第一話 馬ぐるい令嬢

 私とアクロード様が出会ったのはプロポーズ事件の半年前。春先の帝宮における大夜会の日だった。


 広大な帝宮の、四つの大広間で行われる大舞踏会。シャンデリアがキラキラと輝き数百人の帝国貴族が笑いさざめき、クルクルと踊るその華やかな会場で……。


 ではなく、その時私は会場を抜け出して帝宮の庭園を足早に歩いていたのだ。


 春と秋の儀式に伴う大夜会にくらいには出ろ、とお父様に言われて私は渋々この夜会に足を運んでいた。お父様にしてみれば、出来れば私に嫁に行って欲しかっただろうからね。


 でも私は嫁に行く気など無かった。クランベル伯爵家に居座る気満々だった。次期伯爵であるエルナードお兄様は私に甘いから、私が嫁に行かずに居座ってもそのまま置いてくれるだろうと計算している。別に遊んでいる訳ではなく、私のやっていることはちゃんと伯爵家の役に立っているという自負もあるからね。


 そもそも社交界で変わり者の「馬ぐるい令嬢」なんて言われている私に今更声を掛けてくる男性などいるものか。私は会場で無事にハブられ、壁の花になり、そしてそれを幸いにこっそりフェードアウトして庭園へと抜け出したのだ。


 そしてそのまま庭園をたったかと小走りに縦断しているのだった。広大な帝宮の大庭園。私の健脚でも十分は掛かるその先には、厩舎があるのだ。


 帝室の御乗馬が育てられている厩舎である。皇帝陛下や皇太子殿下の所有馬であり、中には競馬に使われる馬も混じっている。頭数は十頭くらい。


 私は夜会に出るドレス姿のまま鼻歌混じりで厩舎に入った。入り口にドアなんて無いからね。そして暗がりに目を凝らす。私の気配を感じて何頭かが顔を出していた。


「起こしちゃった? ごめんね」


 私は言いながら静かにそっと厩舎に進み入る。馬は臆病だし、見慣れぬ人間への警戒心が強い。こんなひらひらしたドレス姿で大きく動いたら馬が驚いてしまうだろう。私はそーっと動いて一頭の黒い馬に近付いた。


「こんばんは。私の事覚えてる? 去年の秋にも来たでしょう?」


 それ以外にも機会がある度にここには顔を出している。馬は賢いから人の顔はすぐに覚えてくれるのだ。


 案の定、私の頭の匂いをクンクンと嗅いだその馬は、安心したようにブルンと鼻を震わせた。この馬は結構人懐っこい馬なので安心だが気性の荒い馬だと迂闊に近付くと大暴れする事もある。


 私がその馬の首を撫でていると、隣の馬が不満そうに前脚で地面を掻いていた。私はその馬のところにも言って鼻を撫でてあげる。


「ふふふ、みんな可愛い。いい子ね」


 どの馬も流石に良い馬ばかりだ。帝宮の牧童の技術は一流だし、予算も沢山あって良い餌をたらふく食べているのだろう。良く肥えて毛艶もいい。


 私は一頭一頭を愛でながら厩舎の奥へ入って行く。一番奥の馬房に一際大きな馬がいた。


 他の乗用馬とは違ってスラリとした体格。筋肉は引き締まり、月灯りに照らされるその姿は大理石の彫刻のようだ。私はホウとため息を吐く。美しい。


 流石は皇帝陛下所有のランニングホース。確か数年前に北の王国から贈呈された馬だ。北の王国は競馬先進国だ。我が帝国よりも馬産が発展していて、生産される馬は皆美しく素晴らしく速く走る。


 帝国でも北の王国から輸入した馬で血統を改めつつあるところだけど、この馬を見てしまうと、まだまだ敵わないなぁ、と思わざるを得ない。


 あんまり近付かないように気を付ける。現役の競走馬であるこの馬は気性が荒い。迂闊な事して暴れて怪我でもされたら事だ。私はその馬体を隅々まで目を凝らして見ながら、静かな声で声を掛けた。


「クラーリア、調子はどう?」


 皇帝陛下が命名したというその名前通り、この馬は牝馬だ。今はまだ競争に出しているけども、あと二年もすれば繁殖牝馬として牧場に送られるだろう。


 ……欲しいなぁ。


 私はクラーリアの見事な鍛え上げられた馬体をうっとりと眺めながら思う。強い馬を生産するには、良い血統、つまり良い母馬が必要だ。


 クラーリアほどの馬であれば良い仔馬を産むだろう。競走馬を生産する者なら誰しもが欲しがるに違いない。……私も例外ではない。


 欲しい。欲しいけど、クラーリアは皇帝陛下の所有馬。しかも外国からの贈呈品だ。陛下が他に売るとは思えない。おそらく国王陛下の牧場に繋養される事になるだろうね。それか皇族のどなたかの牧場に。


 しがない伯爵家には売ってはくれないだろうなぁ。私はため息を吐いた。


  ◇◇◇


 私は競走馬を育てるのが生きがいなのだ。


 競走馬、ランニングホースを競走させる事を競馬というが、我がクランベル伯爵家は牧場を持っており、祖父の代からランニングホースの生産を始めていた。


 元々、馬の生産は貴族の嗜みである。乗用馬はもちろん、戦争に行くには軍馬が必要だし、農耕馬を生産して領地の農民に売る事で領地の生産性を上げるのも大事な領主の責務だ。だから貴族は必ず自前の牧場を所有し、馬を生産しているものなのである。


 馬を生産していれば見栄っ張りの貴族だもの。我が家の馬が一番優れている! と言ってそれを証明したくなるのは当たり前よね。競馬はそうやって始まった。


 最初は好き勝手に馬比べをしていたんだけど、その内公平性を担保する意味合いでルールや競馬場が定められ、そうなると馬も乗馬や軍馬から選んで連れてくるのではなく、競馬専用の馬を生産するようになる。


 それがランニングホースだ。なんでも北の王国では競争に勝たせるために、東の砂漠から馬を輸入して、自国の馬と掛け合わせ、そして競争を繰り返して優れた馬を選別することで血統を洗練しているらしい。さすが競馬先進国。スケールが違う。


 我が帝国も遅ればせながら、百年くらい前から北の王国に倣って競馬ルールを制定して競馬場を定め、北の王国からランニングホースを輸入して競走馬の生産をするようになっている。祖父が競馬界に参入したのは三十年くらい前だ。


 北の王国から繁殖牝馬を一頭輸入して、細々と始めたそうだけど、すぐにたまたまなかなか早い馬が生産出来てクランベル伯爵家の格が上がった事もあり、父の代になってもこれを継続している。


 とはいえ、競争専用ではなく乗馬、軍馬兼用だけどね。繁殖牝馬は三頭。大貴族の牧場では一年で何十頭も仔馬が出るのだから本当に小規模だ。馬を生産して育てるには大変なお金が掛かるし、特にランニングホースは気性が荒くて乗用馬に転向出来ない事も多い。簡単に生産数を増やすわけにはいかないのだ。


 で、私はその競走馬の生産にどっぷり魅了されてしまったのだ。


 私はクランベル伯爵家の三女として生まれた。特に変わった生まれでは無かったそうよ? よく人に言われるように、実は馬の尻尾が付いていたりはしなかった。


 それがある時、お父様お母様に連れられて私は競馬場に行った。五歳かそのくらいの時じゃなかったかな。その時の経験が私の運命を変えたのだ。


 競馬場は貴族の社交場である。観覧席には文字通り貴族しか立ち入れない。実は平民も勝手にコースの脇から観戦して賭博をやっているという話だけどね。


 貴族達は観覧席から下見場にいる自分の馬を自慢し、他の方の馬を褒め、それに絡めてお互いにおべんちゃらを言い、お茶を飲んでお菓子を食べて、そして一着二着の馬を予想したり、お互いの馬のどちらが先着するかで賭博をするのだ。


 競馬は半日くらい掛かる社交になるし、出走馬の所有者だけではなく単に賭博好きな貴族もやってきたりするから大規模な社交にもなる。だから競馬界(ジョッキークラブというのがある)で名前を上げると、社交界全体でも一目置かれるようになる。貴族が家名を賭けてランニングホースの生産に取り組むのはこれが理由だ。


 私はそんな大人達の華やかな社交を尻目に、ランニングホースの美しさに心を奪われていた。


 美しいのだ。ランニングホースは。競馬に出るために訓練され、贅肉を絞ったその馬体は、もっさりした乗馬や馬車馬とは同じ馬でも全然違う。研ぎ澄まされた剣に例えられるその馬体に私は釘付けだったわね。


 そして、人懐っこい乗用馬と違って競争を控えた馬は目を血走らせて興奮している。騎手を振り落とそうとして跳ね上がり嘶くその姿は勇ましく、その激しさに私は胸の動悸が抑えられなかった。


 お屋敷に帰ってからも興奮が収まらない私の姿を見て、お父様が帝都近郊(馬車で半日くらい)にある我が家の牧場に連れて行ってくれた。


 そこには競走馬だけでなく乗用馬も農耕馬もいた。私は大興奮で馬に駆け寄り、牧場を管理しているロランに止められたものだ。


 それからというもの、私はお父様に事ある毎に牧場へ連れて行ってくれるように頼み、何度も何度も牧場へ行った。最初は精々馬に餌をやったり上に乗せてもらうくらいだったが、次第に私は積極的に牧場の仕事を手伝うようになった。


 それこそ馬糞拾いから馬の根藁の交換、餌やり水やり、放牧から帰厩までだ。なんでも出来るようになったわよ。泥だらけ藁まみれになって張り切って働くお嬢様にロランは困った顔してたけどね。


 馬の乗り方も段々にロランに教わって、十歳になる頃にはキャンターで走らせられるようになったわ。そうしたらお屋敷の厩舎に私の馬を置いてもらい、私は自分で牧場まで馬を走らせて通うようになった。


 この辺りでお母様がキレた。


 私は無茶苦茶に叱られ、二度と牧場に行くことまかりなりません! と宣告されそうになった。


 私は必死で謝り、牧場出入り禁止だけは勘弁してほしいと泣いて頼んだ。


 その結果、お母様の厳命で牧場には週二回以上行ってはいけないという事になり、いわゆるお嬢様教育は真面目に受けることを約束させられた。少しでも不出来だった場合は即座に牧場への出入りを禁止する約束だ。私は心の底から誓ったわよ。


 それからというものの、私は牧場に行くために各種教育を必死に頑張った。勉学、芸術、ダンス他の社交術。伯爵家の令嬢として恥ずかしくない教養を身に付けるのはそう簡単ではない。しかし私には目標があったからね。


 私は及第点を取り続け、その結果、私は公明正大に牧場通いを続けられる事になった。


 牧場に行く日は夜明けと同時に馬に飛び乗る。ただし、道中の危険があるから護衛の者が最低二人は同行するんだけどね。もっとも、薄暗い街道を乗馬で疾走する伯爵令嬢なんて普通はいないから、野盗に襲われる心配は無いと思うんだけどね。


 そして牧場に着いたら日が暮れるまで牧場の仕事だ。馬の世話と調教ね。


 馬は、当たり前だけど生まれたそのままで人を乗せてくれるわけではない。人を背中に乗せてくれるように教育しなければならない。これを馴致という。


 馬の背中に鞍を乗せて歩くことから始め、段々に背中に物を載せる事になれてもらう。人が跨るのは馴致を始めて一ヶ月は経った頃だ。それからも長い道のりが続き、手綱と鎧による指示を覚え込ませて、普通の乗用馬として使えるようになるまでに、気性の良い馬でも一年は掛かる。


 競走馬となればこれだけでは済まない。全力疾走しながらも騎手の指示に従わせなければならず、ランニングホースは気性が荒い馬も多いのでより大変になる。ここまで行くと牧場の手には負えなくなり、競走馬専門の調教師に預けることが多い。


 私はだんだんとこの馴致を担当するようになった。ロラン曰く「お嬢様は馬に優しいから、馬がよく言うことを聞きますな」という事だった。まぁ、優しいだけだと馬に舐められるからそれも上手くいかないんだけどね。


 乗馬服を着て馬を乗り回す伯爵令嬢の話は次第に社交界に広まっていったようだった。私も十三歳になると皇帝陛下にご挨拶をして社交デビューをした。本当はしたくなかったんだけど、お母様に強制されたのだ。デビューしたからには社交に出なければならない。舞踏会だとかお茶会とかにね。


 私は教育を頑張ったから、伯爵令嬢に相応しい振る舞いが出来ないわけではなかった。なので社交の時はおすまししてほほほほって笑ってたわよ。頭の中は馬の事で一杯だったけどね。


 さっきも言ったけど競馬は社交の場だ。なので私は社交のためという名目で競馬場にも足げく通った。それで、他所のお家の馬を見て鍛え方を見たり、競馬場の厩舎に行って調教師と馬の育て方について勉強したりしたのだ。


 そうして研究して、身体も大きくなってきて荒馬も乗りこなせるようになると、私はランニングホースの調教もするようになったのだった。すると、クランベル伯牧場の馬の評判は次第に高まっていった。


 なんでも、家の牧場の馬は気性が素直で騎手の指示をよく聞くという評判で。乗馬としても競走馬としてもハズレが少ないとの事。おかげで家の馬は高値で売れるようになって我が家の財政は大いに潤ったのだ。


 これは私のおかげだとロランが保証してくれたおかげで。お父様は私を褒めてくれて、牧場の事をだんだんと私に任せてくれるようになった。お母様は渋い顔をしてたけどね。


 私は年頃になったのでお見合いの機会が何度か設定された。まぁ、私は三女で我が家もそれほど格の高いお家ではなかったから引く手あまたという程では無かったけどね。それでも伯爵家や子爵家の方と十人くらいとお見合いしたかな?


 で、そのお見合いの席で私がひたすら馬の話しかしなかったものだから、お相手の男性がドン引きしてしまい、全て断られた。だって他のお家の馬に興味があったんだもの。根掘り葉掘り聞きたいわよね?


 その結果爆誕したのが「クランベル伯爵家の馬ぐるい令嬢」だ。誤解されて競馬場で賭博に狂っていると言われる事あるけど、私は賭博はやらないわよ。


 その結果、縁談を持ち掛けてくる家は無くなり、お父様もお母様も完全に匙を投げた結果、私は放任され、私はより一層牧場に入り浸る事になった。今では牧場のロラン夫妻の家に私の部屋を造り、そこでほとんど寝起きしている有様だ。農民服着て毎日藁塗れて馬の世話に奮闘する私はどこからどう見ても伯爵令嬢には見えないだろうね。


 私が牧場経営に専念した結果、我が牧場の生産馬の評判は高まり続け、その結果クランベル伯爵家の貴族界での地位もかなり上昇したので、私はお家の役に十分立てていると思うのよ。結婚なんてしなくもね。


 なので私は一生大好きな馬の世話をして暮らすつもりだったのだ。夢はものすごく速くて強い馬を生産して、帝国で一番強い馬を育てた女と呼ばれる事だったわね。


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