第三話 次期公爵のお気に入り

 年二回のお務め、伯爵令嬢としての最低限の義務である帝宮での大夜会を終えて、翌朝、私は牧場に「帰って」きた。牧場を管理しているロランの家の一室、私が間借りしているその部屋で貴族服から農夫の服に着替えると、私は牧場に駆け出した。


 季節は春先。牝馬が次々と子供を生むシーズンだ。家の牧場は農耕馬、乗用馬、競走馬を含めても精々十頭くらいしか繁殖牝馬がおらず、全部が今年仔馬を産むわけではないものの、それでもこの季節は大忙しなのだ。


 牧場の朝は早いから、ロランともう五人いる牧夫はとっくに起きて仕事をしている。見ると、もう放牧には出し終わっているので今頃厩舎の掃除が行われている事だろう。私は厩舎に走り込んだ。


「遅くなってごめーん!」


 私の声にロランが馬房からひょいと顔を出す。


「ああ、お嬢。帰ってたんですね。丁度良い。昨日ミラベルが子供を産んだから見てきてやって下さい」


「え? 生まれたの! 分かった!」


 私は馬房掃除の為に手にしようとしたピッチフォークを投げ捨てて、厩舎を飛び出した。妊娠した馬用の厩舎は少し離れた所にある。私はそこまで一気に走り抜けた。


 厩舎の前で一時停止して、呼吸を整えてからゆっくりと厩舎に入る。妊娠中や出産直後の馬を驚かせたら大変だ。ゆっくり入ってミラベルという馬の馬房を覗く。


 すると鹿毛のミラベルに寄り添うように、黒鹿毛の小さな馬が立っていた。胴体の長さに不釣り合いな長い脚。私に気が付いて耳がピンと立った。ミラベルも一瞬警戒したけど、私だと気が付いて鼻を震わせる。


「ミラベルおめでとう! よく頑張ったわね! ちょっと仔馬を見せてね」


 ミラベルの許可を取って、私は彼女の馬房に入る。仔馬は怯えたようにミラベルに身体を寄せたけど、私はそっと身体を撫でてやる。暫くすると落ち着いた。


 私は馬体をチェックする。奇形ではないか、脚は曲がっていないか、脚に妙な腫れはないか。顔もよく見る。ぼんやりしていたり、逆に異常に気性が激しい馬は買い手が付き難い。馬体を触りながら真剣に確認する。


 残酷な話だけど、この生まれた直後の馬体の確認で、著しい欠陥が認められた場合には仔馬を処分しなければならない。馬を育てるにはお金が掛かるからね。無駄な馬を育てるわけにはいかないのだ。


 しかしどうやらこの仔馬には致命的な欠陥はないようだった。一安心だ。


 ミラベルは元競走馬で、八歳で繁殖牝馬になり、現在は十一歳。既に二頭の子供を産んでいる。産駒は比較的良く走っているから、この仔馬にも期待が持てるだろう。私は思わずニンマリとしてしまう。仔馬を抱き締めて言う。


「生まれてきてくれてありがとう! 私も頑張って貴方を育てるからね! 強い馬になってね!」


 ミラベルはベテランお母さんだから、普通にお乳を与えていたし、ちゃんと育ててくれるだろう。気性の悪い母馬などは、子育てを放棄する例もあって、その場合は乳母を付けるか人間が母馬から母乳を絞って仔馬に与える事もある。


 私は若馬の厩舎まで駆け戻ってロランに報告をする。


「ロラン! 良い馬よ! きっと早くて強い馬になるわ!」


「それは良かった。お嬢のお墨付きなら間違いねぇ」


 ロランは口ひげを震わせて破顔した。ロランは我が家の牧場をもう二十年も管理してくれている人物だ。夫婦で住み込み、日夜馬の面倒を見てくれている。ちなみに夫婦と言ったが、二人の子供は独立して牧場から少し離れた所に住んでいて、今でも牧夫としてこの牧場に来てくれている。


 私も馬房の掃除を手伝い、飼い葉を準備する。春になって青草が少し生えてきた。そろそろ飼い葉の量を減らしても良いかもね。馬は干し草や大麦などを食べる。後はニンジンやリンゴなんかも食べるけど、これは嗜好品扱いね。後はたまに塩を舐めさせる。運動の後なんかには喜んで舐めるわね。


 水は放牧場にも小川が流れていて飲めるようになっているけど、他にもちゃんと井戸から汲んできて馬房に用意をする。そうやって準備を整えたら、馬を馬房に戻す。馬は朝ご飯だ。


 食べ終わった馬の身体を丁寧にブラシ掛けして、身体に異常が無いかを確認する。馬はしゃべれないからね。思わぬ不調を黙って我慢している事もある。人間が気が付いてあげなければならないのだ。


 人間が朝ご飯を食べたら馬はまた放牧をする。そして馴致の始まっている馬は訓練だ。乗れる状態になっている馬は調教用のコースに出して歩いたり走ったりの練習をする。


 先にも言ったけど、馬は生まれたままで背中に人を乗せたり馬車を曳いてくれる訳ではない。人間が根気強く教え込まないと出来ないのだ。なので辛抱強く丁寧に教え込む。特に乗用馬は暴れて背中の人を落としてしまったら大事になる。そんな事をさせないように、心優しい性格になるようにこちらも優しく馴致するのである。


 ところが、競走馬となると少し話が違ってくる。


 ランニングホースの仕事は競馬である。つまり他の馬との競争だ。そのためゴールの瞬間には歯を食いしばって最後の力を振り絞って、他の馬を振り切る根性が求められる。優しく穏やかな馬よりも、多少気性が激しくても負けん気が強く、荒っぽい走りをする馬の方が強い競走馬になる事が多いのだ。


 そのため、馴致のやり方も違ってくる。闘争心を失わせないように、あまりガチガチには締め付けず、騎手を落とそうとしてくるような馬は騎乗技術でやり過ごし、大人し過ぎる馬は逆に鞭で叩いて怒らせるくらいのつもりで調教するのだ。


 このため、ランニングホースの馴致、調教は大変難しく、普通は牧場の牧夫などの手に負えないので、荒馬乗り専門の調教師か、競走馬に特化した調教師に任せるのが普通である。


 しかし家の牧場では一昨年から私がランニングホースの調教も担当している。とは言っても二歳の始めまでだけどね。それ以降は競馬場の調教師の仕事だから。


 自慢になってしまうけど、私のランニングホースの馴致、調教は競馬場の調教師にも評価が高いようだ。どうやら余所の牧場では、ランニングホースの気性の荒さを持て余してちゃんとした調教をしないまま競馬場に預ける例が多いらしい。そのせいで競馬に出せるまでに時間が掛かる事が多いのだとか。


 それが私は丁寧に愛情込めて、若馬の面倒を見るものだから、馬がみな大変素直に育っていて、競馬場での調教が大変楽なのだそうだ。若馬の内から競馬に使えるので、馬主が喜ぶらしい。


 競馬は、少し前までは五歳から八歳くらいの馬を、五千メートルくらい走らせる競争が主流だった。しかもこれをヒート競争と言って勝敗がはっきりするまで何回も走らせる、馬にとってかなり過酷なレースが行われていたのだ。


 しかしこれだと、一レースに時間が掛かり過ぎるし馬が壊れる事も多いという事で、最近は距離が三千メートルくらいに短縮され、一回の競馬で決着するダッシュ競争というレースが増えてきた。それと、せっかく馬を持っているのに五歳まで競馬に使えないのは無駄だという事で、もっと短い距離、千メートルから二千メートルくらいで若馬の競馬が行われるようになっていて、気の短い若い貴族の間に人気が出て来ている。


 特に北の王国で行われているという、三歳馬のレースにダービーというのがあり、大層な人気なのだそうだ。で、噂を聞いた我が帝国でもやろうという話になって五年前からこのダービーが行われるようになっている。三歳馬のレースとしては異例なほどの賞金が出るので、最近はジョッキークラブの皆様もこのレースに勝ちたいと考えていて、ダービーの日にはかなり競馬場が盛り上がる。


 若馬のレースが盛んになってくると、牧場での調教が大事になってくるのは当たり前よね。家の牧場と私の調教技術が高く評価されるようになったのにはそういう事情がある。


  ◇◇◇


 私は二歳の若馬に鞍を付けて勢いよく跨がった。馬は少し嫌そうに身体を震わせるが、暴れる事は無かった。私はホッと息を吐いた。若馬に跨がる時は気を付けないといけない。気の悪い馬だと立ち上がってひっくり返る事もあるからね。


 この調子ならもう少しで競馬場に引き渡せそうね。私は馬を歩かせその歩様を見ながら考える。


 この馬はハインツ子爵という方にもう売れていて、三歳までに競馬場に入れる約束だった。この調子ならもうすぐ競馬場に引き渡せるだろう。


 私は馬に前進と停止を繰り返させ、人間の指示に従う事を覚えさせる。人間に従順ではない馬は不幸になる事が多い。若馬の内に我慢を覚えさせる事は結局馬のためになるのだ。


 その時、牧場に馬車が入ってくるのが見えた。二頭引きの小さな馬車だが、飾りなどは結構豪華だ。間違い無く高位の貴族が乗っているものだろう。


 お客さんかな? 私はそう思った。今は馬の出産シーズンで、生まれた仔馬を買い付けに馬のバイヤーが牧場を巡っている。時折、熱心な貴族の馬主が牧場まで仔馬を見にくることもあるのだ。


 家の馬はジョッキークラブでも評価が高いから、生まれてすぐに他の貴族に買われる事も珍しく無い。


 ちなみに、我がクランベル伯爵家でも競走馬は所有しているけど、売れ残った馬を勿体無いから出走させているくらいである。良い馬は売った方がお金になるからだ。


 ただ、最近では競争を終えた馬を繁殖に上げ、有料の種牡馬として色んな牝馬に子供を産ませる事で儲ける手法が確立しつつあり、その場合は生産してからずっと持ち続けていた方が良い場合もある。


 私は牧童のサミーを読んで、私の乗っていた若馬を任せた。お客が貴族である場合、平民の牧夫であるロランでは相手が出来ないからだ。この牧場には私が常駐しているから良いけれど、他の牧場ではいきなり貴族が来たら対応に困るだろうね。


 私は走って馬車の方に向かった。馬車は牧場の母屋、つまりロランの家の前で止まって御者がドアを開いた。


 するとお高そうな緑色の外出服に身を包んだ紳士が悠然と踏み台を踏んで降りてきた。ハットを被っているが、その後ろから白っぽい金髪が見えていた。


 彼は地面に降り立つとグルリと辺りを見回し、そして私に目を止めてニッコリと微笑んだ。


 あれ? 目が合って私はその正体に気が付いた。紳士は帽子を脱ぐとそれを胸に当てて優雅な挨拶をしてくれた。


「こんにちは。エクリシア嬢」


 碧色の瞳が細められる。私は思わず数秒間呆然としてしまったが、慌ててご挨拶をする。スカートではなくて乗馬ズボンなのでスカートを広げる格好だけをする。


「こ、こんにちは。アクロード様! えー、クランベル伯爵牧場にようこそ」


 来訪の意図は全然分からないけれど、歓迎しないわけにはいかない。なにしろ彼は次期公爵。皇族なのだ。私よりも遥かに階位の高い方なのである。


 もしかしたら馬を買いに来たのかもしれないしね。そうであれば大事なお客様だ。大口顧客だ。失礼をする訳にはいかない。


 私は社交笑顔を浮かべたのだけど、アクロード様は私の方にゆっくり近付くと。私の事を繁々と上から下まで眺めてクスクスと子供のように笑った。


「なるほど。牧童の格好だ。ドレスも似合わない事は無かったが。こちらの方がしっくりくるな」


 私は乗馬ズボンにブーツ。上着は農夫が着るのと同じチェニックだ。枯れ草色の長い髪は馬の尻尾みたいに後頭部で縛っているだけだし、お化粧も何にもしていない。


 まぁ! 私は憤然としたのだけど、しっくりくると言われるのは望むところだったので、私は胸を張って言い返した。


「ええ! これが本当の私ですわ!」


「そうだろうな。そんな君が見てみたかった」


 アクロード様はよく分からない返事を返すと子供のように破顔した。昨日も思ったけど、この人全然気取ったところが無いのよね。


 アクロード様が言うには。昨日の私の話で馬に興味が湧いたので。牧場の見学に来たという事だった。


 馬に興味を持ってくれた事に喜んだ私は、何の疑問も持たずに張り切って彼を案内したのだけど、よく考えればフェバステイン公爵家にも牧場はあるのだ。でっかい奴が。だから牧場を見学したければ公爵家の牧場に行けば良いのよね。


 それなのに彼はわざわざクランベル伯爵家の牧場の場所を調べ、昨日の今日でやってきた。疲れていると言っていたくせにね。その意味を私はもう少しよく考えるべきだったのだ。


 アクロード様は私の案内を受けて牧場を色々見て回った。彼は真剣に私の話を聞いてくれたし、色々質問をしてきた。馬に詳しく、興味があるというのは本当だったわね。ただ、競馬よりも軍馬に知識が偏っているのは彼の職務上仕方のない事だろう。


 ミラベルの仔馬も見せたわよ。生まれたての馬を初めて見たというアクロード様はその大きさに随分驚いていた。


「もうこんなに大きいのか?」


 どうやら猫ぐらいのサイズで生まれると思っていたらしい。既に立って歩いている事にも感心していたわね。


 調教の様子も見せ、私が馬を駆けさせる様をアクロード様は目を細めて見ていたわよ。そうやって一通り見学すると、母屋でお茶を一杯飲み、彼は帰って行った。


 ……なんだったのか。突然の次期公爵の来訪に、私もロランも牧場の皆も首を傾げてしまったわよね。馬の買い付けではなさそうだったし、どう見てもあれは遊びに来たのだと思われる。


 ……まぁ、大貴族のおぼっちゃまが気まぐれだというのはよく聞く話だし、お忙しい方だったから気分転換がしたかったのかもしれないよね。


 と、私は納得したのだけど。


 一週間後、見覚えのある馬車がまた牧場にやってきたのだ。はい? 私は驚いて馬車のところに駆け付けた。するとそこから、前回よりも遥かに動き易い狩猟服を身に纏ったキラキラ美男子が降りてきたのだ。今回は鳥打帽なんか被っているので、前回よりも随分と若々しいし庶民的な感じだ。


「やぁ、また来たよ」


 と親しげに声を掛けてくるのは良いのだけど……。私の困惑を見て取ったのか、アクロード様はにこやかに言った。


「この牧場はどうも先進的な馬の育て方をしているらしいではないか。それを公爵家の牧場でも行いたいからな。もっと見学させて欲しいのだ」


 そしてけして仕事の邪魔はしないから、見ているだけだから、と真面目な顔で仰った。そこまで次期公爵閣下に言われれば、こちらもダメだとは言い難い。


 仕方なく私は許可を出した。アクロード様はそれは嬉しそうに微笑んだわよね。


 それからというもの、アクロード様は数日おきに牧場を訪れるようになった。どうやらお休みの度に来ているらしい。


 アクロード様は馬の事をよく分かっているから、馬を脅かすような事はしないし、本当に私たち牧場の仕事を邪魔しないように配慮してくれた。たまに私に声を掛けて馬についての質問をなさる事もあったけど、それも頻繁ではない。


 ただ黙って微笑みながら、私が仕事をするのをジッと見ていたわよね。お茶の時間にやってきて、牧夫達にお菓子を振る舞い、自分も混ざってお茶を楽しみ、牧夫や牧童とはすぐに打ち解けていた。あんまりというか、全然身分差で壁を作らない人なのだ。


 そして帰り際に私と二人で応接室でお茶をして、ちゃんと挨拶をして帰って行く。なんというか、この上なく気持ちの良い方で、牧場のみんなはアクロード様の事が大好きになったようだ。もちろん、私も彼の事が大好きになったわよ。友人としてね。だから彼が牧場に来てくれると嬉しかったし、みんなと一緒に歓迎して楽しく牧場で過ごしていた。


 ……その頃、休みの日になると男性の社交を全てすっぽかしてどこへやらへ熱心に出かけて行くアクロード様の事は、帝都社交界で随分と噂になったようだった。


 やがて噂は、どうやら女性のところに通っているらしい、どこの誰なんだ次期公爵のお気に入りは? という話になり、何処のお姫様の元に通っているのか? で社交界では賭博が大いに盛り上がったのだとか。


 そのお相手が、大穴も大穴、なんとあの有名な「馬ぐるい令嬢」であると判明し、帝都中が驚倒するまでに、それほど時間は掛からなかった、らしい。

 

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