第四話 ガーナモント
まぁ、私は社交界に全然出ていなかったし、お屋敷にすら帰っていなかったから、アクロード様が帝都から休日の度に消えてしまうのが噂になっているなんて知らなかった。
私は(というより牧場のみんなも)アクロード様とすっかり仲良くなってしまい、彼が次期公爵だなんて事は完全にスッポリと頭から抜け落ちてしまっていた。だって、休憩時間にお茶を飲みながら。ゲラゲラ笑うアクロード様はとてもお偉い方には見えなかったからね。
アクロード様は騎士で、もう何度も戦地に行っているのだそうだ。そこでは平民の兵士と協力して作戦行動を行うこともよくあるのだそうで、それで平民に隔意を持たなくなったらしい。平民にも優れている者もいて、貴族にも大馬鹿者はいる。当たり前の事だ。って言っていたわね。
それと、アクロード様は働く女性にも偏見が無いようだった。私が牧場の仕事を、男勝りな感じでしていても、いつもニコニコと笑って見ていたし、私が競馬で強い馬を育てるために一生を牧場仕事に捧げるつもりだと言っても、眉を顰めるどころか「素敵な夢だね」と言ってくれたからね。
私もロラン達もアクロード様の来訪に慣れ過ぎてしまい、彼が来ても手を振るくらいで出迎えにも出なくなってしまったわね。こんなの、お父様やお兄様が見たらひっくり返って失神してしまったでしょうよ。次期公爵、罷り間違ったら皇帝陛下にもなろうというお方を何だと思っているのかと。
そんな感じでアクロード様が牧場に来るようになってから三ヶ月くらい経った夏のある日、家の牧場に一頭の馬が引かれてきたのだった。その日もアクロード様がちょうどいらしていた。
◇◇◇
かなり遠いところにあるザイザンツ伯爵家の牧場の馬だった。ちょっと前にザイザンツ伯爵から馬を譲りたいというお話がお父様にあって、お父様が私に判断を丸投げしてきたのだ。
お前が欲しいなら買ってもいい。という話だったわね。まぁ、馬を見る目はお父様より私の方が何倍も良いからね。
でその馬が牧夫に引かれて遥々歩いてやって来たのだった。私は「なんで乗って来なかったのかしら?」と訝ったのだけど。馬を見て理解したわよね。これは無理だ。
なにしろ、連れて来られた青鹿毛の大きな馬は、暴れまくっていたのだ。
大きく嘶いて立ち上がる。後ろ脚を蹴り上げる。人に噛み付こうとする。これをのべつ幕無しにやるのだ。これは酷い。
事前に聞いていた話では、この馬はもう四歳になっている筈だ。しかしこの暴れ具合。これでは乗るどころではないだろう。つまり競馬のレースに出せない。
つまりザイザンツ伯爵がこの馬の買い手を探しているのはこれが理由だった。競馬に使えないのでは、そんな馬を持っている理由が無い。
そんな余計者の馬であるのに、この馬がこの年齢まで殺処分されていないのは、実はこの馬が北の王国で生産された馬で、物凄く高いお金を出して購入して輸入されたものからだとの事だった。
なので荒馬乗りに預けられてなんとか競馬に出せないか頑張ったらしいのだけど、結局気性が改善せず、ついに諦めたザイザンツ伯爵が売りに出す事にしたらしい。
しかしながら、あまりの荒馬っぷりに買い手が付かず、お父様に持ち掛けられた時には二束三文といってもいい価格になってしまっていた。
もしもこれで家が断ったら、この馬は殺処分されてしまうだろうね。残念だけど、馬は人の役に立たなければ生きていけないのだ。
あまりに暴れるので、馬を連れて来た牧夫が鞭を振り上げて馬の頭を叩こうとした。私は思わず叫んだ。
「やめなさい! 馬を叩いてはなりません!」
牧夫が驚いて私の事を見る。彼としてみればこの馬をどうにかしないと家に帰れないのだから、癇癪を起こしてしまうのも仕方がないとは思う。だが、私の前で馬を虐待するのは許せない。
牧夫は何かを言おうとして、止めた。どうも視線が私の後ろに動いていたので、私の後ろに立っていたアクロード様に気押されたと見える。
そのアクロード様は暴れまくる黒い馬を見て、呆れたように首を振った。
「これは、ダメであろう。気の強い馬の方が競馬で強いと言っても限度がある。良い馬体の馬だとは思うが」
私は思わず振り向いてアクロード様を見上げた。
「やはりアクロード様も良い馬体だと思われますか?」
「? ああ、雄大な骨格だし筋肉もしっかりしている。あんなに暴れても転ばないのはバランスも良いのだろう。流石は北の王国の馬だな。気性がつくづく惜しい」
アクロード様の馬を見る目は確かだ。それはここ数ヶ月で分かっていた。彼が良いと言い、私も良いと思うのだから、この馬の馬体は本当に良いのだろうね。
うん。私はアクロード様の意見を聞いて決めた。
「買いましょう」
私が言うとアクロード様もロランもびっくりしたような顔をしたわね。馬を連れて来た牧夫も驚いている。こちらは、私みたいな小娘が購買の責任者だということについても驚いていたみたいだけどね。
私は牧夫に手紙を持たせた。そして牧童の一人にお父様へ私の手紙を届けさせる。お金のやり取りはお父様とザイザンツ伯爵とでするでしょう。牧夫は半信半疑の顔をして帰って行ったわね。
「勝算はあるのだろうな? エクリシア」
アクロード様が興味深々といったお顔で尋ねた。私は頷く。
「もちろんです。あの馬は良い馬ですから。良い買い物をしました」
「しかしああも気性が荒くては競馬にも乗馬にも使えまい? いくら血統と馬体が良くても乗ることも出来ぬのではな」
「大丈夫です。ちょっと時間は掛かるかもしれませんが、競馬にも出せますよ」
私が言い切ると、アクロード様が少し目を細めた。ちょっと怖い顔だったわね。
「その根拠は?」
私は頷く。牧童が厩舎に引いて行こうとしても、相変わらず暴れて言う事を聞かない黒い馬。私はアクロード様に分かるよう、指で馬の前後を指した。
「見てください。あの馬、暴れてはいますけど、けして自分から人間に近付かないでしょう?」
アクロード様の目が一転丸くなる。意外な事を言われた、と感じたのだろう。
「……確かにそのようだが、それが?」
「あの馬は人間が憎くて暴れているんでは無いんですよ。逆です。人間が怖いから近付いて欲しくないのです」
あの馬は怯えているのだ。人間に対して。だから暴れて自分に触らせないようにしている。……あの鞭で顔を叩こうとした牧夫を始め、この馬の周りの人間には馬の事を考えてあげられる人間がいなかったようだ。かなり暴力的に扱われたのではないだろうか。
「であれば、人間は怖くないんだよ、という事を教えてあげれば良いんです。それほど難しくはありませんよ」
私が言い切ると、アクロード様はまじまじと私の事を見て、フッと笑顔になった。
「君がそう言うならそうなのだろう。お手なみ拝見といこう」
◇◇◇
私は次の日からあの馬を引いて歩いた。馬は、最初は物凄く暴れて嫌がった。
「ガーナモント! 大丈夫だから!」
ガーナモントというのはこの馬の名前だ。どこかの地名だわね。ザイザンツ伯爵が付けたのか、それ以前からの名前なんだかはよく分からないけど、名前があるなら変えない方がいい。
私は彼(牡馬だった)が落ち着くまで辛抱強く待ち、それから曳き綱を使ってゆっくりとガーナモントを引いて歩く。
牧場をぐるりと一周するルートだ。これを何周もする。私だけだと大変なので、牧夫や牧童で順番に代わるがわる引いて歩く。ルールは、ガーナモントを怒らない事。立ち止まったら彼が動き出すまで待つ事だった。
最初は曳き綱を付けるだけで暴れたガーナモントだが、その内に慣れて素直に頭絡を触らせるようになった。数日後に来たアクロード様が驚く。
「随分素直になったではないか」
「馬は歩くのが好きなんですよ。この馬は他の馬に混じって放牧されるよりも、こうして一頭で歩く方が良いのでしょう」
家の馬の放牧場は、農耕馬から乗馬からごちゃ混ぜに放牧するので、臆病なガーナモントは気が休まらないと思う。放牧してあげてもいつも隅の辺りでビクビクしているのだ。だから放牧場で運動が出来ないので、散歩が楽しみになったのだろう。
運動をすればお腹が減る。私はガーナモントが暴れている内は飼い葉桶を下げてしまい、出してあげなかった。大人しくなったら出してあげる。それを繰り返すと、ガーナモントはご飯が食べたくて早く大人しくなるようになっていった。
これには「あんたの食事は人間が出しているのよ」と教え込む効果がある。人間だってそうだが、ご飯を食べさせてくれる相手には逆らい難い。
そうやって段々に大人しくさせると同時に、ブラッシングを始める。人間が怖いガーナモントは最初は触るだけで暴れた。しかし、散歩で気心が知れてくると首は大丈夫になり、その内に脚も大丈夫になった。そこを丁寧にブラッシングしてあげる。
馬にとってブラッシングは自分には出来ない身繕いだ。結構気持ちが良いらしい。ガーナモントも気に入ったらしく、だんだんと触れても怒らない部分が増えていった。
最後まで嫌がったのは、顔とお尻で、どうも調教のために鞭で叩かれたからのようだ。お腹にも拍車で蹴られた傷跡があり、これでは人間を嫌いになっても仕方がないわよね。
ブラッシングをちゃんとしてあげると、毛艶が良くなり、するとその素晴らしい馬体が明らかになった。青鹿毛の黒光りする馬体。素晴らしい骨格にしっかりした筋肉。散歩の甲斐あって贅肉も薄くなってきた。私は感動のため息を吐く。
「凄い! 素晴らしいわ! ガーナモント!」
こんな凄い馬、輸入したら途方もない値段がした事だろう。それはザイザンツ伯爵も諦め切れないわけである。
しかしながら、かなり私たちに慣れてきたガーナモントだけど、まだまだ警戒心は強いし、背中に何かを乗せると物凄く嫌がって振り落としてしまう。よほど嫌な思い出があるのだろう。
私はガーナモントが全身のブラッシングを許してくれた頃から、お散歩に騎乗したもう一頭の馬を伴わせた。馬も怖がるガーナモントはちょっとビクビクしていたけど、その馬は乗用馬で気の良い馬だったからすぐに慣れた。
そして背中に人を乗せた馬と一緒にゆっくりと散歩をする。すると、乗用馬は背中に人を乗せても平然としているわけである。それを見せながら、私は歩いているガーナモントの背中をずっと撫でてあげた。
するとガーナモントは段々と慣れ、背中に何かを載せても歩けるようになっていった。最初はロープ一本を背中に掛けるところから始めたのだ。かなりの時間を掛けてこれを増やして行く。馬装一式が乗せられるまでに二ヶ月は掛かったわね。ここまでくればあと少しだ。
しかし最後の関門。人を跨がらせてくれるかどうかは難しい問題だった。ガーナモントにとっては重大なトラウマを刺激される部分だろうからね。
ここで重要になってくるのは、ガーナモントが家の牧場に来てからかれこれ三ヶ月、その間に育んだ私達牧場の人間との信頼関係だった。
私達はガーナモントに愛情をもって接し、彼に、馬は人間と協力し合わないと生きていけないのだ、という事を辛抱強く教え込んだ。そうしてだんだん彼も心を開き、信頼関係を築いて来れた筈だ。
後はその絆を信じられるかどうか。ガーナモントが私達を信じてくれるかどうかだろう。
私は、もう大丈夫だと思う。ガーナモントは臆病だが賢く素直な馬だ。かなり人間を怖がらなくなっているし、特に私の事は信頼してくれていると思う。
私は決断した。
その日もアクロード様が来ていたわね。
彼が黙って見守る中、私はガーナモントに鞍を着けた。もう鞍付けには何の抵抗もなくなっている。ガーナモントは穏やかな顔で散歩に行くのを待っていた。
そこへ、私はそっと近付き、鎧に足を掛けると一気にガーナモントの背中に飛び乗った。
途端、ガーナモントは大きく前脚を振り上げた。後ろ二本の脚で立ち上がってしまう。アクロード様の顔色が変わるが、彼は流石、声は出さなかった。私は手綱を引いてガーナモントの首に伏せてバランスを取る。
……しかし、ガーナモントは前脚を戻すと、少し不安そうに首を上げ下げして前脚を掻いているものの、大暴れする事はなかった。……成功だ。私はこっそり息を吐いた。汗がどっと噴き出る。
そのまま、私が乗った状態でいつも通りの散歩をする。ガーナモントはすぐに慣れて普通に歩くようになった。やっぱりこの馬は相当賢いわね。
帰厩してガーナモントの背中から降りた私は彼の鼻を抱き締めた。
「よく頑張ったわね! 偉いわ! ガーナモント!」
そしてガーナモントの身体洗って汗を拭いてあげて、厩舎から出た瞬間、私は膝から崩れ落ちた。ずっと見守っていてくれたアクロード様が慌てて助け起こす。
「大丈夫か?」
「緊張が抜けて腰が抜けました……」
ガーナモントが万が一大暴れしても対応出来るように気を張っていたのだ。あんなに騎乗されることにトラウマを持っていた馬だ。些細なことでそれが蘇れば、我を忘れて暴れるかも知れなかった。
しかしガーナモントは恐怖を乗り越え、私を信頼してくれた。それが何より嬉しい。
「……凄いな。本当にあの暴れ馬を手なづけてしまった」
アクロード様が感嘆も露わに言うけど、そうではない。私は特に特別な事はしていないのだ。
「ガーナモントが元々賢くて良い馬だったからですよ。人間がきちんと向き合えばちゃんと応えてくれる。馬はそういう生き物です」
だから私は馬が好きなのだ。
ニコニコしてしまう私を、アクロード様はじっと間近から見ていた。何しろ私はアクロード様に腰を抱かれて支えられているのだ。ほとんど抱き締められていると言って良い。……ぎゃー!
「す、すみません! すぐに離れますので!」
私はアワアワしながら言ったのだが、アクロード様は真剣なお顔で私から目を離さない。そして彼はむしろ私の事を引き寄せるとこう言ったのだった。
「エクリシア嬢、相談がある」
「はい? 相談?」
アクロード様はその超美男子顔を麗しく微笑ませると、囁くように言った。
「競馬場に行こう」
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