可愛くても、馬が故障していても、出走取り消しを言い出せない事情があるのだ。


 公爵閣下は顎髭を撫でながら何やら考え込んでいたが、やがて頷いた。


「分かった。他ならぬエクリシアの『我が儘』では仕方ないな。出走は取り消そう」


 ……若干引っ掛かる言い方だったけど、私はそれは言わずスカートを広げて頭を下げた。


「ありがとうございます!」


「うむ。ケビン。其方に責は無いものとする。其方は自分の職責をきちんと果たしておる。これからも私の馬の管理を頼むぞ」


 調教師の名前はケビンと言うらしい。灰色の髪に灰色の瞳。口髭を生やした彼は猫背の背中を更に丸めて頭を下げた。


「もったいないお言葉。恐縮至極に存じまする」


 ケビンの表情には安堵の色がはっきりと表れていた。やはり彼もペーパロルドの怪我を案じていたのだろう。レースに出さずに済んでホッとしているのだ。


 しかし彼はジロッと私を睨んだ。私は微笑んだが、彼は無表情のまま視線を外すと、ペーパロルドの方へ歩いていった。ふむ。あれは中々信用出来そうね。ガーナモントを競馬場に入れる時に預けられる、信頼出来る調教師を探していたんだけど、あの人が良いかもね。アクロード様に仲介を頼んでみようかしら。


  ◇◇◇


「さて、仕方が無いな。審判に言って出走取り消しをせねばならぬ。既に賭けが始まっておるから、罰金も払わなければならんだろう」


 公爵閣下が声高に仰った。私は恐縮して頭を下げるだけだったが、お父様やお母様、お兄様夫妻は生きた心地のしないというお顔をしていたわね。


 しかし、公爵閣下のお顔は随分上機嫌に笑っていらっしゃった。見ると、アクロード様も麗しい相貌に暖かい笑顔を浮かべていたし、公妃様もなぜか笑顔でウンウンと何度も頷いていらっしゃった。


 ……これは、私の下手くそな芝居は全て公爵家の皆様にはお見通しだったのだろうと思われる。それはそうかもね。それまでケビンの非を鳴らしていたのに、突然「私の我が儘で出走を取り消してくれ」と言い出すなんて、不自然だったろうから。


 ケビンには「馬が故障したからレースには使えません」とは言えなかったのだ。それはそうだろう。


 恐らく、今日のレースにペーパロルドを使うと決まったのは二週間前、アクロード様が私を競馬場に誘ったあの時だったんじゃないかしら。アクロード様が公爵閣下に今日のレースへの出走を要請したのだ。まぁ、多分、私を競馬場に招待する口実だった「公爵家の馬が出走する」という理由のつじつまを合わせるためだったんだと思う。考えてみれば、競馬にあまり興味の無いアクロード様が、公爵家の馬が出走するレースを把握していたなんておかしいもの。


 多分、その時はペーパロルドの状況には何の問題も無く、公爵閣下に出走を打診されたケビンは、出走出来ますという返答を寄越した。で、公爵閣下はレースへの出走登録をジョッキークラブに申請した。その時点で公爵閣下がダフネス競馬場を訪れる事が決定する。帝国の重鎮として大変にお忙しい公爵閣下が、予定を空けて競馬場にいらっしゃる事を決めたのだ。


 さて、その直後、ペーパロルドが尖った石を踏んだか何かで蹄に怪我をする。大した怪我では無い。僅かに歩様が乱れる程度。しかし競馬のレースは馬にとって過酷である。何が起こるか分からない。当然、ケビンとしてはレースへの出走を中止したかった事だろう。


 しかし、事は重大である。公爵閣下が競馬場に来ることは決まってしまっている。もしも出走を取り消したら、公爵閣下は競馬場まで無駄足を踏むことになってしまう。つまり閣下に恥を掻かせる事になるのだ。そんな事は、ケビンの立場では出来ない。怒った公爵閣下(閣下の性格的に、そんな事は起こらないかも知れないが)によって罷免されるか、悪くすれば打ち首になってしまうだろう。


 まして出走当日の取り消しには罰金が発生する。賭けがご破算になるので、観客からも恨まれる(まぁ、公爵閣下に賭博についての文句を言える人はいないかも知れないけどね)。馬ぐるい令嬢が騒ごうが何しようが、所詮は平民の使用人に過ぎないケビンが、自分の口から出走を取り消したいなどと言える訳がなかったのである。


 なので私は「私の我が儘」だと強調して、公爵閣下とアクロード様にお願いしたのだ。まぁ、たかが伯爵令嬢の我が儘なんて聞く必要など無い筈なんだけど、多分アクロード様が公爵閣下に私が馬について詳しい事をお話してくれていて、それで信用してくれたんじゃないかしら。


 だけど私がケビンを庇って、ケビンの代わりに責任を負った事は公爵閣下にもアクロード様にもバレてるっぽいわね。別にバレても良いんだけど、どうも公爵閣下の楽しげなお顔が引っ掛かる。私のせいでお忙しいのに無駄足を踏まされて、安くない罰金を払わなければならない羽目に陥ったとは思えないほど上機嫌な表情だ。なんだろう?


 公爵閣下は私の事をジロジロと遠慮無く見回し、そして公妃様に言った。


「どうだ。ファランティーネ。申し分無いと思わんか?」


 公妃様は大きく頷かれた。


「ええ。良いと思いますわ。面白い資質を持っていると思います」


 そして公妃様は私の事をキラッと光る目で見た。私は背中がぞわっとしたわよね。


「色々足りないとは思いますけれど、根性も度胸もありそうですし、そこは私が教育致します。得がたい資質を持っている事の方が重要です」


「そうだな。思っていたよりもずっと面白いご令嬢だった。わざわざ来た甲斐があったというものだ」


 そして公爵閣下は満面の笑みでアクロード様に言った。


「よし。アクロード。許す」


 その瞬間、アクロード様は感激したようにお顔をほころばせ、公爵閣下の前に跪いた。


「ありがとうございます! 父上!」


 声がもの凄く弾んでいる。一体何事なのだろうか。許すって何を?


 とまぁ、私は呑気にも程がある事にそんな事を考えていたのだ。


 しかし、アクロード様が私の前に幸せそうな笑顔のまま進み出て、私の右手を取った後、膝が汚れるのも構わずゆっくりと跪くに至って、流石の私も顔を引き攣らさざる得なかった。へ? まさか、これは……!


 アクロード様は私の右手の、手のひらに静かにキスをする。手の平へのキスには求愛の意味がある。私は思わず硬直した。これは言い訳の余地無く、私への求愛行為だ。それが私のお父様お母様、アクロード様のお父様お母様の前で行われたのだ。ついでに言えば何事かと見守る大勢の野次馬がこれを目にした。もうどうにも誤魔化しようが無い。


 この瞬間まで私は、アクロード様が私に対して懸想しているなんていうお兄様の予想を、どんなに状況証拠を積み上げられても、全然信じていなかったのだ。


 しかしながら、アクロード様は私に突き付けた。真実である。本当である。アクロード様は私を愛しているのだと態度で示して見せた。


 そして彼は左手を胸に当て、右手で私の手を取って顔の前に差し上げながら、芝居掛かった態度、歌うような口調。それでいて真剣な、誠実な声色で私に向かって決定的な言葉を放ったのだ。


「エクリシア・クランベル伯爵令嬢。どうかこの私の妻になってもらえないだろうか」


「え? 嫌です」

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