第二話 アクロード様
帝宮の馬達を愛で終わると、私は厩舎を出てまた足早に歩き出した。お父様お母様が夜会から引き上げるタイミングには何食わぬ顔で会場にいなくてはいけない。私の事はすっかり諦めているとはいえ、帝宮での夜会で行方不明なんて不始末をしでかしたら流石にお母様の雷が炸裂してしまうでしょう。
私は牧場で鍛えた脚で暗い庭園を横断していたのだけど、その時突然、前方に人影が現れたのだ。流石の私もドキッとしたわよね。灯りも無い真っ暗な所に突然現れたんだもの。
月明かりにほのかに光る花壇の間に、その人はゆらりと立っていた。
一瞬、妖精とか神霊とか、その類いだと思ったわよね。白くぼんやりしたシルエットが地面から浮いているように見えたからね。よく見るとそれはプラチナブロンドと白いスーツに紺のズボンを履いていたせいだと分かったんだけど。
それにしてもその姿は幻想的だった。それはその人物が非常に秀麗だったからかも知れない。
月明かりが陰影を作る怜悧な顔立ちも、すっきりとした立ち姿も、非現実的なまでに美しかった。格好が男性の夜会服だったから間違えなかったけど、ドレスを着ていたのなら完全に美女だと思っただろう。切れ長の目が動いて、碧色の瞳がこちらを見た。私はドキッとしたわよね。
その男性は一瞬だけ私を警戒心を含んだ視線で射貫いたが、直ぐに柔らかく微笑んだ。
「ちょうど良かった」
「へ?」
私が戸惑うのもお構い無しに、その背の高い男性は私の方に滑るように近付いてきて、こう言った。
「会場はどこかな?」
「会場?」
私は一瞬何の事やら分からず、しかし直ぐにそれが夜会の会場である事に気が付いた。なるほど、彼の格好は男性の夜会服。確かに夜会に出ていたと思しき服ではある。しかし……。
「えっと……、会場はずっとあっちですよ」
私は暗闇に指を伸ばすが、会場は遠過ぎてそちらには闇が広がっているだけだ。私は困惑したが、彼も同じのようだった。
「君は会場から来たのではないのか?」
「私はえー、ちょっと野暮用が……。これから会場に戻るところです」
「そうか! では一緒に行こうではないか。丁度良い」
随分喜んでいるけど困ったな。出席者と同行して戻ったりしたら抜け出しがバレてしまう。こっそり壁の花に復帰するなら目立たないけど、こんな美男子と一緒に戻ったら目立って有らぬ噂が立って面倒な事になるかも……。
と、ここで気が付いた。この美男子様、見たことあるわ。
というか、こんな美男子そうはいないわよね。一応はご挨拶を交わした事もある筈よ。この人皇族だもの。
「……フェバステイン次期公爵でいらっしゃいますよね?」
彼は麗しい相貌を緩めてあっさり頷いた。
「いかにも。アクロードだ」
……アクロード・フェバステイン次期公爵。つまり皇族だ。帝国に三つしか無い傍系皇族である公爵家の一つ、フェバステイン公爵家の長子が彼だった。確か、皇位継承順位が五番目か六番目というお方だ。VIPもVIP。超大物だ。
騎士団にお勤めで齢二十歳で副団長になった、という話は数年前に聞いた。騎士団というのは貴族の子弟が集まり、それだけに逆に厳しい実力主義のためそこの副団長には次期公爵といえど簡単になれるものではないらしい。しかし彼は圧倒的な剣技の実力でその地位に上り詰めたのだという。
その階位、地位、そしてこの美貌だ。彼は社交界では大人気で、特に若いご令嬢には引っ張りだこである。ほとんど社交界に出ない私でもそれは知っている。夜会で一際大きな、華やかな人だかりの中心には必ず彼がいるんだもの。嫌でも覚えるわよ。
社交界の中心に君臨する超美男子と壁の花。全く共通点が無いから、デビュタントのご挨拶に伺った時以外には、私と彼には全く接点がなかった。だから多分彼の方は私の事を覚えていない……。
「ん? 君は……。クランベル伯爵の三女だったか?」
……覚えていたようだ。私は意外に思いつつも一応はスカートを広げて礼をした。
「さようでございます。殿下。エクリシアと申しますわ」
アクロード様はうんうんと頷いた。
「確か、馬好きで有名な」
「そうですね」
私は堂々と頷いた。私が馬好きなのは事実だし有名だし、それがアクロード様の耳に届いていたのには驚いたけれど、それで何が起こる訳でも無い。しかしアクロード様はまたうんうんと頷いた。何を納得しているのだろうか。
「では案内を頼む。エクリシア嬢」
困った。困ったが断れない。私は社交用の笑顔を浮かべながら一応彼に問いかけた。
「その、護衛の方や侍従の方はいらっしゃらないのですか? 殿下ほどの方が私などと一緒にいては、あまりよろしくないのでは?」
アクロード様はちょっとバツが悪そうな顔で言った。
「護衛や部下は撒いた。撒いたら迷ったのだ」
なんですかそれは。私は反射的に問い返した。
「なぜ撒いたりしたのですか?」
「あまりにも大勢で付き纏って煩かったからな。少し静かな所に行きたかった」
つまり、一人になりたくて庭園でお付きの人を振り切ったら、自分が迷子になったという事らしい。子供ですか? 私はちょっと呆れてしまったが、アクロード様の困っているくせにちょっと得意そうな顔がおかしくて思わず笑ってしまった。
「という事なので、頼む。エクリシア嬢」
「仕方がありませんね」
笑わされたら負けというものだ。私は諦めてアクロード様を先導しようとした。
しかしアクロード様は当たり前のように自分の左肘を横に張った。……女性をエスコートする姿勢だ。私にその左腕に手を添えろという意味だろう。私は狼狽した。ちょっと、こんな社交界最高の美男子の腕にこの私が捕まれと?
私はこれまでお父様お兄様以外の人の腕に手を添えた事など無い。お見合いを失敗しまくり、社交界では馬ぐるい令嬢としてハブられている私をエスコートしようなんていう物好きはこれまでいなかったからね。
私は慌てて言った。
「エスコートなどして下さらなくても良いです! 畏れ多い!」
「何を言っているのだ? 女性を一人で歩かせるわけにはいかん。さぁ」
紳士だ。流石は社交界の雄。紳士の中の紳士だ。私は葛藤に苦しみながらも、恐る恐る右手をアクロード様の左手に添えた。するとアクロード様はニッコリと私に微笑み掛け、ゆっくりと歩き始めた。……もう少し急がないとお父様お母様が退場する時間になってしまい、私がいないことに気が付いて騒ぎ出すと思うんだけど、まさか次期公爵閣下は急かせないわよね。
月明かりに浮かぶ花壇の中の道を歩きながら、アクロード様は優しいお声でお話をしてくれた。今回の夜会には騎士団のお仕事で遠征している先からわざわざ帰ってきて出席なさったのだという。昨日帰京して今日出席なので、ちょっと疲れが残っているので早く帰ろうと思っていたのだとか。
それが例によってご令嬢に囲まれ、お父上や皇帝陛下に「そろそろ結婚しろ」と言われ、お偉い貴族や大臣とも色々話をせねばならず、帰れなくて困っていたのだそうだ。それで、こっそり抜け出して帰ろうとして、護衛や部下に気付かれて追い掛けられて、真っ暗な庭園に逃げ出したのは良いけど、暗闇で方向を失って完全に迷っていた、ということらしい。
「それはお疲れ様でした」
「ああ、本当に疲れたし、途方にくれていたのだ。君に会えて助かった。しかし、君はよくこんな暗いところで迷わないな?」
「牧場で鍛えていますので」
私は牧場で、狼や熊に警戒する為に見回りをしたり、夜間に出産する馬の面倒を見たりするので暗闇での行動には慣れている。牧場には燃えやすいものが多いので夜間に松明や蝋燭などの使用は厳禁だ。暗闇で自由に動けなければ牧童は務まらない。私がそう言うと、アクロード様は面白そうに笑った。
「君は牧童ではあるまい」
「今ではすっかり牧童ですよ。牧場で平民みたいに寝起きしているんですもの。良いのです。私はそうして一生馬の面倒を見て暮らすつもりなんですから」
私は例によってアクロード様に、私がいかに馬が好きか、競走馬が好きか、競馬のレースで自分の関わった馬が勝つことがどんなに嬉しいかを語った。そして、アクロード様に公爵家ではどんな馬を生産しているのかを目を輝かせて尋ねた。
「さて、フェバステイン公爵家でも牧場は持っているし、競走馬も生産しているはずだがな……」
残念ながら、アクロード様はご自分の騎士としてのお仕事が忙しいせいで、ご実家の家業については詳しくないのだと言った。公爵家の牧場なら我が家のそれよりも大きくて立派な牧場だろうに、勿体ない。
しかしアクロード様は騎士だけに、馬には詳しかったわよ。競走馬よりも軍馬についてだったけどね。
軍馬は、昔は重い鎧を着て騎士が乗る関係上、丈夫で脚も強い、ずんぐりした馬が主流だったらしい。今では馬車を引くような馬の種類ね。それが、銃器の発達で鎧が役に立たなくなって来た事もあり、最近の騎士は胸甲程度しか鎧を身に付けないのだそうで、それで軍馬もスピードを優先して軽めの、脚長な馬が好まれるようになってきているのだとか。
「だから競走馬の血統には興味があるな。丈夫で強く早い馬が軍馬に出来れば、帝国にとって大きな戦力強化になるからな」
「それなら是非、競馬場にお越し下さいませ! 我が家の馬は軍馬としても評価が高いんですのよ」
馬に理解のあるアクロード様に私はすっかり嬉しくなってしまい、当初の緊張はどこへやら、私は楽しく彼と馬について話が出来てすっかり満足だった。アクロード様も楽しそうだったわね。
すると不意に、アクロード様がお腹を押さえた。? どうしたんだろう?
「う~む。腹が減ったな。こんな事なら会場で少しは食べておくべきだった」
どうやらアクロード様、一時間くらい道に迷ってうろうろしていたらしいからね。それはお腹も空くだろう。アクロード様はキョロキョロと花壇や灌木を見回した。
「何か食べられる木の実でも生っていないか?」
私は吹き出した。意外にお行儀の悪いことを言う。アクロード様曰く、騎士として戦場に出た時には食べる物など選べないから、自分は結構なんでも食べられるのだ、という事だった。
そういえば。私は思い出してポケットからハンカチで包んでいたそれを取り出した。ハンカチを開くと数切れのリンゴが出て来た。
馬に上げようと思って、会場のフルーツからくすねて来たものだった。しかし王宮の馬はどうやらリンゴが嫌いらしくて誰も食べてくれなかったのでそのまま持ち帰ってきたのだ。
「リンゴなら有りますけど……」
と言い掛けてハッと気が付く。これは馬に上げようとしたものだ。言わば馬の餌だ。それを次期公爵にお勧めするのってどうなのよ?
私は慌ててリンゴを隠そうとしたのだけど、その時には大きな手がにゅっと伸びてリンゴを指でつまんでいた。
「あ……」
と思った時にはひょいひょいと三切れあったリンゴはアクロード様の口の中に消えていた。
「ん? どうした? 君も食べたかったのか?」
いえ、そうではなく。私はこのリンゴが馬に食べさせるためのものだったという事情を説明した。するとアクロード様は声を上げて笑った。
「なに。元は人が喰うために用意されていたものだろう? 構うものか。それより、なまじリンゴなぞ喰ったら余計に腹が減ったな」
こんな美男子で、社交界でちやほやされていて、もの凄くお偉い方なのに、全然気取った所の無い方だな。私はアクロード様に好感を抱いた。抱いたからどうという訳ではなかったが。
私達はそこからも仲良く楽しくお話ししながら、ようやく明るく輝く帝宮本館の大広間に帰り着いた。暗闇に目が慣れてしまっていたから本当に眩しかったわね。
庭園から広間に上がる階段から、私とアクロード様が並んで広間に入ると、会場は騒然とした。あ、忘れてた。
そういえばこのアクロード様は、社交界の中心人物と言っても過言では無い人物であり、彼にエスコートされたくて三桁に及ばんかというご令嬢がしのぎを削っているというアイドルであり、馬ぐるい令嬢として華やかな社交界(競馬界除く)からハブられている私とは全く釣り合わない人物なのである。私なんかが仲良さげに彼の手にぶら下がっていてはいけない人だった。私は慌ててアクロード様の手から自分の手を離した。
「あ、アクロード様、もう大丈夫ですわね! 楽しくお話させて頂きましてありがとうございました!」
私はそう言って身を翻し、脱兎のごとく逃げようとした。
のだが、その私の手をアクロード様がサッと捕まえた。ひぇ? 驚く私をアクロード様は、明るい所に来たおかげであからさまになったそのキラキラした笑顔で見詰め、そして手に掴んだ私の右手をゆっくりと持ち上げた。
そして悪戯をするような楽しそうな表情で、私の手の甲にそっとキスをした。私は馬を触るために素手になっていたから、彼の唇の感触がはっきり分かってぞわっとしたわよね。途端に周囲でもの凄い音量で黄色い悲鳴が複数起こった。
「アクロード様!?」
「エクリシア嬢。また、な」
そしてアクロード様は私の手を離すと歩き去って行った。途端に彼の事を男女多くの人が取り囲み、一気にアクロード様は遠い遠い存在になってしまった。何人かのご令嬢がこっちの事をもの凄い顔で睨んでいたけどね。
……なんだったのよ、もう。私は憤慨した。こんな嫁ぎ遅れの馬ぐるい女を揶揄わないで欲しいものだわ!
ただこの時、私はアクロード様に非常に親しみ易さを覚えたのは確かだった。馬も好きそうだし、彼が競馬場に来たら、あんまり詳しくないようだった競走馬について教えてあげて、ついでに家の馬を買わないか営業してみても良いかもね。
なんて呑気な事を考えていたのだ。この時はまだ。
それより、目の前で怒って良いんだか、次期公爵と仲良く帰ってきたのを問い詰めた方が良いのかと目を白黒させているお母様の追求から、どうやって逃れれば良いのかを考える方が重要だったからね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます