エストレリータ





 湿った空気とくすんだ空。道端には点々と紫陽花が咲いている。

 道路は整備され、人もそれなりに住んでいるが、自然の多いのどかな田舎町。森に覆われた山の肌には、ところどころ人が通った跡の小径こみちができていて、通学路からでもそこに入ることができた。


 ひしゃげた小門は、び付いた音を立てて簡単にひらいた。

 翔太しょうたは、意を決して足を踏み入れた。ガコンガコンと、ランドセルの中身が揺れる音がする。

 近所にある、一つの。物心ついた時から存在するそれを、同級生の太一たいちなんかはお化け屋敷だとか呼ぶが、翔太は見るたびに内心で感動していた。

 今年から、太一とは違うクラスになってしまった。代わりに、目の前の席には綾人あやとがいるのだが、これが厄介だ。最近ピアノ教室で会わないなと、何度も声を掛けてくる。翔太はもう、弾かないのに。

 だから、最近はあまり楽しくなかった。放っておいてほしかった。

 そんな時に思い出した、古びた洋風の建築物。

 日本らしい一軒家と畑が並び、奥には山々が薄っすら見える町で、一際ひときわ異彩を放つ、高さのある建物。白い壁に黒ずんだ雨の跡、ガラスが割れて枠だけになった窓には身を乗り出すつた。足元を囲う、好き放題伸びた雑草。

 同じだ。それを、なんとなく感じ取っていたのだろう。役目も未来もない。ただ何かを待っている。待てば待つほど、ひとりになっていく。

 草を掻き分けながら、翔太は勢いに任せて歩みを進める。庭は案外広く、建物の裏まで続いている。歩を進める度、背の高い植物が手に当たってくすぐったい。

 翔太は洋館を見上げた。背中側から見ても、並んだ縦長の窓の可憐さとあからさまに古びた外壁の色が、異様なコントラストを招いている。

 一周して、玄関前へと戻ってきた。裏庭よりは足場がまともなので、先ほどまでと比べると歩きやすい。玄関ポーチの段差に、そっと左足を載せる。前のめりになると、右足も付いてくる。扉は完全には閉まっていないようだった。洒落た窓が付いているが、曇り硝子ガラスなのか汚れているのか、中は見えない。

 翔太が取っ手に手を掛けようとしたその時、扉がひとりでに開いた。風の悪戯だろうか。

 一歩踏み出すと、嗅いだことのない臭いが鼻をついた。翔太は思わず立ち止まったが、せっかくここまで来たのだ。鼻をつまんで、再び前に進む決意をする。

 中は浪漫ロマンあふれる内装でありながら、殺伐としていた。目の前の玄関ホールらしき場所には瓦礫がれきが散らばっている。恐る恐るその上に立って、奥を見渡して見るも、かつては家具として整然と配置されていたであろう物があちこちに散乱し、壁と床は薄汚れ、部屋と部屋の境目も判然としない。

 玄関ホールは吹き抜けのようになっていて、壁の四面に沿ってぐるりと階段が設置され、二階に続いている。翔太は階段の手摺てすりの支柱を握り、一段目に足を置いて、体重をかけてみる。問題はなさそうだった。とはいえいつ足場が抜けるかわからない。一段一段、慎重に歩みを進める。

 やっとの思いで二階に辿り着いた翔太は、目を見張った。廊下に面したガラスのない窓から、陽の光と風が際限なく差し込んでいる。そこから外の風景を覗くと、周囲に平屋が多いおかげか遠くに緑の山がよく見えて、まるで古城の中にでもいるようだ。

 廊下の先に視線を戻し、目についた開きっぱなしの扉から、部屋に入ってみる。広い部屋だ。床一面に広がる、薄汚れた花柄の絨毯に、重厚な机、新品の時は座り心地が良かったであろう椅子。そこまで荒れてはいなかった。一階の部屋も、人間の手で引っ掻き回されたのかもしれない。

 

「おい、そこの少年。勝手に入るとはいい度胸じゃん」


 突然、無音の空間を切り裂くように、よく通る声が響く。翔太ははっとして振り返る。部屋の入り口に、見知らぬ女が立っていた。オフショルダーのトップスに明るい色のジーパンというラフな格好で、焦茶の髪は肩の下まである。大学生だろうか──翔太からすると、とんでもなく大人に見えた。

「お、お前はどうなんだよっ」

 慌てた翔太が言い返すと、彼女は肩を竦めた。

「うわ、お前呼ばわりかよ。あのね、私はここの所有者の娘なんですう。だから入っていいの。わかった?」

 翔太は内心焦っていた。握りしめた手が冷たい。ここが勝手に足を踏み入れてはいけない場所であることは知っていた。ごめんなさい、と言ったら、許してくれるだろうか──だめだ、喉に何かが詰まったようになって、言葉が出てこない。

 そんな様子を見かねてか、女は屈んで翔太と目線の高さを合わせると、取ってつけたような猫撫で声で言った。

「……ちょっと、そんな顔しないでよ。ほら、お姉さんが立ち入り許可してあげる。入っていいよー、ね?」

 翔太が恐る恐る目を合わせると、彼女はにっこりと微笑んだ。近くで見ると、睫毛まつげは繊細ながら長く、艶のある薄桃色の唇は愛想が良い。

「私、あかり。明るいに里で明里。君は?」

「……翔太」

「よろしく、翔太くん」

 明里はすっと立ち上がると、部屋のすみの棚の前まで歩き、そこに置かれたものを手に取った。

 ヴァイオリンだ。

「やんちゃな君には、罰として一曲聴いていってもらおう」

 明里は慣れた手つきで軽く弦をはじく。

「さっきまで弾いてたんだ。物音がしたから見に行ったんだけど、君だったんだね。入れ違いになっちゃったみたい」

 ふわりと持ち上げた弓を、明里は静かに弦の上に乗せ、滑らかに動かした。

 独奏の割に、旋律が素直に入ってくる。──川。……いや、揺れているのは風に吹かれる深緑色をした木々の葉で、煌めくのは星。そう、夜空の大河だ。甘美ながらスパイシーなエキゾチックさ。夢見心地でも現実を嘆いてもいる。

 翔太は少し驚いていた。翔太もまだまだ、一級品がどんなものかは判別できないけれど、下手はそうだとわかる。

 明里は、間違いなく上手かった。

 だからこそ、冗長に、もどかしいように感じる。

「もっと難しいやつ弾けないの?」

「お、それはこの曲が簡単って意味か」

 明里は手を止めてこちらを見た。

「だって、ゆっくりじゃん」

 ピアノでも、ゆったりしたワルツはすぐに弾けるようになったし、アレグロで左手が八分音符の曲などは、比較的時間がかかった。

「わかってないなあ。これはね、歌曲なんだよ。歌なの。それをヴァイオリンで、言葉なしで表現するわけ」

 明里は曲の続きを奏でる。が、程よいところで再び演奏を止め、

「まあ確かに、伴奏があったらいいかもね。じゃあさ、君が弾いてよ」

「は?無理だけど。ていうかなにで」

「一階にピアノあるよ」

「どうせぼろぼろで、調律もされてないでしょ。楽譜もないし」

「ふうん。まるで、準備があれば弾けそうな口ぶりじゃん。それとも、技術が追いつかないのを認めたくない言い訳?」

「違う」

 翔太は即座に言い返したが、実際、ピアノは数ヶ月前に辞めた。一週間弾かないだけで取り返しがつかなくなるものに、そんなに長い時間触れていなかったのだから、今更できるわけがない。

 うつむく翔太をよそに、明里はまたヴァイオリンの音色を響かせた。翔太は彼女が弾き終えるまで、もう何も言わなかった。

 翔太の耳から最後の一音が消えても、明里は細長い指を震わせてビブラートをかけ続けた。しんと静まり返った部屋の中で、彼女はようやく楽器を下ろし、得意げな顔で翔太に笑いかけた。

「また来なよ。気が向いたら、君が好きな曲弾いてあげるかもね」




 すっかり陽が落ちてしまった。古臭い引き戸を開けて家に入ると、案の定母親の声が飛んでくる。

「あんたどこいってたの?遊びに行く時はランドセル置いてから行きなさいって言われてるでしょ」

「うん」

 翔太は適当に流して、自室にがった。

 まだ、興奮している。

 まるで別世界だった。秘密のお城のような廃墟。かつて人が生活していた痕跡は、どれも優雅なものだった。そして何より、あの演奏。流れるように紡ぐ旋律、きめ細かい技巧、弾き終わった後の笑顔────

 また、明日。

 同じ場所に行ったら、会えるだろうか。

 翔太は机に広げた宿題に手もつけず、廃墟の──廃墟に居た彼女のことを思い出しては、感慨に耽っていた。





 あの場所に行くことは、もうすっかり日常と化していた。

 明里は例の曲をよく弾いたが、それ以外のメロディを奏でることもあった。翔太はヴァイオリンの曲をよく知らなかったから、常に新しい体験だった。

 いつもなら明里は、翔太がやってくるとどこからともなく姿を現すのだが、その日は違った。翔太が部屋に入ると、明里は、窓際に寄りかかり、弓に何やら褐色の固形物を擦り付けていた。それは、琥珀にそっくりで、光を受けてきらきら輝いている。

「それ何?」

「これ?松脂まつやにだよ。ほら、擦ると粉っぽくなるでしょ。これを弓毛に塗ってあげると、よく摩擦が起きて弦が震えて、音が出るってわけ」

「ふーん……」

「いやあ、そっかあ。最近の子供は松脂も知らないのかあ」

「子供じゃなくても知らないし」

 言いつつも、翔太は少し悔しかった。そのせいで、つい必要以上に言い訳してしまう。

「……ヴァイオリンなんて弾いたことないもん」

「ヴァイオリン以外はあるってこと?」

 明里の問いに、翔太は答えなかった。話題を変えるように、気になっていたことを口にする。

「そういえば前弾いてたやつ、歌だって言ってたけど、どういう歌詞なの?」

「ああ……ふふ、少年にはまだ早いかもね」

「はあ?もう小三なんだけど」

「おー、そりゃ大人じゃん。じゃあ教えたげるけどね、今にも死にそうな歌なの」

 明里は特に感情も込めず、さらっとそう言った。

「なにそれ、ホラー?」

「違う。いや、その解釈を否定する意味ではないんだけど……私が言ったのは、比喩。例えばの話。それぐらい苦しくて、辛いってこと」

「ふーん。苦しくて辛い話なんだ」

「そう、恋の話」

「え、恋って楽しい話じゃないの?」

 翔太は不思議に思った。明里が弾いていた曲だって、やたらと甘美な雰囲気で、幸せそうに聞こえた。

「うん、楽しいよ。夢を見てる間は幸せで、だから溺れてしまうんだ」

「溺れる」

「そう、夜空に瞬く星々にね」

「海じゃなくて?」

「空。広い広い、宇宙」

 明里はそう言うと微笑んで、「……海か」と呟いた。

「いつか、真っ白な浜辺で演奏したいんだ」

「すればいいじゃん」

「そうだね。でも、潮風に晒されちゃあ楽器が可哀想な気がしない?寒そうだもん。夏場は逆に暑いし、人がいるところだと迷惑かもしれないし……」

「じゃあやんなきゃいいじゃん」

「その通り」

 明里はさっと楽器を構え、軽く音を鳴らした。チューニングをしているのだろう。

「だから私は、こんな淋しいところで死ぬまで弾き続けるのさ」

「その頃にはこんなところ、アパートかコンビニになってるよ」

「たまに現実的なこと言うよね。やめてよ」

 笑い混じりに響くヴァイオリンの音色は、広い室内にすっと広がっては消えてゆく。やがて明里の表情が真剣なものに変わり、少しの間を置いて、彼女は音楽を奏で始めた。

 また、翔太の知らない曲だ。悲痛で、少し大仰で、けれど上品な美しさ。歌うように滑らかに発する高音は、激しくも繊細さを欠かさない。

 この廃墟の中で、死ぬまでヴァイオリンを弾き続けるとしたら、きっとこういう曲が似合うだろう。





 ある日、何を思ったのか、明里はいつもよりシンプルな旋律を奏で始めた。聴いたことがある気がする。これは……童謡、だろうか。歌詞が自然と頭に浮かんでくる。

 ──笹の葉?

 明里はいつも通り、弾き終えると嬉しそうな笑みを見せた。

「もうすぐ七夕だね」

「ああ、そういえば」

 翔太はそういうイベントに関心がなかったので、本当に忘れていた。

「そういえばって、冷めてんねえ。短冊に何書くの?」

「特に……健康で過ごせますようにとか」

「渋っ。初詣かよ」

 明里は笑ったが、ふと唇を結び、少し黙った。

「何?」

「ううん、確かに大事だね、健康。私もそうしようかな」

「ヴァイオリン上手くなりますように、とかじゃなくていいの?」

「そういうのは他人に願うもんじゃないの」

 真面目な顔で言われて、翔太はなんだか恥ずかしくなった。

「それじゃ翔太くん、去年、サンタさんには何をお願いしたの?流石に健康をくださいとか言わないでしょ?」

「サンタを信じるような歳じゃないんだけど」

「おや、サンタクロースが存在しないなどという陰謀論に騙されるとは。まだまだお子様だな」

「は?いや、いないよ、サンタ」

 翔太は少し不安になった。

 それを受けてふっと笑みを零し、前髪を掻き上げる明里は、いつになく大人びて見えた。

「まあでも、願いごとがないっていうのも贅沢な話だよ」

「そう?」

 翔太は首を傾げる。無欲が贅沢なのか。

「願い事とか祈りとかってさ、自分にはどうにもできないからするんだよね」

 明里は窓の外に目をやった。その横顔が儚く、寂しげに見えて、翔太はなぜだか怖くなった。

「……なーんて、小学生には難しい話かな?」

 いつもの翔太なら言い返すところだが、この時はそんな気にはなれなかった。

 翔太の様子に気づいたのか、明里はそれ以上の反応を求めることなく、目を伏せて微笑した。





 いつもの廊下を通って、いつもの部屋に入る。

 明里は机から少しずれた位置へ放置された椅子に座って、ヴァイオリンを太腿の上に立てて持ち、窓の外をぼんやりと眺めていた。

「どうしたの?」

 返事はない。

 しばらく続く静寂に、翔太がどうしたらいいものか迷い始めた頃、明里はおもむろにこちらを振り返った。彼女は少し間を置いてから、口をひらいた。

「ここ、取り壊すんだって」

「そう。だろうね」

 翔太がそう答えると、明里は奇妙な表情をした。

「……でも、私はこの建物にも愛着があるから、寂しくなっちゃうな」

「……」

 そうだ。

 この建物がなくなったら、明里はどこに行くんだろう?また、毎日会えるんだろうか。それとも、この町から出ていってしまう?

 明里の家がどこなのかすら、翔太は知らない。

「せっかくだし、好きな曲聴かせてあげるよ。なに弾いて欲しい?お姉さん、今日は張り切っちゃうよ、ツィゴイネルワイゼンでもラ・カンパネラでも」

「……いつもの」

「常連さんかよ。でも、君にもあの曲の良さがわかるようになったか」

 良い曲は、最初は好みでなくても何度も聞いていれば好きになってくる──という話を聞いたことがある。

 けれど、それだけではない。

 この古く薄暗い建物の中で、レースのカーテンが掛かる洋風の窓を背にヴァイオリンを奏でる明里の姿が、あの曲と密接に結びついて、一つの記憶となっていた。





 最後に見た明里は、いつも通り眩しく笑っていた。





 灯台が、黒い海原を照らす。

 宙を泳ぐ星々は、きらめく白い川となって、己の神聖さを見せびらかすようにちらちらと輝いている。

 エストレリータ、お星様。あの曲の名を知るまでに、随分と時間がかかった。

 最後の演奏が終わった後、翔太はどれだけの時間あそこにいたのだろう。瞬きした刹那か、眠っていたのか──いつの間にか明里が姿を消していたことだけは覚えている。

 かつて廃屋に響いたヴァイオリンの音を、翔太以外は誰も知らない。近隣の住民も、通行人も、全てを見ていたはずの鳥や虫達も、きっと。

 今翔太が立っているウッドデッキからは、遠くまで続く白い砂浜がよく見える。海の近く、崖の上の家。こんなものに翔太が憧れるようになったのは、間違いなく明里のせいだ。

 才能あるヴァイオリニストだった。すぐにでもその名が界隈に知れ渡るはずだった──翔太がそれを知ったのは、再びピアノを弾くようになって、音大に入ってからだった。

 不治の病。祈っても、どうにもならなかったのだろう。翔太と出会うずっと前に、明里の葬儀は終わっていたらしい。

 生温なまぬるい風に追われながら、翔太は室内に戻る。

 部屋のスペースを大きく占領する、黒々としたグランドピアノ。傷一つ見当たらないし、調律もされている。

 鍵盤の上に指を置く。無機質なそれが、手に吸い付くように、自然な力で。

 暖かい和音。満天の星空が夜風にさらわれ、海の波のように揺らいで返す──そんな優美さ。伴奏だけでも甘ったるいほどだ。

 頭の中に、きちんと響いている。テンポも体もほとんど揺らさないのに、表情豊かな音色。硬く大胆でありながら、一音一音を操るかのように繊細な演奏。心まで震わせる、精密で深いビブラート。

 ほんとうに贅沢な時間だったと、今となっては思ってしまう。けれど、そうじゃない。

 子供ながら、あの演奏を好きになれたこと。あの空間の中、感じたことを、今でもはっきり思い出せること。まだ何も知らなかった翔太にとって、心から幸せそうにこの曲を演奏する明里の姿は、輝かしく、羨ましかった。

 奇妙な経験だけれど、恐ろしいとは思わない。

 星に願うよりずっと、信じられる話だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る